村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 科学的倫理学入門

evil-1299083_1280

エデンの園でアダムとイブは、神の言いつけに背いて善悪の知識の木から実を食べ、そのために楽園を追放され、その子孫までも苦難の生を強いられることになりました(エデンの園にあったのは「知恵の木」とされることが多いですが、これは意訳で、直訳は「善悪の知識の木」です)。
この寓話はきわめて示唆に富んでいます。
神が人間を善人とか悪人とか判定すれば、人間は受け入れるしかありませんが、人間が判定したのでは納得がいきません。
みんなが他人を善人とか悪人とか判定すれば、それがもとで争いが起きるのは当然です。
しかし、「善悪の知識」を得た人間は善悪の判断をやめることができません。
そうしていたるところで争いが起き、親子、夫婦、兄弟までもが争うようになり、人間は不幸になりました。


トランプ政権はベネズエラ沖で麻薬運搬船と見なした船を攻撃し、すでに100人以上殺害したとされます。
なんの法的根拠もなしにやっていますが、トランプ政権としては、奴らは「悪」だから殺害してもいいと思っているのでしょう。
イスラエルのネタニヤフ政権も、「ハマス殲滅」を掲げてガザ侵攻を始めました。ハマスを「悪」と見なしているのでしょう。
ロシアのプーチン政権もウクライナ政府をネオナチと見なして侵攻しました。
今、中国の習近平政権は高市政権を軍国主義復活を目指していると主張しています。
悪の認定は戦いの正当化につながるので注意しないといけません。

善と悪については、定義はありませんし、客観的な基準もありません。
そのため誰でも勝手に悪を認定できます。

アメリカやイスラエルはイスラム過激派をテロリストすなわち悪と見なしていますが、中東の多くのイスラム教徒はアメリカやイスラエルを悪と見なしています。
安倍元首相を暗殺して裁判中の山上徹也被告は、テロリストとして厳罰に処すべきだという意見もありますが、宗教二世としての不幸な生い立ちと、統一教会と自民党の癒着をあばいたという功績があることから、同情する意見もあります。つまり山上被告の殺人という悪と、安倍元首相と統一教会の悪を天秤にかけたとき、その評価は人さまざまだということです。

夫婦喧嘩はたいてい互いに「お前(あなた)が悪い」と言い合うことで行われますが、これはいくら言い合いをしても絶対に結論は出ません。

いちばん不幸になったのは子どもです。
「善悪の知識」を得た親は、子どものさまざまな行動の中で自分の気に入らないもの、たとえば子どもが大声を出したり、動き回ったり、行儀が悪かったり、好き嫌いを言ったり、親の言いつけに背いたりしたことを悪だとして、子どもを叱ります。一方、子どもは「善悪の知識」を使いこなすだけの言語能力がないので、子どもを叱る親に対抗することができず、幼児虐待が蔓延しました。
ちなみに動物の親は子どもを叱ったりしませんし、未開社会の親も子どもを叱りません。文明社会の親だけが子どもを叱ります。


「善悪の知識」のために世の中は混乱しました。
そこで人間は善悪ではなく法律に従うことにしました。これを「法の支配」ないしは「法治主義」といいます。
法律は善悪と違って客観的な基準になります。
「法の支配」によって社会の秩序は保たれてきました。

善悪はフィクションの中で生きています。
ハリウッド映画では正義のヒーローが法律に基づかずに悪人を派手にやっつけています。法律に基づくと時間と手間がかかり、悪人をやっつける快感が得られないからです。
現実の中で悪人を派手にやっつけてもハッピーエンドにはなりませんが、フィクションの中では可能です。


しかし、最近「法の支配」が崩れてきています。
それはインターネットの普及のせいです。
掲示板やSNSでは誰かを悪と決めつけて攻撃するとインプレッションが稼げます。そのため法の支配はほとんど無視されます。

そうしたところにトランプ氏が登場しました。トランプ氏の言葉は単純でわかりやすく、大衆受けします。その中身のほとんどは、民主党やバイデン氏や移民や犯罪者やテロリスなど“悪いやつ”を攻撃する言葉です。
トランプ氏の登場で「法の支配」から「善悪の知識」へのシフトが加速しました。

「法の支配」が崩れると世界が混乱し、戦争の可能性が高まります。
ですから、「法の支配」のたいせつさを再確認する必要があります。

それに加えて「善悪の知識」がまったく役に立たず、むしろ混乱をつくりだすものだということを知らねばなりません。
「善悪の知識」だけではありません。正義や道徳も同じです。
正義が有効なのはフィクションの中だけですし、道徳教育はいくらやっても道徳的な人間をつくることはできません。

楽園に戻れるかどうかはわかりませんが、人類は「善悪の知識」を頭の中から消去する必要があります。

どうやって「善悪の知識」を頭の中から消去するかについては「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

1393337_m

オーストラリアでは12月10日から16歳未満SNS利用禁止法が施行されました。
対象はInstagram、TikTok、X(旧Twitter)、YouTubeなど10のサービスで、運営企業に年齢確認の義務が課されます。
運営企業が違反すると最大約51億円の罰金が科されますが、若者や保護者に対する罰則はありません。
年齢を偽ってアカウントをつくればいいともいわれていますが、今後年齢確認の方法が厳格化されるのかもしれません。

ひところ「ゲーム脳」ということがいわれ、「スマホ脳」ということもいわれました。ほとんど科学的根拠がありません。
その流れで「SNS脳」という考え方があるのかもしれません。
一応禁止の理由としては、ネットいじめや犯罪から子どもを守るということと、SNS依存症の防止ということが挙げられています。

昔、『テレビに子守りをさせないで』という本がベストセラーになったことがあります。
今も日本小児科医会が「スマホに子守りをさせないで」というキャンペーンをやっています。
新しいメディアが出現すると、メディアの子どもへの影響は未知数ですから、おとなは不安を感じるもののようです。

私の世代は子どものときからテレビ漬けになっていました。その悪影響はあるのでしょうか。
昔と比べると、世の中の人間関係は希薄になっています。そこにテレビの影響はあるかもしれませんが、「悪影響」といえるかは疑問です。

SNSをすることでいじめにあったり、犯罪に巻き込まれたりすることはあるでしょう。しかし、それは一般社会にもあるのですから、SNS禁止に意味があるとは思えません。
SNSを使わないでいると、SNSを使うスキルも向上しません。16歳になって初めてSNSに触れると、かえって危険かもしれません。たとえば詐欺で金を取られるにしても、年齢がいっていると金額も大きくなる理屈です。
禁止するのではなく、正しい使い方を教えるべきです。
今後はパソコンやスマホを使いこなす能力は、仕事をする上でも必須です。若いうちからパソコンやスマホになじんでいたほうがいいに決まっています。


子どもがSNSに夢中になり、SNS依存症になるという懸念はあるでしょう。
依存症にならないまでも、SNSに時間を取られるとその分、親子のふれ合いの時間が少なくなります。
これはデータでも示されています。
子どものインターネットの利用時間が親子関係に与える影響をみるために、平日一日のインターネットの利用時間を、「3時間以上」(「4時間以上」「3時間〜4時間未満」)、「1時間〜3時間未満」(「2時間〜3時間未満」「1時間〜2時間未満」)、「1時間未満」(「1時間未満」「ほとんどしない」)という3つのグループに分け、親子関係に関する項目とクロス集計しています。

その結果、日本、アメリカ、中国、韓国の4か国とも、インターネットの利用時間が長いほど、親との会話が少なく、親と話すことや一緒にいることが「好き」と回答する割合も、親と一緒にいるのが「とても楽しい」と回答する割合も低くなっていました。

また4か国とも、インターネットの利用時間が長いほど、親は真剣に自分の話を聞いてくれることが「よくある」という回答の割合が低く、逆に「家族が一緒にいてもそれぞれが携帯電話やスマートフォンを操作している」ことが「よくある」と回答する割合や、「家族と食事や団らんのときでもよく携帯電話を操作する」の肯定率が高かったのです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/32fbe7796a76f8667389f93a9ef295cd863f4460?page=1
オーストラリアのアルバニージー首相は16歳未満SNS禁止法が施行された日に、「若者にとって重要な改革だ。子供は子供らしく過ごし、親は安心感を持てるようになってほしい」「巨大IT企業から豪州の家庭が力を取り戻して復権する日だ」などと語りました。
要するに子どもにSNSを禁止すれば、それだけ親子の対話や家族団らんが増えるだろうと期待していて、これが法律の狙いのようです。

しかし、それは考え違いです。
SNSを禁止すれば、その代わりにゲームやテレビに費やす時間が増えるだけかもしれません。

SNSは誰がアクセスしても同じですが、家庭のあり方はすべて違います。
SNSに多くの時間を費やして家族との対話が少ない子どもと、SNSはあまりやらずに家族との対話が多い子どもとなにが違うかというと、SNSは同じなのですから、家族のあり方の違いしかありません。
親との関わりにうんざりしている子どもは、SNSにはまったり、ゲームにはまったり、不良仲間と繁華街をうろついたりして家庭から逃避します。つまりSNSは逃避先のひとつです。
SNSを禁止すれば別の逃避先を見つけるでしょう。親と関わる時間が増えるとは限りません。

最近は依存症に対する見方が変わってきました。
たとえばアルコール依存症や薬物依存症の人は、アルコールや薬物のおかげでここまで生き延びてこられたと考えるのです。
依存することはその人にとって必然だったのであり、単純に依存する対象を取り上げればいいというものではありません。


親が子どもとの会話を増やしたければ、親子の人間関係を改善するしかありません。それが「家庭復権」ということです。
親子が普通に会話を始めても、次第に親が子どもに説教、ダメ出し、叱責をするようになり、そういう会話が繰り返されると、子どもは最初から会話を拒むようになります。そういう家庭が多いのではないでしょうか。
子どもが原因で親子の会話がうまくできないということはありえません。親は子どもより視野が広いので、子どもに問題があっても、親はそれをカバーできるはずだからです。
うまくいかなくて悩んでいる親は、周りの家庭を見て、親子関係がうまくいっている家庭の親はどう子どもに対処しているかを観察すればいいのです。

親子のコミュニケーション法である「親業訓練」を学ぶという方法もあります。

『「親業」に学ぶ 子どもと心を通わせる言葉かけのヒント5選』


SNS禁止というのは、親は変わらずに子どもを変えようという発想です。
しかも、子どもの選択肢を奪っています。これは子どもの権利の侵害です。
こういうことをパターナリズム(父権主義)といいます。「お前は自分にとってなにがよいか判断できないので、私が代わりに判断してやる」ということで、子どもを見下しています。
親が子どもと会話しているうちに説教、ダメ出し、叱責をするようになるのもパターナリズムがあるからです。

もしどこかの家庭で親が子どものSNSを禁止したり、スマホを取り上げたりしたら、子どもは親に反発して、親子関係は悪化します。
オーストラリアはそれを国家規模でやったわけです。


「子どもの権利」ということを理解すれば、こんなおかしな法律をつくることはありません。
オーストラリアの若者には、みずからの権利を守るために戦ってほしいものです。

国全体でSNSを禁止したのはオーストラリアが初めてですが、ニュージーランド、ギリシャ、ルーマニア、フランスなどが同様の措置を検討中だそうです。
バカな国はオーストラリアだけにしてほしいものです。

marriage-1530232_1280

私はこれまでに多くの夫婦を見てきましたが、新婚夫婦を別にすれば、幸せそうな夫婦はほとんど見たことがありません。
結婚のときは「笑顔の絶えない明るい家庭を築きたい」と本気で思っていても、喧嘩を繰り返すうちに愛情が失われ、表面的なつきあいだけの仮面夫婦になるということが多いようです。
ほかに好きな人ができたというならしかたありませんが、二人ともうまくやっていきたいと思っているのにうまくやれないというのは悲劇です。

「冷凍餃子は手抜きか」という話題が2020年にX(当時はツイッター)でバズったことがありました。
ある女性が疲れて帰宅し、夕食に冷凍餃子を解凍して出したところ、子どもは喜びましたが、夫が「手抜きだよ、これは」と言ったというのです。
これには女性に同情する声が多く上がりました。
冷凍餃子のトップメーカーである味の素冷凍食品株式会社の公式アカウントが「冷凍餃子を使うことは、手抜きではなく、“手間抜き”です」と投稿すると、44万「いいね」がつき、テレビやネットメディアでも報道されました。

「手抜き」と「手間抜き」はどこが違うのでしょうか。
一見すると同じようですが、実は大きな違いがあります。

なお、「手間抜き」の代わりに、「時短」とか「省力」という言葉を使っても冷凍食品使用の正当性を表現することもできます。
つまり「手抜き」という言葉にだけ特別な意味があるのです。


国語辞典には「手抜き」は『しなければならない手続きや手間を故意に省くこと。「仕事を手抜きする」「手抜き工事」』と説明されています。
AI回答の補足説明には『「手抜き」は、多くの場合、労力を怠っているという批判や揶揄の目的で使われます。例えば、「手抜き工事」のように、品質や安全性を損なう行為を指すことがあります』と書かれています。
つまり「手抜き」には相手を非難する悪い意味があるのです(「手間抜き」には悪い意味はありません)。
ですから、夫が妻に料理を「手抜き」と言ったら妻を非難していることになり、妻は傷つきます。同じようなことが繰り返されると、夫婦関係はどんどん悪化していきます。

ところが、夫のほうは妻を非難しているつもりはありません。逆に妻にいいことをしているつもりです。
手抜き工事を発見したら、それを指摘して改めさせるのは正しいことです。これは工事業者のためでもあります。妻の手抜きを指摘するのもそれと同じと思っています。

もっとも、工事には法令によって基準が定められているので、手抜きかどうかははっきりします。
料理にはそういう基準がありません。
「冷凍餃子は手抜き」と言った夫は、「餃子は手づくりであるべき」とか「冷凍食品は手抜きだ」という基準を持っているのでしょうが、その基準に根拠はありません。
ただ、まったくでたらめというわけでもありません。

TBS系で放送中のドラマ「じゃあ、あんたが作ってみろよ」第1話では、勝男(竹内涼真)は同棲相手の鮎美(夏帆)のつくる筑前煮が好きなのですが、インスタントの顆粒だしは使うべきではないという考えの持ち主です。男の友人がめんつゆを使って肉じゃがをつくったと言うと、「めんつゆで料理は邪道」などと言います。
勝男と鮎美は同じ会社に勤めていて、共働きなのですが、家事はすべて鮎美がやっています。勝男の実家の両親もどうやらそういう役割分担になっているようです。
勝男は鮎美にプロポーズしますが、鮎美に断られ、同棲も解消されてしまいます。勝男は鮎美の気持ちを理解しようと自分で筑前煮をつくってみますが、カツオ節と昆布でだしを取ることがいかにたいへんかを知ります。

似たような話で、主婦がスーパーの総菜売り場でポテトサラダを買ったら、見知らぬおじさんから「母親ならポテトサラダぐらい自分でつくったらどうだ」と言われて傷ついたという話がやはりツイッターでバズったことがあります。ポテトサラダはつくるのがけっこうたいへんですし、副菜にしかならないので、そんなことを言われる筋合いはありません。


昔は性別役割分担がはっきりしていて、家事は妻がやるものと決まっていたので、料理を手づくりするのは当たり前でした(冷凍食品もありません)。「冷凍餃子は手抜きだ」と言った夫はそういう時代の価値観なのでしょう。
男はどんどん価値観をアップデートしていかなければなりません。

しかし、どの価値観が正しいかということは簡単には決められません。世の中の価値観はどんどん変わっていきますし、そこに個人の価値観も加わります。
「だしはカツオ節と昆布で取るべき」という価値観も間違っているわけではありません。そうしている人もいます。

問題は自分の価値観を相手に押しつけることです。
相手に「だしはカツオ節と昆布で取れ」なんて言うと、ドラマのタイトル通りに「じゃあ、あんたが作ってみろよ」という返しがぴったりです。
ただ、現実には二人の力関係があって、押しつけられてしまうこともあります。そうすると不満がたまり、愛情が冷めていくことになります。

なぜ人は自分の価値観を相手に押しつけるのでしょうか。
それはその価値観が「道徳」だと思うからです。

手抜きする妻、怠け者の妻、だらしない妻は、教え導いて「よい妻」にするべきである。そうすることは妻自身のためでもある。こういう考え方が道徳の基本です。
そうすると、「冷凍餃子は手抜きだ」と言って手抜きをやめさせることは妻自身のためでもあるということになります。
普通は自分の価値観を押しつけると相手は不満な態度を示しますから、ほどほどのところでやめるものです。
ところが、道徳の押しつけは相手のためだということなので、相手の不満を無視して押しつけることになります。そうすると夫婦関係は破綻していきます。


ですから、「夫婦関係に道徳を持ち込むな」というのが私の教える秘訣です。

夫婦関係から道徳を追い出すとどうなるでしょうか。

心理学的なコミュニケーションの技法に「アイメッセージとユーメッセージ」というのがあります。
アイメッセージとは「私」を主語にして主張する方法です。
たとえば、
(私は)連絡がなくてさみしい
(私は)そう言われると悲しい
(私は)少しイライラしています
(私は)その場所に行くのは心配だ

ユーメッセージとは「あなた」を主語にして主張する方法です。
たとえば、
(あなたは)遅刻しないでよ!
(あなたは)もっとできるでしょ!
(あなたは)メモを取ろうね!
(あなたは)連絡を細目にすべきだ!

ユーメッセージは相手の行動を制限することになりがちです。ユーメッセージを多用すると人間関係が悪くなります。
(「アイメッセージとは?意味と使い方,ユーメッセージとの違い」を参考にしました)

「僕は手づくりの餃子が食べたい」と言えばアイメッセージです。
「主婦なら餃子は手づくりするべきだ」というのはユーメッセージです。
道徳の主張というのは必然的にユーメッセージになります。

「僕は手づくりの餃子が食べたい」という主張には、「今日は疲れてるから冷凍でがまんして」とか「冷凍もおいしいわよ」と言って、話し合いが可能です。
「冷凍餃子は手抜きだ」とか「主婦なら餃子は手づくりするべきだ」という道徳的な考え方は、話し合いで説得するのは困難です。


「良妻賢母」や「夫唱婦随」という道徳があるように、もともと家父長制は道徳と一体となって存在してきました。
水田水脈衆院議員(当時)は2014年、衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です」と言いました。
この発言は男女平等を否定するものだとして批判されましたが、「男女平等は反道徳だ」という部分について論じた人はいませんでした。もしこの言い分が正しければ、男女平等を実現するには反道徳でなければならないことになります。
そして、私はこの部分については杉田氏と同意見です。
対等な夫婦関係をつくるには家庭から道徳をなくさなければなりません。

ただ、私は道徳すべてを否定しているわけではありません。
道徳は競争社会を生き抜くために必要なものです。
たとえば法の網をすり抜けている悪徳政治家には道徳的非難を浴びせなければなりません。
ライバルに対して優位に立とうとするとき、ライバルの非道徳的なふるまいを非難することは有力な手段です。
つまり道徳というのは他人を非難する道具なのです。
「人間は誠実であるべき」とか「嘘をついてはいけない」という道徳を設定しておけば、他人をいつでも嘘つきと非難することができます。これが道徳の使い方です(「人間は誠実であるべき」という道徳が誠実な人間をつくることはありません)。
私は「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」と言っています。

ただ、あくまで道徳は競争社会を生きるための道具なので、家庭に持ち込むものではありません。家庭に持ち込むと家庭が闘争の場になってしまいます。
相手のことを「だらしない」「怠けている」「無神経だ」などと道徳的に非難したくなったら、それは自分の愛情が欠けてきたからではないかと考えて、道徳を頭から排除し、自分の愛情を補充するようにしてください。



道徳を生存闘争の道具と見なすのは私独自のものかもしれません。
詳しくは「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」を読んでください。

4614053_m

自民党総裁に大方の予想に反して高市早苗氏が選ばれました。党員票を予想以上に獲得したことが議員票も動かしました。
ここでも参政党を押し上げたのと同じ草の根の保守パワーがありました。

保守、右派、極右といわれる勢力がヨーロッパで急速に伸長しています。アメリカのトランプ政権はそれに先行していました。日本は少し遅れて追随しているわけです。

こうした勢力はナショナリズム、排外主義などを掲げていて、これらの主張は衆愚に受けるので、右派ポピュリズムとも呼ばれます。
この調子で各国で右派ポピュリズム勢力が伸びて政権を取るようになると、世界は破滅に向かいます。
ナショナリズム、愛国主義、自国ファースト、排外主義は、要するに国家規模の利己主義ですから、利己主義と利己主義は当然ぶつかります。
これは子どもでもわかる理屈です。

アメリカは自国ファーストでやっていますが、これはアメリカが世界一の大国だからできることです(とはいえ各国は不満なので、水面下でアメリカ離れをしつつあります)。
小国は自国ファーストの外交なんかできません。そうすると、国内の支持者が離反して、政権は長く持たないでしょう。
国内の支持者の期待に応えようとすると、他国と衝突します。


自国ファーストはうまくいかないということがなぜわからないかというと、視野が狭くて国内のことしか見ていないからです。
実際、毎日のニュースのほとんどは国内のことです。海外のニュースもありますが、興味がない人には頭の中を通り抜けていきます。

それから、先ほど「子どもでもわかる理屈」といいましたが、子どもはいつも「自分さえよければいいというのはだめだ」とか「利己主義はよくない」とか言われているので、わかるはずです。

しかし、実はここに問題があります。
「利己主義はよくない」と説くおとな自身が利己主義者です。人間は基本的に利己主義者だからです。
そうすると、「利己主義はよくないと利己主義者は言った」ということになり、これは「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人は言った」という有名なパラドックスと同じです。
「利己主義はよくない」という言葉には偽善があり、人はみな子どものときからこの偽善にうんざりしています。
そうしたところに「自国ファースト」の主張に出会うと、これまで抑えていた自分の中の利己主義が引き出されてしまうのです。
「自国ファースト」は、国内に限定すれば利他主義に見えるので、本人は自分は利他的な主張をしていると思って、どんどん主張を強めていきます。


人間は基本的に利己的です。
公平の基準を越えて利己的にふるまう傾向があります。
いつもなわばり争いをしている動物と同じです。
ただ、動物のなわばり争いは本能の歯止めがあるのでほどほどのところで止まりますが、人間はそうはいきません。
そこで人間は、争いを回避するために「法の支配」という方法を考え出しました。法律によって公平の基準を客観的に決めれば、争うことはかなり回避できます。
しかし、まだ国際社会には法の支配が行き届いていないので、ここでの争いは深刻化し、戦争になる可能性があります。
そういうことを考えると、「自国ファースト」の主張はあまりにも無神経です。


しかし、「人間は利己的である」ということは常識になっていません。
人間は自分は利己的であると認めたくないようです。
しかし、他人についてはしばしば利己的だと非難します。
つまり「自分は利己的でないが他人は利己的だ」ということになります。
私はこれを「天動説的倫理学」と呼んでいます。
「天動説的倫理学」はまったく非論理的なので、「ナショナリズムは国家規模の利己主義である」ということすらはっきりとは認識されていません。

自分も含めて「人間は少し利己的である」というのが正しい認識です。
したがって、自分の判断を少し利他的な方向に補正すれば、公平な判断ができることになり、むだな争いは避けられます。


結局のところたいせつなのは、私がかねて主張しているように、自分中心の発想から抜け出すことです。
安全保障についても、自国の安全ばかり考えていてはだめです。
習近平主席や金正恩委員長の立場になって考え、そして日本の立場になって考え、そうして第三者の視点から日本の安全保障や国益を考えればうまくいきます。

chess-3336946_1280

人間は自分中心に社会を見ています。天文学の天動説と同じなので、ものごとを深く考えていくとわけがわからなくなります(むずかしい哲学がそれです)。
自分中心を脱した正しい視点から社会を見ていくブログです。


世の中にはさまざまな対立軸があります。
保守対リベラル、男性対女性、富裕層対貧困層、知識人対大衆、先進国対途上国などです。
このほかに、きわめて重要なのにほとんど認識されていない対立軸があります。
それは「おとな対子ども」です。

おとなと子どもはそんな対立する関係ではないと思う人もいるでしょう。
しかし、男性対女性も昔はそう思われていました。フェミニズムが登場して初めて男性対女性という対立が可視化されたのです。

世代間対立があることは誰もが認めるでしょう。
今ならZ世代、氷河期世代、バブル世代、団塊世代などに分かれて対立しています。
しかし、世代をいう場合は20歳前後の「若者」までです。それ以下の年齢の「子ども」世代は無視されています。

日本では1946年の総選挙において女性参政権が認められ、初めての「普通選挙」が行われたとされています。
しかし、このときは20歳以下に参政権はなかったので、実際は年齢制限選挙でした。年齢制限選挙を普通選挙と偽ったのです。

同じことは前にもありました。
1925年に選挙権の納税要件を撤廃した「普通選挙法案」が成立しました。男子のみの制限選挙であったのに普通選挙と偽ったのです。女性は無視されていました。
今は18歳以下に投票権のない年齢制限選挙ですが、メディアは「年齢制限選挙」という言葉を使わずに普通選挙に見せかけています。


どんなに高度に発達した文明社会でも、生まれてくる赤ん坊は原始時代と同じです。
原始時代にはおとなも子どもも似たような意識状態だったでしょう。
しかし、文明社会では、文明化したおとなの意識と子どもの意識が乖離します。
共感性の乏しい親は子どもに愛情を持ちにくくなるかもしれません。
文明社会では礼儀や行儀が重視されるので、親は小さな子どもにむりやり礼儀や行儀を教えなければなりません。これが「しつけ」ですが、このときにしばしば暴力が伴います。
子どもは文明社会に適応するために多くのことを学習しなければなりません。
江戸時代には寺子屋に通わない子どもも十分に生きていけましたが、近代になると社会が急速に複雑化するので、中学までが義務教育になり、高校を出るのは最低限のことになり、大学、さらには大学院に行くことが求められるようになりました。
そうすると、子どもは小さいときから勉強しなければなりません。人間には好奇心や学習意欲が備わっていますが、それだけでは足りないと考えられていて、家庭でも学校でも勉強が強制されます。

つまり文明社会では、子どもに強制的・暴力的な教育としつけが行われているのです。
このようなおとなと子どもの関係は「対立」というのが当然です。
強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは傷つきます。つまり子どもはみな被虐待児です。
これはおとなになっても尾を引くので、おとなはみなアダルトチルドレンです。DV、依存症、自傷行為、自殺につながることもあります。

このような強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは、おとなになると子どもに対して同じことをするので、そのやり方は次の世代に受け継がれていきます。学校の運動部で上級生から暴力的な指導を受けた一年生が、二年生になると一年生に対して同じような暴力的な指導をするのと同じです。


大人と子どもの対立関係はその他の対立関係にも影響します。
たとえば古代ローマ帝国や近代列強は、文明の遅れた地域を植民地化し、そこの人間を奴隷化しました。子どもを暴力的に支配する人間は、文明の遅れた人間を暴力的に支配することが平気でできるからです。
男性が女性を暴力的に支配することも同様です。

私はおとなが子どもを暴力的に支配することを「子ども差別」と呼んでいます。
そうすると、子ども差別、性差別、人種差別が三大差別ということになります。
今は性差別と人種差別をなくそうと努力していますが、子ども差別を放置しているのでうまくいきません。

保守対リベラルの対立のもとにも、おとな対子どもの対立があります。
リベラルは社会体制を改革しようという立場なので、親に反抗する子どもと心情的に共通します。
一方、保守は反抗する子どもを力で抑えつける父親と心情的に共通しています。
アメリカで保守対リベラルの対立が先鋭化しているのは、家庭内で親子関係の暴力的な傾向が強まっているからでしょう。


ところが、このようなおとなと子どもの対立関係は、ほとんど認識されてきませんでした。
おとなは子どもに強制的・暴力的な教育としつけをしていても、子どもはそれを喜んで受け入れているとごまかしてきたのです。女性をレイプした男性が、相手も喜んでいたと主張するのと同じです。
レイプのたとえは決して行きすぎではありません。今の世の中、親から虐待されて殺される子どもが毎年何十人もいます。

おとなの視点からだけ見ていては、おとなと子どもの関係は正しく把握できません。
子どもの視点あるいは神の視点から見て初めて全体像が把握できます。
そうした視点を確立するには次の記事が役に立つはずです。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」

hotarunohaka

7月に日本版Netflixで配信され、8月に7年ぶりに地上波で放映されたアニメ「火垂るの墓」(高畑勲監督、野坂昭如原作)が、ガザやウクライナの惨状などと重ね合わされて、改めて注目されています。

その中で、9月24日付朝日新聞が「火垂るの墓自己責任論語る若者」という記事で、最近の若者は妹の節子が死んだのは兄の清太のせいだとか、自業自得だとか考える者が多いと書いていました。
昨秋、Netflixで「火垂るの墓」の世界配信が始まったころ、「妹はクズな兄貴のせいで……」という歌詞のラップ曲がティックトックに投稿され、約5万の「いいね」を集めたということです。

「火垂るの墓」のストーリーを簡単に説明しておくと、清太と妹の節子は第二次世界大戦末期、米軍の空襲で神戸の実家が焼失し、母親を亡くします(父親はおそらく戦死)。親戚のおばさん宅に住まわせてもらいますが、食事の量を少なくされたり、「疫病神」などと嫌みを言われたりすることに耐えられず、近くの防空壕で暮らし始めます。当初は自由な生活を楽しんでいましたが、食料が尽き、終戦直後に節子が栄養失調で亡くなり、その後清太も亡くなります。

1988年に公開された当時は、清太に同情的な観客が多かったということです。
しかし、朝日新聞の記事によると、神戸市外国語大学で作品を学生に見せたあと「清太自身の行動に責任があったと思うか」というアンケートを行ったところ、「あった」と「少しあった」が9割超、「あまりなかった」と「なかった」が1割弱でした。
2回生の女性(19)は「おばあさんは意地悪でも、最低限の食事は出していた。清太は見通しが甘く、同情できない」と言いました。中学生で初めて見た際は、かわいそうな兄妹と思いましたが、今回見て「清太の破滅的な無計画さ」にいらだったということです。

このような若者の反応に、新自由主義的な自己責任論の蔓延が感じられます。
しかし、「新自由主義的な自己責任論」という一言で片付けるのも安易です。
「火垂るの墓」という具体例があるので、自己責任論の中身を掘り下げてみたいと思います。


「火垂るの墓」の兄妹に対する評価が変わってきたのは、世の中の子どもに対する評価が変わってきたことが影響していると思われます。
近ごろは赤ん坊の泣き声がうるさいとか、公園で遊ぶ子どもの声がうるさいとか、公共の場で子どもが騒がないように親はしつけをちゃんとするべきだとか、とにかく子どもに対する風当たりが強くなっています。
そのため、「おとな対子ども」という状況では、子どもよりおとなに味方する人が多くなっています。
そうすると、「おとなの責任」は不問にされて、「子どもの責任」ばかりが問われることになります。
このような責任のアンバランスから自己責任論が生まれます。

親を亡くした14歳の清太と4歳の節子は親戚のおばさんの家に引き取られますが、おばさんから受ける仕打ちは虐待です。
食糧難の時代に二人の子どもの世話をするのはたいへんでしょうが、子どもを引き受けた以上は、できる限りの世話をするのが親代わりとしての責任です。
ところが、おばさんの責任を不問にする人がいます。そういう人は清太にすべての責任を負わせ、自己責任論を言います。

清太が感情的になって家を出て、将来の見通しもなかったことも非難されていますが、14歳なのですから、おとなのように判断できなくて当然です。
子どもにおとなのような判断力を求めることも自己責任論につながります。

それから、自己責任論は戦争という大状況を無視しています。
これは戦争という大きな悲劇の中の物語です。したがって、清太と節子はもちろん、虐待をしたおばさんも戦争の被害者だといえます。
清太の責任を言う人は戦争責任を不問にしています。

戦争責任というと、天皇とか東条英機とか軍部とかが想起されますが、これは子どもの視点の物語ですから、やはり「おとなの戦争責任」ということになるでしょう。
おとなが起こした戦争のために子どもが不幸になったのです。
したがって、このアニメのおとなの観客は、戦争の悲惨さとともにみずからの罪深さについて考えざるをえないはずです。
しかし、みずからの戦争責任について考えたくない人もいます。そういう人は子どもの清太に責任をかぶせます。


高畑勲監督は公開当時に「もし再び時代が逆転したとしたら、果たして私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。(中略)未亡人(親戚のおばさん)以上に清太を指弾することにはならないでしょうか。ぼくはおそろしい気がします」と語っています。
時代は逆転しつつあるのでしょうか。

ともかく、自己責任論は、強者が弱者に責任を押しつけるところに生じるものです。

28639328_m

世の中に争いが絶えないのは、ほとんど倫理学のせいです。
善と悪には定義がなく、客観的な基準もないので、誰もが自分中心に善悪の判断をします。
ネタニヤフ首相はハマスを悪と見なしますが、ハマスはネタニヤフ首相を悪と見ています。
トランプ大統領は極左勢力を悪と見なしていますが、極左勢力とされた人にとってはトランプ大統領が悪です。
夫婦喧嘩は互いに相手を悪と見なして行われます。
私はこのように自己中心的に善悪を判断することを「天動説的倫理学」と名づけています。

つまり善悪という概念があるために、かえって争いが激化しているのです。
そうすると、善悪という概念を使用禁止にすればいいのではないかということが考えられます。
しかし、善悪はあまりにも生活になじんでいるために、それはむずかしそうです。

そこで、人間は「法の支配」という方法を考え出しました。
あらかじめ法律をつくっておき、それを善悪の基準(の代わり)とするのです。これは客観的な基準なので、混乱はかなりの程度避けられます。恣意的に罰される恐れもなくなり、安心して生活できます。
もっとも、国際社会と家庭内にはほとんど法の支配は及ばないので、国際社会と家庭内では深刻な争いが生じますが、一応法の支配によって社会の秩序は保たれてきました。

しかし、このところ急速に法の支配が崩れています。
その理由はインターネット、SNSの普及です。
それまでは学者とジャーナリストが世論を導いていましたが、インターネットが普及してからは大衆が世論を導くようになりました。
知識人にとっては法の支配の重要さは常識ですが、大衆にとっては必ずしもそうではありません。

法の支配は、手間と時間がかかります。
日本では現行犯逮捕を別にすれば、警察が捜査して、逮捕状を執行して初めてその人間を容疑者と認定して、メディアがバッシングします。しかし、推定無罪という原則があるので、これはメディアが先走りしすぎです。本来は有罪判決が確定してから犯罪者ないし「悪人」と認定するべきです。
しかし、人を攻撃するのは欲求不満の解消になります。相手が悪人なら世の中のためという名分も立つので、みんなが先走ります。
ネットでは法の裁きを待たずに、写真や動画などを“証拠”として、誰かを悪人に仕立てて攻撃するということが盛んに行われています。
こういうことに慣れてしまうと、法の支配なんていうものは面倒くさくなります。
正義のヒーローが活躍するハリウッド映画も、法の裁きを待たずに悪人をやっつけるものばかりです。

こうした風潮を利用してのし上がったのがトランプ大統領です。
利用しただけではなく、この風潮をあおりました。そのためアメリカでは法の支配は崩壊寸前です。


法の支配がたいせつなのは、倫理学が機能していないからですが、一般の人は倫理学が機能していないということをほとんど知りません。
アリストテレス、カント、ヒュームは代表的な倫理思想家ですが、その著作を読んだという人はめったにいません。ひじょうに難解だからですし、がんばって読んだところでほとんど役に立たないからです。
ただ、倫理学は権威があります。倫理学は哲学とほとんど一体なので、哲学の権威がそのまま倫理学の権威になっています。
そのため、誰も倫理学に向かって「王様は裸だ」とは言わないのです。


20世紀の初め、ジョージ・E・ムーアは『倫理学原理』という著作において「善は分割不能な単純概念だから定義できない」と主張しました。それに対して誰も善の定義を示すことができませんでした。
善の定義がないということは悪の定義もないということです。さらにいうと正義の定義もありません。
こうなると道徳とはなにかということも問題になります。
そうして倫理学者は、善悪とはなにか、正義とはなにか、道徳とはなにかという根本的な疑問に向き合わなければならなくなりました。
こうしたことを研究をする分野をメタ倫理学といいます。
いわば倫理学は「自分は何者か」ということに悩んでいる若者みたいなものです。当然、社会に役立つことはできません。

メタ倫理学が存在することによって、倫理学がまったく役に立たない学問であることが明らかになりました。
しかし、知識人はそのことを知ってか知らずか、倫理学について語ることはありません。
知識人にとって倫理学の実態を語ることは、“身内の恥”を語るようなものなのでしょうか。

倫理学について語らずに法の支配のたいせつさを説いても、まったく説得力がありません。
倫理学がだめな学問であることを説けば、おのずと法の支配のたいせつさもわかり、ある程度争いを避けることができます。




メタ倫理学は倫理学の中でももっとも難解な分野です。
その中でとてもわかりやすい文章でメタ倫理学を解説したサイトがあったので紹介しておきます。

「メタ倫理学」

しかし、これを読んでも、結局は「わからないことがわかった」ということになるでしょう。


私がこれほど倫理学批判をしたのは、正しい倫理学を知っているからです。
正しい倫理学については次を読んでください。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」


ai-generated-8262920_1280

トランプ大統領の支持層のほとんどは白人であり、白人至上主義者です。
欧州の極右政党も白人至上主義です。欧州は移民や難民を入れすぎてたいへんなことになっているなどという人がいますが、移民や難民を不快に思う白人至上主義者がそういっているだけです。

差別主義の波は日本にもやってきて、参政党のスローガン「日本人ファースト」がその典型です。
参政党の神谷宗幣代表は、これは差別主義ではないし排外主義でもないと言っていますが、あくまで表向きです。

神谷代表は選挙演説のとき、「アホだ、バカだ、チョンだと言われる」と言い、その直後に「あ、『チョン』って言ったらダメだ。ごめんなさい。いまのカット。ああ、また言っちゃった。これ、切り取られるわけですよ。私がちょっとでも差別的なことを言うと、すぐ記事になる」と言いました。
これは明らかにわざと言い間違っています。聴衆の受けを狙うと同時に、マスコミを挑発しているのでしょう。
聴衆も「チョン」という言葉をおもしろがっています。
「差別語はいけない」という常識をバカにしているのです。


差別主義が世界的に勢いづいているのは、もちろんインターネットの普及のせいです。
インターネット以前は、メディアと知識人が言論を支配していて、そこには「差別はいけない」という共通認識がありました。
しかし、インターネットの世界では大衆が言論を支配して、そこでは差別的な言説が横行しています。

差別というのは日常生活の中にあり、人間は幼児期から周りの人々の言動から差別を学びます。
たとえばアメリカの白人にとっては黒人を見下すのは当たり前のことでした。そこに「白人も黒人も同じ人間だ。人種差別はよくない」という新しい考えが脳の表層に植えつけられるので、差別肯定の感情と差別否定の理性に分裂することになります。差別感情がまったくないというのはよほどできた人間だけです。
人々は差別語を使わないようにして差別感情を隠して生きています。これは知識人も大衆もたいして変わりません。
そうしたところにインターネットが普及し、誰でも匿名で発信ができるようになると、隠されていた差別感情が放出されました。昔、ひろゆき氏が管理人をしていたころの2ちゃんねるはヘイトスピーチの巣窟でした。
掲示板の書き込みは「便所の落書き」といわれました。


ネットでは個人に対する誹謗中傷も盛んです。
人は誰でも悪口を言いたくなるときがありますが、あまり悪口ばかり言っていると性格の悪い人間と思われます。そこで少数の人間にだけ悪口を言います。それが「陰口」です。
ネットでは匿名で発信できるので、これまで陰口で言っていたことを公然と言えるようになりました。そのためネットは人の悪口、つまり誹謗中傷であふれることになったのです。
よく若い芸能人が「エゴサをすると悪口ばかりで落ち込む」と言っていますが、そうなるのは当然です。

バイトテロなどといわれましたが、悪ふざけをしたバイト店員の動画がSNSなどにアップされると、非難が集中して炎上するということがひところ相次ぎました。
それから、寿司テロとか飲食店テロなどといわれましたが、客が醤油差しをなめるなどした悪ふざけ動画もよく炎上しました。
悪ふざけの若者を非難してもなんの世直しにもなりませんが、人を非難したい人がネットにはたくさんいるためにこうした炎上が起こります。
私はこれを「ネットテロ」と呼んでいます。悪ふざけしたバイト店員や飲食店の客よりもネットで炎上させる人間のほうがよほど悪質です。

ヘイトスピーチも誹謗中傷も同じことで、人はみなリアルではいい人ぶって生きているので、ネガティブな感情をネットで出して人を非難するのです。
ネット言論の世界は、『ジキル博士とハイド氏』でいえばハイド氏の横行する世界です。


政治の世界ではYouTubeやTikTok のショート動画がよく利用されています。
最初にこれを有効に使ったのは安芸高田市長時代の石丸伸二氏でした。石丸市長が市会議員や記者と議論してやりこめるシーンを切り抜いた動画が再生回数を稼ぎ、石丸氏はその人気で東京都知事選で善戦しました。
その後、兵庫県知事選でも切り抜き動画がよく使われ、最近は参政党や国民民主党がうまく利用しています。
切り抜き動画でも同じことで、誰かを非難するものが人気になるようです。
財務省を非難することから財務省解体デモが起きました。
外国人を非難することから「日本人ファースト」のスローガンができました。
政治の世界では「世のため人のため」という大義名分が立つので、遠慮なく誰かを非難できます。


「便所の落書き」といわれたネットの言論が今では政治を動かすまでになりました。
しかし、ネット言論の本質はやはり「便所の落書き」であり、差別発言であり、陰口です。
人間は誰でもいい人の部分を表面に出して、みにくい部分は隠しています。つまり「美しい建前」と「みにくい本音」に分裂しています。
ところが、そのことに気づく人はめったにいません。
その意味で、デルフォイの神託「汝自身を知れ」はまさに金言です。

ネット世論のそうした性質をわきまえず、ネット世論に受ける政策を打ち出そうとする政治家はみんな“闇落ち”していきます。


つけ加えると、多数派の民意は正しいと思っている人がいるかもしれませんが、それは誤解です。
たとえばアメリカのように多数派の白人が少数派の黒人を差別している社会では、多数派の民意は差別的になります。
「日本人ファースト」が多数の日本人に受けたとしても、それが差別的であることに変わりはありません。

なお、多数派といってもそれは日本国内だけのことで、世界から見れば差別的だというのは容易にわかりますし、アメリカで起こっていることも日本から見れば差別的だとわかります。
ただ、日本人はヨーロッパ文化を尊敬しているせいか、ヨーロッパの移民排斥運動が差別的だということに気づかない人が多いかもしれません。

ネット内では、一般的な世論調査の世論を見下し、ネットの世論のほうが優れているみたいな主張がされていますが、これはネット内でしか通用しない意見です。
人々はリアルではいい人としてふるまい、ネットではみにくい感情を吐き出しています。
このことを理解すれば、ネット世論に左右されることはなくなり、逆にネット世論を左右する方法が見えてくるかもしれません。


ai-generated-8775948_1280

人類は法律をつくったときから犯罪対策をしてきたはずですが、犯罪は克服されるどころか、むしろ深刻化しているように見えます。
犯罪対策のやり方が間違っているのではないでしょうか。

トランプ大統領は首都ワシントンの警察を連邦政府の管理下に置くとともに、市内に州兵を派遣しました。首都での犯罪状況が制御不能に陥っているというのが理由です。
しかし、最近のワシントンの犯罪は減少傾向にあります。いつもながらトランプ氏のいうことはでたらめです。
トランプ氏はまた、シカゴやニューヨークやボルティモアへも州兵派遣の意向を表明し、「(メリーランド州知事の)ウェス・ムーアが助けを必要としているなら、ワシントンで行われているように私が『部隊』を派遣して、犯罪をすばやく一掃する」とSNSに投稿しました。
州兵で犯罪を一掃することはできません。犯罪捜査をして犯人を逮捕することは警察の役割です。
ハリウッド映画で正義のヒーローは、最後に悪人を派手にやっつけます。州兵投入はそのイメージでしょう。
トランプ氏は表面的でいいので、“やってる感”を出したいようです。


8月27日、ミネソタ州ミネアポリスの「受胎告知カトリック学校」で銃の乱射事件があり、8歳と10歳の子ども2人が死亡し、17人がけがをしました。23歳の容疑者は現場で自殺しました。銃の弾倉に「ドナルド・トランプを殺せ」という文字が書かれていました。
トランプ氏は昨年7月、ミシガン州で演説しているときに銃撃され、耳を負傷しましたが、その場で射殺された犯人は20歳の白人男性で、共和党員として有権者登録を行っていました。
このような犯人の動機を解明することは犯罪防止にきわめて重要です。とくにトランプ氏にとっては自分の命を守ることにもなります。

ミネアポリスの銃撃犯については、2002年6月17日生まれの女性ということですが、過去に性的自認に合わせて男性名を女性名に変えています。つまりトランスジェンダーでした。
ホワイトハウスのレビット報道官は「混乱したトランスジェンダーが無垢な子どもたちを狙った事件である」と説明し、イーロン・マスク氏も「これは明白な(トランスジェンダーの行動)パターン」と言いました。ある共和党の下院議員は「ジェンダー・ディスフォリア(性別違和)」を「精神疾患」と規定し、「未成年者の性転換手術を重犯罪と規定する法案を通過させなければならない」と主張しました。つまりトランスジェンダーへの憎悪をあおり、犯罪と結びつけたのです。
一方で、「自分をかばってくれたお友だちが撃たれてしまった」と涙ながらに語る少年の映像がメディアで繰り返し流されました。
つまり「凶悪な犯人対英雄的な被害者」というハリウッド映画的な図式でとらえられ、動機の解明に踏み込むいいチャンスなのに、ここでも表面的な対応に終わっています。

こうしたいい加減な犯罪対策によって、アメリカは先進国としてはありえない犯罪大国になっています。
そのため、最近は移民のせいで治安が悪くなったことにされています。


日本でも移民や外国人を犯罪と結びつける人が増えています。
しかし、外国人も日本人も同じ人間です。日本人が外国に行けば外国人になることを考えればわかりますし、日本は南米や合衆国に多くの移民を送り出してきたことを考えてもわかります。

日本人も外国人も同じ人間ですから、犯罪をする可能性に差はないはずです。ただ、置かれた状況が違います。
日本人は生まれたときから日本にいますが、外国人は外から日本に来たわけです。すぐに日本に溶け込めば問題はありませんが、そうでないと犯罪をしやすいということはあります。
ただ、外国人が日本に溶け込めないのは、外国人に原因があるのか日本人に原因があるのかを考えないといけません。
日本人は「外国人はマナーが悪い。日本に溶け込む努力をしない」と言いますが、外国人は「日本人に差別され、受け入れてもらえない」と思っているかもしれません。
差別されていると感じると、犯罪のハードルが下がります。
ヨーロッパでは人種差別がひどいので、移民の住む場所はスラム化し、治安の悪い地域になるということがあります。
それと比べると、日本では人種差別はそれほどひどくないので、外国人は比較的社会に溶け込んでいます。外国人の犯罪率は日本人の犯罪率の2倍強ぐらいです。日本人の犯罪率はひじょうに低いので、外国人も日本にいることで犯罪をしなくなったということがあります。
つまり日本が外国人を“善導”しているのです。


漫画家の倉田真由美氏はXに「人口比で日本の何十倍も殺人、強盗、強姦など凶悪犯罪が起きる国から移民入れますといわれたら、怖いし不安になるに決まっているでしょ。ごく自然なそういう感情を、差別とかいわれて封じられたらたまったものじゃないよ」と投稿しました。
「外国人は犯罪的」という考えは明らかにおかしいので、倉田氏は「犯罪の多い国の人間は犯罪的」という説を考え出したようです。
しかし、犯罪の多い国は貧困、格差、政情不安などの原因があって犯罪が多いのです。人間に原因があるのではありません。
ですから、犯罪の多い国からきた人も日本では犯罪をしないということは十分にありえます。労働に正当な報酬が得られて、周りの人間から暖かく受け入れられていれば、犯罪をする必要がありません。


犯罪の遺伝子も悪の遺伝子も発見されていないので、犯罪の原因は人間ではなく環境にあります。
ですから、正しい犯罪対策は犯罪の原因をなくすことです。
イギリスのブレア首相は1993年、犯罪対策の甘さを批判されたとき、「犯罪にきびしく、犯罪の原因にもきびしく」という言葉で反論しました。
しかし、「犯罪の原因にきびしく」ということを実践している国はほとんどないと思われます。
犯罪の原因を追及すると、その国の問題点があぶりだされるからです。


犯罪の最大の原因は貧困ないし格差です。
アメリカは極端な格差社会です。しかし、それが犯罪の原因だとするのは富裕層にとっては“不都合な真実”なので、犯罪者個人に原因があるというように報道されます。

ミネアポリスのトランスジェンダーの銃撃犯は、「受胎告知カトリック学校」の卒業生でした。母親は同校に5年間勤めていたことがあります。
キリスト教学校ですから、おそらくトランスジェンダーにきびしかったでしょうし、家庭でも理解されなかったのかもしれません。
犯罪の原因は、トランスジェンダーであることではなく、トランスジェンダーであるために学校や家庭で迫害されたことだと考えられます(トランスジェンダーが原因で犯罪をすることはないので)。
しかし、学校や家庭に犯罪の原因があるということは多くの人にとって“不都合な真実”ですから、犯罪の原因はすべて犯罪者個人に帰せられます。


法学もこうした状況を肯定します。刑法学では、犯罪の主な原因は個人の「自由意志」によるものとされます。弁護側が環境要因を挙げて情状酌量を訴えても、裁判官は「人間性のかけらもない身勝手な犯行」などと被告個人を断罪するのが常です。
「自由意志」は科学的にはほとんど否定され、文系の学者でも大っぴらに自由意志があるとは言えない状況になっていますが、刑法の世界だけ昔のままです。


対症療法と原因療法という言葉がありますが、今の犯罪対策はすべて対症療法です。犯罪が目についてから犯人を逮捕し、それで一件落着となりますが、犯罪の原因はそのままなので、また犯罪が起こります。
そうして延々と同じことを繰り返しているのです。

犯罪の原因に対処する原因療法を行わなければなりませんが、すでに述べたようにそれをすると“不都合な真実”があらわとなります。
犯罪者はもともとたいてい社会的弱者で、犯罪者になった時点で社会の最弱者になりますから、犯罪者にすべての責任を負わせるのがいちばん安易な方法です。

ということは、今の犯罪対策は貧困層、外国人や移民、トランスジェンダーなどのマイノリティへの差別の上に成り立っているということです。
みんなが正しい人権意識を持てば犯罪対策も変わっていくはずです。

family-5489291_1280


今、世界におけるいちばんの問題はなにかといえば、「愛情不足」です。
「愛情」というのは、ここでは愛、友情、温情、思いやり、親切心なども含めた、人の幸せを願う気持ちの総称ということにします。
人間の心を利己心と利他心に分けると、利他心のことでもあります。

人間は原始時代は親族と共同体の人々といっしょに暮らし、愛情でつながって生きていました。
しかし、文明が発達するとともに富が増大し、親しくない人との交流が増えると、争うことも増えます。今の資本主義社会は激烈な競争社会なので、誰もが利己心を全開にして生きていて、その分利他心が少なくなっています。
人はみな肩肘張って生きていて、ささいなことでいがみ合い、親切や思いやりと出会うことはめったにありません。
これがつまり「愛情不足」社会です。

人体の働きを制御する自律神経には交感神経と副交感神経があります。
交感神経は外の世界に対応するときに働き、副交感神経は体を休めるときに働くもので、アクセルとブレーキにたとえられます。
交感神経と副交感神経はバランスを保っているものですが、競争社会で生きる現代人は交感神経を働かせすぎて、自律神経失調に陥りがちです。
したがって、瞑想やヨガなどで副交感神経の働きを強めてバランスを回復させることが必要になります。

利己心と利他心のバランスも同じです。
現代人は利己心偏重になっているので、利他心つまり愛情を回復させることが、本人にとっても社会にとっても必要です。


ところが、世の中に「愛情不足」という問題があることはほとんど認識されていません。
ただし、誰もが無意識のうちに愛情不足を感じているので、それを補うために映画、小説、音楽の中には「愛」があふれています。
それらは創作された愛ですから、現実の愛とは違います。たとえば白血病の少女と夢を追う青年の恋愛で、青年は少女との約束を果たすために命がけでがんばる――といった物語があると、そこに描かれた愛は純粋で、崇高なものになります。
キリスト教では、神の人間への愛を「アガペー」といって、無償で不変なものとしています。
ロマン主義では恋愛至上主義があって、やはり愛を純粋なものとして描きました。
そのため、愛や愛情というのは非現実的なものというイメージになっています。


その影響か、政治家が「愛」を口にすることはありません。唯一の例外は「友愛」を掲げた鳩山由紀夫元首相です。
もっとも、鳩山元首相の評価とともに「友愛」の評価も下がってしまいました。

政治の世界で例外的に「愛」という言葉が使われているのが「愛国心」です。
ただ、愛国心の「愛」は通常考えられている「愛」ではありません。
愛国心は「自国を愛する心」と「他国を憎む心」が一体となったものです。
戦争するときは国内の結束を固め、他国への敵意を高めなければなりませんが、それは急にやっても間に合わないので、普段からやっておかなければなりません。ですから、どの国でも愛国心は奨励されたり強要されたりしています。
「他国も自国と同じように愛しています」というような態度は愛国心の観点からはきびしく批判されます。

なお、ひところは「愛のムチ」という言葉もよく語られましたが、この「愛」も愛国心の「愛」に似ています。


フィクションの中の愛は現実的でないので、すべて頭の中から消去すると、ほんとうの愛が見えてきます。
それは動物的、本能的なものです。哺乳類の親が子どもの世話をしている様子を思い浮かべればわかります。そこに本来の親の愛情があります。
この愛情は子どもが生きていく上で必要なものです。それは人間でも同じです。
体が成長するには栄養が必要ですが、心が成長するには愛情が必要です。

第二次世界大戦後、多くの戦災孤児が施設に収容されましたが、衛生状態も栄養状態もいいのにも関わらず子どもの死亡率が高く、ホスピタリズム(施設病)と呼ばれました。そして、それぞれの子どもに担当の看護婦をつけて世話をするようにすると死亡率が改善したことから、ホスピタリズムの原因は母子分離による愛情不足であると判断されました。
家庭の中で育った子どもでも、愛情不足であればホスピタリズムになりえます。


人間は小さいときに子どもの立場で親子愛を経験し、成長すると異性愛を経験し、子どもができると親の立場で親子愛を経験します。
これが人生を貫く太い愛情の線です。
これと比べると友情などは小さいものです。

親子愛と異性愛は人間の本質的な部分ですが、競争社会の原理がそこまで侵食してきました。
夫婦は互いに家事を押しつけ、親は子どもを競争社会に適応させるためにむりやり勉強させているので、親子愛も異性愛も空洞化しています。

親子愛と異性愛はつながっています。親子愛がうまくいっていないと、異性愛もなかなかうまくいきません。子どものときに親から殴られていると異性にDVをしたりします。また、親から十分に愛されていないと自己肯定感が低いので、異性に告白する勇気が出ませんし、嫉妬や束縛が激しくなったりします。少子化の原因に未婚化・晩婚化がありますから、「愛情不足」は少子化の原因でもあります。
親に十分に依存できないと、のちのアルコール依存や薬物依存やギャンブル依存の原因になります。

「愛情不足」は社会全体の問題ですが、その中心は親子愛と異性愛です。ここを改善すれば社会全体も改善されるはずです。


2023年4月にこども家庭庁が発足しました。
こども家庭庁が第一に取り組むべきは「家庭再生」でしょう。家族関係を本来の姿にすることです。

教育界では「教育再生」が重要課題とされていて、政府の設置した教育再生実行会議もあります。「家庭再生」も当然あるべきです。

こども家庭庁は「こどもまんなか社会」というスローガンを掲げています。これは子どもの位置を隅からまんなかへ変えるだけの意味しかなく、人間関係を変える意味はありません。愛情は人間関係のあり方です。

こども家庭庁は「オレンジリボン・児童虐待防止推進キャンペーン」というのをやっています。これはもちろんいいことですが、児童虐待というのは愛情不足の極端なもので、いわばピラミッドの頂点です。ピラミッドの底辺から正していかなければいけません。それこそが子ども家庭庁の取り組むべきことです。

「愛情あふれる家庭キャンペーン」でもやって、よい親子関係、よい夫婦関係とはこのようなものだということを啓蒙していくべきです。
今は人間関係の科学的研究が進んでいるので、そんなにむずかしいことではありません。

家族関係が変われば世界が変わります。
子どものときに親から十分に愛されると、自己肯定感が育まれるとともに、世界は信頼に足るものだという感覚が持てるようになり、それを「基本的信頼感」といいます。
基本的信頼感のある人は周りの人とよい関係をつくることができます。
基本的信頼感のない人間が安全保障政策を担当すると、隣国を信用することができず、最終的に軍事力に頼る結論を導くことになります。

映画や小説の中と同じようにリアルでも「愛」という言葉が普通に語られるようになってほしいものです。


このページのトップヘ