村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 科学的倫理学入門

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7月20日投票の参院選の争点に「外国人問題」が急浮上しています。
参政党が「日本人ファースト」を掲げたのに対抗したのか、自民党は「違法外国人ゼロ」を掲げました。日本維新の会は「外国人受け入れ総量規制」、日本保守党は「移民政策の是正」です。
その背景には「外国人が過度に優遇されている」ということと「外国人犯罪で治安が悪化している」という認識があるようです。

私は「外国人が過度に優遇されている」と聞いたとき、昔2ちゃんねるで盛んに言われた「在日特権」を思い出しました。在日の人は税金の優遇を受けるなどさまざまな特権を持っていると言われたのですが、結局のところはことごとくがデマでした。今ではまったく言われなくなっています。
「外国人の過度な優遇」もデマに決まっています。外国人は選挙権もなく政治力もないからです。

NHKNEWSの『「外国人優遇」「こども家庭庁解体」広がる情報を検証すると…』という記事が割と詳しく「外国人優遇」がデマであることを検証していました。


「外国人犯罪で治安悪化」については、ネットで犯罪のデータを調べるだけでデマだとわかります。
外国人の犯罪件数は減少しているからです。

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令和4年版「犯罪白書」より

外国人の数は増えているのに犯罪件数はへっています(来日外国人検挙人員は微増する時期もありました)。
ただ、このグラフは令和3年までしかありません。
このあとを数字で示すと、こうなります。

【来日外国人による刑法犯の検挙人数と前年比増減率】
令和4年 5,014人 -10.0%
令和5年 5,735人 +14.4%
令和6年 6,435人 +12.2%

ここ2年は増加しています。
コロナ禍が収束したことによる反動と、インバウンド客の急増などが原因ではないかと思われます。

ともかく、「外国人犯罪増加」ということがいえるのは直近の2年間についてだけです。
それまで約20年間、外国人犯罪はへり続けていました。


「外国人は怖い」とか「外国人は犯罪的だ」というイメージがあるかもしれません。
外国人の犯罪率と日本人の犯罪率を比較してみました。

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外国人の犯罪率は日本人の2倍強です。
しかし、日本人は高齢者が多く、外国人は貧困者が多いという事情があり、外国人は日本のコミュニティになじんでいないことなどを考えると、それほど大きくは違わないと思われます。
もともと日本人の犯罪率はひじょうに低いので、日本にくる外国人もなかなか“優秀”だといえます。


治安が悪化しているか否かは、外国人犯罪だけでなく日本全体の犯罪件数で判断する必要があります。

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2002年をピークに犯罪件数はへり続けています。
2022年と23年は増加しています。これもコロナ禍の反動と思われますが、それだけでは説明できないかもしれません。
2024年は、刑法犯認知件数が約728,000件、前年比+3.5%でした。


全犯罪件数も外国人犯罪件数もへり続けています。
ここ2、3年に関しては少し増えていますが、あくまで少しであり、今のところ「治安が悪化した」とまではいえないでしょう。


「川口市クルド人問題」というのがあります。川口市在住のトルコ国籍のクルド人が治安を悪化させているというのです。
しかし、6月13日、川口市議会において市側は県警の統計として「昨年の外国籍の刑法犯の検挙数が178人で、中国とトルコ国籍が54人ずつ、ベトナムが27人」と答弁しました。
川口市の人口は約60万人で、うち外国人は約4万人とされるので、川口市の外国人の犯罪率は約0.44%です。全国平均の約0.33%より少し高い程度です。
それにトルコ国籍の人が54人ですから、人口60万人の川口市で絶対数が少なすぎます。
「川口市クルド人問題」は完全に捏造されたものです。

捏造したのは産経新聞です。
トルコは日本の友好国ですから、トルコ人を悪くいうわけにいきませんが、トルコ内のクルド人はクルド労働者党をつくって独立運動をし、トルコ政府はクルド労働者党をテロ組織に認定しました。ですから、クルド人を批判する限りはトルコ政府も許容しそうです。
2023年7月、クルド人同士の喧嘩があり、川口市立医療センター周辺に100人ほどのクルド人が集まり、7人が逮捕されるという騒ぎがありました(全員不起訴)。これをきっかけに産経新聞はクルド人をヘイトの対象にすることにしたようです。
ねらい通りに「川口市クルド人問題」は燃え上がり、Xには「クルド人の犯罪」と称する映像や動画が多数投稿されましたが、映像ではそれがクルド人かどうかわかりませんし、犯罪かどうかもわかりません。

この少し前からX上では「犯罪をする外国人」や「マナーの悪い外国人」といった投稿が急増しました。
「悪いやつを攻撃する」というのは確実にインプレッションを稼げます。まさにヘイトビジネスです。

この背景には、欧米で移民排斥運動が高まっているということがあるでしょう。
欧米と日本の動きはきわめて似ています。
たとえばアメリカでは不法移民が犯罪をしているというのが移民排斥の理由になっています。
しかし、不法移民の犯罪率が高いというデータはありません。
日本で「外国人犯罪で治安悪化」と騒いでいるのと同じです。

ただ、欧米では人種差別感情が根強いので、それが移民の犯罪を生むということがあります。
日本人にはそれほどの人種差別感情がないので、移民との共生が比較的うまくいっているということがいえそうです。


ここ2、3年の犯罪増加は気になりますが、「外国人犯罪で治安悪化」というのは完全なデマです。
どうしてこうしたデマが広がったのでしょうか。
SNSでは「外国人犯罪」の動画がいくつもアップされ、一方、「日本人犯罪」の動画はまったくアップされないので、世の中は外国人犯罪だらけだと勘違いする人が出てきます。
こうした勘違いは犯罪の統計データを示せば解消できます。そうしたことをするのはSNSではなくてオールドメディアの役割でしょう。
ところが、オールドメディアはそうした役割をまったく果たしてきませんでした。


「刑法犯認知件数」のグラフを見れば、犯罪件数はピークから3割以下にまで減少し、治安は大幅に改善したことがわかります。ところが、マスコミはそうしたことはほとんど報道しません。
『警察白書』は毎年発表され、新聞はその内容の概略を伝えますが、「犯罪は順調にへっている」みたいなことは書かず、「高齢の被害者が増えた」とか「手口が巧妙化した」とか「ネット犯罪が増加した」といったことを見出しにするので、犯罪は深刻化している印象になります。
なぜマスコミはそうした伝え方をするのでしょうか。

世界的ベストセラーになったハンス・ロスリング著『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』は、人間は間違った思い込みによって世界を見ているということを書いています。その思い込みは10に分類されるのですが、最初のふたつは、

・分断本能「世界は分断されている」という思い込み
・ネガティブ本能「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み

であるといいます。

たとえば「日本人と移民は分断されている」という思い込みは分断本能の典型です。
「犯罪が増加して治安は悪くなっている」というのはネガティブ本能です。
マスコミは人々のこうした思い込みに合わせて報道していると考えられます。

それに、凶悪犯罪の報道というのは、メディアにとっては優良コンテンツです。犯人への憎しみを煽り立て、もう一方で被害者への同情も煽り立てて、人々の感情をゆさぶることができるからです。
そのためマスコミの報道はどうしても犯罪を大げさに描き、治安悪化を印象づけるものになります。
「犯罪は減少して治安は改善している」という主張に対しては、誰かが「体感治安」という言葉を考え出して、「体感治安は悪化している」という反論が行われてきました。
少年犯罪についても同じです。少年犯罪もずっと減少し続けてきたのですが、専門家がいくら「少年犯罪は減少していて、凶悪化はしていない」と力説しても、マスコミは逆のイメージをつくりあげて、そのために少年法が厳罰化される方向に改正されました。

外国人犯罪についても同じです。マスコミが「外国人犯罪は減少している」と指摘するのを聞いたことがありません。そのため外国人犯罪が増加しているというイメージがつくられてきました。


そうした報道の背景には、マスコミと警察の癒着という問題も指摘できます。
マスコミは警察から情報をもらって報道をするので、警察に不都合なことは報道しません。
犯罪件数はピーク時から3割以下にまで減少しているということが広く知られたら、警察の予算をへらせという議論が起きるはずです。
「犯罪の増加・凶悪化」というイメージをつくることは警察とマスコミの両方の利益です。

つまりもともとオールドメディアが「外国人犯罪の増加」というイメージづくりをしていて、そこにSNSなどでの外国人へのヘイトスピーチが上乗せされて、外国人問題が参院選の大きな争点になるまでになったのです。
オールドメディアは犯罪報道を過度に娯楽化してきたことを反省し、犯罪件数のような基礎的な情報をきちんと伝えていくべきです。

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「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは名言です。
戦いに勝った者は「自分は正義で、相手は悪だ」と主張し、負けた者はその主張を否定する力がないので、勝った者の主張が社会に広がります。

「勝てば官軍」に当たる言葉は英語にもあります。
「Might is right(力が正義である)」及び
「Losers are always in the wrong(敗者はつねに間違った側になる)」です。
なお、パスカルも「力なき正義は無効である」と言っています。

つまり「正義」というのは、強い者が決めているのです。
最近はそのことが理解されてきて、正義の価値が下落し、正義を主張する人はあまり見かけなくなりました。

そうすると、「悪」の価値も見直されていいはずです。
「悪」も強い者が決めているからです。

さらにいうと、「善」も強い者が決めています。
「善」とはなにかというと、「悪」の対照群です。
テロ行為が「悪」だとすれば、テロ行為をしないのが「善」です。

「正義」も「善」も「悪」もすべて定義がないので、力のある者が恣意的に決めています。
したがって、正義、善、悪で世の中を動かそうとするとうまくいきません。
ハリウッド映画では、正義のヒーローが善人を救うために悪人をやっつけてハッピーエンドになりますが、これはフィクションだからです。

世の中を支配する者は善と悪を恣意的に決めることができます。
そうすると、力のない者はいつ悪人に仕立てられて罰されるかわからないので、安心して暮らせません。
そこで、人を罰することは法律によって厳密に決めることになっています。これが法の支配ないし法治主義といわれるものです。
犯罪者(悪人)と認定するまでの法的手続きは煩雑ですが、どうしても必要な手続きです。
この手続きを省略すると「リンチ」になりますが、リンチが横行すると世の中の秩序が乱れます。


社会は法の支配によって秩序が保たれていますが、法の支配の及ばない領域がふたつあります。
ひとつは国際政治の世界です。ここではロシア、イスラエル、アメリカといった軍事力のある国が好き勝手にふるまっています。
もうひとつは家庭内です。家族は愛情で結びついているので、法律が入り込むべきでないとされてきました。そのためここでも力のある者が好き勝手にふるまっています。


家庭内を見ると、善と悪がどのようにして決められるのかがよくわかります。
小さな子どもは動き回り、大声を出し、物を壊したり、部屋の中を汚したりします。それは子どもとして自然なふるまいですが、親は子どもにおとなしくしてほしい。高度な文明生活と子どもの自然なふるまいはどうしても合わないのです。
そこで、親と子で妥協点を探らねばなりませんが、親は子どもよりも圧倒的な強者です。そのため親は自分勝手にふるまうことができますし、善と悪も自分勝手に決めることができます。
たとえば、おとなしいのは「よい子」で、うるさく騒ぐのは「悪い子」、親の言うことを素直に聞くのは「よい子」で、親の言うことを聞かないのは「悪い子」、好き嫌いを言わないのは「よい子」で、好き嫌いを言うのは「悪い子」、かたづけをするのは「よい子」で、散らかすのは「悪い子」といった具合です。
このように善悪の基準は親の利己心です。したがって、よいとされることが子どもにとってよいこととは限りません。
たとえば親は子どもに「おとなしくしなさい」と言いますが、「おとなしい」を漢字で書くと「大人しい」です。つまり子どもにおとなのようにふるまえと言っているのですが、これは正常な発達の妨げになることは明らかです。

子どもを「よい子」にしつけることは親の義務とされ、しつけを怠る親は非難されます。
こうしたことが幼児虐待を生んでいます。幼児虐待で逮捕された親が判で押したように「しつけのためにやった」と言うのを見てもわかります。

家父長制家族においては、夫は妻に対して圧倒的な強者ですから、夫が善と悪を決めます。
夫に従うのが「よい妻」で、夫に従わないのは「悪い妻」、家事を完璧にこなすのが「よい妻」で、家事の下手なのが「悪い妻」という具合です。
夫にとって都合のよい妻を「良妻賢母」ともいいます。
妻の側からも「よい夫」と「悪い夫」というように夫を評価したいところですが、妻は弱い立場なので、そうした評価が社会的に認知されることはありません。そのため、「悪妻」という言葉はあっても、「悪夫」という言葉はありません。


「よい子」と「悪い子」、「良妻」と「悪妻」という言葉を思い浮かべれば、善と悪は強者が自分に都合よく決めているということがわかります。
ところが、倫理学は善を絶対的な基準と見なしてきました。
アリストテレスは、人間は「最高善」を目指すべきであるとし、カントも「最高善」について論じています。
「よい子」や「よい妻」の最高の状態を目指すべきだということです。そんなことをしても、本人は少しも幸福ではなく、親や夫が喜ぶだけです。
こんな倫理学が顧みられなくなったのは当然です。


善、悪、正義、「べき」などを総称して道徳というとすると、道徳はすべて人間がつくったものですから、そこに必ず人間の下心があります。
道徳は、人間の心を縛る透明な鎖です。
鎖を断ち切ってこそ自由な生き方ができます。



前回の「一神教の神は怖すぎる」という記事で、エデンの園でアダムとイブが神の言いつけにそむいて善悪の知識の木から食べたために楽園を追放されて不幸になったということを書きました。
人間は善悪の知識を持ったために不幸になったという話は暗示的です。
それまで親子は一体で、子どもはなにをしても親から愛されていましたが、親が「よい子」と「悪い子」という認識を持ったときから子どもは行動を束縛され、愛の楽園から追放されたのです。
子ども時代の不幸は人生全体をおおい、さらに世界全体をおおっています。

別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」では、善と悪についてさらに詳しく書いています。


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中東で起きている争いはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の争いでもあります。
キリスト教・ユダヤ教勢力がイスラム教勢力圏の真ん中にイスラエルを建国し、以来、何度も戦争を繰り返しながらイスラエルは確固たる足場を築きました。
米軍は中東に20か所以上の基地・施設を有し、4万人以上を駐留させています。
十字軍の時代と同じことをしています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教で、同じヤハウェという神を信仰する宗教です(イスラム教のアッラーはヤハウェのことです)。
当然特徴も似ています。それは闘争的で独善的だということです。

ヤハウェは「人格神」といわれます。
ギリシャ神話の神も日本神話の神もそれぞれに擬人化されているので人格神といえなくもありませんが、一般に人格神といえばヤハウェのことです。神と思えないような、人間のいやな面を持っているために人格神といわれるのだと思います。
ヤハウェの人格が三つの一神教に大きな影響を与えています。

では、ヤハウェはどんな人格なのでしょうか。
『旧約聖書』の『創世記』にはこう書かれています(引用は「口語訳聖書 旧約:1955年版」より)。

主なる神は人をエデンの園に置き、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言いました。
そして、人が一人でいるのはよくないとして、人のあばら骨のひとつを取って、女をつくりました。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
神は二人が禁じられた実を食べたことを知り、へびに対して「おまえはすべての獣のうち最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言いました。
次に女に対して「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言いました。
そして、人に対しては「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」と言いました。

へびは人をだまし、人は神の言いつけにそむいたので神から罰されたということになっています。
しかし、へびは嘘をついていません。嘘をついたのは神です。「善悪を知る木から取って食べると、きっと死ぬであろう」と言ったのに、二人は死にませんでした。
嘘をついた神が真実を言ったへびを罰しました。正しい内部通報者が罰されたみたいなものです。

人は神のいいつけにそむいたので罰されるのは当然のようです。
しかし、善悪を知る木の実を食べた行為に対する罰としては重すぎるのではないでしょうか。神はその人だけでなく子々孫々まで不幸になるように呪いをかけました。


エデンの園を出たアダムは土を耕しました。エバはみごもり、カインを産み、さらにその弟アベルを産みました。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」
二人の子どもを持つ親は、二人を平等に愛することはめったになく、たいていえこひいきするものです。主もアベルをえこひいきしたのでしょうか。
それにしても、主の「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう」という言葉は不可解です。
まるでカインが悪いことをしたみたいな言い方で、自分のえこひいきは棚に上げています。
いや、主がカインの供え物を顧みなかったことにはちゃんとした理由があるのかもしれません。だったら、その理由を言えばいいのです。そうすれば、カインもアベルを逆恨みするようなことはなかったはずです。
もちろんカインが弟のアベルを殺したのは、あまりにもひどい罪ですから、カインが主に罰されるのは当然でしょう。
しかし、神が全知全能なら、人間が罪を犯さないように導いてくれてもよさそうなものです。


その後、人は地上にはびこり、同時に人の悪もはびこりました。主は人をつくったことを後悔し、人も獣も、地をはうものも、空の鳥もすべて地表からぬぐい去ることを決心します。ただ、ノアは正しい人だったので、主はノアに箱舟をつくるように命じます。
結局、ノア一家と箱舟に乘れた動物以外のすべての地表の生き物は死んでしまいます。
自然災害で死んだのではありません。主が殺すために洪水を起こしたのです。
地表の生き物をことごとく殺すとはあまりにも残虐です。
しかも、そのときに「正しい人」と「悪い人」を選別しています。
人間はヤハウェの前では安心することができません。


ヤハウェは怒りで人間を罰する神です。
イエス・キリストはそうしたユダヤ教を愛の宗教に改革しようとしました。
キリストの教えといえば「汝の隣人を愛せよ」という言葉が思い浮かぶかもしれませんが、これは誤解です。
「隣人を愛し、敵を憎め」というのは当時の常識でしたが、キリストはそれは当たり前のことで、優れたことをしたことにならないと言いました。
キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言い、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言ったのです。
これがキリストの教えの核心でしょう。
しかし、改革は中途半端でした。今のキリスト教徒の口から「汝の敵を愛せよ」という言葉を聞くことはありません。

(イスラム教については詳しくないので省略します)


神と人間の関係は、平行移動させると親と子の関係に重なります。
ヤハウェはまるで子どもを虐待する父親です。
西洋では一般家庭の親もヤハウェを真似て子どもを虐待しています。
カトリック教会では聖職者による子どもへの性的虐待が広範囲に行われていました。
幕末から維新にかけて日本にきた西洋の宣教師、外交官、商人たちは、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、日本が特別だったわけではなく、世界的に見れば、子どもを虐待する西洋のほうが特別だったのです。
しかし、日本は間違って西洋の文化を取り入れ、親が子どもに体罰をするのが当たり前の国になってしまいました。


最近は体罰はよくないこととされ、親子関係のあり方も変わってきました。
今の日本人ならヤハウェがそうとうにおかしな神であることが理解できるでしょう。

ともかく、今の中東の争いは不合理な宗教的かつ家族的感情によって動いていることを理解しなければなりません。


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ロシアのウクライナ侵攻に続いてイスラエルがガザやイランなどへの攻撃を強め、さらにアメリカも参戦しました。
各国の内政も、右派と左派、保守とリベラルの対立が激化し、移民排斥運動などが高まっています。
こうした動きのもとにあるのは「悪をなくせば世界はよくなる」という考え方です。

プーチン大統領は「ウクライナの非ナチ化」を掲げてウクライナに侵攻しました。つまりナチスという「悪」を排除することが目的です。
イスラエルは「ハマス殲滅」を掲げていました。ハマスはテロリストという「悪」です。
一方、ハマスなどはイスラエルのシオニズムという「悪」を攻撃しています。
トランプ大統領は不法移民のことをテロリスト、殺人者、精神異常者と呼び、「悪い遺伝子が流入している」と主張しました。

こうした考え方は「正義」とも「勧善懲悪」ともいわれますが、もっと広くいうと「道徳」です。
道徳は「悪いことをしてはいけない」ということを教えます。そして、悪いことをする者を罰し、矯正し、矯正できない場合は排除するように教えます。
こうした道徳が対立や争いを激化させ、戦争を起こしているのです。

道徳が世の中を悪くしている――ということは、冷静に世の中を観察すればわかることですが、誰もはっきりとは言いません。
なぜなら道徳はよいものとされているからです。道徳を悪くいうのはタブーです。
しかし、道徳が世の中を悪くしているのはまぎれもない事実です。
具体的に見ていけばわかります。


アルコール依存症になった人は、道徳的な観点からは、過度な飲酒という悪癖に陥った悪い人とされます。実際、本人が健康を害するだけでなく、家族など周りの人に迷惑をかけ、不利益を与えています。
周りの人はアルコール依存症の人を「意志が弱い」とか「家族に迷惑をかけた」とか「約束を破った」とか言って非難します。この非難は、その人を立ち直らせようという善意からのものです。しかし、アルコール依存症の人は非難されて立ち直ることはありません。逆に非難されることがさらなる飲酒の原因になり、症状の悪化を招きます。
覚醒剤などの薬物依存症の人は、犯罪者でもあるので、本物の悪人としてマスメディアからも盛大に非難されます。もちろんこの場合も、非難されて立ち直ることはなく、悪化するだけです。
ただ、ここ数年は、薬物依存症は病気であるという認識が広がってきて、マスメディアは以前のようには薬物依存症の人を非難しなくなりました。

依存症は病気なので、医学的・心理学的な治療が必要です。ところが、人々は道徳的観点からそれを「悪」と見なし、罰したり、矯正しようとしたりして治療を妨げ、症状を悪化させてきました。
道徳が「悪」を生み出しているということがわかるでしょう。


道徳は、子どもが悪いことをしたら叱るべきと教えています。
子どもが行儀の悪いことをしたり、乱暴をしたり、汚い言葉を使ったり、嘘をついたりしたら、親が叱らなければなりませんし、もし叱らないと子どもはどんどん悪くなってしまうとされます。
こういう考え方が幼児虐待を生んでいることは明らかです。
ちなみに未開社会では親が子どもを叱ることはありませんし、動物の世界でも親が子どもを叱ることはありません。

毎日子どもを叱っている親は、自分のしていることは虐待ではないかと悩むことがあります。
そんなとき、子どもは発達障害だったと診断されると親は救われます。子どもを叱らなくてよくなるからです。発達障害は遺伝的なものなので、叱って矯正できるものではありません。
もちろん叱られなくなった子どもも救われます。
ここでも道徳が事態を悪くしていることがわかります。

発達障害は「遺伝」ですが、実は子どもが持っているさまざまな個性も「遺伝」です。
最近は「障害」という言葉を避けて、発達障害といわずに非定型発達と呼ぶことが増えています。
非定型発達と定型発達の間に線を引くことはできません。
発達障害の子を叱ることが無意味なら、発達障害でない普通の子を叱ることも同様に無意味なことです。
そのような認識が広まれば、親は子どもを叱らなくてもよくなり、親子は仲良くなり、もちろん幼児虐待などもなくなります。


もっとも、それに対しては「子どもが悪いことをしたときは叱るべきではないか」という反論があるかもしれません。
そういう反論はまさに道徳が生み出した思考です。

文明がいくら発達しても、赤ん坊はすべてリセットされて、原始時代と同じ状態で生まれてきます。そうすると文明化した親の意識が赤ん坊から乖離し、親は子どもに共感しにくくなり、子どもに対して「こんなことがわからないのか」「こんなことができないのか」という不満を募らせますし、中には子どもがかわいくないという親もいます。また、洗練された文化的な生活をしていると、子どもの自然なふるまいがおとなにとって都合が悪くなります。家の中の高価な品物を壊されては困りますし、家の中を汚されても困ります。また、家の中には子どもにとって危険なものもあります。
そうすると親は子どもに、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと言って、子どもの行動をコントロールせざるをえません。
そのとき子どもがしてはいけないことを「悪いこと」すなわち「悪」と名づけたのです。
一方、子どものするべきことは「よいこと」すなわち「善」と名づけ、親は子どもに「よいことをしなさい。悪いことをしてはいけない」と主張しました。
親にとって都合の悪いことが「悪」で、都合のいいことが「善」です。つまり善悪の基準は親の利己心です。

子どもは昔と変わらず自然にふるまっているだけです。それが文明の進んだある時点から「悪」とされるようになりました。
「美は見る者の目に宿る」という言葉があるので、それにならっていうと「善悪は見る者の目に宿る」です。
つまり人間は「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、親は子どもの「悪いこと」をやめさせ、「悪い子」を「よい子」にしようとしてきましたが、まったく間違った努力です。
「悪」は子どもの中にあるのではなく、自分の目の中にあるからです。
私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。


40人の生徒がいるクラスで、教師はいつも騒いでいる「悪い子」を排除すれば「よいクラス」になると考え、「悪い子」を排除したとします。しかし、そうしてつくった「よいクラス」の中にも騒がしい子とおとなしい子がいます。騒がしい子は目障りなので、また排除します。こうしたやり方ではどこまでいっても「よいクラス」は実現できません。それに、この教師は排除された子どものことを無視しています。

今の世界も同じ排除の論理で、犯罪者、テロリスト、悪人、不法移民を排除して「よい世界」を実現しようとしていますが、排除された者がおとなしくしているわけがなく、このやり方はうまくいきません。
DEI(多様性、公平性、包括性)の論理でこそ平和で安定した社会をつくることができます。



人間は親(ないしは親の代理人)からたっぷりの愛情を受け、全面的に肯定されることでまともな人間に育ちます。
しかし、文明人の親は子どもの中の「悪」を排除しようとして、暴力や暴言でしつけをするので、排除の論理を身につけた暴力的な人間に育ってしまいます。
そうした人間が互いに争って混乱を招いているのが今の世界です。
世界を改革するには親子関係を見直すことから始めなければなりません。



今回の記事は「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」で述べたことをより具体的に述べたものです。
また、より詳しいことは別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。


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日本の昨年の出生数は初めて70万人を下回り、合計特殊出生率も1.15と過去最低となりました。
政府はあれやこれやと少子化対策をしてきましたが、まったくといっていいほど効果がありません。
それはしかたのないことで、先進国はどこも出生率は低いものです。

アメリカはずっと人口が増え続けてきましたが、それは移民を受け入れてきたからです。
アメリカの白人に限ってはずっと出生率2.0を下回っています。
ヒスパニックの出生率は高いとされてきましたが、最近は急速に低下して2.0を下回りました。
少子化は先進国病なのです。

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ですから、日本が少子化を克服しようというのはむりな話です。出生率をいくらか上げて、少子化の進行を少しでも遅らせることができれば上出来です。

先進国では少子化が進んでも、人類全体では人口は増え続けています。
現在は約80億人で、国連の「世界人口推計」によると2030年に約85億人、2050年に約97億人となり、2100年には約109億人でピークに達すると予測されています。

ですから、人類の存続を心配することはありません。
日本政府も人類のために少子化対策をしているのではありません。
では、なんのためにしているかというと、日本の経済、財政、年金のためです。
しかし、子どもをつくる人は日本の経済、財政、年金のことなど考えていません。自分と子どもの人生のことを考えています。
ここに政府と子づくり世代の齟齬があります。


それにしても、先進国で少子化が進むのはなぜでしょうか。
一応の説明として、先進国では女性の社会進出が進み、結婚や出産のタイミングが遅れること、家族よりも個人の自由や自己実現を優先する価値観が広がることなどが挙げられます。
低収入や雇用の不安定などの経済的理由も挙げられますが、貧しい途上国で出生率が高いのですから、経済的なことは理由にならないのではないでしょうか。
子育てのための補助金などもあまり効果はないはずです。

では、先進国で少子化が進む原因はなにかというと、文明が発達するほど人間が一人前になるのが困難になることです。

狩猟採集社会では、子どもは遊びの中で狩猟や採集のやり方をみずから学んで一人前になりました。ですから、親はなにも教える必要はありませんでした。
しかし、文明が発達して社会が複雑化するとともに一人前になるために学ぶべきことが増えてきますし、親などのおとなが教えるべきことも増えてきます。
人間はしゃべることは自然に覚えますが、読み書きは誰か教える人がいないと覚えることはできません。そのため近代になると義務教育が始まります。
文明の発達は加速度的に速くなり、義務教育の年限は延長され、今では義務教育は中学校までとされますが、高校まで行くのは最低限に必要とされます。大学に行くのも普通となり、より有利な立場を求める人は大学院に行きます。
江戸時代には多くの人は寺子屋にも行かなかったのですから、短期間に大きく変わりました。

子どもに高度な教育を受けさせるにはお金がかかりますが、負担はそれだけではありません。親は子どもに対して「勉強しなさい」などと言って圧力を加えなければなりませんが、その心理的な負担もあります。
子どもにはみずから学ぶ意欲が備わっていますが、自発的な学習だけでは今の社会には適応できないと考えられています。そのため、どこの国でも同じですが、親は子どもに勉強を強制しなければなりません。
勉強させたい親と勉強したくない子どもが争うことになります。
子どもが学校に行きたがらないという事態も起こります。日本では中学までは教育を受けさせる義務が親にありますから、親はむりをしても学校に行かせようとして、ここでも親子が争うことになります。

学校教育以外に、音楽やスポーツなどの習い事というのもあります。今の日本には習い事をまったくやっていない子どもはひじょうに少ないでしょう。
ピアニストになるつもりもないのにピアノを習って意味があるのかと思うのですが、ピアノの技量を伸ばした経験がほかのことをやるときにも役立つと考えられているのでしょう。
しかし、子どもがみずからやりたがっているならいいのですが、やる気がないのにやらされているのでは、子どもにとっても負担ですし、親にとっても負担です。

ともかく、先進国では「一人前」になるためのハードルがひじょうに高いので、親が子どもを一人前に育てるまでの負担がたいへんです。
しかも、先進国は核家族制なので、その負担はほとんど親だけにかかります。
途上国では親族や共同体の人間が周りにいて、子育てを手伝ってくれるので、その違いは大きいといえます。


一人前になることは、子どもにとってもたいへんです。
江戸時代には寺子屋に通っていない子どもは「勉強しなさい」と言われることもなく、親の仕事ぶりを見て覚えるだけで一人前になれました。
今は二十歳前後までずっと勉強の連続です。
どこの国でも学校にいじめがつきものなのは、勉強がストレスだからでしょう。

1972年、ローマクラブは「成長の限界」と題するレポートを出し、資源の枯渇や環境汚染によって人類の経済成長はいずれ限界に達するだろうと警告し、世界に衝撃を与えました。
しかし、人類の経済成長を制約するものは、資源と環境のほかにもうひとつあります。それは「能力の限界」です。
人間の能力は生まれつき決まっています。これは原始時代からほとんど進化していません。
文明が発達して社会が複雑化すると人間の能力が追いつきません。
これまでは教育を強化することで補ってきましたが、それも限界です。
日本の出生率は1.15ですが、韓国は0.75で、中国は1.00(2023年国連推計)です。儒教文化圏は受験競争が激烈です。自分の子どもを受験競争に駆り立てたくないという人が子どもをつくらないのでしょう。


先進国はどこも出生率2.0を下回っているのを見ると、文明の水準はすでに人間の能力を超えてしまっていると思われます。
少子化を克服しようとすれば、文明社会のあり方を根本的に変革するしかありません。
今の社会は知的能力の高い人が勝ち組になって、知的能力の低い人が負け組になる社会です。
自分の子どもが負け組になるのは誰でもいやですから、それも少子化の大きな原因です。
競争社会から転換して、知的能力の低い人もそれなりに幸せになれる社会を目指すべきです。

もっとも、そういう根本的な社会変革はいつできるかわかりません。
手っ取り早い方法もあります。

今の社会はおとな本位の社会で、子どもが不当に迫害されています。
たとえば赤ん坊の泣き声がうるさいと主張するおとなが多くて、赤ん坊を連れた親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがありますが、今のおとなは泣く子に勝とうとしているのです。
公共の場で子どもが騒いだり走り回ったりするのも非難されます。
公共の場にはおとなも老人も子どももいていいはずですが、子どもは排除されているのです。
そして、子どもが騒ぐと、「親のしつけがなっていない」と親が非難されます。
こうした「しつけ」の負担が親に押しつけられていることも少子化の原因です。

そもそも子どもが騒いだり走り回ったりするのは子どもの発達に必要な行為ですから、おとなの身勝手な理由で止めることは許されません。
子どもがもっとたいせつにされる社会になれば、少子化はいくらか改善するはずです。

とはいえ、21世紀中は人類の人口は増え続けるわけですから、日本は少子化対策をしなければならないわけではありません。
少子化を前提に経済、財政、年金を考えるべきです。


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私は30代前半に究極の思想ともいうべき「地動説的倫理学」を思いつきました。
これは人類史においてコペルニクスによる地動説の発見に匹敵するぐらい重大な発見です。
そんなことを言うと頭のおかしいやつと思われますが、どう思われようと、この重大な発見を世の中に伝えないわけにいきません。
発見したことの重大さに比べて、私の能力があまりにも過小であるという困難を乗り越えて、なんとか一冊の本になる形に原稿をまとめて、別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」で公開しました。

しかし、あまり理解されません。
どうやらむずかしく考えすぎたようです。
私が「地動説的倫理学」を思いついたとき、これは常識とあまりにも違うのでなかなか理解されないだろうと思いました。そこで、思いついた過程を丁寧に説明し、また、科学としても認められるようにしようと配慮しましたが、そのため読みにくくなったかもしれません。

しかし、世の中の価値観はその当時とは大きく変わりました。今ではすんなりと理解する人も少なくないでしょう。「なぜもっと早く教えてくれなかったのだ」と文句を言われるかもしれません。

「地動説的倫理学」そのものはきわめて単純です。
天文学の地動説は小学生でも理解しますが、それに近いものがあります。
考えてみれば、コペルニクスがどうやって地動説を思いついたかなんていうことは、地動説を理解する上ではどうでもいいことです。

ということで、ここでは「地動説的倫理学」をもっとも単純な形で紹介したいと思います。



人類は霊長類の一種で、優れた言語能力を有することが特徴です。
人類が使う多様な言語の中に「よい」と「悪い」があります。「よい天気」と「悪い天気」、「よい匂い」と「悪い臭い」、「よい味」と「悪い味」、「よい出来事」と「悪い出来事」など、あらゆる物事に「よい」と「悪い」は冠せられます。
「よい」とは人間の生存に有利なもので、「悪い」とは人間の生存に不利なものです。新鮮な肉は「よい肉」で、腐った肉は「悪い肉」です。これは「良性腫瘍」と「悪性腫瘍」、「善玉菌」と「悪玉菌」という言葉を見てもわかるでしょう。
人間は森羅万象を「よい」と「悪い」と「どちらでもない」に見分けながら生きています。

この「よい」と「悪い」を人間の行為に当てはめたのが道徳です。
自分が困っているときに助けてくれる他人の行為は「よい行為」であり、それをするのは「よい人」です。
自分にとって不利益になる他人の行為は「悪い行為」であり、それをするのは「悪い人」です。
こうして「善」と「悪」すなわち道徳ができました。
そうして人は「よいことをするべきだ。悪いことをしてはいけない」と主張して、相手を自分の利益のために動かそうとしてきました。

ここで注意するべきは、腐った肉は誰にとっても「悪い肉」ですが、人間の行為はある人にとっては利益になる「よい行為」となり、別の人にとっては不利益になる「悪い行為」になるということです。つまり道徳には普遍性がありません。
そのため、強者が自分に都合のいい道徳を弱者に押しつけることになりました。


動物は同種間で殺し合うことはめったにないのに、人間は数えきれないほど戦争をしてきました。また、奴隷制や植民地支配によって人間が人間を支配してきました。
人間は道徳をつくりだしたためにかえって悪くなったのではないでしょうか。
それを確かめるには「道徳をつくりだす以前の人間」と「道徳をつくりだした以降の人間」を比較する必要があります。
この比較は簡単なことです。赤ん坊や小さな子どもは道徳のない世界に生きているので、子どもとおとなを比較すればいいのです。

道徳のない世界では、子どもは自由にふるまって、親はそれを見守るだけでした。これは哺乳類の親子と同じです。動物の親は子どもにしつけも教育もしません。
未開社会でも親は子どもに教育もしつけもしません。
納得いかない人は、次の本を参考にしてください。



しかし、文明が発達すると、子どもの自然なふるまいが親にとって不利益になってきます。
定住生活をするようになると、家の中を清潔にするために子どもの排泄をコントロールしなければなりません。子どもに土器を壊されてはいけませんし、保存食を食べ散らかされてもいけません。
それに、文明人の親は多くの知識を持ち、複雑な思考ができますが、赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきますから、親の意識と子どもの意識が乖離します。共感性の乏しい親は子どもに対して「こんなことがわからないのか」とか「こんなことができないのか」という不満を募らせ、子どもに怒りの感情を向けるようになります。
そうした親は道徳を利用しました。親にとって不利益な子どもの行為を「悪」と認定し、その行為をすると叱ったり罰したりしたのです。こうすると子どもを親の利益になるように動かせるので、このやり方は広まりました。「悪い子」を「よい子」にすることは、その子ども自身のためでもあるとされたので、叱ることをやましく思うこともありませんでした。

これは子どもにとっては理不尽なことです。これまでと同じように自然にふるまっているのに、あるときから「悪」と認定され、叱られるようになったのです。
この「悪」は子どもの行為にあるのではありません。親の認識の中にあるのです。
「美は見る者の目に宿る」という言葉がありますが、それと同じで「善悪は見る者の目に宿る」のです。
いわば人間は「善悪メガネ」あるいは「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、人間はなんとかしてこの世から「悪」をなくそうと力を尽くしてきましたが、まったく間違った努力です。「悪」は見る対象にあるのではなく、自分自身の目の中にあるからです。

私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
これまで世の中を支配してきたのは、自己中心的で非論理的な「天動説的倫理学」だったのです。

「天動説的倫理学」の支配する世界でいちばん苦しんでいるのは子どもです。親は「子どもは親の言うことを聞くべき」とか「行儀よくするべき」とか「好き嫌いを言ってはいけない」とかの道徳を押しつけ、親の言うことを聞かないと「わがまま」であるとして叱ったり罰したりします。これはすなわち「幼児虐待」です。
私がこの理論を思いついたとき、これはなかなか世の中に受け入れられないだろうと思ったのは、まさにそこにあります。
当時は、幼児虐待は社会的に隠蔽されていました。ごくまれに親が子どもを殺したという事件がベタ記事として新聞の片隅に載るぐらいです。この理論は幼児虐待をあぶりだすので、社会から無視されるに違いないと思ったのです。

しかし、今では多くの人が幼児虐待に関心を持っているので、幼児虐待を人類史の中に位置づけたこの理論はむしろ歓迎されるかもしれません。
この理論は幼児虐待の克服に大いに役立つはずです。

今の世の中は「親は子どもに善悪のけじめを教えなければならない。教えないと子どもは悪くなってしまう」と考えられています。
しかし、子どもには「よい子」も「悪い子」もいませんが、親には子どもを愛する「よい親」と子どもを虐待する「悪い親」がいます。
おとなの中にはテロリスト、ファシスト、差別主義者、殺人犯、レイプ犯、強盗、詐欺師、DV男、利己主義者などさまざまな「悪人」がいます。そうした「悪人」が子どもを「よい子」にしようとして教育やしつけを行っているのが今の「天動説的倫理学」の世界です。

こうした状況をおとなの目から見ているとわけがわかりませんが、子どもの目から見ると、すっきりと理解できます。
複雑な惑星の動きが太陽を中心に置くとすっきりと理解できるのと同じです。
しかし、これはおとなにとっては認めたくないことかもしれません。それも私がこの理論はなかなか理解されないだろうと思った理由です。


道徳は強者が弱者に押しつけるものであるというとらえ方は、マルクス主義とフェミニズムも同じです。マルクス主義は資本家階級が労働者階級に押しつけ、フェミニズムは男性が女性に押しつけるとしました。私は親が子どもに押しつけるとしたのです。
ここまで踏み込むことで善と悪の定義ができました。.これは画期的なことです(これまで善と悪の定義はありませんでした)。
道徳は強者が弱者に押しつけるものだということを知るだけで、道徳にとらわれない自由な生き方ができるはずです。

私はさらに、この理論と進化生物学を結びつけました。これが正しければ、この理論は「科学的」と称してもいいはずです。
マルクス主義は「科学的社会主義」を称して一時はたいへんな勢いでしたが、結局「科学的」というのは認められませんでした。
「地動説的倫理学」は「科学的」と認められるでしょうか。



これを読んだだけでは、いろいろな疑問がわいてくるでしょう。
「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく書いているので、そちらをお読みください。



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5月7日、東京メトロの東大前駅で、男性客に刃物で切りつけて殺人未遂容疑で現行犯逮捕された戸田佳孝容疑者(43歳)は、犯行動機を「小学生の時にテストの点が悪くて親から叱られた」「教育熱心な親のせいで不登校になり苦労した」「東大を目指す教育熱心な世間の親たちに、あまりに度が過ぎると子がぐれてれて、私のように罪を犯すと示したかった」などと供述しました。
このところ「教育虐待」が話題になることが多く、容疑者は「教育虐待」の被害者であることをアピールすれば世間に受け入れられると思ったのかもしれません。

「教育虐待」という言葉は2010年代からありますが、世に広く知られるようになったきっかけは2022年に出版された齊藤彩著『母という呪縛 娘という牢獄』というノンフィクションではないかと思います。母親に医学部に入るように強要され9年も浪人した娘が母親を殺害した事件を描いた本で、10万部を越えるベストセラーになりました。
世の中には親から「よい学校」へ行けとむりやり勉強させられたり、やりたくもない習い事を強制されたりした人が多く、そういう人の共感を呼んだのでしょう。

「教育虐待」の典型的な事件としては鳥栖市両親殺害事件があります。
2023年3月、佐賀県鳥栖市で当時19歳の男子大学生が両親を殺害しました。男子大学生は小学校時代から父親に勉強を強要され、殴られたり蹴られたりし、一時間以上正座をさせられて説教され、「失敗作」や「人間として下の下」などとののしられました。佐賀県トップの公立高校に進み、九州大学に入りましたが、それでも父親の虐待はやまず、大学の成績が悪化したことを父親に責められたときナイフで父親を刺し、止めようとした母親も刺殺しました。佐賀地裁は教育虐待を認定しましたが、判決は懲役24年でした。

「東大」と「教育虐待」というキーワードから思い出されるのは、2022年 1月15日に大学入学共通テストの試験会場である東京都文京区の東京大学のキャンパス前で、17歳の男子高校生が3人を刃物で切りつけて負傷させた事件です。この高校生は名古屋市の名門私立高校に在籍し、東大医学部を目指していましたが、思うように成績が上がらず犯行に及んだものと思われます。ただし、本人は動機についてはなにも語りませんでした。ウィキペディアを見ると、「人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと考えるようになった」などと言ったようです。
「教育虐待」という認識はなかったのでしょう。若いのでしかたありません。

5月9日、愛知県田原市で70代の夫婦が殺害され、孫である16歳の男子高校生が逮捕されました。今のところ男子高校生は「人を殺したくなった」と供述していると伝わるだけです。
5月11日、千葉市若葉区の路上で高橋八生さん(84)が背中を刃物で刺されて死亡した事件で、近くに住む15歳の男子中学3年生が逮捕されました。男子中学生は「複雑な家庭環境から逃げ出したかった。少年院に行きたかった」と供述しています。
どちらの容疑者も背後に幼児虐待があったと想像されますが、本人はそれについては語りません。

ここに大きな問題があります。
人間は親から虐待されても自分は虐待されているという認識が持てないのです。
ベストセラーのタイトルを借りれば、ここに人類最大の「バカの壁」があります。



親から虐待されている子どもが周囲の人に虐待を訴え出るということはまずありません。医者から「このアザはどうしたの?」と聞かれても、子どもは正直に答えないものです。
哺乳類の子どもは親から世話されないと生きていけないので、本能でそのようになっているのでしょう。
では、何歳ぐらいになると虐待を認識できるようになるかというと、何歳ともいえません。なんらかのきっかけが必要です。

幼児虐待を最初に発見したのはフロイトです。ヒステリー研究のために患者の話を真剣に聞いているうちに、どの患者も幼児期に虐待経験のあることがわかって、幼児虐待の経験がのちのヒステリーの原因になるという説を唱えました。
もっとも、フロイトは一年後にこの説を捨ててしまいます。そのため心理学界も混乱して、今にいたるまで幼児虐待に適切な対応ができているとはいえません(このことは『「性加害隠蔽」の心理学史』という記事に書きました)。

心理学界も混乱するぐらいですから、個人が自分自身の体験を認識できなくても当然です。しかし、認識するかしないかは、それによって人生が変わるぐらいの重大問題です。

虐待された人がその認識を持てないと、その影響はさまざまな形で現れます。
親子関係というのは本来愛情で結ばれているものですが、そこに暴力や強制が入り込むわけです。そうすると自分の子どもに対しても同じことをしてしまいがちですし、恋人や配偶者に対してDVの加害者になったり被害者になったりします。また、親の介護をしなければならないときに、親に対する子ども時代の恨みが思い出されて、親に怒りをぶつけたり、暴力をふるったりということもありますし、そもそも親の介護をしたくないという気持ちにもなります。
また、虐待の経験はトラウマになり、PTSD発症の原因にもなりますし、アルコール依存、ギャンブル依存などの依存症の原因にもなります。
ですから、虐待された人はその事実を認識して、トラウマの解消をはかることがたいせつです。

虐待を認識するといっても、なにもカウンセラーにかかる必要はありません。「毒親」という言葉を知っただけで自分の親は毒親だったと気づいた人がたくさんいます。「教育虐待」という言葉も同じような効果があったのでしょう。
自分で過去を回想し、抑圧していた苦痛や怒りや恨みの感情を心の中から引き出せばいいのです。

ただ、ここにはひとつの困難があります。「親から虐待された」ということを認識すると、「自分は親から愛される価値のない人間なのか」という思いが出てくるのです。
この自己否定の思いは耐えがたいものがあり、そのために虐待の事実を否定する人もいますし、「親父は俺を愛しているから殴ってくれたんだ」というように事実をゆがめる人もいます。

そこで「自分の親は子どもを愛せないろくでもない親だった」というふうに考えるという手もあります。しかし、そうすると、「自分はろくでもない親の子どもだ」ということになり、やはり自己否定につながってしまいます。

これについてはうまい解決策があります。
「虐待の世代連鎖」といって、子どもを虐待する親は自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いものです。ですから、親に聞くなどして親の子ども時代のことを調べて、親も虐待されていたとわかれば、親が自分を虐待したのは自分のせいではなく親の過去のせいだということになり、自己否定は払拭できます。

それから、私が「虐待の社会連鎖」と名づけていることもあります。
たとえば、会社で部長から理不尽な怒られ方をした課長が自分の部下に当たる。その部下は家に帰ると妻に当たる。妻は子どもに当たるというようなことです。
あるいは母親が自分の暮らしは貧しいのに、ママ友はリッチな生活をしていて、子どもは成績優秀だと自慢され、劣等感を感じて、家に帰って子どもに当たるということもあります。
競争社会の中で弱者はどうしても敗北感や劣等感を覚えるので、社会の最弱者である自分の子どもを虐待することで自己回復をはかることになりがちです。こうしたことが「虐待の社会連鎖」です。

「虐待の世代連鎖」と「虐待の社会連鎖」を頭に入れておくと、親が自分を虐待したのは自分に原因があるのではなく、親の背後にある過去や社会に原因があるのだとわかり、自己肯定感が得られるはずです。


それから、「ほかのみんなは幸せなのに、自分だけ虐待されて不幸だ」と思って、いっそうみじめな気持ちになる人がいます。
しかし、実際は幼児虐待は広く存在します。表面からは見えないだけです。

幼児虐待が社会的な事件になると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
つまり「しつけを名目にした虐待」です。
「教育虐待」は「教育を名目にした虐待」ですから、同じようなものです。

「しつけ」のために子どもを叱ることは社会で公認され、推奨されています。
公共の場で子どもが騒いだりすると、親が子どもを叱って静かにさせるべきだと言われます。
どこの家庭でも子どもを叱ってしつけているはずです。

叱るときに体罰を使えば身体的虐待ですが、体罰なしで言葉だけで叱るのはどうかというと、心理的虐待です。きつく叱られた子どもは傷つき、脳の萎縮・変形を招く恐れがあります。

今の社会では誰もが叱られて育っているので、誰もが被虐待経験があることになります。
もちろん虐待の程度によってまったく違ってきますが、軽い虐待でも、それを認識しないと、なんとなく生きづらいという感情を引きずるかもしれません。また、結婚したくないとか、子どもがしほくないとか、子どもがかわいくないといった感情の原因にもなります。
ですから、親から虐待されたという苦しみを感じている人は、虐待の認識があるだけましともいえます。


幼児虐待というのは「文明の病」です。
赤ん坊は原始時代となんら変わらない状態で生まれてくるので、高度な文明社会に適応させるには短期間に多くのことを教えなければなりません。その過程で虐待が発生したのです。
今ようやく、虐待にならない形で子どものしつけや教育を行うべきだという考えが生まれてきたところです。
幼児虐待をこのように文明史の中に位置づけると、いっそう受け止めやすくなるでしょう。


これまで幼児虐待が認識されてこなかったのは、おとな本位の価値観が世の中を支配していたからです。
おとな本位の価値観から転換する方法については「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。


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トランプ大統領の政策でいちばん驚くのは、大学を敵視し、科学研究費を大幅に削減していることです。
中国はものすごい勢いで科学研究費を増やしていて、学術論文の数ではすでにアメリカを抜いて世界一になっています。
トランプ氏はアメリカを偉大にするといっていますが、科学力のない国は偉大ではありません。

私は前回の「いかにしてトランプ大統領の暴走を止めるか」という記事で、トランプ政権のおかしな政策を列挙して「まるで中世ヨーロッパの国になろうとしているみたい」と書きましたが、今回の記事では、なぜそうなっているのかを掘り下げてみました。


アメリカは一般に思われている以上に宗教的な国です。
メイフラワー号で入植した清教徒は「神の国」をつくろうとしました。その精神が今も生きています。
アメリカ大統領の就任式では必ず聖書に手を置いて宣誓することになっていますし、大統領の演説は「God bless America」というフレーズで締めくくられるのが常です。
どの国も経済的に豊かになると宗教色は薄れ世俗化していくものですが、アメリカの場合はそうならずに、おりにふれて宗教パワーが国を動かします。
たとえば1920年代の禁酒法がそれです。熱心なプロテスタントの信者が立ち上がり、飲酒文化が暴力や犯罪や退廃を招いているとして禁酒法を成立させました。

禁酒法の時代にテネシー州では“進化論裁判”が行われました。高校教師が授業で進化論を教えたということで逮捕され、裁判にかけられたのです。
進化論は聖書に書かれた創造説を否定するので、聖書を絶対化する人たちは進化論を認めるわけにいきません。
この裁判は全米で注目されましたが、結果、高校教師は罰金100ドルの有罪判決を受けました。

この当時は、進化論を否定するとはばかげたことだという見方が多かったようです。
しかし、このような聖書の記述を絶対視する勢力が次第に拡大し、進化論を教えることを禁止する州が増えてきました。
共産主義の脅威が感じられた冷戦時代、イスラム過激派の脅威が感じられた9.11テロ以降などにとくに宗教パワーが高まりました。

聖書の記述を絶対視する宗派を福音派といいます。
アメリカでは福音派が人口の約4分の1、1億人近くに達するといわれます。
アメリカでも地元の教会に通うという昔ながらの信者はへっていますが、福音派の場合は、テレビやラジオや大集会を通じて説教をするカリスマ的大衆伝道師が信者を獲得してきました。大衆を扇動する言葉は過激になりがちで、それが福音派を特徴づけているのではないかと思われます。

福音派は共和党と結びつき、政治を動かすようになりました。
たとえばレーガン大統領はカリフォルニア州知事時代に妊娠中絶を認める法案に署名していましたが、大統領選の候補になると福音派の支持を得るために中絶反対を表明しました。
トランプ氏もつねに福音派の支持を意識して行動しています。
アメリカの政治が福音派に飲み込まれつつあり、その結果、科学軽視の政策になっていると思われます。


キリスト教と科学は相性の悪いところがあります。
ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために宗教裁判にかけられました。
聖書には地動説を否定するような記述はありませんが、教会は絶大な権力で世の中の「常識」まで支配していたのです。
結局、地動説は認められましたが、だからといって聖書のなにかが否定されたわけではありません。

ダーウィンの進化論はそういうわけにはいきません。進化論は聖書の創造説の明白な否定だからです。そのため世の中は大騒ぎになりました。
ダーウィンは『種の起源』の12年後に出版した『人間の由来』において、人間の身体はほかの動物から進化したものだが、人間の精神や魂はそれとは別だと主張しました。つまり身体と精神を分けることで教会や世の中と妥協したのです。
ダーウィンのこの妥協はのちのち問題になるのですが、キリスト教と科学が折り合う上では役に立ちました。


中世ヨーロッパにおいてキリスト教会は絶大な権力を持っていました。
その権力の源泉は、キリスト教では宗教と道徳が一体となっていることです。
「モーゼの十戒」には「汝、殺すなかれ」とか「汝、盗むなかれ」という道徳が入っていますし、キリストの説教である「山上の垂訓」には「あわれみ深い人たちは幸いである」とか「心の清い人たちは幸いである」といった道徳が入っています。教会での説教も、ほとんどが道徳的な説教です。そのため教会は人々の生活のすみずみまで支配したのです(仏教も「悪いことをすると地獄に堕ちる」といった教えで道徳とつながっていますが、これは本来の仏教ではありません。神道はほとんど道徳と無縁です)。

しかし、近代化の過程で「法の支配」が確立されてきました。
と同時にキリスト教道徳(倫理)が排除されました。「法の支配」があれば道徳は必要ないのです。

このあたりのことは誤解している人が多いかもしれません。
道徳はほとんど無価値です。「嘘をついてはいけない」とか「人に迷惑をかけてはいけない」とか「人に親切にするべきだ」とかいくら言っても、世の中は少しも変わりません。
正式な教科としての「道徳の授業」が小学校では2018年から、中学校では2019年から始まりましたが、それによって子どもが道徳的になったということはまったくありません。
世の中が回っているのは道徳ではなく法律やルールやマナーなどのおかげです。



近代国家では「法の支配」によって社会から道徳が排除され、「政教分離」によって国家から宗教が分離されました。
宗教は個人の内面に関わる形でだけ存在することになったのです。

もっとも、これは主にヨーロッパの国でのことです。
日本では戦前まで、国家神道という形で国家と宗教が一体化していましたし、「教育勅語」という形で国家が国民に道徳を押し付けていました。

アメリカも宗教色が強いので、ヨーロッパのようにはいきません。
天文学者カール・セーガンの書いたSF小説『コンタクト』では、地球外生命体との接触を目指す宇宙船に乗り組む人間を選ぶための公聴会が議会で開かれ、主人公の天文学者エリー(映画ではジョディ・フォスター)は神を信じるかと質問されます。エリーは無神論者ですが、正直に答えると選ばれないとわかっているので、答え方に苦慮します。まるで踏み絵を踏まされるみたいです。こういう場面を見ると、アメリカの宗教の強さがわかります(結局、無神論者のエリーは選ばれません)。

『利己的な遺伝子』を書いた生物学者のリチャード・ドーキンスは、進化論に反対するキリスト教勢力からずいぶん攻撃されたようで、その後はキリスト教勢力に反論するための本を多く書いています。『神は妄想である――宗教との決別』『悪魔に仕える牧師――なぜ科学は「神」を必要としないのか』『さらば、神よ』といったタイトルを見るだけでわかるでしょう。
アメリカではいまだに科学とキリスト教が対立しています。


アメリカでも「法の支配」と「政教分離」で近代国家の体裁を保ってきましたが、しだいにキリスト教勢力が力を増し、ここにきて二大政党制で政権交代が起こったように一気に「近代国家」から「宗教国家」に転換したわけです。
同性婚反対、LGBTQ差別、人種差別、人工中絶禁止、性教育反対といったキリスト教道徳が急速に復活しています。

トランプ大統領は福音派を喜ばすような政策を行っていますが、トランプ氏自身が福音派の信者だということはないはずです。あくまで福音派を利用しているだけです。

トランプ氏は大統領就任式で宣誓するとき、聖書の上に手を置かなかったので少々物議をかもしました。
さらに、自身をローマ教皇に模した生成AI画像を投稿して、批判を浴びました。

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トランプ氏は銃撃されて耳を負傷したときのことについて「神が私の命を助けてくれた」と語りました。
どうやらこのころから自分で自分を神格化するようになったのではないかと思われます。
アメリカが宗教国家になるのは、自分を神格化する上できわめて好都合です。
科学は自己神格化する上では不都合です。

トランプ氏の心中はわかりませんが、アメリカが「法の支配」も「政教分離」も打ち捨てて、キリスト教道徳の支配する国になりつつあることは確かです。
もちろんこれはアメリカ衰退の道です。


なお、カトリック教会は1996年に進化論を認めましたが、「肉体の進化論は認めるものの、精神は神が授けたもので、進化論とは無関係」としています。ダーウィンの妥協がまだ生きているのです。
いまだに世界が平和にならないのも、ダーウィンの妥協のせいです。
ダーウィンの妥協については「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。

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トランプ大統領は恐ろしい勢いでアメリカ社会の根幹を破壊しています。
その破壊を止める力がアメリカにはほとんどありません。

最初はUSAID(アメリカ合衆国国際開発庁)の実質的な解体でした。
USAIDは主に海外人道援助などをしていました。アメリカ・ファーストを支持する保守派は海外人道援助などむだとしか思わないのでしょう。
このときは日本のトランプ信者もUSAID解体に大喜びしていました(日本に相互関税をかけられてからトランプ信者はすっかりおとなしくなりました)。

「報道の自由」も攻撃されました。
トランプ大統領は「メキシコ湾」を「アメリカ湾」に変更するとした大統領令に署名しましたが、AP通信がそれに反しているとして、同社記者を大統領のイベント取材から締め出しました。
また、大統領を代表取材する場合、それまではホワイトハウス記者会が決めたメディアが交代で行っていましたが、これからは大統領府側がメディアを決めると宣言しました。。
放送免許などを司るFCC(連邦通信委員会)は、FCC監督下のすべての組織にDEI策排除を求めるとしました。

その次は司法への攻撃です。
トランプ政権は「敵性外国人法」を適用して約200人の不法移民をエルサルバドルの収容施設に送還しましたが、ワシントンの連邦地裁はこの法律は適用できないとして送還の差し止めを命じました。しかし、送還は実行されました。政権は地裁から「書面」で命令が出される前に飛行機は出発していたと主張しましたが、地裁は判事が「口頭」で飛行機の方向転換を指示したのに従わなかったとしています。
トランプ氏は送還差し止めを命じた判事は「オバマによって選ばれた過激な左翼だ。弾劾されるべき」と主張しましたが、ジョン・ロバーツ最高裁長官が異例の声明を出し「弾劾は司法の決定に対する意見の相違への適切な対応でない」と批判しました。このところ政権の政策を阻止する判決を出した裁判官への個人攻撃が目に余ることから、最高裁長官が異例の声明を出したようです。
その後、FBIはウィスコンシン州ミルウォーキーの裁判所のハンナ・ドゥガン判事を逮捕しました。裁判所に出廷した不法移民の男を移民税関捜査局の捜査官らが拘束しようとしたのをドゥガン判事が妨げたという公務執行妨害の疑いです。裁判官が逮捕されるのは異例です。
パム・ボンディ司法長官はこの件について「ミルウォーキー判事の逮捕は他の判事への警告」だと言いました。完全に政治的な意図で、行政が司法を支配下に置こうとしています。
トランプ政権は「法の支配」も「司法の独立」も「三権分立」も完全に破壊しようとしています。

大学も攻撃の対象になりました。
ハーバード大学ではイスラエルのガザ攻撃に対する学生の抗議活動が盛んだったことから、トランプ政権は学生の取り締まりやDEI策排除をハーバード大学に要求、大学がこれを拒否すると、助成金の一部を凍結すると発表しました。
トランプ政権はリベラルな大学に対して同じような要求をしており、「学問の自由」は危機に瀕しています。

「政教分離」も破壊されました。
政権はホワイトハウス信仰局を設置し、初代長官に福音派のテレビ宣教師ポーラ・ホワイト氏を任命しました。また、トランプ氏はこれまでキリスト教は不当に迫害されていたとし、反キリスト教的偏見を根絶するためにタスクフォースの設置も発表しました。


トランプ政権は、法の支配、報道の自由、学問の自由、表現の自由、政教分離、人道、人権といった近代的価値観をことごとく破壊しています。
トランプ政権は科学研究費も大幅に削減していますから、まるで中世ヨーロッパの国になろうとしているみたいです(実際のところは、アメリカの保守派は南北戦争以前のアメリカが理想なのでしょう。日本の保守派が戦前の日本を理想としているみたいなものです)。


問題はこうした政権の暴走を止める力がどこにもないことです。
というのは、法の支配、報道の自由、学問の自由といった価値観が、リベラルなエリートの価値観と見なされて、効力を失っているのです。

こうした傾向は日本でも同じです。
菅政権が日本学術会議の新会員6名の任命を拒否したとき、これは学問の自由の危機だといわれましたが、SNSなどでは学問の自由はほとんど評価されずに、それよりも「政府から金をもらっているんだから政府のいうことを聞け」といった声が優勢でした。
報道の自由に関する議論になったときも、“マスゴミ批判”の声で報道の自由を擁護する声はかき消されます。

今のところトランプ政権の暴走を止めるには、政策実行を差し止める訴訟が頼りですが、最高裁の判事は保守派が多数ですから、あまり期待はできません。


ただし、このところトランプ大統領の勢いがなくなりました。明らかに壁にぶつかっています。

トランプ大統領は4月2日、日本に24%、中国に34%などの相互関税を9日に発動すると発表し、これを「解放の日」とみずから称えました。
ところが、発表直後から世界的に株価が急落し、とりわけアメリカは株式・国債・ドルのトリプル安に見舞われました。
これにトランプ氏とその周辺はかなり動揺したようです。
トランプ氏は9日に相互関税の発動を90日間停止すると発表しました。
株価は急反発しましたが、トランプ氏の腰砕けに世の中はかなり驚きました。

トランプ大統領はFRBは利下げするべきだと主張し、FRBのパウエル議長を「ひどい負け犬の遅すぎる男」とののしり、解任を示唆する発言を繰り返しました。
そうするとまたしても株式・国債・ドルのトリプル安になり、トランプ大統領はまたしても態度を豹変させて「解任するつもりはない」と述べました。
そうすると株価は反発しました。

また、中国への関税は現在145%となっていますが、トランプ大統領は「ゼロにはならないだろうが、大幅に下がるだろう」と述べました。
関税政策の根幹が崩れかけています。

トランプ大統領は「マーケットの壁」にぶつかったのです。
この壁はさすがのトランプ氏も突破できません。そのため迷走して、支持率も下がっています。

第一次トランプ政権のときは、コロナ対策がうまくいかずに支持率を下げました。
トランプ氏が再選に失敗したのは、ひとえにコロナウイルスのせいです。
なお、安倍政権が倒れたのも、菅政権が倒れたのも、コロナ対策がうまくいかなかったためです。


ともかく、トランプ大統領を止めたのは今のところウイルスとマーケットだけです。
ウイルスは自然界のもので、自然科学の対象です。関税政策などは経済学の対象です。
自然科学も経済学もまともな学問なので、トランプ氏のごまかしが通用しなかったのです。

法の支配、報道の自由、学問の自由といった概念は政治学や法学の対象ですが、政治学や法学はまともな学問ではありません。
そのため、リベラルと保守、左翼と右翼のどちらが正しいのかも明らかにすることができず、世の中の混乱を招いています。
トランプ氏の暴走を止めることができないのは、政治学や法学がまともな学問でないからです。

今、トランプ政権はマーケットの壁にぶつかっていますが、第二次政権は発足したばかりですから、そのうち経済政策を立て直すでしょう。
そのときトランプ氏の暴走を止めるものはなにかというと、結局は政治学と法学しかありません。
政治学と法学が経済学並みにまともな学問になることです。


政治学と法学をまともな学問にする方法については、「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています。

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最近はテロ組織に属さない個人のテロリスト、ローンオフェンダーが増えています。
ローンオフェンダーによるテロは発生の予測が困難なので、防止策が課題とされます。
テロにはなにかの政治的な主張があるものですが、ローンオフェンダーの場合は、そうした政治的主張よりも深層の動機に注目する必要があります。

この4月、アメリカでトランプ大統領暗殺計画が発覚しました。
17歳の高校生ニキータ・カサップ被告は2月11日ごろ、母親タティアナ・カサップさん(35)と継父ドナルド・メイヤーさん(51)を射殺し、車で逃亡しているところを逮捕されました。車内には拳銃のほかに両親のクレジットカード4枚、複数の宝石類、こじ開けられた金庫、現金1万4000ドル(約200万円)がありました。
被告の携帯電話からは、ネオナチ団体「ナイン・アングルズ教団」に関する資料や、ヒトラーへの賛辞が見つかりました。さらに、トランプ大統領暗殺計画をかなり詳しく書いていました。
両親を殺したのは、トランプ大統領暗殺計画のじゃまになるからで、また、爆薬やドローンを購入する資金を奪うためでもありました。
反ユダヤ主義や白人至上主義の信条も表明していて、政府転覆のためにトランプ大統領暗殺を呼びかけていました。

「ナイン・アングルズ教団(The Order of Nine Angles)」というのは、ナチ悪魔主義の団体ともいわれていて、カルトの一種のようです。
本来あるべきユダヤ・キリスト教の思想は何者かによって歪められているという教義が中心になっており、組織ではなく個人の行動により社会に騒乱をもたらし新世界秩序を再構築することを目的としているそうです。

計画段階で終わりましたが、この被告はまさにローンオフェンダーです。
ただ、動機が不可解です。
白人至上主義なのにトランプ氏暗殺を計画するというのも矛盾していますし、トランプ氏暗殺のために両親を殺害するというのも奇妙です。


私がこの事件から連想したのは、山上徹也容疑者(犯行当時41歳)による安倍晋三元首相暗殺事件です。
山上容疑者は親を殺すことはありませんでしたが、母親を恨んでいたはずです(父親は山上容疑者が幼いころに自殺)。それに、統一教会というカルトが関係しています。最終的に元首相暗殺計画を実行しました。「親・教祖・国家指導者」という三つの要素が共通しています。

山上容疑者の母親は統一教会にのめり込んで、家庭は崩壊状態になりました。また、統一教会に多額の寄付をし、そのために山上容疑者は大学進学がかないませんでした。
したがって、山上容疑者は母親を恨んでいいはずですが、誰でも自分の親を悪く思いたくないものです。そこで山上容疑者は「母親をだました統一教会が悪い」と考え、教団トップの韓鶴子総裁を狙おうとしましたが、日本にくる機会が少なく、警護も厳重でした。
そうしたところ安倍元首相が教団と深くつながっていることを知り、安倍元首相を狙うことにしたわけです。
親、教祖、元首相と標的は変遷していますが、共通点があります。
親は子どもの目から見れば超越的な存在です。教祖や神も超越的です。国家指導者も国民から見れば超越的です。
戦前までの天皇陛下は、国民は「天皇の赤子」といわれて、天皇と国民は親子の関係とされていました。天皇は現人神であり、国家元首でもありました。
つまり天皇は一身で「親・教祖・国家指導者」を体現していたわけです。
オウム真理教の麻原彰晃も教団を疑似国家にして、教祖兼国家指導者でした。そして、教団そのものがテロ組織となりました。


「親・教祖・国家指導者」が似ているというのは理解できるでしょう。
問題はそこに殺人だの暗殺だの政府転覆だのがからんでくることです。
その原因は親子関係のゆがみにあります。親子関係はすべての人間関係の原点です。そこがゆがんでいると、さまざまな問題が出てきます。

ところが、人間は親子関係がゆがんでもゆがんでいるとはなかなか認識できません。
これはおそらく哺乳類としての本能のせいでしょう。
たとえばキツネの親は、天敵の接近を察知すると警告音を発して子どもを巣穴に追いやり、遅れた子どもは首筋をくわえて運びます。そのやり方が乱暴でも子どもは抵抗しません。子どもは親のすることは受け入れるように生まれついているのです。そうすることが生存に有利だからです。
人間の子どもも親から虐待されても、それを受け入れます。それを虐待と認識できないのです。
これは成長してもあまり変わりません。二十歳すぎて、親元を離れて何年かたってから、自分の親は毒親だったのではないかと気づくというのがひとつのパターンです。

ヒトラーも子ども時代に父親に虐待されていました。そのこととヒトラーのホロコーストなどの残虐行為とが関連していないはずがありません。ところが、ヒトラーが子ども時代に虐待されていたことはヒトラーの伝記にもあまり書かれていないのです。このことは「ヒトラーの子ども時代」という記事に書きました。

心理学は幼児虐待を発見しましたが、一方でそれを隠蔽し、混乱を招いてきました。この問題は『「性加害隠蔽」の心理学史』という記事に書きました。


不可解な事件が起こったとき、「そこに幼児虐待があったのではないか」と推測すると、さまざまなことが見えてきます。
たとえば冒頭の17歳高校生の両親殺しの事件ですが、高校生は両親から虐待されていたと推測できます。17歳の少年に凶悪な動機が芽生えるとしたら、それしか考えられません。しかし、本人は自分が虐待されているとは認識できないので、自分の中の凶悪な感情が理解できません。そこにナチ悪魔主義教団の教義を知り、トランプ氏暗殺肯定の主張を知ります。トランプ氏暗殺は自分の凶悪な感情にふさわしい行為に思えました。そして、トランプ氏暗殺のためには親殺しが必要だという理屈で親殺しをしたのです。

昨年7月に演説中のトランプ氏が銃撃され、耳を負傷するという事件がありました。
その場で射殺された犯人はトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性です。写真を見る限り、平凡でひ弱そうな若者です。共和党員として有権者登録を行っていました。親から虐待されていたという報道は見かけませんでしたが、20歳の平凡な若者に大統領候補暗殺という強烈な動機が生じたのは、やはり親から虐待されていた以外には考えられません。

2023年4月、選挙応援演説を行っていた岸田文雄首相にパイプ爆弾が投げつけられるという事件がありました。その場で逮捕された木村隆二被告(犯行当時24歳)は、被選挙権の年齢制限や供託金制度に不満を持ち、裁判を起こすなどしましたが、自分の主張が認められないため、岸田首相襲撃事件を起こしました。政治的な主張のテロですが、その主張と首相暗殺とは釣り合いがとれません(被告は殺意は否定)。
木村隆二被告については、父親から虐待されていたという報道がありました。
『「父親は株にハマっていた」「庭は雑草で荒れ果てていた」岸田首相襲撃犯・木村隆二容疑者の家族の内情』という記事には、近所の人の証言として「お父さんがよく母親や子どもたちを怒鳴りつけててね。夜中でも怒鳴り声が聞こえることがあって、外にまで聞こえるぐらい大きな声やったもんやから、近所でも話題になってましたね。ドン!という、なにかが落ちるものとか壊れる音を聞いたこともあった。家族は家の中では委縮していたんと違うかな」と書かれています。

親に虐待された人は生きづらさを感じたり、PTSDを発症したりします。そのときに親に虐待されたせいだと気づけばいいのですが、国家指導者のせいだと考えると、どんどん間違った方向に行って、最終的にテロ実行ということになります。
これがローンオフェンダーの心理です。

とくに政治的主張がなくて、世の中全体を恨むような人は、通り魔事件を起こします。
ですから、ローンオフェンダーと通り魔は根が共通しています。


したがって、ローンオフェンダー型テロや通り魔事件をなくすには、根本的な対策としては世の中から幼児虐待をなくすことです。そして、幼児虐待のためにPTSDを発症した人などへの支援を十分にすることです。
目先の対策などどうせうまくいかないので、こうした根本的な対策をするしかありません。

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