村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 科学的倫理学入門

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今年の終戦記念日で戦後81年になりますが、世界は平和になるどころか、ますます戦争の危機が高まっているようです。
なぜそうなるかというと、どの国も平和を求めていないからです。
では、なにを求めているかというと「安全」です。
国連の中心機関は「安全保障理事会」ですし、日本にせよアメリカにせよ、世界のほとんどの国で軍事や外交の政策は「安全保障政策」と呼ばれています。

いうまでもなく「平和」と「安全」は違います。
「平和」は、周辺国と協力して実現するもので、地域や世界が平和になれば国民は安心できますし、国家は軍事費を大幅に削減できますし、経済交流も盛んになるでしょう。いいことずくめです。
ただし、そこには国家同士の信頼関係が必要ですし、国民同士の信頼関係も必要です。
そうした信頼関係は今のところありませんし、すぐに築くのもむずかしそうです。
そこで、「平和」の次善の策として「安全」が求められているわけです。

平和は周りの国と同時に享受するものですが、安全は基本的に自国だけのものです。
軍事力を強化すると自国の安全度は高まりますが、その軍事力は他国の安全度を低くします。
そのため、必然的に軍拡競争になります。

軍事力が優位だからといって安心はできません。軍事力の優位はいつ失われるかわかりませんし、軍事的に劣位な国が非合理的な判断で攻撃してくるかもしれません。
そこで、安全保障を完全にするには、脅威になりそうな国を無力化することです。
ロシアはウクライナを無力化するためにウクライナに侵攻しましたし、アメリカとイスラエルはイランを無力化するためにイランを攻撃しました。
つまり「安全保障」という考え方が戦争を生むのです。

軍事同盟をつくって安全を高めるやり方もありますが、軍事同盟というのはあくまで外部の脅威があって成り立つものです。
したがって、同盟関係を広げて世界を平和にすることはできません。
軍事同盟は、国と国の対立を陣営と陣営の対立にするだけです。


「安全保障」という概念は昔からあったわけではありません。
AIに質問すると、「国際連盟規約には security という言葉が一度も登場しないが、国際連合憲章には 多数登場する。1920年代のロカルノ条約は集団安全保障(collective security)として議論された。よって『安全保障』という概念は戦間期に形成されたと結論づけられる」ということです。

「安全保障」がいわれる前は、ヨーロッパにおいては「国防」が外交軍事の基本でした。
国防を基本にして考えると、戦争は単純です。国境を越えて攻撃したほうが侵略戦争をしたことになり、国境の内側で戦う国は防衛戦争をしたことになります。(国境線が確定しない場合の国境紛争もあります)。
国連憲章の第51条には「集団的自衛権」が規定されています。
「安全保障」と「集団的自衛権」によって、侵略戦争と防衛戦争の区別がわかりにくくなりました。それが戦争をしやすくしています(ユネスコ憲章の冒頭には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあり、平和を強く打ち出していますが、これは国連の諸機関の中では異例です)。

どうして国連結成のころに「安全保障」という考え方が主流になったのかについては、国際政治学者にちゃんと調べてもらいたいところですが、現在の世界情勢を見ると、つねに国境の外で戦争をしているアメリカにとって有利であることは間違いありません。


ともかく、日本が「平和」でなくて「安全保障」を求めているのは、中国や北朝鮮、ロシアなど他国に不信感を持っているからです。
この不信感は人間に対する不信感でもあります。
高市首相はかつて、憲法前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれわれの安全と生存を保持しようと決意し」とあるのに関して、衆議院憲法調査会で「この非常におめでたい一文を、もし改憲の機会があれば真っ先に変えようと思っている」と発言したことがあります。
憲法前文は、他国の政府ではなく「諸国民」についていっています。私は北朝鮮国民も平和を望んでいると思いますが、高市首相はそうではないようです。

保守派の人間観は性悪説です。人間は自由になると好き勝手なことをして秩序が乱れるので、軍事力や警察力で社会の秩序を保つべきであるというのが保守派の基本的な考え方です。
こういう人間観は、その人間が人生の中で形成してきたものです。強権的な親に育てられた人と、信頼できる人に囲まれて生きてきた人とでは、まったく別の人間観になります。
こうした人間観はそう簡単に変わりません。
ですから、とりあえず人間観はそのままにして、合理的、功利的な思考によって問題を解決する必要があります。


今は中国の軍拡、北朝鮮のミサイル、台湾有事などが喧伝され、恐怖心や危機感があおられています。
恐怖心にとらわれた人間は合理的な思考ができません。
そのため中国の軍拡に対抗して日本も軍拡しなければという考えになりますが、これはあまりにも近視眼的です。
日本が軍拡しても、中国はそれ以上に軍拡します。
いつまでも軍拡競争をしていると、いつか大破局になります。

中国大陸も日本列島も動かすことはできませんから、中国は日本にとって“永遠の隣人”です。最終的には仲良くするしかありません。
だったら、今すぐ仲良くしたほうが得です。軍拡競争は無意味な遠回りです。


視野を世界に広げることも重要です。
アメリカの軍事費は中国の約3倍です。中国は3隻の空母を保有していますが、アメリカは11隻の原子力空母を保有しています。
中国の軍拡はアメリカの軍事力に対抗するためで、日本を攻撃するためのものではありません。
ですから、日本は米中の対立を静観して、専守防衛に徹していればいいのです。

もっとも、アメリカは米中衝突の際には日本に加勢するよう要求してきます。
自衛隊は中国本土に届く射程1000キロのミサイルを熊本に配備し、この7月には射程1600キロのトマホークの発射実験をしました。
日本が単独で中国を攻撃することを考えているわけではありません。あくまでアメリカに加勢するための戦力です。

中国は1979年の中越戦争以降、インドとの国境紛争ぐらいしか戦争をしていません。
一方、アメリカは世界中で数えきれないぐらい戦争をしています。
したがって、日本人の懸念はずっと「アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか」ということでした。
小泉純一郎政権のとき自衛隊は「非戦闘地域」という理由をつけてイラクのサマワに派遣されました。
日本政府はアメリカの参戦要請を断ることもできますが、自民党は対米従属が党是のようなものですし、高市首相のこれまでの言動からして、喜んで参戦しそうです。

日本はアメリカ陣営に参加しているので、日本人はどうしてもアメリカ側から世界を見てしまい、グローバルな視点が持てません。


「安全保障」を求めると、どうしても他国や他陣営を敵視して、戦争への道を突き進み、平和から遠ざかることになります。
「自国の安全は他国の危険、他国の安全は自国の危険」ということを銘記するべきです。
どうしても「安全保障」を求めたいなら、「日本の安全保障」と同時に「中国の安全保障」「北朝鮮の安全保障」も求めることです。

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最近の世界の動きを見ていると、宗教の存在感がますます大きくなっていると思えます。

アメリカではキリスト教福音派がトランプ政権の有力な支持基盤となり、その政策に影響を与えています。
イランの最高指導者モジタバ・ハメネイ師は国家元首であると同時にイスラム教の最高権威でもあります。
イスラム教の国はだいたいにおいて政治権力と宗教権威が一致しています(政教分離という考え方は西ヨーロッパにおいてローマ・カトリック教会と王権との関係で生まれたものです)。
アメリカが主導してきた湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争、イラン戦争はみなイスラム教国が相手でした。十字軍時代の再来です。

ロシアは資本主義国になったのにNATOとEUからずっと敵視されています。
西ヨーロッパと東ヨーロッパが対立する背景には、ローマ・カトリック教会と東方正教会の存在があると思われます(日本では東方正教会のことはほとんど報道されません)。

日本では創価学会と統一教会が政治に深く関わってきました。
保守派の日本会議も、その中心にあるのは宗教勢力だとされます。
靖国神社は今も政治の世界に影響を与えています。


世界を平和にするには、宗教をうまくコントロールしなければなりません。
国旗棄損罪には「国旗は神聖である」という宗教的要素があるので、これは合理主義によって克服するべきだということを、私は前回の「礼儀とマナーが日本を亡ぼす」という記事に書きました。
しかし、宗教の「神」や「奇跡」といったものは最初から合理主義を超越しているので、合理主義では太刀打ちできません。
宗教に太刀打ちできるのは科学です。

ダーウィンの進化論はキリスト教と正面からぶつかりました。『聖書』には、神がすべての生き物を創造し、とくに人間は神に似せてつくられたと書かれていますが、進化論では、生き物は自然淘汰によって進化したとされ、人間はサルから進化したことになります。
進化論は『聖書』の否定である上に、人間の特権的な地位を奪うものでしたから、キリスト教会はもちろん一般の人からも反発されるのは確実です。
若きダーウィンは自分の思いついたことの重大さにおののきました。
このような、彼が言うところの「心的暴動」は、自然界に霊的または神的な力は存在せず、ただ物質があるのみとする哲学的教養である物質主義の道へ、彼を導いていった。もしもすべてのものの創造を否定するならば、人間はどこに位置し、救済の望みはどこへ行くのだろう? われわれの思考は、単に脳の分泌物ではないか、と彼は断言した。「ああ、なんという物質主義者!」と彼は叫んだ、半ば自分自身の大胆さに感激しながら。(ジャネット・ブラウン著「ダーウィンの『種の起源』」)
彼が『種の起源』を著して進化論を世に発表すると、案の定強烈な反発が生じました。
しかし、生物学界は論争を経て進化論容認に傾きました。
社会改革家も進化論を積極的に支持しました。カール・マルクスは『種の起源』を読んで感銘を受け、『資本論』の第一巻をダーウィンに献本しています。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、共産制へと社会が進化していくという唯物史観は、明らかに進化論の影響です。
無政府主義者のピョートル・クロポトキンもダーウィンの進化論に強い影響を受けましたが、進化論が生存闘争を強調することに疑問を抱き、相互扶助の原理の重要性を説いて、『相互扶助論』を著しました。
無政府主義者の大杉栄は、『種の起源』の翻訳をしています。
キリスト教会の権威を打ち砕く進化論は社会改革家の味方と思われました。

しかし、ダーウィンはジェントルマン階級の生まれで、父方の祖父は詩人で、初期の進化論者でもあり、母方の祖父は大手陶磁器製造会社ウエッジウッドの創業者でした。ダーウィンはイギリスでもっとも格式の高い社交クラブであるアシニアム・クラブの会員に選ばれ、政治家や実業家とも交際していました。つまり体制側の人間でした。
ダーウィンは進化論を主張しながら、キリスト教会や体制との対立を回避する道を半ば無意識のうちに探したのでしょう。そして、『種の起源』の12年後に著した『人間の由来』において、進化論から見た人間を論じました。
その最後の部分を引用します。



人間は、最も見下げ果てた人間に対しても感じる同情や、他人に対してのみならず、最も下等な生物に対しても適用される慈愛の感情や、太陽系の運動や構成に対してまで向けられた神のような知性など、そのすべての高貴な性質にもかかわらず、これらすべての素晴らしい力にもかかわらず、そのからだには、依然として、消すことのできない下等な起源の印を残しているということを認めないわけにはいかないだろうと、私には思われるのである。



「そのからだ」には下等な起源の印を残しているといいますが、その一方で「神のような知性」や「高貴な性質」があるといっています。
ダーウィンは人間を身体と精神に分けて、身体には進化論を適用しましたが、精神については神に似せて創造されたもののように見なしたのです。
これによって進化論を肯定しつつキリスト教徒の反発も避けるという離れ業を演じることに成功しました。
以来、「ダーウィン革命」といわれた激動は沈静化していきました。


ダーウィンは進化論とともに科学対宗教の戦いから退却しました。
残ったのはマルクス主義でした。マルクス主義は「科学的社会主義」を自称し、唯物論を土台にしました。
唯物論は神や霊や超自然的なものを否定します。

私の父親は戦前からのマルクス主義者で、ロシア語を勉強して、戦後は「プラウダ」を読んでいました。「プラウダ」の論調からマスコミより早くソ連でスターリン批判が起こることを予想したと自慢していました。
父親はエンジニアでもあったので、教条主義的なマルクス主義者でした。全共闘世代である私やひとつ上の兄や友人たちは父親とよく議論をしました。「なぜ戦争に反対しなかったのか」とか「天皇に戦争責任はあるか」といったお決まりのことも論じましたが、意外と盛り上がったのが唯物論に関することでした。

唯物論では、人間が死ぬと魂も霊もありません。
「そうするとお墓なんて意味がないのか」
「そうだ。わしが死んだときも葬式なんかしなくていい」
「遺骨はそのへんに捨ててもいいのか」
「そうだ」
「肥溜めに捨ててもいいのか」
「それはあかん」
「なんでや。死んでるからどうでもええやろ」
「それを聞いたわしが気分悪い」
「なんで気分が悪いんや。死んだあとやないか」

こんな議論をしたことを覚えています。
議論していると、論理的には唯物論が正しいことがわかってきます。
唯物論は昔からある哲学上の考え方ですが、科学が明らかにした事実はすべて唯物論の正しさを肯定するものです。
おそらく科学者のほとんどは唯物論者であるはずです。

しかし、議論しているとわかるのですが、「自分が死んだらなにもない」という考えは耐えがたいものです。
肉親の死も同じです。肉親が死んでもなんらかの形でつながっていたいと思うものです。
そのため、魂や霊といったものに引かれ、宗教にも引かれます。
つまり人間は「死」をありのままに受け止められないために宗教を必要としてきたのではないかと思います。

ところが、マルクス主義は「宗教はアヘンである」と規定して、宗教を敵視しました。
「否定」ではなくて「敵視」です。

わが家であるとき母親が、縁起がいいとかいう「赤富士」の絵を買うかもらうかしてきて、部屋に飾ったことがあります。すると父親が激しく怒って、絵を飾るのをやめろといいました。唯物論者ですから「縁起がいい」というのを認めないのはわかりますが、絵があっても無視していればいいはずです。しかし、父親は絵が飾られていることが許せなかったのです。

これは父親個人の行動ですが、父親は典型的なマルクス主義者であったでしょう。
「アヘン」が身近にあってもいいという人はいません。
マルクス主義は宗教を敵視し、排撃するのです。
そのためマルクス主義が一般の人に受け入れられないということがあったでしょう。


冷戦終結後、マルクス主義と唯物論は勢いを失い、それとともに宗教の力が増してきました。
ここは科学の出番です。
科学者は唯物論を武器に、宗教の反科学的な動きや人類に危機をもたらす動きに反対しなければなりません。
しかし、ほとんどの科学者は人文・社会科学の分野に口出しすることに尻込みしています。
ダーウィンのつまずきの影響でしょう。
『人間の由来』には人種差別、社会ダーウィン主義、優生思想も盛り込まれていました。そのため、人間に進化論を適用しようとすると人種差別、社会ダーウィン主義、優生思想につながることが多いのです。
ダーウィンの失敗によって、自然科学と人文・社会科学の間に壁ができてしまいました。そのため「社会生物学論争」という面倒なことも起きましたし、進化心理学なども活動範囲が限定されています。

この問題は『人間の由来』におけるダーウィンの間違いを訂正すれば、解決するはずです。
ダーウィンの間違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。


人文・社会科学の枠内で唯物論の復活があってもいいはずです。
最近、斎藤幸平氏のマルクス主義復活の試みが注目されていますが、斎藤氏の主な主張はエコロジーやコモン(共有財)や脱成長といったことです。
マルクス主義の強みは唯物論を根底に置いているところなのですから、唯物論の復活も目指してほしいものです。

人と論争するとき唯物論は強みになります。
しかし、マルクス主義は調子に乗って宗教と正面衝突したのが失敗でした。
宗教を否定しつつ、「人間には宗教を必要とする弱さがある」として宗教が社会に存在することを容認するのが正しい戦略です。

これは「宗教はモルヒネである」と表現できるでしょう。
モルヒネは人間にとって必要なものです。ただし使いすぎるとアヘンと同じく中毒になってしまいます。


唯物論か唯心論(観念論)かというのは、昔から哲学の大きなテーマでした。
決定論か非決定論かというのも同様に大きなテーマです(これは「人間に自由意志はあるか)」ということにもつながります)。
思想家や学者がこういう大きなテーマから逃げているために宗教が制御できないのかと思います。


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私の若いころは、ルネ・デカルトの「我思う、故に我あり」は近代合理主義哲学の基礎をなすものとして、ひじょうに重要視されていました。
確か中学の教科書に載っていたと思いますし、小学校のころでも一応知っていました。

デカルトは方法的懐疑として、すべてのものの存在を疑ってみました。そうすると、疑っている自分自身の存在だけは疑うことができないことに気づき、こうして自分の存在を証明したとされます。
近代以前は、神が世界の存在を証明していたので、近代になると、神に代わって世界の存在を証明するものが必要になりました。そこにデカルトが自分の存在を証明したわけです。自分の存在が確かなら、自分が認識する世界も確かだろうということで、デカルトは演繹的に世界の存在を証明したわけです。
そういうことで「我思う、故に我あり」は近代合理主義哲学の基礎となりました。


しかし、いろいろとおかしいこともあります。
客観世界の中に個人が存在するという考え方から、個人の主観が世界の存在を証明するという考え方に変わったことを、カントは「コペルニクス的転回」と名づけました。しかし、個人の主観が世界の中心になるのですから、これはむしろ「逆コペルニクス的転回」というべきです。

「我思う、故に我あり」ということをささえるのは、人間の思考力であり理性です。そのためこの理論は、人間の理性に特別な価値を置くもので、女子どもは感情的な存在として見下されます。未開人や非文明国の人間も同様です。
白人成年男性が世界を支配するお墨付きを得たようなものです。
近代が大量殺戮と環境破壊の時代であったこととそのことが無関係だとはいえないでしょう。

世界の存在証明があろうがなかろうが、人間は同じように生活しています。ですから、「我思う、故に我あり」ということに価値を見いだすのは、哲学に興味のある人間だけです。
私自身はけっこう哲学に興味のある人間ですが、「我思う、故に我あり」はつまらないなと思いました。
というのは、私の関心は自分の存在の証明ではなくて、自分の考えが正しいと証明することだったからです。


たいていの人は自分の考えは正しいと思っているでしょうが、私は自分の考えを疑っていました。
たとえば私が急いで商店街の通りを歩いていると、横に広がっておしゃべりしながらゆっくり歩いている集団に行く手をさえぎられました。「横に広がって歩くのはマナー違反だ」と思って腹を立てました。
その数日後、同じ商店街の通りを、今度は急ぐこともなく普通に歩いていると、やはり横に広がっておしゃべりしながら歩いている集団がいました。しかし、今度はぜんぜん腹が立ちません。むしろ談笑しながら歩いている集団をほほえましい思いで見ているのです。
つまり自分が急いでいるときと急いでいないときとで、まったく見方が違うのです。

道を横に広がって歩くのはマナー違反でしょう。
しかし、ささいなことではあります。それに腹を立てるほうがより悪いかもしれません。
とくに問題なのは、自分が急いでいるときに道をふさがれたという「私憤」を、マナー違反に対する「公憤」にすり替えているところです。
世の中にはカスタマーハラスメントといって店員を怒鳴りつける人がいますが、こういう人はまさに「私憤」を「公憤」にすり替えているのでしょう。
天下国家を論じて悲憤慷慨している人も、そこに「私憤」をまぎれ込ませているかもしれません。


ともかく、通行人に対する考え方ひとつとっても、私は自分の考え方が正しいという確信が持てません。
私は気の弱い人間で、あまり自己主張ができないので、自分の考えが客観的に正しいと証明できれば強く主張できるようになるだろうと考えました。
会社で上司の言い分が間違っていると思ったときも、自分の考えが正しいと確信できれば強く主張できますし、自分の考えがなぜ正しいかを論理的に説明できれば、上司も納得してくれるかもしれません。


人間が正しい判断ができないのは、おそらく自己認識の問題です。

私たちは他人を見て、「この人は善人、あの人は悪人」と判断しています。
ということは、自分も他人から善人ないし悪人と判断されているわけです。
もし自分が悪人であれば、自分の善悪の判断はどうなるでしょうか。
これは具体的に考えればわかります。
ナチスにおいては、ユダヤ人を収容所送りにするのがよいことで、ユダヤ人をかくまうのが悪いことです。
ヤクザ組織においては、親分に言われるままにライバルの組の人間を殺すのがよいヤクザで、殺すのを拒否するのが悪いヤクザです。
詐欺商法の会社においては、多くの人をだますのがよい社員で、あまりだまさないのは悪い社員です。
つまり「悪人においては善が悪で、悪が善」なのです。

人間は誰でも基本的に自分は悪人ではなく善人だと思っているので、悪人だった場合、善と悪の判断が逆になることになります。
これが人と人の争いの原因になりますし、世の中の混乱の原因になります。
したがって、誰もが正しい自己認識を持てば、世の中は平和になるはずです。

もともとは自分は気が弱いので自信を持って主張したいということから、自分の考えの正しさを証明しようとしたのですが、これは個人的なことではなくて、人類全体に及ぶ問題でした。


結局のところ、自分の考えが正しいと証明するには、自分が正しい人間(善人)にならねばなりません。
自分が正しい人間であれば、自分の考えも正しいわけです。
もっとも、全面的な善人も全面的な悪人もいません。たとえば政治的な問題や子育ての問題について論じるときは、その問題について正しい人間であればいいわけです。
あるいは、自分が正しい人間にならなくても、頭の中で「正しい人間」をイメージして、その人間になったつもりで考えればいいわけです。

世の中の価値観や基準に合わせれば正しい人間になれるかというと、そんなことはありません。世の中の価値観や基準が間違っているかもしれないからです。
SFでよくある設定ですが、第二次世界大戦でもし枢軸側が勝利していれば、ナチスや軍国主義の価値観が正しいとされているわけです。

正しい人間の真似をすればいいかというと、そうはいきません。
自分が正しい人間でないと、誰が正しい人間か判断できないからです。

世の中は善人と悪人が入り乱れています。いや、正確にいうとさまざまな種類の悪人が入り乱れています。
したがって、基準になるものがありません。
しかし、まったくないわけではありません。
生まれたばかりの赤ん坊は、無垢とか純粋というと違うかもしれませんが、少なくとも人間の原点であるのは確かです。
赤ん坊を基準にして人間を判断すればいいのです。

今の世の中は、おとなが子どもを「悪い子」でなく「よい子」にしようと教育やしつけをしていますが、赤ん坊に「よい赤ん坊」も「悪い赤ん坊」もいないのですから、おかしなことです。
一方、おとなには「よいおとな」と「悪いおとな」がいます。
悪いおとなの目には、普通の子どもが「悪い子」に見えます。これが虐待の原因です。


自分の理性を誇って子どもを見下すおとなは物事を正しく判断することができません。
つまり「我思う、故に間違う」です。
最近、「我思う、故に我あり」が顧みられなくなっているのは、そういう認識が広がっているからでしょう。

おとなが赤ん坊や子どもを基準にして考えるには、根本的な発想の転換が必要です。
それについては「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。

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ウクライナ戦争とイラン戦争を見ていると、戦争のやり方が急速に変わっていることに驚きます。

ウクライナ戦争が始まったころは、戦車と戦闘機の性能が戦局を左右するといわれていました。
ドイツが主力戦車のレオパルト2を、アメリカがM1エイブラムスをウクライナに供与すると発表されたときは、これがゲームチェンジャーになるといわれました。
しかし今、戦車の活躍が報じられることはありません。
戦闘機のF16は、戦争が始まって2年半したころにNATO各国からウクライナに供与されるようになりました。これによってウクライナがロシアから制空権を奪うことが期待されましたが、現在までそうはなっていません。戦闘機が空中戦をしたということもほとんど報じられません。

今はドローンが戦場で重要な役割を果たしています。
どんな高性能の戦車でもドローンから投下された爆弾で破壊されてしまいます。
アメリカはイランで制空権を確保したようですが、それでもイランはドローンやミサイルを発射してアメリカ軍を苦しめています。

兵器や戦術の変化は急速です。
第一次世界大戦で、航空機は最初もっぱら偵察目的で使われていて、敵の飛行機に出会うとパイロット同士が互いにあいさつしていたといいます。やがて爆弾を落とすようになり、また、飛行機に銃や機関銃を積んで撃ち合うようになり、撃墜王も誕生しました。
そして、第二次大戦においては、航空機が重要な働きをするようになり、制空権をどちらがとるかが戦局を左右するようになりました。
しかし、今では戦闘機は高価で、ドローンやミサイルは安価です。
戦闘機や戦車の時代は終わりつつあるのかもしれません。


戦争のあり方が急速に変化するのは、どちらも勝つために必死だからです。
戦争は社会のさまざまな分野も進歩させました。
日本の戦国時代は、経済発展の著しかった時代でもあります。各大名は戦いに強くなるために殖産興業に力を入れたからです。

古代ギリシャは、哲学、芸術、スポーツなどの文化が花咲きました。当時のギリシャは都市国家に分かれ、日本の戦国時代のように互いに戦争をしていたからです。各都市国家は子どもの教育に力を入れ、それが文化を発展させました。

戦争に勝つと負けるとでは、天国と地獄です。
そのためすべての国家や集団は戦争に負けないために必死になりました。
戦争が文明を発展させてきたといえるでしょう。


もっとも、人類は互いに協力することで文明を発展させてきたということもいえます。
つまり「戦争・闘争・競争」と「協力」は、どちらも文明を発展させた原動力です。

ただ、多くの人は協力の要素を重視しています。
人間はほかの動物よりも利他心が強いとか、言葉を使うことによってよく協力するようになったということがいわれ、「動物は互いに生存闘争をしているが、人類は互いに協力して文明を発展させた」という説が信じられています。
この説はチャールズ・ダーウィンが最初に唱えたもので、そのため今も進化生物学者の多くが同調しています。
ベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』は、人類は神話、国家、企業などの「虚構」をつくり、みんなが虚構を信じることで互いに協力して文明を発展させてきたという説を述べています。


私自身は、争いがあってこそ協力があるのではないかと思ってます。
たとえばサッカーや野球のチームは、他チームとの争いに勝つためにチーム内で協力します。企業は同業他社との競争に勝つために社内で協力します。国家は戦争に勝つために愛国心を鼓舞して国民を結束させます。

現代社会は猛烈な競争社会で、人間は競争の渦の中に飲み込まれています。
会社の中で社員は互いに協力して仕事をしていますが、上層部が各社員の働きを比較して昇給や昇進を決め、場合によってはクビにするので、社員は同僚とも競争していることになります。
年功序列制の会社であれば、社員同士の競争はほとんどないことになります。日本は年功序列制のもとで高度成長をしました。成果主義よりも年功序列制のもとで働くほうが社員は幸せなのではないでしょうか。


私がここでとくに主張したいのは、人間は言葉を武器にして闘争(競争)をしてきたということです。
言葉は協力するためにも使われますが、闘争するためにも使われます。このことがこれまでは顧みられてきませんでした。

協力するときの言葉は、必要最小限の簡単なやり取りですみます。
しかし、闘争するときの言葉は、「ああ言えばこう言う」で互いに相手をやり込めようとするので言葉数が多くなります。口喧嘩がその典型です。
競争相手が失敗したり無知をさらしたりしたときに、非難したりバカにしたりして、自分が優位に立とうとすることがよく行われます。
怠慢、不注意、無礼、無責任、規則違反、約束違反などさまざまな理由で相手を非難することができます。言葉がそのように発達してきたからです。
非難された者は反論するので、そのやり取りの中で闘争の言葉はさらに進歩しました。
これは戦争の武器が進歩したのと同じようなものです。

そうして闘争の武器として進歩した言葉の究極のものが「道徳」です。
人間はいつも「悪いことをしてはいけない。よいことをしなさい」と言って、相手を自分の思う通りに動かそうとします。
「これをするべきだ。それをするべきでない」というのも同じです。
このような「善と悪」と「べき」を中心としたものが道徳です。

誰もが道徳を使って相手を自分につごうのよいように動かそうとすると、そこで言葉による闘争が起こり、結局のところ強者が弱者を動かすことになります。
たとえば親子関係においては親が強者ですから、親は騒がしい子を「悪い子」と言って叱り、おとなしい子を「よい子」と言ってほめて、子どもをおとなしくさせます。親は「よい子」になったと満足しますが、これは子どもの発達にとってはよいことではありません。

世の中を支配しているのは強者の道徳です。
したがって、この世の中で弱者は差別され、排除されてきました。身体障害者、知的障害者、精神障害者、異人種、異教徒、移民などが差別され、排除されてきました。
このような弱者を救うのは人権思想であって、決して道徳ではありません。
道徳はむしろ「移民は出ていけ」などと言う人に利用されています。


「言葉が闘争の道具になっている」というのは当たり前のことです。
ただ、「道徳が闘争の道具になっている」ということは認識されていません。逆に「道徳は人間を利他的にする」と思われています。

しかし、それが間違いであるのは、インターネットの中にヘイトスピーチや誹謗中傷の言葉が飛び交っているのを見ればわかります。
恋人や配偶者と会話するときも、つい「善悪」や「べき」で相手を動かそうとして、喧嘩する気はないのに喧嘩になってしまうことがよくあります。
国家間でも、戦争することはどう見ても損でしかないのに、相手を「悪」だと認識したために戦争に至ってしまうことがあります。

争いが多発するいちばんの原因は、道徳について勘違いしていることです。
「『悪』を排除すれば世の中はよくなる」というのが道徳の基本的考え方ですが、実際は「悪」とされた人間は排除されることに抵抗するので、かえって世の中に争いが増えます。

私は「人類は道徳という棍棒を持ったサルである」といっています。
世界を平和にするには、道徳を正しくとらえることから始めなければなりません。



道徳の正しいとらえ方については「道徳のコペルニクス的転回」を読んでください。

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4月25日、ワシントン・ヒルトンホテルで開かれたトランプ大統領出席のホワイトハウス記者協会主催晩餐会において発砲事件がありましたが、とくに死傷者はなく、容疑者は取り押さえられました。
容疑者は31歳のコール・トーマス・アレン、カリフォルニア州立大学でコンピュータサイエンスを学び、学習指導やゲーム開発の仕事をしていたといいます。犯行寸前に家族にマニフェストを送り、トランプ氏を小児性愛者、強姦犯、裏切者とののしり、みずからを「フレンドリーな連邦の暗殺者」と称し、連邦政府のさまざまな政策に反対を表明していました。
司法省は記者会見でこの事件を「大統領を狙った暗殺未遂事件」と称しました。


トランプ氏は自分が狙われたかもしれないことについて、リンカーン大統領を例に挙げて、「暗殺の標的になるのは影響力の大きい人物だ」と言いました。
影響力といっても、よい影響力と悪い影響力があります。

高市首相は事件について、「暴力は、世界のいかなる場所でも、決して容認できません」とXに投稿しました。
世界中に暴力があふれていて、とくにアメリカとイスラエルの暴力が問題になっているときに、高市首相は今回の暴力だけを取り上げました。

今回の容疑者は、ローンオフェンダーであるようです。
宿泊客としてホテルに銃を持ち込みました。
そして、全速力で走ってホテル内の検問を突破しました。
セキュリティ面の問題が指摘されています。
しかし、銃を持った5人程度の集団でも検問は突破でき、会場は大惨事になったでしょう。
テロ防止は容易ではありません。


もちろん暗殺は許されません。
しかし、暗殺といえばトランプ大統領のほうが上手です。
アメリカとイスラエルがイランの最高指導者ハメネイ師を殺害したのも暗殺です。
2020年にはアメリカはイランの革命防衛隊の中心的人物ガセム・ソレイマニを暗殺しました。そのときに大統領だったトランプ氏はツイッターで「ソレイマニは多くの米国人の殺害を計画していた」「彼はずっと前に殺害されるべきだった」と述べました。
イスラエルはハマスやヒズボラやフーシ派の要人を暗殺しています。

アメリカはベネズエラのマドゥロ大統領を拉致し、そのときに約100人を殺害しました。これは暗殺とはいえませんが、完全な犯罪で、殺人です。
アメリカはまた、麻薬密輸船とされるものを攻撃し、撃沈し、乗組員を殺害してきました。もし麻薬を密輸していたら、逮捕して裁判にかけなければなりません。船を撃沈して殺害するのはただの殺人です。

もちろんトランプ氏を暗殺することは犯罪であり悪です。
しかし、暗殺、殺人に関しては、トランプ氏のほうがはるかに多くを殺しています。
「やられたらやり返す」という論理でいえば、トランプ氏は百回殺されても足りないぐらいです。


トランプ氏に限らずアメリカはこれまで圧倒的な殺人をしてきましたが、圧倒的な軍事力と経済力があったために不問にされてきました。
それに加えて、アメリカの味方をしてくれる多くの同盟国もありました。
しかし、最近はアメリカの軍事力と経済力は相対的に低下し、トランプ氏は同盟国との絆を破壊しています。
そういうことからアメリカの犯罪性が露わになってきました。

とりわけトランプ氏は言葉が乱暴なので、犯罪性を隠しもしません。
「私には国際法は関係ない」と言い、「ひとつの文明を滅ぼす」とか「すべての発電所と橋を破壊する」などと言って、犯罪を予告しています。

ヘグセス国防長官もイラン戦争について「初めから公正な戦いをするつもりもなかったし、今も公正な戦いではない。相手が倒れている間に殴りつけるべき」などと発言し、戦う意志のない敵を攻撃するのは犯罪だなどと批判されました。

日本人やヨーロッパ人は武士道や騎士道があるので、戦争にもルールがあると思っていますが、アメリカ人はインディアンとの戦いを基本に考えているのかもしれません。あるいは古代ローマ帝国のように文明人対野蛮人の戦いと見ているのかもしれません。

とにかく、トランプ氏のやり方には「公平」というものがありません。
トランプ氏はサッカーのワールドカップについて、FIFAに対して「イランの代わりにイタリアを出場させてはどうか」と提案しました。
イランは正当な出場権を持っていますが、イタリアは予選落ちしています。そんなへんな前例ができれば、予選を必死になって戦うのがばからしくなります。
トランプ氏はスポーツが公平を前提として成り立っているということを理解していないようです。


世界が公平でないと、どうしても不満を持つ者が出てきます。
トランプ氏は「力による平和」を掲げていますが、これは「力による秩序」というべきです。
「力による秩序」は、力が弱まれば秩序が乱れますし、力が強くても隙間をねらってテロが起きます。

「公平な世界」を実現すればテロはなくなるはずですが、人間は「公平」を正しく認識するのが困難です。
というのは、人間には強い者に迎合する傾向があるからです。強い者が自分勝手なふるまいをしても大目に見てしまいます。
それから、自分と親しい者の行動についても大目に見てしまいます。
日本にとってアメリカは強くて親しい国ですから、高市首相もアメリカの自分勝手なふるまいを大目に見てしまうわけです。
これの究極のものが、親がわが子を虐待するケースです。子どもは親が悪いということを認識できず、心を病んでしまいます。

それに加えて、道徳的評価が認識を妨げます。
「テロ」「暗殺」「悪人」などの道徳的評価を含む言葉を使うと、現実が正しく認識できません。
たとえばアメリカやイスラエルはイスラム過激派を「テロリスト」と呼びますが、多くのイスラム教国ではイスラエルを「テロ国家」と呼んでいます。つまり「テロリスト」という言葉を使うだけで認識が偏ってしまうのです(道徳的評価をしない方法については「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください)。


アレン容疑者はマニフェストに「政権の地位が高い順に狙う」と書いていました。
これについて「羽鳥慎一モーニングショー」コメンテーターの玉川徹氏は「トランプ政権が、イランに対して攻撃していることの『暗喩』になっているように、僕には受け取れる」と述べました。
つまり容疑者はトランプ氏のやり方をまねたというのです。
あれだけ大々的にイラン政権幹部の暗殺をしたのですから、そういうことはあってもおかしくありません。

トランプ氏は一方的に暗殺をして得意になっていたようですが、今回の事件で「やったらやり返される」ということを学んだのではないでしょうか。そうであってほしいものです。

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パキスタンの仲介でアメリカとイランの協議が行われましたが、バンス副大統領は合意には至らず帰国の途につきました。
しかし、バンス氏は「アメリカの合意案を受け入れるかどうかは、今後見ていくことになる」と語ったので、協議は継続されるようです。

トランプ大統領は「ホルムズ湾閉鎖」という新しい手段を打ち出しましたが、アメリカは戦争を継続してもなんの利益もありませんし、イランも戦争が継続すると損害が増えるだけです。
なにかの理由で戦争を始めても、長期化すると戦争の不利益がのしかかってきます。
朝鮮戦争もベトナム戦争も、交渉は難航しましたが、結局停戦協定が成立しました。

ウクライナ戦争も、ロシアは短期間で勝利できる見通しもなさそうですから、プーチン大統領も停戦したがっているに違いありません。
ですから、ロシアとウクライナが2国で話し合えば停戦に至る可能性は大きいのではないかと思います。
ただ、現実にはここにNATOが関わってきます。戦争の痛みを感じていない国は停戦に真剣でないので、外国が関与するとうまくいきません。
日本でも、「ここで停戦すれば戦争による領土獲得を認めたことになる」などと言う人がいますが、戦争当事者の苦しみを理解しない無責任な意見です。

戦争による利益と不利益は客観的に把握できるので、利害についての話し合いはたいていうまくいきます。
ビジネスにおける話し合いも同様です。


ところが、政治的な話し合いはたいていうまくいきません。
むしろ話し合えば話し合うほど対立が深まります。
インターネットができてからこの傾向が強まりました。ネットでは誰とでもいくらでも話し合うことができるからです。
掲示板の2ちゃんねるができたころ、なにが起こったかというと、在日差別、嫌韓ブーム、生活保護バッシングでした。
SNSができてから右翼と左翼、保守とリベラルの対立が深まりました。
最近は排外主義が高まっています。
こうした分断は世界的現象です。

政治の世界には「熟議」という言葉があります。多くの人が時間をかけて話し合うことで問題を解決していこうというものです。このやり方でうまくいく場合もありますが、うまくいかない場合もあります。
問題なのはうまくいかない場合です。これによって社会の分断が深刻化しているわけです。


なぜ政治の世界では話し合いがうまくいかないのでしょうか。
財政問題や増税問題、給付金問題など経済的な問題なら、話し合いでよい結論が導かれることもありますが、政治の世界の大きなテーマは「悪を排除して世の中をよくする」ということです。
悪とはなにかというと、犯罪者、テロリスト、スパイ、既得権益者、利権政治家、不法外国人などです。
さらに、「悪」のレッテルはなんにでも張れます。財務省、外務省、大企業、生活保護受給者、中国人、イスラム教徒、迷惑行為をする人、マナーの悪い人などに張られています。

右翼からすれば左翼が「悪」で、左翼からすれば右翼が「悪」です。
したがって、右翼と左翼、保守とリベラルの話し合いは、すればするほど対立が深まるのです。

ちなみに夫婦関係においても、相手を「悪」と見なせば、話し合いをすればするほど対立が深まります。
夫婦は話し合う時間がいっぱいあるがゆえに、離婚に至ったり、仮面夫婦になったりします。


なぜこんなことになるかというと、善、悪、正義という道徳上の概念がまったく解明されていないからです。
道徳について研究する学問が倫理学ですが、倫理学はまったく機能していません。存在しないも同然の「空白の学問」です。
そのため、善、悪、正義という基本的な概念の定義がないので、誰もが根拠もなく「悪」のレッテルを張っているのが現状です。

そうすると、誰もがいつ「悪人」とされて処罰されるかわかりません。
これでは安心して暮らせないので、「法の支配」が行われています。
法律は成文化されているので、ごまかしがききません。
「悪人」という概念は使わず、法律に基づく「犯罪者」ないし「容疑者」などをそれに代えます。
「容疑者」などと決めつけるときも警察や検察の逮捕、家宅捜索、事情聴取などの具体的な動きを根拠にします。
新聞、テレビというオールドメディアは「法の支配」を遵守して、社会の混乱を防いできました。

ところが、インターネットというニューメディアは無法状態で、つねに「悪人」のレッテル張りが行われています。誰かが「あいつは悪いやつだ」と犬笛を吹くと、みんなで寄ってたかってバッシングするわけです。犯罪行為だけでなく、迷惑行為をした人間、マナーの悪い人間までもがやり玉に上がります。

そうした中から出てきたのがトランプ大統領です。
トランプ氏は「悪いやつ(bad guy)」という言葉をよく使います。ほかにも根拠なく犯罪者、テロリスト、精神異常者、知的障害者、強姦者などという言葉を使って人をののしります。

ベネズエラのマドゥロ大統領拉致作戦のあと、トランプ氏はインタビューに答えて「私には国際法は必要ない」と言い、自身の権力に限界はあるかとの質問には、「私自身の道徳、私自身の心だ。それが私を止められる唯一のものだ」と答えました。
「法の支配」の無視を公言しています。
それに代わって道徳に従うと言っているので、これを表現すれば「道徳の支配」ということになるでしょう。
つまり「法の支配」から「道徳の支配」ということです。
今、世界は「法の支配」から「道徳の支配」へとシフトしており、これが世界の混乱を生み出しています。

正義のヒーローが活躍するハリウッド映画は「道徳の支配」を表しています。
どの映画も、悪人が善人たちを苦しめているところに正義のヒーローが登場し、悪人をやっつけて、善人たちを救うというストーリーです。
ストーリーが同じですから、悪人をやっつけるところの殺戮と破壊のシーンを派手にすることで観客を引きつけています。
たとえば「ランボー」シリーズは、第一作は原作通りで、心を病んだベトナム帰還兵が周りの者から冷たく扱われたことに怒り、孤独な戦いをするというストーリでしたが、第二作以降は、ランボーはただの殺戮者と化します。しかも作品ごとに超人化が進み、、敵の銃弾はことごとくかわし、自分は機関銃で大量に敵を殺しまくります。ほとんどファンタジーの世界です。
観客はこうした映画を観て、「正義」という名目のもとに暴力、殺戮、破壊を楽しみます。

アメリカのマドゥロ大統領拉致作戦、イランのハメネイ師暗殺作戦は、まさにハリウッド映画的です。トランプ氏はこれでアメリカ国民を喜ばせれば支持率も上がると思ったのでしょう。
しかし、映画には終わりがありますが、現実に終わりはありません。
イラン戦争の終わらせ方を見失ったトランプ氏はかえって支持を失っています。

なお、映画では善人、悪人、正義のヒーローと人間が明確に色分けされていますが、現実の人間は色分けされていません。善人と悪人の見分けはむずかしく、正義のヒーローは悪人かもしれません。
ですから、「道徳の支配」はうまくいかないのです。


しかし、トランプ氏は正義のヒーロー気取りで殺戮と破壊をしています。
ネットの中には、「悪いやつ」をやっつけるための攻撃的で差別的な言説があふれています。
こうした事態を改善するためには、「道徳の支配」から「法の支配」に戻すことです。

しかし、悪いやつをやっつけてなにが悪いと思う人が多いのではないでしょうか。
ハリウッド映画と現実世界の区別がついていないのです。
そういう人に「法の支配」のたいせつさを説いてもあまり効果がないかもしれません。

では、「道徳の支配」がうまくいかないことを説得すればどうでしょうか。
道徳によって世の中はよくならないし、道徳教育で道徳的な人間はつくれないという現実に目を向けさせるのです。
しかし、「それは道徳に従わない人間が悪いからだ」という反論がありそうです。


道徳についての議論は、いつも迷走します。
倫理学が機能していないせいです。
したがって、まともな倫理学ができれば状況は一変するはずです。

私はまともな倫理学の土台をつくりました。
それは「道徳観のコペルニクス的転回」で読むことができます。

画期的な理論ですが、まだあまり認知されていないのが残念です。
世界を平和にし、家庭を幸福にする理論でもあります。
拡散に協力していただければと思います。

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「唯幻論」を唱える心理学者の岸田秀氏が新聞に書いたエッセイにこんな文章がありました。

「文明は伝染病のようなものである。近代文明はとりわけ伝染力が強いので、たちまち世界中に広がった」(記憶を頼りに書いているので正確ではない)

文明はよいもので、文明の発展はよいことであると思っていた私は、文明を病気と見なすこの文章に衝撃を受けました。
しかし、よく考えると、この説はなかなか有力と思えてきました。


幕末、黒船が来たことで国内は攘夷の声で沸き立ちました。尊王派も佐幕派も攘夷ということでは一致していました。しかし、薩英戦争と下関戦争の経験、アヘン戦争についての情報などから、指導者層は近代国家が戦争に強いことを知りました。攘夷を叫んでいるだけでは列強の植民地になってしまいます。そこで攘夷から開国に方針転換して、日本は近代化の道を歩み始めたのです。
近代化がすばらしいからとか、近代化で日本人が幸せになるとかではありません。ただ戦争に強い国家になるためでした。
武士たちは「戦いに勝つ」ということが至上価値であることを知っていました。戦国時代に火縄銃が急速に普及したみたいに近代化を推し進めたのです。

近代化した日本は列強を真似て大陸に進出しました。孫文らは日本を真似て中国の近代化をはかりました。
近代文明は確かに強い伝染力があります。


近代国家は軍事力で他国を侵略し、そこを植民地にし、そこの人を奴隷にするか、アフリカ人を奴隷として連れてきました。そして、その土地の伝統的な文化を破壊しました。
「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉があるように、悪い文明がよい文明を駆逐して、最終的に近代文明に至ったのでしょうか。

そうではないかもしれません。しかし、そうだとすると、いろんなことがうまく説明できます。
アメリカはもっとも文明の進んだ国ですが、その国が国際法違反のイラン攻撃をし、イスラエルのガザ攻撃を支援する極悪国家となっています。
これは今に始まったことではなく、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争のときからですし、ほかにもアメリカは武力攻撃をいっぱいやっています。トランプ氏の代になってからやり方が露骨になっただけです。

テロリストというのはたいていイスラム過激派です。
これを見るとイスラム過激派あるいはイスラム教徒は悪い人間かと思ってしまいます。
しかし、イスラム教国は近代化が遅れたために欧米のキリスト教国に侵略され、収奪されてきました。近代文明という「巨悪」がテロリストという「小悪」を生んでいると見ることもできます。

また、アメリカでは黒人の犯罪率が高く、人口の13%を占める黒人が暴力犯罪の50%を犯しているといわれます。これをもって黒人は犯罪的だという人もいますが、アメリカ社会が黒人を差別しているからそうなっているのだという人もいて、議論になっています。文明が病気だとすれば、後者が正しいことになります。


もし文明が悪だとすれば、現代人は極悪人ということになります。
もっとも、反対の考え方もあります。
昔は火あぶりや磔(はりつけ)のような残酷な刑があり、拷問もありました。領主が苛政によって領民を苦しめるということもありました。
奴隷制と植民地支配にしても、ほぼ過去のことになりました。
文明は悪をなくす方向に進歩してきたという考え方も成立しそうです。

文明が悪か悪でないかはともかく、現代人つまり自分は極悪人かもしれないと考えると、思考の幅が広がるのは事実です。
人間は誰でも自分は善人であるという前提で物事を考えているものです。自分は悪人かもしれないと考えると、思考の幅が二倍になる理屈です。
いや、単に二倍になるだけではありません。物事を表と裏から見ることで立体的に見えるようになります。

自分が悪人かもしれないと思うと、配偶者に向かって「お前が悪い」とは安易に言えなくなります。そうすると、夫婦喧嘩が少なくなります。
子どもを叱っている母親を見ると、「子どもが悪いんじゃなくて母親が悪いんじゃないか」と考えてしまいます。そうすると、子どもを叱ることが広く行われていることに疑問を持つようになります。

こうした考え方は善悪相対主義といいます。善悪相対主義は最終的解決にはなりませんが、硬直した思考をときほぐすには有効です。
そうして私は善と悪の問題を深く考えるようになり、理論的解決にいたりました。



ところで、私は岸田秀氏の「唯幻論」から大きなヒントをもらいましたが、唯幻論を肯定しているわけではありません。
唯幻論というのは「人間は本能が壊れた動物である」ということを前提とし、人間は本能を頼りにすることができないために、代わりに幻想をつくって、幻想を頼りに生きているという説です。社会、国家、歴史、さらには自己像も幻想であるとします。きわめて単純でありながら、世界全体を説明できるのが魅力です。

「人間は本能が壊れた動物である」というのが正しくありません。
本能が理由なく壊れることはないはずです。壊れたとすればどのようにして壊れたのでしょうか。そこを不問にしたまま論を展開しているのが決定的にだめなところです。
人間は脳が大きいので、相対的に本能の要素は小さくなりますが、それと「壊れた」は別です。

岸田氏は母親との関係に大きな問題を抱えていました。母親は表向きは献身的で自己犠牲的な母でしたが、実際は息子を利用しやすい存在にしようとして巧妙に操作していました。つまり心理的虐待を受けていたのです。岸田氏は人格の中心的な部分、つまり本能的な部分を母親によって壊されました。しかし、そのことを十分には認識できませんでした。そのときに「人間は本能が壊れた動物である」という説に出会って飛びついたのです。
岸田氏が母親との関係について語り始めたのはかなり年をとってからです。もし若いときから母親に虐待されていたという自覚があれば、「自分は母親に本能を壊された」ということを前提に自分の理論を組み立てていたでしょう。その理論は唯幻論にはならず、普通に「親から虐待されたトラウマを解消する心理療法」みたいなものになったはずです。
心理学者でも自分が親から虐待されたということを認識するのは困難だという例です。


文明の代表的な悪のひとつが奴隷制です。自分と同じ人間を人格を無視して自分の利益のために支配するのが奴隷制です。
岸田氏の母親はわが子を自分の利益のために利用しようと巧妙に支配していました。これは奴隷制に似ています。
親子関係という社会のもっとも深層にまで文明の悪が侵食しているのです。
奴隷制はなくなっても、壊れた親子関係がそこかしこにあって、悪を生み出しています。
トランプ氏やネタニヤフ氏もそうした悪のひとつです。


今回は「暗黒面」などというおどろおどろしい言葉を使ってしまいましたが、理論的には明快に説明できます。
その理論については「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。


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トランプ大統領は4月1日、対イラン軍事作戦について演説しましたが、まったく無内容で、誰もががっかりしました。
その中で「今後2~3週間にわたって容赦なく攻撃し、イランを彼らにふさわしい石器時代に戻す」と言った言葉が注目されました。

「石器時代に戻す」というのは、ベトナム戦争のときにアメリカの空軍参謀総長だったカーチス・ルメイが「北ベトナムを石器時代に戻してやる」と言ったのを踏まえたものでしょう。
カーチス・ルメイは日本への都市無差別爆撃を指揮した人物でもあります。
「真珠湾攻撃」に続いて日本の戦争の過去が蒸し返されます。

イランは人口8900万人、GDP世界39位、かなり文明の進んだ国です。いくら都市を爆撃しても石器時代に戻ることはありません。
日本にしても北ベトナムにしても石器時代には戻っていません。
「石器時代に戻す」という言葉には、原始人、未開人、途上国人への蔑視とともに、文明人としての傲慢さが表れています。

アメリカはこの傲慢さによって戦争するたびに失敗してきました。主な戦争だけでもベトナム、ソマリア、アフガニスタン、イラクなどで、最初は勝利しているようでも最終的には敗北して手を引いています。敵を軽視して戦争を始め、傲慢な態度で民衆の反感を買うからです。


こうした傲慢な態度は文明と深く結びついています。

文明人と非文明人が戦うと文明人が勝ちます。石器しか持たない集団より青銅器を持った集団のほうが強く、鉄器を持った集団はさらに強くなります。大きな集団は小さな集団より強く、組織的に動ける集団はそうでない集団よりも強いので、戦争の強さはほとんど文明の程度に比例します。
戦いに勝った文明人は食料や財産を奪うだけでなく、非文明人を奴隷にし、非文明人の土地を植民地支配することでより大きな利益を得るようになりました。その典型が古代ローマ帝国です。
自分たちと同じ人間だと思うと奴隷にすることはできません。言葉と文化の違う人間をバルバロイ、野蛮人、劣った人間であると見なして奴隷にし、植民地支配をしました。

文明人が非文明人を見下すのはどこでもあることで、中国文明では周辺民族を「南蛮、東夷、西戎、北狄」などと呼んで見下していました。奴隷制もありましたが、古代ギリシャ・ローマ帝国ほど多数の奴隷はいませんでした。

近代国民国家は戦争にひじょうに強いのが特徴で、そのため世界中に植民地と奴隷制を広げました。
ここでも近代文明人は非文明人を見下しました。
植民地を持ったのは西ヨーロッパとアメリカ合衆国なので(あと日本と)、すべて白人の国です。奴隷にされ、植民地支配をされたのはすべて有色人種です。
そのため、非文明人への差別は人種差別という形をとりました。

現在、人種というのは生物学的には意味はないとされ、人種差別は否定されています。
しかし、人種差別のもとには非文明人差別があるのです。
非文明人差別というのは、未開人、途上国人、低学歴者、知的でない人への差別でもあります。
この差別は幅広く、根強く存在しています。
ですから、人種差別をなくすことにはあまり意味はなく、非文明人差別こそなくさなければなりません。


この非文明人差別はあまり認識されていません。
ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』は、ダイアモンドのニューギニア人の友人が言った「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのだろう」という疑問をもとに、文明の発展には交通が大きく関わっていること、感染症への免疫も文明人の強さの要因であることなどを論じました。しかし、それだけではニューギニア人の友人の疑問に答えたことにはならないでしょう。友人は「なぜヨーロッパ人は奴隷制や植民地支配などの残忍で非人間的な行為ができたのか」ということも問いかけたはずです。

ヨーロッパ人は残忍で非人間的なので非文明人を奴隷にし植民地支配をした――ということは、ヨーロッパ人は認めたくないでしょう。
むしろ逆の考え方がされています。非文明人は野蛮で残忍だが、文明が進むとともに人間は道徳的に向上し、ヨーロッパ人はその頂点に立っている。したがって、ヨーロッパ人が非文明人を植民地化によって文明化してやるのは彼ら自身のためでもあったというものです。


奴隷制と植民地支配を行ってきた西ヨーロッパとアメリカ合衆国はグローバルノースといわれ、植民地支配をされてきた国はグローバルサウスといわれます。
グローバルノースは、自分たちは文明的にも道徳的にももっとも優れていると考えていて、奴隷制や植民地支配を反省しようとしません。
グローバルサウスは奴隷制と植民地支配を罪深いことと考えていて、グローバルノースに謝罪と補償を求めています。

去る3月25に国連総会は、大西洋をまたぐ奴隷貿易が続いた時代にアフリカの多くの住民が奴隷にされたことを「最も重大な人道に対する罪」と認定する決議案を採択しました。
この決議案は、国連加盟国に対して奴隷貿易についての謝罪を検討し、賠償基金へ拠出するよう呼びかけています。
決議は、賛成123票、反対3票で採択されました。反対した国は、アメリカ、イスラエル、アルゼンチン。日本やイギリス、欧州連合(EU)加盟国など52カ国は棄権しました(『国連総会、奴隷貿易や奴隷制は「最も重大な人道に対する罪」 決議を採択』)。

反対した3か国にアメリカとイスラエルがあることに注目しないわけにいきません。
みずからの罪を認めないとさらに罪を犯してしまうといういい例です。

日本は棄権グループに入っていますが、この決議案が正しいことは明白です。
これまで隠蔽されてきたセクハラや性加害がどんどん告発されてきたように、奴隷制と植民地支配の罪もこれからどんどん告発されていくでしょう。


今やグローバルノース対グローバルサウスの対立が世界を動かしています。
トランプ氏から見れば、イラン人は有色人種で、文明が遅れていて、イスラム教徒でもあり、価値の低い人間なので、いくら殺しても平気です。そうした思いが「石器時代に戻してやる」という言葉に表れました。
これはグローバルサウスの側から見れば腹立たしい限りですが、日本人はグローバルノースの側に立っているので、トランプ氏の罪深さがわからないかもしれません。


文明人は非文明人に対して利己的で残忍にふるまうようになり、道徳的に堕落しました。
ところが、西洋社会ではまったく逆に、文明が進むほど野蛮だった人間が道徳的に向上するとされてきました。
アリストテレス、カント、ヒュームなど代表的な倫理思想家もそう考えていたので、彼らの著作を読むと、ひたすら難解な文章が続いていて、わけがわかりません。

おとなと子どもの関係にも同じことがあります。
おとなは子どもより強いので、子どもに対して利己的で残忍にふるまうようになり、道徳的に堕落しました。
「権力は腐敗する。絶対権力は絶対的に腐敗する」という言葉がありますが、おとなも文明人も権力なので腐敗するのです。
ところが、西洋社会では、子どもは生来わがままなので、おとながしつけて子どもを道徳的に向上させなければならないとされてきました。
今の日本でもそう考えられていて、小中学校では道徳的に堕落した教師が子どもに道徳教育をしていますし、道徳的に堕落した親が子どもにしつけをしています。
そのため子どもはみんな傷ついて、生きづらさをかかえることになります。
このことは前々回の「子どもの自殺をへらす確実な方法」という記事に書きました。


堕落したおとなは子どもを虐待し、堕落した文明人は文明の遅れた人を差別し、虐殺しています。
この事態には倫理学に大きな責任があります。
倫理学がどう間違っているかはだいたいわかっていただけたと思いますが、より詳しく知りたい方は別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。



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トランプ大統領はイラン攻撃を始めたものの思った通りにいかないので、あせりを深めているようです。最近の言動はまともではありません。

3月23日、トランプ氏はテネシー州メンフィスの会合においてピート・ヘグセス国防長官に向かって、対イラン軍事作戦について「ピート、君が最初に声を上げたと思うよ。『彼らに核兵器を持たせるわけにはいかないから、やろう』と言ったのは君だった」と言いました。
イラン攻撃を最終的に決断したのは大統領である自分です。誰が最初に言ったかはどうでもいいことです。
それを言ったということは、トランプ氏はヘグセス長官に責任転嫁したかったのでしょう。
リーダーとして言ってはいけないことです。

トランプ氏はNATO諸国に対して、ホルムズ海峡での船舶護衛のための艦艇派遣を要請しました。「私は助ける必要もないのに(NATO諸国を)助けてきた。今度は彼らが米国を助けるかどうかだ」と言い、協力を拒否した国は「とても悪い未来」に直面すると警告しました。
しかし、どの国からも拒否されたようです。
そうすると言うことがころっと変わり、「われわれはNATOの支援を必要とせず、望んでもいない。最初から必要なかった」「彼らに艦艇派遣を要請したのは、彼らがどう反応するか知りたかったからだ」などと語りました。

断られたのがあまりにもカッコ悪いので、負け惜しみを言ったわけです。
子どもの論理です。

トランプ氏は高市首相に対して、表立ってはイラン戦争への関与を要請しませんでしたが、対談においては要請の話があったようです。それに対して高市首相は日本には法的にできることとできないことがあるとていねいに説明したと言いました。
NATO諸国のように「やらない」と言ったのではなく、「法的にできない」と言ったわけです。
「NOと言えない日本」は今でも健在です。


トランプ氏は原油高にいらだったのか、48時間以内にホルムズ海峡を開放しないとイランの発電所を攻撃する、最初にいちばん大きい発電所をねらうと言ってイランを脅しました。
そうすると一気に原油高、株安が進行したため、トランプ氏は発電所攻撃を5日間延期すると表明し、その後さらに10日間延期すると表明しました。
戦争が激化するとさらに原油高になるということを考えなかったのでしょうか。
それに、生活インフラへの攻撃は戦時国際法違反です。
トランプ氏は思いつきで政策を決め、誰もトランプ氏に意見できないようです。


トランプ氏は原油価格を下げようとしてか、このところイランとの停戦交渉について「きわめて順調」「近く合意」などと前向きな発言を繰り返しています。
イランのほうは交渉の進展に否定的な発言を繰り返していて、実際はどうなのかよくわかりません。
トランプ氏はカーグ島の占拠を計画しているとも言っています。
さらに3月30日には、停戦交渉が合意に至らない場合、イラン国内のすべての発電所や油井、石油輸出拠点であるカーグ島、淡水化プラントを爆破し、壊滅させると警告しました。
どうやらトランプ氏は、交渉を促進させる手段としては“脅し”しか知らないようです。

トランプ氏はトランプ関税を脅しの手段にすることで、経済交渉では一定の成果を得ました。
しかし、脅しの利かない相手、たとえば習近平主席とかプーチン大統領とかには手の打ちようがありません。
そう考えると、トランプ氏が関わってもウクライナの停戦交渉がまったく進展しないのもわかります。ゼレンスキー大統領も国民の命を預かっているので、安易に妥協しないからです。

スペインのサンチェス首相は国内の米軍基地がイラン戦争に使われることを拒否し、トランプ氏は激怒して「スペインとのすべての貿易を断つ」と言いましたが、サンチェス首相はまったく動じないので、そのままになっています。
カナダのカーニー首相も反トランプの立場を鮮明にして、押し通しています。
トランプ氏はビビりそうな相手を脅すのです。強気のリーダーにはなにもしません。イスラエルのネタニヤフ首相や北朝鮮の金正恩委員長もそちら側なのでしょう。
弱い者に対して傲慢になるというのはガキ大将の論理です。


トランプ氏は3月27日、ベネズエラやイラ‌ンでの“戦果”を誇示した上で、「次はキューバだ」と述べました。
おそらくイランと関わっていることがいやになったのでしょう。オモチャに飽きた子どもが新しいオモチャをほしがるみたいなものです。


ウォール・ストリート・ジャーナルは3月30日、トランプ氏はホルムズ海峡が事実上閉鎖された状態のままであってもイランに対する軍事作戦を終了する用意があると側近に述べたということを報じました。
新しいオモチャがなくても今のオモチャを放り出したいようです。

アメリカが手を引けば、イランもホルムズ海峡封鎖を解く可能性があります。
ただ、問題はイスラエルです。イスラエルが攻撃を続行すればそうはなりません。
トランプ氏はネタニヤフ首相を説得するべきですが、トランプ氏は説得するどころか、ネタニヤフ首相にあやつられている感じがあります。


トランプ氏はイラン戦争が行き詰まって思考停止状態になり、老化による思考の硬直化もあって、やることも言うこともでたらめです。
トランプ氏に飛びついてハグした高市首相は世界に恥をさらしました。

しかし、よく観察するとトランプ氏の思考パターンが見えてきます。
“おやじ転がし”のうまい高市首相がトランプ氏をあやつって世界を平和にしたら、高市首相はノーベル平和賞ものですが、残念ながら高市首相には世界を平和にしようという気持ちがなさそうです。

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厚生労働省の発表によると、2025年の自殺者数(確定値)は1万9188人で、統計を開始した78年以降で最少となりました。
一方、小中高生の自殺者数は538人で、前年から9人増加し、統計のある1980年以降で最多となりました。
おとなの自殺はへり、子どもの自殺は増えるという状況です。
主要7カ国(G7)のうち、10代と20代の死因の1位がともに自殺なのは日本だけです。

小中高生の自殺者数はコロナ禍に入った20年に急増し、以降も高止まりが続いています。特に女性の中高生で増加傾向が目立ち、19年と25年を比べると、中学生で2.0倍、高校生で2.2倍になりました。
原因・動機を見ると、小学生は家庭問題が最多。中学生では、男子は学校、女子は心の健康の問題が目立ちました。高校生は男女ともに心の健康問題が多く、特にうつ病の増加が確認されました。


最近の若者のメンタルについては、私も思うところがあります。
ここ数年、「一人じゃない」という歌詞の歌がやたら目につく(耳につく?)ことが多いのです。
要するに孤独な人間を励ます歌詞です。
作詞家として他人と同じ歌詞を使うのはどうかと思いますが、孤独感に悩んでいる人間がよほど多いということでしょう。

調べてみると、文字通り「ひとりじゃない」というタイトルの曲があります。DEENの曲で、「ドラゴンボールGT」のエンディングテーマです。
百足 & 韻マンの「 一人じゃない」という曲もあり、サビで「俺は1人じゃない もう1人じゃない」と繰り返されます。
後藤凌の「 一人じゃない」というのもあり、サビに「一人じゃない」とあります。
Little Glee Monster の「 足跡」という曲と、 Novelbright の「 さよならインベーダー」という曲にも「一人じゃない」という歌詞があります。
これらは比較的メジャーな曲ですが、メジャーでない曲まで入れるともっとあるに違いありません。

私の記憶では、昔は「一人じゃない」という歌詞の曲はなかったはずです。
天地真理の「ひとりじゃないの」という曲には「一人じゃないって素敵なことね」という歌詞がありますが、これは二人でいることの喜びを歌っているので、最近の孤独な人を励ます「一人じゃない」とは意味が逆です。

孤独感を抱えている人は、SNSで「いいね」を求めたり、人とのつながりを求めたりしてSNS依存症になったりしますが、それはSNSのせいというより、孤独感のせいというべきです。


それから、最近の小説や映画には、主人公が不幸な生い立ちで心に悩みを抱えているという設定がやたら多いと感じます。
調べてみると、それは「Sad Girl Novel(サッドガール小説)」や「トラウマ系主人公」といわれて、ブームになっているということです。

最近の小説には、不幸・孤独・トラウマを抱えた若い女性主人公を描く作品が急増していて、これが「Sad Girl Novel」です。
若い女性の自殺者が増加していることと符合します。

「トラウマ系主人公」は 機能不全家庭・ 幼少期の虐待・ 孤独な成長といった過去を抱えていて、物語とともに主人公がトラウマを克服していくという展開になっています。
映画にも「トラウマ系主人公」は多いと思います。

こうした主人公の物語が好まれるということは、トラウマを抱えた読者が増えているということでしょう。
ただ、心理学の知識が普及した影響もあるかもしれません。「毒親」「アダルトチルドレン」といった言葉を知ることで自分の生い立ちを見直す人が増えています。
とくに臨床心理士の信田さよ子氏が“母親と娘”の問題に光を当てて何冊もの本を出版したことの影響が大きいような気がします。
それまで親による子どもの虐待といえば、星一徹のような父親が息子に暴力をふるうというイメージでしたが、信田さよ子氏は母親が娘と密着することで娘を支配するという問題を取り上げました。
こうした母と娘は一見仲良さそうに見えるので、これまであまり認識されていませんでした。

このような家族関係のゆがみがトラウマとなり、自殺の原因にもなります。


心理学の知識によってトラウマが癒されるということはありますが、それはある程度年齢のいった人の場合でしょう。
現在進行形の問題を抱えている小中高校生には役立ちません。
では、小中高校生を救うためにはどうすればいいのでしょう。
ここは心理学ではなくて倫理学の出番です。

小中学校では道徳の授業が行われています。
この授業は、子どもに自分自身を見つめ直させ、道徳的に向上させようというものです。
しかし、子どもには改めるべきものはありません。
改めるべきものがあるのはおとなです。

子どもの周りには悪いおとながいっぱいいます。
「知らないおじさんについていってはいけません」と教えねばなりません。
たとえ家族であっても、性的なことをされたら拒否しなければなりません。
親や教師でも、暴力をふるわれたら逃げて助けを求めなければなりません。
世の中には詐欺商法、ブラック企業などがあります。
こうしたことの対処法を教える授業なら大いに意味があります。
それは子どもの自殺を防ぐことにもつながるでしょう。

悪いおとなが悪くない子どもに道徳教育をしているのが今の世の中です。
親は「悪い子」を「よい子」にしようとして子どもを叱りますが、それがすなわち虐待です。
子どもは悪くなくて、悪いのは親だからです。
このような新しい倫理学の考え方が広まれば、子どもは救われ、幼児期にトラウマを受けるようなこともなくなるでしょう。


私はこのブログでいろいろなことを書いていますが、その根底にあるのがこの新しい倫理学です。
新しい倫理学を理解してもらうためにいろいろなことを書いているといっても過言ではありません。
倫理学はすべての思想の土台になるものです。

新しい倫理学を知るには「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。
本一冊の分量になりますが、要点だけ読んでも役に立つと思います。

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