村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 科学的倫理学入門

5045209_m

日本の昨年の出生数は初めて70万人を下回り、合計特殊出生率も1.15と過去最低となりました。
政府はあれやこれやと少子化対策をしてきましたが、まったくといっていいほど効果がありません。
それはしかたのないことで、先進国はどこも出生率は低いものです。

アメリカはずっと人口が増え続けてきましたが、それは移民を受け入れてきたからです。
アメリカの白人に限ってはずっと出生率2.0を下回っています。
ヒスパニックの出生率は高いとされてきましたが、最近は急速に低下して2.0を下回りました。
少子化は先進国病なのです。

image-1645381941485

ですから、日本が少子化を克服しようというのはむりな話です。出生率をいくらか上げて、少子化の進行を少しでも遅らせることができれば上出来です。

先進国では少子化が進んでも、人類全体では人口は増え続けています。
現在は約80億人で、国連の「世界人口推計」によると2030年に約85億人、2050年に約97億人となり、2100年には約109億人でピークに達すると予測されています。

ですから、人類の存続を心配することはありません。
日本政府も人類のために少子化対策をしているのではありません。
では、なんのためにしているかというと、日本の経済、財政、年金のためです。
しかし、子どもをつくる人は日本の経済、財政、年金のことなど考えていません。自分と子どもの人生のことを考えています。
ここに政府と子づくり世代の齟齬があります。


それにしても、先進国で少子化が進むのはなぜでしょうか。
一応の説明として、先進国では女性の社会進出が進み、結婚や出産のタイミングが遅れること、家族よりも個人の自由や自己実現を優先する価値観が広がることなどが挙げられます。
低収入や雇用の不安定などの経済的理由も挙げられますが、貧しい途上国で出生率が高いのですから、経済的なことは理由にならないのではないでしょうか。
子育てのための補助金などもあまり効果はないはずです。

では、先進国で少子化が進む原因はなにかというと、文明が発達するほど人間が一人前になるのが困難になることです。

狩猟採集社会では、子どもは遊びの中で狩猟や採集のやり方をみずから学んで一人前になりました。ですから、親はなにも教える必要はありませんでした。
しかし、文明が発達して社会が複雑化するとともに一人前になるために学ぶべきことが増えてきますし、親などのおとなが教えるべきことも増えてきます。
人間はしゃべることは自然に覚えますが、読み書きは誰か教える人がいないと覚えることはできません。そのため近代になると義務教育が始まります。
文明の発達は加速度的に速くなり、義務教育の年限は延長され、今では義務教育は中学校までとされますが、高校まで行くのは最低限に必要とされます。大学に行くのも普通となり、より有利な立場を求める人は大学院に行きます。
江戸時代には多くの人は寺子屋にも行かなかったのですから、短期間に大きく変わりました。

子どもに高度な教育を受けさせるにはお金がかかりますが、負担はそれだけではありません。親は子どもに対して「勉強しなさい」などと言って圧力を加えなければなりませんが、その心理的な負担もあります。
子どもにはみずから学ぶ意欲が備わっていますが、自発的な学習だけでは今の社会には適応できないと考えられています。そのため、どこの国でも同じですが、親は子どもに勉強を強制しなければなりません。
勉強させたい親と勉強したくない子どもが争うことになります。
子どもが学校に行きたがらないという事態も起こります。日本では中学までは教育を受けさせる義務が親にありますから、親はむりをしても学校に行かせようとして、ここでも親子が争うことになります。

学校教育以外に、音楽やスポーツなどの習い事というのもあります。今の日本には習い事をまったくやっていない子どもはひじょうに少ないでしょう。
ピアニストになるつもりもないのにピアノを習って意味があるのかと思うのですが、ピアノの技量を伸ばした経験がほかのことをやるときにも役立つと考えられているのでしょう。
しかし、子どもがみずからやりたがっているならいいのですが、やる気がないのにやらされているのでは、子どもにとっても負担ですし、親にとっても負担です。

ともかく、先進国では「一人前」になるためのハードルがひじょうに高いので、親が子どもを一人前に育てるまでの負担がたいへんです。
しかも、先進国は核家族制なので、その負担はほとんど親だけにかかります。
途上国では親族や共同体の人間が周りにいて、子育てを手伝ってくれるので、その違いは大きいといえます。


一人前になることは、子どもにとってもたいへんです。
江戸時代には寺子屋に通っていない子どもは「勉強しなさい」と言われることもなく、親の仕事ぶりを見て覚えるだけで一人前になれました。
今は二十歳前後までずっと勉強の連続です。
どこの国でも学校にいじめがつきものなのは、勉強がストレスだからでしょう。

1972年、ローマクラブは「成長の限界」と題するレポートを出し、資源の枯渇や環境汚染によって人類の経済成長はいずれ限界に達するだろうと警告し、世界に衝撃を与えました。
しかし、人類の経済成長を制約するものは、資源と環境のほかにもうひとつあります。それは「能力の限界」です。
人間の能力は生まれつき決まっています。これは原始時代からほとんど進化していません。
文明が発達して社会が複雑化すると人間の能力が追いつきません。
これまでは教育を強化することで補ってきましたが、それも限界です。
日本の出生率は1.15ですが、韓国は0.75で、中国は1.00(2023年国連推計)です。儒教文化圏は受験競争が激烈です。自分の子どもを受験競争に駆り立てたくないという人が子どもをつくらないのでしょう。


先進国はどこも出生率2.0を下回っているのを見ると、文明の水準はすでに人間の能力を超えてしまっていると思われます。
少子化を克服しようとすれば、文明社会のあり方を根本的に変革するしかありません。
今の社会は知的能力の高い人が勝ち組になって、知的能力の低い人が負け組になる社会です。
自分の子どもが負け組になるのは誰でもいやですから、それも少子化の大きな原因です。
競争社会から転換して、知的能力の低い人もそれなりに幸せになれる社会を目指すべきです。

もっとも、そういう根本的な社会変革はいつできるかわかりません。
手っ取り早い方法もあります。

今の社会はおとな本位の社会で、子どもが不当に迫害されています。
たとえば赤ん坊の泣き声がうるさいと主張するおとなが多くて、赤ん坊を連れた親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがありますが、今のおとなは泣く子に勝とうとしているのです。
公共の場で子どもが騒いだり走り回ったりするのも非難されます。
公共の場にはおとなも老人も子どももいていいはずですが、子どもは排除されているのです。
そして、子どもが騒ぐと、「親のしつけがなっていない」と親が非難されます。
こうした「しつけ」の負担が親に押しつけられていることも少子化の原因です。

そもそも子どもが騒いだり走り回ったりするのは子どもの発達に必要な行為ですから、おとなの身勝手な理由で止めることは許されません。
子どもがもっとたいせつにされる社会になれば、少子化はいくらか改善するはずです。

とはいえ、21世紀中は人類の人口は増え続けるわけですから、日本は少子化対策をしなければならないわけではありません。
少子化を前提に経済、財政、年金を考えるべきです。


26031408

私は30代前半に究極の思想ともいうべき「地動説的倫理学」を思いつきました。
これは人類史においてコペルニクスによる地動説の発見に匹敵するぐらい重大な発見です。
そんなことを言うと頭のおかしいやつと思われますが、どう思われようと、この重大な発見を世の中に伝えないわけにいきません。
発見したことの重大さに比べて、私の能力があまりにも過小であるという困難を乗り越えて、なんとか一冊の本になる形に原稿をまとめて、別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」で公開しました。

しかし、あまり理解されません。
どうやらむずかしく考えすぎたようです。
私が「地動説的倫理学」を思いついたとき、これは常識とあまりにも違うのでなかなか理解されないだろうと思いました。そこで、思いついた過程を丁寧に説明し、また、科学としても認められるようにしようと配慮しましたが、そのため読みにくくなったかもしれません。

しかし、世の中の価値観はその当時とは大きく変わりました。今ではすんなりと理解する人も少なくないでしょう。「なぜもっと早く教えてくれなかったのだ」と文句を言われるかもしれません。

「地動説的倫理学」そのものはきわめて単純です。
天文学の地動説は小学生でも理解しますが、それに近いものがあります。
考えてみれば、コペルニクスがどうやって地動説を思いついたかなんていうことは、地動説を理解する上ではどうでもいいことです。

ということで、ここでは「地動説的倫理学」をもっとも単純な形で紹介したいと思います。



人類は霊長類の一種で、優れた言語能力を有することが特徴です。
人類が使う多様な言語の中に「よい」と「悪い」があります。「よい天気」と「悪い天気」、「よい匂い」と「悪い臭い」、「よい味」と「悪い味」、「よい出来事」と「悪い出来事」など、あらゆる物事に「よい」と「悪い」は冠せられます。
「よい」とは人間の生存に有利なもので、「悪い」とは人間の生存に不利なものです。新鮮な肉は「よい肉」で、腐った肉は「悪い肉」です。これは「良性腫瘍」と「悪性腫瘍」、「善玉菌」と「悪玉菌」という言葉を見てもわかるでしょう。
人間は森羅万象を「よい」と「悪い」と「どちらでもない」に見分けながら生きています。

この「よい」と「悪い」を人間の行為に当てはめたのが道徳です。
自分が困っているときに助けてくれる他人の行為は「よい行為」であり、それをするのは「よい人」です。
自分にとって不利益になる他人の行為は「悪い行為」であり、それをするのは「悪い人」です。
こうして「善」と「悪」すなわち道徳ができました。
そうして人は「よいことをするべきだ。悪いことをしてはいけない」と主張して、相手を自分の利益のために動かそうとしてきました。

ここで注意するべきは、腐った肉は誰にとっても「悪い肉」ですが、人間の行為はある人にとっては利益になる「よい行為」となり、別の人にとっては不利益になる「悪い行為」になるということです。つまり道徳には普遍性がありません。
そのため、強者が自分に都合のいい道徳を弱者に押しつけることになりました。


動物は同種間で殺し合うことはめったにないのに、人間は数えきれないほど戦争をしてきました。また、奴隷制や植民地支配によって人間が人間を支配してきました。
人間は道徳をつくりだしたためにかえって悪くなったのではないでしょうか。
それを確かめるには「道徳をつくりだす以前の人間」と「道徳をつくりだした以降の人間」を比較する必要があります。
この比較は簡単なことです。赤ん坊や小さな子どもは道徳のない世界に生きているので、子どもとおとなを比較すればいいのです。

道徳のない世界では、子どもは自由にふるまって、親はそれを見守るだけでした。これは哺乳類の親子と同じです。動物の親は子どもにしつけも教育もしません。
未開社会でも親は子どもに教育もしつけもしません。
納得いかない人は、次の本を参考にしてください。



しかし、文明が発達すると、子どもの自然なふるまいが親にとって不利益になってきます。
定住生活をするようになると、家の中を清潔にするために子どもの排泄をコントロールしなければなりません。子どもに土器を壊されてはいけませんし、保存食を食べ散らかされてもいけません。
それに、文明人の親は多くの知識を持ち、複雑な思考ができますが、赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきますから、親の意識と子どもの意識が乖離します。共感性の乏しい親は子どもに対して「こんなことがわからないのか」とか「こんなことができないのか」という不満を募らせ、子どもに怒りの感情を向けるようになります。
そうした親は道徳を利用しました。親にとって不利益な子どもの行為を「悪」と認定し、その行為をすると叱ったり罰したりしたのです。こうすると子どもを親の利益になるように動かせるので、このやり方は広まりました。「悪い子」を「よい子」にすることは、その子ども自身のためでもあるとされたので、叱ることをやましく思うこともありませんでした。

これは子どもにとっては理不尽なことです。これまでと同じように自然にふるまっているのに、あるときから「悪」と認定され、叱られるようになったのです。
この「悪」は子どもの行為にあるのではありません。親の認識の中にあるのです。
「美は見る者の目に宿る」という言葉がありますが、それと同じで「善悪は見る者の目に宿る」のです。
いわば人間は「善悪メガネ」あるいは「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、人間はなんとかしてこの世から「悪」をなくそうと力を尽くしてきましたが、まったく間違った努力です。「悪」は見る対象にあるのではなく、自分自身の目の中にあるからです。

私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
これまで世の中を支配してきたのは、自己中心的で非論理的な「天動説的倫理学」だったのです。

「天動説的倫理学」の支配する世界でいちばん苦しんでいるのは子どもです。親は「子どもは親の言うことを聞くべき」とか「行儀よくするべき」とか「好き嫌いを言ってはいけない」とかの道徳を押しつけ、親の言うことを聞かないと「わがまま」であるとして叱ったり罰したりします。これはすなわち「幼児虐待」です。
私がこの理論を思いついたとき、これはなかなか世の中に受け入れられないだろうと思ったのは、まさにそこにあります。
当時は、幼児虐待は社会的に隠蔽されていました。ごくまれに親が子どもを殺したという事件がベタ記事として新聞の片隅に載るぐらいです。この理論は幼児虐待をあぶりだすので、社会から無視されるに違いないと思ったのです。

しかし、今では多くの人が幼児虐待に関心を持っているので、幼児虐待を人類史の中に位置づけたこの理論はむしろ歓迎されるかもしれません。
この理論は幼児虐待の克服に大いに役立つはずです。

今の世の中は「親は子どもに善悪のけじめを教えなければならない。教えないと子どもは悪くなってしまう」と考えられています。
しかし、子どもには「よい子」も「悪い子」もいませんが、親には子どもを愛する「よい親」と子どもを虐待する「悪い親」がいます。
おとなの中にはテロリスト、ファシスト、差別主義者、殺人犯、レイプ犯、強盗、詐欺師、DV男、利己主義者などさまざまな「悪人」がいます。そうした「悪人」が子どもを「よい子」にしようとして教育やしつけを行っているのが今の「天動説的倫理学」の世界です。

こうした状況をおとなの目から見ているとわけがわかりませんが、子どもの目から見ると、すっきりと理解できます。
複雑な惑星の動きが太陽を中心に置くとすっきりと理解できるのと同じです。
しかし、これはおとなにとっては認めたくないことかもしれません。それも私がこの理論はなかなか理解されないだろうと思った理由です。


道徳は強者が弱者に押しつけるものであるというとらえ方は、マルクス主義とフェミニズムも同じです。マルクス主義は資本家階級が労働者階級に押しつけ、フェミニズムは男性が女性に押しつけるとしました。私は親が子どもに押しつけるとしたのです。
ここまで踏み込むことで善と悪の定義ができました。.これは画期的なことです(これまで善と悪の定義はありませんでした)。
道徳は強者が弱者に押しつけるものだということを知るだけで、道徳にとらわれない自由な生き方ができるはずです。

私はさらに、この理論と進化生物学を結びつけました。これが正しければ、この理論は「科学的」と称してもいいはずです。
マルクス主義は「科学的社会主義」を称して一時はたいへんな勢いでしたが、結局「科学的」というのは認められませんでした。
「地動説的倫理学」は「科学的」と認められるでしょうか。



これを読んだだけでは、いろいろな疑問がわいてくるでしょう。
「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく書いているので、そちらをお読みください。



little-girl-6804076_1280

5月7日、東京メトロの東大前駅で、男性客に刃物で切りつけて殺人未遂容疑で現行犯逮捕された戸田佳孝容疑者(43歳)は、犯行動機を「小学生の時にテストの点が悪くて親から叱られた」「教育熱心な親のせいで不登校になり苦労した」「東大を目指す教育熱心な世間の親たちに、あまりに度が過ぎると子がぐれてれて、私のように罪を犯すと示したかった」などと供述しました。
このところ「教育虐待」が話題になることが多く、容疑者は「教育虐待」の被害者であることをアピールすれば世間に受け入れられると思ったのかもしれません。

「教育虐待」という言葉は2010年代からありますが、世に広く知られるようになったきっかけは2022年に出版された齊藤彩著『母という呪縛 娘という牢獄』というノンフィクションではないかと思います。母親に医学部に入るように強要され9年も浪人した娘が母親を殺害した事件を描いた本で、10万部を越えるベストセラーになりました。
世の中には親から「よい学校」へ行けとむりやり勉強させられたり、やりたくもない習い事を強制されたりした人が多く、そういう人の共感を呼んだのでしょう。

「教育虐待」の典型的な事件としては鳥栖市両親殺害事件があります。
2023年3月、佐賀県鳥栖市で当時19歳の男子大学生が両親を殺害しました。男子大学生は小学校時代から父親に勉強を強要され、殴られたり蹴られたりし、一時間以上正座をさせられて説教され、「失敗作」や「人間として下の下」などとののしられました。佐賀県トップの公立高校に進み、九州大学に入りましたが、それでも父親の虐待はやまず、大学の成績が悪化したことを父親に責められたときナイフで父親を刺し、止めようとした母親も刺殺しました。佐賀地裁は教育虐待を認定しましたが、判決は懲役24年でした。

「東大」と「教育虐待」というキーワードから思い出されるのは、2022年 1月15日に大学入学共通テストの試験会場である東京都文京区の東京大学のキャンパス前で、17歳の男子高校生が3人を刃物で切りつけて負傷させた事件です。この高校生は名古屋市の名門私立高校に在籍し、東大医学部を目指していましたが、思うように成績が上がらず犯行に及んだものと思われます。ただし、本人は動機についてはなにも語りませんでした。ウィキペディアを見ると、「人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと考えるようになった」などと言ったようです。
「教育虐待」という認識はなかったのでしょう。若いのでしかたありません。

5月9日、愛知県田原市で70代の夫婦が殺害され、孫である16歳の男子高校生が逮捕されました。今のところ男子高校生は「人を殺したくなった」と供述していると伝わるだけです。
5月11日、千葉市若葉区の路上で高橋八生さん(84)が背中を刃物で刺されて死亡した事件で、近くに住む15歳の男子中学3年生が逮捕されました。男子中学生は「複雑な家庭環境から逃げ出したかった。少年院に行きたかった」と供述しています。
どちらの容疑者も背後に幼児虐待があったと想像されますが、本人はそれについては語りません。

ここに大きな問題があります。
人間は親から虐待されても自分は虐待されているという認識が持てないのです。
ベストセラーのタイトルを借りれば、ここに人類最大の「バカの壁」があります。



親から虐待されている子どもが周囲の人に虐待を訴え出るということはまずありません。医者から「このアザはどうしたの?」と聞かれても、子どもは正直に答えないものです。
哺乳類の子どもは親から世話されないと生きていけないので、本能でそのようになっているのでしょう。
では、何歳ぐらいになると虐待を認識できるようになるかというと、何歳ともいえません。なんらかのきっかけが必要です。

幼児虐待を最初に発見したのはフロイトです。ヒステリー研究のために患者の話を真剣に聞いているうちに、どの患者も幼児期に虐待経験のあることがわかって、幼児虐待の経験がのちのヒステリーの原因になるという説を唱えました。
もっとも、フロイトは一年後にこの説を捨ててしまいます。そのため心理学界も混乱して、今にいたるまで幼児虐待に適切な対応ができているとはいえません(このことは『「性加害隠蔽」の心理学史』という記事に書きました)。

心理学界も混乱するぐらいですから、個人が自分自身の体験を認識できなくても当然です。しかし、認識するかしないかは、それによって人生が変わるぐらいの重大問題です。

虐待された人がその認識を持てないと、その影響はさまざまな形で現れます。
親子関係というのは本来愛情で結ばれているものですが、そこに暴力や強制が入り込むわけです。そうすると自分の子どもに対しても同じことをしてしまいがちですし、恋人や配偶者に対してDVの加害者になったり被害者になったりします。また、親の介護をしなければならないときに、親に対する子ども時代の恨みが思い出されて、親に怒りをぶつけたり、暴力をふるったりということもありますし、そもそも親の介護をしたくないという気持ちにもなります。
また、虐待の経験はトラウマになり、PTSD発症の原因にもなりますし、アルコール依存、ギャンブル依存などの依存症の原因にもなります。
ですから、虐待された人はその事実を認識して、トラウマの解消をはかることがたいせつです。

虐待を認識するといっても、なにもカウンセラーにかかる必要はありません。「毒親」という言葉を知っただけで自分の親は毒親だったと気づいた人がたくさんいます。「教育虐待」という言葉も同じような効果があったのでしょう。
自分で過去を回想し、抑圧していた苦痛や怒りや恨みの感情を心の中から引き出せばいいのです。

ただ、ここにはひとつの困難があります。「親から虐待された」ということを認識すると、「自分は親から愛される価値のない人間なのか」という思いが出てくるのです。
この自己否定の思いは耐えがたいものがあり、そのために虐待の事実を否定する人もいますし、「親父は俺を愛しているから殴ってくれたんだ」というように事実をゆがめる人もいます。

そこで「自分の親は子どもを愛せないろくでもない親だった」というふうに考えるという手もあります。しかし、そうすると、「自分はろくでもない親の子どもだ」ということになり、やはり自己否定につながってしまいます。

これについてはうまい解決策があります。
「虐待の世代連鎖」といって、子どもを虐待する親は自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いものです。ですから、親に聞くなどして親の子ども時代のことを調べて、親も虐待されていたとわかれば、親が自分を虐待したのは自分のせいではなく親の過去のせいだということになり、自己否定は払拭できます。

それから、私が「虐待の社会連鎖」と名づけていることもあります。
たとえば、会社で部長から理不尽な怒られ方をした課長が自分の部下に当たる。その部下は家に帰ると妻に当たる。妻は子どもに当たるというようなことです。
あるいは母親が自分の暮らしは貧しいのに、ママ友はリッチな生活をしていて、子どもは成績優秀だと自慢され、劣等感を感じて、家に帰って子どもに当たるということもあります。
競争社会の中で弱者はどうしても敗北感や劣等感を覚えるので、社会の最弱者である自分の子どもを虐待することで自己回復をはかることになりがちです。こうしたことが「虐待の社会連鎖」です。

「虐待の世代連鎖」と「虐待の社会連鎖」を頭に入れておくと、親が自分を虐待したのは自分に原因があるのではなく、親の背後にある過去や社会に原因があるのだとわかり、自己肯定感が得られるはずです。


それから、「ほかのみんなは幸せなのに、自分だけ虐待されて不幸だ」と思って、いっそうみじめな気持ちになる人がいます。
しかし、実際は幼児虐待は広く存在します。表面からは見えないだけです。

幼児虐待が社会的な事件になると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
つまり「しつけを名目にした虐待」です。
「教育虐待」は「教育を名目にした虐待」ですから、同じようなものです。

「しつけ」のために子どもを叱ることは社会で公認され、推奨されています。
公共の場で子どもが騒いだりすると、親が子どもを叱って静かにさせるべきだと言われます。
どこの家庭でも子どもを叱ってしつけているはずです。

叱るときに体罰を使えば身体的虐待ですが、体罰なしで言葉だけで叱るのはどうかというと、心理的虐待です。きつく叱られた子どもは傷つき、脳の萎縮・変形を招く恐れがあります。

今の社会では誰もが叱られて育っているので、誰もが被虐待経験があることになります。
もちろん虐待の程度によってまったく違ってきますが、軽い虐待でも、それを認識しないと、なんとなく生きづらいという感情を引きずるかもしれません。また、結婚したくないとか、子どもがしほくないとか、子どもがかわいくないといった感情の原因にもなります。
ですから、親から虐待されたという苦しみを感じている人は、虐待の認識があるだけましともいえます。


幼児虐待というのは「文明の病」です。
赤ん坊は原始時代となんら変わらない状態で生まれてくるので、高度な文明社会に適応させるには短期間に多くのことを教えなければなりません。その過程で虐待が発生したのです。
今ようやく、虐待にならない形で子どものしつけや教育を行うべきだという考えが生まれてきたところです。
幼児虐待をこのように文明史の中に位置づけると、いっそう受け止めやすくなるでしょう。


これまで幼児虐待が認識されてこなかったのは、おとな本位の価値観が世の中を支配していたからです。
おとな本位の価値観から転換する方法については「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。


raised-hands-8980814_1280

トランプ大統領の政策でいちばん驚くのは、大学を敵視し、科学研究費を大幅に削減していることです。
中国はものすごい勢いで科学研究費を増やしていて、学術論文の数ではすでにアメリカを抜いて世界一になっています。
トランプ氏はアメリカを偉大にするといっていますが、科学力のない国は偉大ではありません。

私は前回の「いかにしてトランプ大統領の暴走を止めるか」という記事で、トランプ政権のおかしな政策を列挙して「まるで中世ヨーロッパの国になろうとしているみたい」と書きましたが、今回の記事では、なぜそうなっているのかを掘り下げてみました。


アメリカは一般に思われている以上に宗教的な国です。
メイフラワー号で入植した清教徒は「神の国」をつくろうとしました。その精神が今も生きています。
アメリカ大統領の就任式では必ず聖書に手を置いて宣誓することになっていますし、大統領の演説は「God bless America」というフレーズで締めくくられるのが常です。
どの国も経済的に豊かになると宗教色は薄れ世俗化していくものですが、アメリカの場合はそうならずに、おりにふれて宗教パワーが国を動かします。
たとえば1920年代の禁酒法がそれです。熱心なプロテスタントの信者が立ち上がり、飲酒文化が暴力や犯罪や退廃を招いているとして禁酒法を成立させました。

禁酒法の時代にテネシー州では“進化論裁判”が行われました。高校教師が授業で進化論を教えたということで逮捕され、裁判にかけられたのです。
進化論は聖書に書かれた創造説を否定するので、聖書を絶対化する人たちは進化論を認めるわけにいきません。
この裁判は全米で注目されましたが、結果、高校教師は罰金100ドルの有罪判決を受けました。

この当時は、進化論を否定するとはばかげたことだという見方が多かったようです。
しかし、このような聖書の記述を絶対視する勢力が次第に拡大し、進化論を教えることを禁止する州が増えてきました。
共産主義の脅威が感じられた冷戦時代、イスラム過激派の脅威が感じられた9.11テロ以降などにとくに宗教パワーが高まりました。

聖書の記述を絶対視する宗派を福音派といいます。
アメリカでは福音派が人口の約4分の1、1億人近くに達するといわれます。
アメリカでも地元の教会に通うという昔ながらの信者はへっていますが、福音派の場合は、テレビやラジオや大集会を通じて説教をするカリスマ的大衆伝道師が信者を獲得してきました。大衆を扇動する言葉は過激になりがちで、それが福音派を特徴づけているのではないかと思われます。

福音派は共和党と結びつき、政治を動かすようになりました。
たとえばレーガン大統領はカリフォルニア州知事時代に妊娠中絶を認める法案に署名していましたが、大統領選の候補になると福音派の支持を得るために中絶反対を表明しました。
トランプ氏もつねに福音派の支持を意識して行動しています。
アメリカの政治が福音派に飲み込まれつつあり、その結果、科学軽視の政策になっていると思われます。


キリスト教と科学は相性の悪いところがあります。
ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために宗教裁判にかけられました。
聖書には地動説を否定するような記述はありませんが、教会は絶大な権力で世の中の「常識」まで支配していたのです。
結局、地動説は認められましたが、だからといって聖書のなにかが否定されたわけではありません。

ダーウィンの進化論はそういうわけにはいきません。進化論は聖書の創造説の明白な否定だからです。そのため世の中は大騒ぎになりました。
ダーウィンは『種の起源』の12年後に出版した『人間の由来』において、人間の身体はほかの動物から進化したものだが、人間の精神や魂はそれとは別だと主張しました。つまり身体と精神を分けることで教会や世の中と妥協したのです。
ダーウィンのこの妥協はのちのち問題になるのですが、キリスト教と科学が折り合う上では役に立ちました。


中世ヨーロッパにおいてキリスト教会は絶大な権力を持っていました。
その権力の源泉は、キリスト教では宗教と道徳が一体となっていることです。
「モーゼの十戒」には「汝、殺すなかれ」とか「汝、盗むなかれ」という道徳が入っていますし、キリストの説教である「山上の垂訓」には「あわれみ深い人たちは幸いである」とか「心の清い人たちは幸いである」といった道徳が入っています。教会での説教も、ほとんどが道徳的な説教です。そのため教会は人々の生活のすみずみまで支配したのです(仏教も「悪いことをすると地獄に堕ちる」といった教えで道徳とつながっていますが、これは本来の仏教ではありません。神道はほとんど道徳と無縁です)。

しかし、近代化の過程で「法の支配」が確立されてきました。
と同時にキリスト教道徳(倫理)が排除されました。「法の支配」があれば道徳は必要ないのです。

このあたりのことは誤解している人が多いかもしれません。
道徳はほとんど無価値です。「嘘をついてはいけない」とか「人に迷惑をかけてはいけない」とか「人に親切にするべきだ」とかいくら言っても、世の中は少しも変わりません。
正式な教科としての「道徳の授業」が小学校では2018年から、中学校では2019年から始まりましたが、それによって子どもが道徳的になったということはまったくありません。
世の中が回っているのは道徳ではなく法律やルールやマナーなどのおかげです。



近代国家では「法の支配」によって社会から道徳が排除され、「政教分離」によって国家から宗教が分離されました。
宗教は個人の内面に関わる形でだけ存在することになったのです。

もっとも、これは主にヨーロッパの国でのことです。
日本では戦前まで、国家神道という形で国家と宗教が一体化していましたし、「教育勅語」という形で国家が国民に道徳を押し付けていました。

アメリカも宗教色が強いので、ヨーロッパのようにはいきません。
天文学者カール・セーガンの書いたSF小説『コンタクト』では、地球外生命体との接触を目指す宇宙船に乗り組む人間を選ぶための公聴会が議会で開かれ、主人公の天文学者エリー(映画ではジョディ・フォスター)は神を信じるかと質問されます。エリーは無神論者ですが、正直に答えると選ばれないとわかっているので、答え方に苦慮します。まるで踏み絵を踏まされるみたいです。こういう場面を見ると、アメリカの宗教の強さがわかります(結局、無神論者のエリーは選ばれません)。

『利己的な遺伝子』を書いた生物学者のリチャード・ドーキンスは、進化論に反対するキリスト教勢力からずいぶん攻撃されたようで、その後はキリスト教勢力に反論するための本を多く書いています。『神は妄想である――宗教との決別』『悪魔に仕える牧師――なぜ科学は「神」を必要としないのか』『さらば、神よ』といったタイトルを見るだけでわかるでしょう。
アメリカではいまだに科学とキリスト教が対立しています。


アメリカでも「法の支配」と「政教分離」で近代国家の体裁を保ってきましたが、しだいにキリスト教勢力が力を増し、ここにきて二大政党制で政権交代が起こったように一気に「近代国家」から「宗教国家」に転換したわけです。
同性婚反対、LGBTQ差別、人種差別、人工中絶禁止、性教育反対といったキリスト教道徳が急速に復活しています。

トランプ大統領は福音派を喜ばすような政策を行っていますが、トランプ氏自身が福音派の信者だということはないはずです。あくまで福音派を利用しているだけです。

トランプ氏は大統領就任式で宣誓するとき、聖書の上に手を置かなかったので少々物議をかもしました。
さらに、自身をローマ教皇に模した生成AI画像を投稿して、批判を浴びました。

スクリーンショット 2025-05-07 004900スクリーンショット 2025-05-03 165043

トランプ氏は銃撃されて耳を負傷したときのことについて「神が私の命を助けてくれた」と語りました。
どうやらこのころから自分で自分を神格化するようになったのではないかと思われます。
アメリカが宗教国家になるのは、自分を神格化する上できわめて好都合です。
科学は自己神格化する上では不都合です。

トランプ氏の心中はわかりませんが、アメリカが「法の支配」も「政教分離」も打ち捨てて、キリスト教道徳の支配する国になりつつあることは確かです。
もちろんこれはアメリカ衰退の道です。


なお、カトリック教会は1996年に進化論を認めましたが、「肉体の進化論は認めるものの、精神は神が授けたもので、進化論とは無関係」としています。ダーウィンの妥協がまだ生きているのです。
いまだに世界が平和にならないのも、ダーウィンの妥協のせいです。
ダーウィンの妥協については「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。

944320_m

トランプ大統領は恐ろしい勢いでアメリカ社会の根幹を破壊しています。
その破壊を止める力がアメリカにはほとんどありません。

最初はUSAID(アメリカ合衆国国際開発庁)の実質的な解体でした。
USAIDは主に海外人道援助などをしていました。アメリカ・ファーストを支持する保守派は海外人道援助などむだとしか思わないのでしょう。
このときは日本のトランプ信者もUSAID解体に大喜びしていました(日本に相互関税をかけられてからトランプ信者はすっかりおとなしくなりました)。

「報道の自由」も攻撃されました。
トランプ大統領は「メキシコ湾」を「アメリカ湾」に変更するとした大統領令に署名しましたが、AP通信がそれに反しているとして、同社記者を大統領のイベント取材から締め出しました。
また、大統領を代表取材する場合、それまではホワイトハウス記者会が決めたメディアが交代で行っていましたが、これからは大統領府側がメディアを決めると宣言しました。。
放送免許などを司るFCC(連邦通信委員会)は、FCC監督下のすべての組織にDEI策排除を求めるとしました。

その次は司法への攻撃です。
トランプ政権は「敵性外国人法」を適用して約200人の不法移民をエルサルバドルの収容施設に送還しましたが、ワシントンの連邦地裁はこの法律は適用できないとして送還の差し止めを命じました。しかし、送還は実行されました。政権は地裁から「書面」で命令が出される前に飛行機は出発していたと主張しましたが、地裁は判事が「口頭」で飛行機の方向転換を指示したのに従わなかったとしています。
トランプ氏は送還差し止めを命じた判事は「オバマによって選ばれた過激な左翼だ。弾劾されるべき」と主張しましたが、ジョン・ロバーツ最高裁長官が異例の声明を出し「弾劾は司法の決定に対する意見の相違への適切な対応でない」と批判しました。このところ政権の政策を阻止する判決を出した裁判官への個人攻撃が目に余ることから、最高裁長官が異例の声明を出したようです。
その後、FBIはウィスコンシン州ミルウォーキーの裁判所のハンナ・ドゥガン判事を逮捕しました。裁判所に出廷した不法移民の男を移民税関捜査局の捜査官らが拘束しようとしたのをドゥガン判事が妨げたという公務執行妨害の疑いです。裁判官が逮捕されるのは異例です。
パム・ボンディ司法長官はこの件について「ミルウォーキー判事の逮捕は他の判事への警告」だと言いました。完全に政治的な意図で、行政が司法を支配下に置こうとしています。
トランプ政権は「法の支配」も「司法の独立」も「三権分立」も完全に破壊しようとしています。

大学も攻撃の対象になりました。
ハーバード大学ではイスラエルのガザ攻撃に対する学生の抗議活動が盛んだったことから、トランプ政権は学生の取り締まりやDEI策排除をハーバード大学に要求、大学がこれを拒否すると、助成金の一部を凍結すると発表しました。
トランプ政権はリベラルな大学に対して同じような要求をしており、「学問の自由」は危機に瀕しています。

「政教分離」も破壊されました。
政権はホワイトハウス信仰局を設置し、初代長官に福音派のテレビ宣教師ポーラ・ホワイト氏を任命しました。また、トランプ氏はこれまでキリスト教は不当に迫害されていたとし、反キリスト教的偏見を根絶するためにタスクフォースの設置も発表しました。


トランプ政権は、法の支配、報道の自由、学問の自由、表現の自由、政教分離、人道、人権といった近代的価値観をことごとく破壊しています。
トランプ政権は科学研究費も大幅に削減していますから、まるで中世ヨーロッパの国になろうとしているみたいです(実際のところは、アメリカの保守派は南北戦争以前のアメリカが理想なのでしょう。日本の保守派が戦前の日本を理想としているみたいなものです)。


問題はこうした政権の暴走を止める力がどこにもないことです。
というのは、法の支配、報道の自由、学問の自由といった価値観が、リベラルなエリートの価値観と見なされて、効力を失っているのです。

こうした傾向は日本でも同じです。
菅政権が日本学術会議の新会員6名の任命を拒否したとき、これは学問の自由の危機だといわれましたが、SNSなどでは学問の自由はほとんど評価されずに、それよりも「政府から金をもらっているんだから政府のいうことを聞け」といった声が優勢でした。
報道の自由に関する議論になったときも、“マスゴミ批判”の声で報道の自由を擁護する声はかき消されます。

今のところトランプ政権の暴走を止めるには、政策実行を差し止める訴訟が頼りですが、最高裁の判事は保守派が多数ですから、あまり期待はできません。


ただし、このところトランプ大統領の勢いがなくなりました。明らかに壁にぶつかっています。

トランプ大統領は4月2日、日本に24%、中国に34%などの相互関税を9日に発動すると発表し、これを「解放の日」とみずから称えました。
ところが、発表直後から世界的に株価が急落し、とりわけアメリカは株式・国債・ドルのトリプル安に見舞われました。
これにトランプ氏とその周辺はかなり動揺したようです。
トランプ氏は9日に相互関税の発動を90日間停止すると発表しました。
株価は急反発しましたが、トランプ氏の腰砕けに世の中はかなり驚きました。

トランプ大統領はFRBは利下げするべきだと主張し、FRBのパウエル議長を「ひどい負け犬の遅すぎる男」とののしり、解任を示唆する発言を繰り返しました。
そうするとまたしても株式・国債・ドルのトリプル安になり、トランプ大統領はまたしても態度を豹変させて「解任するつもりはない」と述べました。
そうすると株価は反発しました。

また、中国への関税は現在145%となっていますが、トランプ大統領は「ゼロにはならないだろうが、大幅に下がるだろう」と述べました。
関税政策の根幹が崩れかけています。

トランプ大統領は「マーケットの壁」にぶつかったのです。
この壁はさすがのトランプ氏も突破できません。そのため迷走して、支持率も下がっています。

第一次トランプ政権のときは、コロナ対策がうまくいかずに支持率を下げました。
トランプ氏が再選に失敗したのは、ひとえにコロナウイルスのせいです。
なお、安倍政権が倒れたのも、菅政権が倒れたのも、コロナ対策がうまくいかなかったためです。


ともかく、トランプ大統領を止めたのは今のところウイルスとマーケットだけです。
ウイルスは自然界のもので、自然科学の対象です。関税政策などは経済学の対象です。
自然科学も経済学もまともな学問なので、トランプ氏のごまかしが通用しなかったのです。

法の支配、報道の自由、学問の自由といった概念は政治学や法学の対象ですが、政治学や法学はまともな学問ではありません。
そのため、リベラルと保守、左翼と右翼のどちらが正しいのかも明らかにすることができず、世の中の混乱を招いています。
トランプ氏の暴走を止めることができないのは、政治学や法学がまともな学問でないからです。

今、トランプ政権はマーケットの壁にぶつかっていますが、第二次政権は発足したばかりですから、そのうち経済政策を立て直すでしょう。
そのときトランプ氏の暴走を止めるものはなにかというと、結局は政治学と法学しかありません。
政治学と法学が経済学並みにまともな学問になることです。


政治学と法学をまともな学問にする方法については、「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています。

robot-9186800_1280

最近はテロ組織に属さない個人のテロリスト、ローンオフェンダーが増えています。
ローンオフェンダーによるテロは発生の予測が困難なので、防止策が課題とされます。
テロにはなにかの政治的な主張があるものですが、ローンオフェンダーの場合は、そうした政治的主張よりも深層の動機に注目する必要があります。

この4月、アメリカでトランプ大統領暗殺計画が発覚しました。
17歳の高校生ニキータ・カサップ被告は2月11日ごろ、母親タティアナ・カサップさん(35)と継父ドナルド・メイヤーさん(51)を射殺し、車で逃亡しているところを逮捕されました。車内には拳銃のほかに両親のクレジットカード4枚、複数の宝石類、こじ開けられた金庫、現金1万4000ドル(約200万円)がありました。
被告の携帯電話からは、ネオナチ団体「ナイン・アングルズ教団」に関する資料や、ヒトラーへの賛辞が見つかりました。さらに、トランプ大統領暗殺計画をかなり詳しく書いていました。
両親を殺したのは、トランプ大統領暗殺計画のじゃまになるからで、また、爆薬やドローンを購入する資金を奪うためでもありました。
反ユダヤ主義や白人至上主義の信条も表明していて、政府転覆のためにトランプ大統領暗殺を呼びかけていました。

「ナイン・アングルズ教団(The Order of Nine Angles)」というのは、ナチ悪魔主義の団体ともいわれていて、カルトの一種のようです。
本来あるべきユダヤ・キリスト教の思想は何者かによって歪められているという教義が中心になっており、組織ではなく個人の行動により社会に騒乱をもたらし新世界秩序を再構築することを目的としているそうです。

計画段階で終わりましたが、この被告はまさにローンオフェンダーです。
ただ、動機が不可解です。
白人至上主義なのにトランプ氏暗殺を計画するというのも矛盾していますし、トランプ氏暗殺のために両親を殺害するというのも奇妙です。


私がこの事件から連想したのは、山上徹也容疑者(犯行当時41歳)による安倍晋三元首相暗殺事件です。
山上容疑者は親を殺すことはありませんでしたが、母親を恨んでいたはずです(父親は山上容疑者が幼いころに自殺)。それに、統一教会というカルトが関係しています。最終的に元首相暗殺計画を実行しました。「親・教祖・国家指導者」という三つの要素が共通しています。

山上容疑者の母親は統一教会にのめり込んで、家庭は崩壊状態になりました。また、統一教会に多額の寄付をし、そのために山上容疑者は大学進学がかないませんでした。
したがって、山上容疑者は母親を恨んでいいはずですが、誰でも自分の親を悪く思いたくないものです。そこで山上容疑者は「母親をだました統一教会が悪い」と考え、教団トップの韓鶴子総裁を狙おうとしましたが、日本にくる機会が少なく、警護も厳重でした。
そうしたところ安倍元首相が教団と深くつながっていることを知り、安倍元首相を狙うことにしたわけです。
親、教祖、元首相と標的は変遷していますが、共通点があります。
親は子どもの目から見れば超越的な存在です。教祖や神も超越的です。国家指導者も国民から見れば超越的です。
戦前までの天皇陛下は、国民は「天皇の赤子」といわれて、天皇と国民は親子の関係とされていました。天皇は現人神であり、国家元首でもありました。
つまり天皇は一身で「親・教祖・国家指導者」を体現していたわけです。
オウム真理教の麻原彰晃も教団を疑似国家にして、教祖兼国家指導者でした。そして、教団そのものがテロ組織となりました。


「親・教祖・国家指導者」が似ているというのは理解できるでしょう。
問題はそこに殺人だの暗殺だの政府転覆だのがからんでくることです。
その原因は親子関係のゆがみにあります。親子関係はすべての人間関係の原点です。そこがゆがんでいると、さまざまな問題が出てきます。

ところが、人間は親子関係がゆがんでもゆがんでいるとはなかなか認識できません。
これはおそらく哺乳類としての本能のせいでしょう。
たとえばキツネの親は、天敵の接近を察知すると警告音を発して子どもを巣穴に追いやり、遅れた子どもは首筋をくわえて運びます。そのやり方が乱暴でも子どもは抵抗しません。子どもは親のすることは受け入れるように生まれついているのです。そうすることが生存に有利だからです。
人間の子どもも親から虐待されても、それを受け入れます。それを虐待と認識できないのです。
これは成長してもあまり変わりません。二十歳すぎて、親元を離れて何年かたってから、自分の親は毒親だったのではないかと気づくというのがひとつのパターンです。

ヒトラーも子ども時代に父親に虐待されていました。そのこととヒトラーのホロコーストなどの残虐行為とが関連していないはずがありません。ところが、ヒトラーが子ども時代に虐待されていたことはヒトラーの伝記にもあまり書かれていないのです。このことは「ヒトラーの子ども時代」という記事に書きました。

心理学は幼児虐待を発見しましたが、一方でそれを隠蔽し、混乱を招いてきました。この問題は『「性加害隠蔽」の心理学史』という記事に書きました。


不可解な事件が起こったとき、「そこに幼児虐待があったのではないか」と推測すると、さまざまなことが見えてきます。
たとえば冒頭の17歳高校生の両親殺しの事件ですが、高校生は両親から虐待されていたと推測できます。17歳の少年に凶悪な動機が芽生えるとしたら、それしか考えられません。しかし、本人は自分が虐待されているとは認識できないので、自分の中の凶悪な感情が理解できません。そこにナチ悪魔主義教団の教義を知り、トランプ氏暗殺肯定の主張を知ります。トランプ氏暗殺は自分の凶悪な感情にふさわしい行為に思えました。そして、トランプ氏暗殺のためには親殺しが必要だという理屈で親殺しをしたのです。

昨年7月に演説中のトランプ氏が銃撃され、耳を負傷するという事件がありました。
その場で射殺された犯人はトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性です。写真を見る限り、平凡でひ弱そうな若者です。共和党員として有権者登録を行っていました。親から虐待されていたという報道は見かけませんでしたが、20歳の平凡な若者に大統領候補暗殺という強烈な動機が生じたのは、やはり親から虐待されていた以外には考えられません。

2023年4月、選挙応援演説を行っていた岸田文雄首相にパイプ爆弾が投げつけられるという事件がありました。その場で逮捕された木村隆二被告(犯行当時24歳)は、被選挙権の年齢制限や供託金制度に不満を持ち、裁判を起こすなどしましたが、自分の主張が認められないため、岸田首相襲撃事件を起こしました。政治的な主張のテロですが、その主張と首相暗殺とは釣り合いがとれません(被告は殺意は否定)。
木村隆二被告については、父親から虐待されていたという報道がありました。
『「父親は株にハマっていた」「庭は雑草で荒れ果てていた」岸田首相襲撃犯・木村隆二容疑者の家族の内情』という記事には、近所の人の証言として「お父さんがよく母親や子どもたちを怒鳴りつけててね。夜中でも怒鳴り声が聞こえることがあって、外にまで聞こえるぐらい大きな声やったもんやから、近所でも話題になってましたね。ドン!という、なにかが落ちるものとか壊れる音を聞いたこともあった。家族は家の中では委縮していたんと違うかな」と書かれています。

親に虐待された人は生きづらさを感じたり、PTSDを発症したりします。そのときに親に虐待されたせいだと気づけばいいのですが、国家指導者のせいだと考えると、どんどん間違った方向に行って、最終的にテロ実行ということになります。
これがローンオフェンダーの心理です。

とくに政治的主張がなくて、世の中全体を恨むような人は、通り魔事件を起こします。
ですから、ローンオフェンダーと通り魔は根が共通しています。


したがって、ローンオフェンダー型テロや通り魔事件をなくすには、根本的な対策としては世の中から幼児虐待をなくすことです。そして、幼児虐待のためにPTSDを発症した人などへの支援を十分にすることです。
目先の対策などどうせうまくいかないので、こうした根本的な対策をするしかありません。


argue-3767380_1280

私がスーパーで買い物をするときによく思うのは、夫婦で買い物をする人をほとんど見かけないなということです。
夫が会社勤めをしているにしても、土日なら夫婦で買い物に行けるはずです。
私の場合、妻が会社勤めなので、土日はいつもいっしょに買い物に行きます。
ずっと家にいるよりも散歩がてら買い物に行ったほうが気分転換にもなります。

もう定年退職したような老夫婦はときどきスーパーで見かけます。
しかし、二人が会話していることはめったにありません。
たまに言葉を発しているのを聞くと、たいてい不機嫌なダメ出しの言葉で、会話になっていません。
なんのために二人でスーパーにきているのかと思ってしまいます。

そうした疑問を持っていたところ、『店員「レジで奥様を手伝わず突っ立ってるだけの人、なぜ?」意図が不明な謎行動に「本当に邪魔」「見かねて声をかけた」』という記事を見つけて、やはりそうなんだと思いました。

その記事を簡単に紹介すると、「スーパーに一緒に買い物に来て、奥さんが会計をしている時にぼーっとレジの横に立ったままの人が多い。邪魔なので、手伝わないのなら別の場所にいてほしい」というSNSの投稿がきっかけで、店員経験のある人などから「ほんとうによく見かける」「奥さんが重いカゴを移動させてるのに、横か後ろにくっついて動かない人がいる」「レジもそうだけど、サッカー台で何もせずに突っ立ってる人も多い」といった声が上がりました。
客からも「腕組みして見てるだけの人、本当に邪魔」「運転のために来ているのだとしても、車の中で待ってるか、普通に手伝えばいいのに」「ついてきているだけの人って無意識で通路をとうせんぼしがち」などの声がありました。

夫婦で買い物にきていても、夫は荷物持ち要員としてついてきているだけで、買い物には関与していないようです。
性別役割分業が徹底した夫婦だと思われます。
こういう夫婦は会話も乏しくなるでしょう。


一般論として夫婦はどんな会話をしているのでしょうか。
あるテレビ番組で新婚の男性が毎日会社帰りの電車の中で今日は妻とどんな会話をするか考えていると言っていて、それを聞いたスタジオの女性が「やさしい」とほめていました。
初めてのデートのときなどはどんな会話をするかあらかじめ考えた人も多いでしょう。しかし、そんなことは長くは続けられません。

新婚しばらくは、相手のことをよく知らないので、お互いに自分のことをしゃべっていれば意味のある会話になります。
それに、各家庭で生活習慣が違うので、掃除や洗濯のやり方、料理の味付けなどさまざまなことで“文化摩擦”が生じ、それも会話のネタになります。出身地が違うと地域の文化の違いもあります。
新婚の妻が初めておでんをつくったら、夫が「豆腐が入っていない」と文句を言って喧嘩になったという話を聞いたことがあります(豆腐は長く煮込むと固くなるので入れないこともあります)。
昔、大根がすごく高値になったとき、妻が迷った末にサンマの塩焼きに大根おろしをつけなかったら、夫が激怒したという話もあります。
こういう行き違いを防ぐためにも会話が必要になります。

何年かたつと会話もマンネリになってきますが、子どもができると、今度は子どものことでしゃべることがいっぱい出てきます。そうして多くの夫婦は会話を続けていくのでしょう。

私たち夫婦には子どもがいませんが、結婚してしばらくして猫を飼い始めました。
そうすると猫について話すことがけっこうあります。うちの猫は自由に戸外に出ていたので、しばしばネズミやスズメやセミなどを捕って家に持ち帰ってきて、そのたびに大騒ぎになります。
ペットは家族の会話を活発にさせる機能があります。

しかし、やがて子どもも巣立っていきます。そうすると夫婦に会話することはほとんどなくなります。
子どものいない夫婦はその前から会話することはないわけです。
「メシ、フロ、ネル」しか言わない戯画化された夫というのは、けっこう現実ではないかと思われます。


そもそも人間はなんのために会話をするのでしょうか。
イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーは『ことばの起源 -猿の毛づくろい、人のゴシップ』という本で、人間の会話はサルの毛づくろいと同じであるという説を述べました。
サルは互いに毛づくろいをすることで親しさを確認し、群れの結束を強めます。人間は毛がないので毛づくろいの代わりに会話をし、そのために人間は言語能力を発達させたというのです。
ですから、会話することそのものに意味があって、会話の内容にはたいして意味がないことになります。

人間の会話の内容を調べると7割はゴシップだといわれます。つまり周りの人間についての根拠のない噂話をしているのです。
私たちの日常会話も、近所の人についての噂話や、芸能人の不倫の話、石破首相やトランプ大統領の話などです。
SNSでも根拠のない話がどんどん広がっています。話を通じて誰かと共感することが目的なので、その話に根拠があるかどうかはあまり関係がないからです。
必要な情報の伝達とか、認識を深めるための議論などもありますが、それらは会話全体からみればごくわずかです。
夫婦でいえば、家計のこととか親の介護のこととか、まじめに話し合わないといけないこともありますが、それも全体から見ればごくわずかです。


夫婦は同じ家で暮らしているからといって、いつもいっしょにいるのはよくないのではないかと思います。
この前、ある女性芸能人(誰だったか忘れた)がテレビで「仲のよい夫婦は寝室をいっしょにしていない」と語っているのを聞いて、そういうこともあるかもしれないと思いました。
長くやっている漫才師はたいてい楽屋でもほとんど言葉を交わさないといいます。
いくら仲がよくても、同じ人間といつも顔を合わせていると嫌気がさすものです。

私たちの場合、妻は会社勤めですが、私は文筆業で昼ごろ起きるので、必然的に寝室は最初から別でした。
夫婦がいっしょにすごすのは、夕方妻が会社から帰ってきてから食事の片づけをするまでの間で、そのあとはそれぞれの部屋ですごします。
寝る前に二人いっしょに紅茶を飲むこともあります。そのときはテレビのニュース番組やトーク番組を見て、それをもとに会話します。テレビを見なければ会話のきっかけがありません。

夫婦の会話などなんの意味もなくて当たり前です。
ただ、意味のある会話もあります。それは家事についてです。サラリーマンが同僚と仕事の話をするのと同じで、これは夫婦にとって必要な会話です。

私たち夫婦の場合、掃除は平等に分担しています。洗濯は妻がやって、私は洗濯物を干したり取り込んだりするのを手伝う程度です。料理は基本的に妻がやりますが、私はご飯を炊くのとみそ汁をつくるのを担当し、ときどき一品をつくり、妻が残業のときは私が全部つくります。
家事分担の割合としては、6対4とまではいきませんが、7対3よりはやっているはずです。

なお、買い物は、妻が帰宅前にしますが、私も昼間することがあります。
いつも別々ですから、土日にいっしょに「キャベツが安くなってきたね」とか「コーヒー豆がまた高くなった」などと話し合いながら買い物するのは楽しいことです。
ですから、冒頭でも書いたように、いっしょに買い物をする夫婦をほとんど見かけないのが不思議です。
おそらく多くの夫婦は妻だけが料理をしているのでしょう。いっしょに料理をしていればいっしょに買い物もするはずです。

誕生日や結婚記念日などに夫婦で外食をすることがありますが、そんなときどんな会話をしているかというと、半分ぐらいは料理のことです。というか、それ以外にあまり話すことがないというのが実際です。
そうすると、ほかの夫婦は外食のときにテーブルで向かい合ってどんな話をしているのでしょうか。黙って食べていたのではせっかくの外食が楽しくありません。

会話のない夫婦は、二人で家事をするようにすれば会話が増えるはずです。



ともかく、夫婦の会話というのはどうせ価値のないものなので、楽しくバカ話をしていればいいというのが私の考えです。
逆に価値のある会話をしようとするのはたいへん危険です。

たとえば相手になにかを教えて知的に向上させようという人がいます。
これは相手を見下した行為ですから、教えられる側は不愉快です。
これを男がやるのは「マンスプレイニング」といわれます。

相手を道徳的に向上させようというのも夫婦関係を破壊します。
以前、妻が冷凍餃子を食卓に出したところ夫から「冷凍餃子は手抜きだ」と言われたというツイッターの投稿が話題になったことがありました。この夫は手抜きをする妻を手抜きをしない立派な妻にしようとしたのでしょう。
夫が妻を「だらしない」「気が利かない」と言ったり、妻が夫を「思いやりがない」「自分勝手」と言ったりするのも、相手を道徳的に向上させようとしているわけです。ですから、言うほうはいいことを言っているつもりです。
しかし、言われるほうは不愉快です。
こうしたことが繰り返されると、会話自体がなくなってしまいます。
その結果、離婚に至るか仮面夫婦になるしかありません。

なぜこういうことが起こるかというと、道徳について根本的な勘違いをしているからです。
今、小中学校では道徳の授業が行われていますが、これが可能なのは、子どもが弱いためにおとなしく聞いているからです。
配偶者に対して道徳を説いたら、うまくいかないに決まっています。
そのことを理解せず、夫婦関係に道徳を持ち込んで、そのために多くの夫婦の関係が冷え切っているのは悲しいことです。
家庭に道徳を持ち込まないようにすれば楽しい夫婦関係になると思います。


道徳についての根本的な勘違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。


23014066_m

このごろなにかとカスハラ(カスタマー・ハラスメント)が話題です。
東京都は全国初のカスハラ防止条例をつくり、4月1日から施行されます。
政府は3月11日、カスハラ対策を企業に義務付ける労働施策総合推進法などの改正案を閣議決定しました。パワハラやセクハラはすでに企業の防止義務がありますが、カスハラに関する法規制はこれまでありませんでした。
カスハラが増えているのかどうかはよくわかりませんが、治安のいい日本で大声で店員を威圧するようなカスハラ行為が悪目立ちすることは確かです。

女性508人を対象にしたネット調査で「デートで最もされたら嫌なことを教えてください」という質問にもっとも多かったのは「店員への態度が悪い」22.8%でした(2位は「時計やスマホばかりを見る」18.7%)(1000人に聞いた「デートでされたら嫌なこと」1位は? | マイナビニュース)。

恋愛カウンセラーの堺屋大地氏は、年間約1500件のペースで恋愛相談を受けてきた経験から「飲食店デートで嫌われる男性」として筆頭に「偉そうな上から目線で店員に横柄な態度を取っている」を挙げ、その次に「料理が遅いなど些細なことで激しくクレームを入れる」を挙げています(「飲食店デートで嫌われる男性」が実はよくやっている10の行動 | 日刊SPA!)。

デートのときにもカスハラ行為をする男がかなりいるようです。


カスハラをするのはどんな人間でしょうか。
カスハラ人間は、自分は相手より上だと思ってやっています。つまり弱い者いじめです。
ですから、デートで店員にカスハラをする男は、デート相手の女性にはそんなことをしなくても、結婚するとパワハラ、モラハラ、DVをする可能性があります。
それから、カスハラ人間は、出発点は正当なクレームを言っている場合が多いと思われますが、その主張のしかたが異常に激しく、しつこいのです。だからカスハラになります。
なぜ激しく主張するかというと、自分は正義だと思っているからです。
ここがカスハラの厄介なところです。

カスハラ人間は、どうしてそういう人間になったのでしょうか。

この答えはきわめて単純です。
その人間は子どものころ親から(親とは限りませんが)激しく叱られて育ったのです。
親が子どもを叱るというのは弱い者いじめです。しかも、親は悪いことをした子どもを叱るのは正義だと思っています。
そのため、一度叱るだけでなく、しつこく叱って、とことん子どもを追い詰めるような親もいます。
「虐待の連鎖」という言葉があって、虐待されて育った子どもは親になると自分の子どもを虐待することがありますが、虐待が第三者に向かうとカスハラになるわけです。
つまりカスハラ人間は、親からされたことを他人にしているだけなのです。

日常生活で激しく怒っている人を見かけることは、カスハラ以外はめったにありません。
しかし、ひとつ例外があります。親が子どもに対して怒る場合です。これは「しつけ」として社会的に正当化されているので、しばしば見かけます。
家庭内など人目につかないところではもっと頻繁に行われています。
カスハラをする人間が多くなるのは当然です。


子どもに対する暴力・暴言が子どもの脳を萎縮・変形させることは明らかになっています。
今では暴力あるいは体罰を肯定する人はほとんどいません。
しかし、暴言については「叱る」と称して肯定されています。
たとえば公共の場で子どもが騒いでいて迷惑だったという話がネットでよくあります。そういうときは親が叱るべきだという声が圧倒的です。
さらには、よその子どもであっても叱るべきだという声もあります。
叱ることは肯定されているどころか、むしろ義務とされているのです。

子どもを叱っても、子どもが親の思う通りになるとは限りません。
そうするともっと激しく叱ることになります。
子どもが宿題をやっていないということで叱ると、子どもは叱られたくないので、宿題をやったと嘘をつくようになります。そうすると今度は宿題と嘘と叱る対象が増えます。

子育ての悩み相談でよくあるのは、「子どもを叱ってばかりいて、やめられない。こんなに叱っていると悪影響があるのではないか心配だ」というものです。
最近は「叱る依存」という言葉があって、依存症のひとつに数えられたりします。
子どもを叱るととりあえず子どもはやっていたことをやめるので、親は満足感を得ます。
そうすると「叱る→満足感」という脳の回路ができて、親は満足感を得るために、叱る行動を増やしていくという理屈です。

叱られた子どもはその行動をやめても、その行動がよくないことだと理解したわけではないので、親の目のないところでその行動をします。
ですから、親はその行動がよくないことだと理解させるのが本来のやり方です。
しかし、たいてい子どもは幼いのでまだ理解力がありません。ですから親は叱って、その場限りの満足を得ようとするのです。

叱らなくても、子どもは成長すれば自分で判断して適切な行動ができるようになります。
子どもの成長が待てない親、子どもの判断力を信じられない親が子どもを叱るのです。

最近の子育て法の本を見ると、ほとんどが自己肯定感を持たせるためにほめて育てましょうと書いてあります。
ただ、叱ることを100%否定する本はまだそんなに多くありません。今は過渡期というところです。


叱られて育った子どもは、脳と心にダメージを受け、その影響はさまざまな形で出てきます。
カスハラをすることもそのひとつですが、パワハラ、モラハラにもつながっています。
さらに学校でのいじめの原因にもなっているに違いありません。
親が子どもを叱るというのは弱い者いじめですから、子どもは家庭でされたことを学校でもするのです。


親が子どもを叱る習慣というのは社会全体に悪影響を与えています。
今のカスハラ対策というのは、カスハラが起こってからの対策ですが、カスハラが起こる原因にも目を向ける必要があります。

money-4062229_1280

世界的に貧富の差が拡大しています。
これはトマ・ピケティが著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では「資本収益率>経済成長率」という法則が成立する、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを明らかにした通りです。
共産圏が存在していたときは、資本主義国でも労働者に配慮していましたが、冷戦崩壊後は資本主義が強欲な正体を現し、日本では非正規労働者が増えて労働者の低賃金化が進みました。
アメリカでも富裕層に富が集中し、製造業の労働者には「見捨てられた」という不満が強まり、それがトランプ氏を大統領に押し上げたといわれます。しかし、トランプ政権の閣僚の多くは大富豪で、低所得層のための福祉を削減しようとしています。

トマ・ピケティは、「金持ちはますます金持ちになる」という事実を指摘しただけで、なぜそうなるのかは指摘していません。そのこともあって、格差を巡る議論はつねに迷走します。
たとえば堀江貴文氏はYouTubeチャンネルで、財務省解体デモは無意味であると主張して、「努力しようぜみんな。お前が貧乏なのは財務省のせいじゃねえよ。お前のやる気とか能力が足りねえからだよ」と言いました。
「貧乏なのは努力しないからだ」「能力のある者が高収入なのは当然だ」というのは格差を肯定するお決まりの理屈ですが、「貧乏な家に生まれると高収入になるのはむずかしい」とか「誰でも努力できるわけではない」という反論もあり、議論は堂々巡りになります。


ここは原点にまでさかのぼって考えないといけません。
格差社会を思想の課題として初めて取り上げたのはジャン=ジャック・ルソーです。
ルソーは、人間は自然状態では平等で平和に暮らしていたが、文明とともに不平等が生じたと考えました。
マルクス主義もこれを受け継いでいます。原始共産制では人々は平等に暮らしていたが、豊かになるとともに貧富の差が生じたとしました。
しかし、なぜ文明化したり豊かになったりすると貧富の差が生じるのかは説明されません。

ルソーの『人間不平等起源論』から有名なくだりを引用します。

ある土地に囲いをして「これは俺のものだ」ということを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見出した最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。

持てる者と持たざる者が生じた瞬間を描いています。
もちろんこれは寓話で、実際にそういうことがあったということではありませんが、ここには納得いかないものがあります。
ある土地を「これは俺のものだ」と言うことを初めて思いついた人間はいたかもしれません。しかし、周りの人間がその言葉を受け入れたとは思えません。「それはお前のものじゃない。みんなのものだ」と反論したはずです。そうしないと自分が損をするからです。
では、初めて土地所有を実現した人間はどんな人間だったのでしょう。
ある土地を「これは俺のものだ」ということを思いついた人間は、それを思いつくだけに知的能力の優れた人間だったでしょう。当然弁も立つでしょう。しかし、そんな言葉だけで説得はできません。
ではどうしたかというと、その人間は身体能力にも優れていて、反対する人間を殴りつけて従わせたのです。つまり知的能力と身体的能力ともに優れた人間が初めての土地所有者となったのです。

原始時代と変わらない生活をしている未開社会を調査すると、みんな仲良く暮らしています。狩猟も採集も共同作業です。病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも、狩猟の成果は分配されます。食べ物がないと生きていけないので、これは最低限の福祉、つまり生活保護みたいなものです。
また、子どもの数が多い者にはそれに応じて分配の量も増えます。つまり未開社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産制です。

人間の能力は一人一人違うので、狩猟で多くの獲物を捕る人間とあまり捕らない人間がいたはずですが、狩猟採集社会ではお互い利他心で結びついていたので、その違いは問題になりませんでした。
しかし、農耕が始まり、社会に富が蓄積され、集団が大きくなり、また集団の外の人間との交流が広がると、利己心と利己心がぶつかり合い、争いが起こります。そうすると能力の優れた人間が争いに勝ち、富を獲得し、より高い社会的地位につきます。
そして、富は相続され、社会的地位は世襲されるので、強者はますます強くなります。つまり「生物学的強者」が「社会的強者」になるのです。
そしてあるとき、強者の一人が「この土地は俺のものだ」と言うことを思いついたのです。そうすると、弱者は従わざるをえません。そうして土地所有制度が始まったというわけです。

いずれにしても、人間には生まれつき能力差があり、能力差から貧富の差が生まれ、貧富の差は文化の中で蓄積されてどんどん拡大してきて、現代の極端な格差社会が生まれたと考えられます。
こう考えると、自然状態と文明が連続的にとらえられます。


「人間の生まれつきの能力差から社会格差が生まれた」というのはきわめて単純なことですが、これまでほとんどいわれてきませんでした。

たいして勉強しなくても東大に入れる人がいる一方、必死に勉強しても東大に入れない人がいます。その違いは生まれつきの頭のよし悪しによるのだということは誰もが認識しています。
しかし、「あの人は頭がよい」とは言っても、「あの人は生まれつき頭がよい」と言うことはめったにありません。
というのは「人間には生まれつき能力差がある」とか「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーだからです。

人間の能力は、遺伝によって決まっている部分と、環境の影響によって決まる部分があります。
両者の割合がどんなものであるかは、昔から「氏か育ちか」といわれ、議論されてきました。
昔は育ち、とりわけ教育で決まる部分が大きいと考えられていました。
しかし、科学的研究が進むと、遺伝によって決まる要素の大きいことがわかってきました。
科学的研究というのはたとえば、生まれてすぐに引き離されて別の環境で育った一卵性双生児を研究するといったやり方です。

遺伝の要素が大きいといっても、環境の要素も重要です。優れた運動能力を持って生まれてきた人でも、なにも鍛えなければ宝の持ち腐れです。あまり生まれつき運動能力のない人は、一生懸命練習すればある程度のところまでは行けますが、一流になるのはむりでしょう。
ここには「運」の要素もあります。優れたピアノの才能のある子どもでも、最初のピアノの先生との相性が悪くて、ピアノ嫌いになってしまうということもあります(これも環境要素のうちです)。

ところが、先にいったように「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーです。
というのは、人間の遺伝について語ると、差別や優生思想と結びついてしまうからです。
たとえば「知能はある程度遺伝で決まる」と言うと、「知能の低い子どもは大学に行ってもむだだ。早いうちから職業教育をするべきだ」という意見が出てくる可能性があります。
そのため「君子危うきに近寄らず」で、誰も人間の遺伝について語らなくなっているのです。

『遺伝子の不都合な真実』という本を書いた行動遺伝学者の安藤寿康氏は、長年にわたり双生児研究をしてきましたが、教育心理学会で研究発表をするといつも会場には閑古鳥が鳴き、論争すら起こらなかったそうです。「おそらく、文系の世界では『遺伝子』に触れてはならなかったのでしょう」と書いています。
学界でもこのありさまですから、一般社会ではなおさらです。
いや、一般社会で人間の遺伝について語られることはけっこうありますが、それは決まって差別や優生思想がらみです。
ですから、タブーはますます強化されます。


格差社会が発生した根本原因は人間の生まれつきの能力差にあるので、格差社会について語るなら人間の生まれつきの能力差から語り始めなければなりません。
ところが、誰もが生まれつきの能力差を避けて語るので、議論はすべてピンボケになります。

たとえば「親ガチャ」という言葉があります。
親が貧乏だと子どもは十分な教育が受けられません。DVをする親もいます。これらは親ガチャの外れです。
逆に両親がいつも知的な会話をしていて、家には本がいっぱいあり、子どもは大学にも行かせてもらえるというのは、親ガチャの当たりです。
子どもの能力はたぶんに親によって左右されるということを「親ガチャ」という言葉は表現していて、これは自己責任論を否定する意味があります。
しかし、子どもの能力と親の関係をいうなら、親の能力が子どもに遺伝するということもいわねばなりません。
しかし、それはタブーなので誰もいいません。


人間の遺伝について語ることがタブーになったのは、「遺伝」という言葉にも原因があると思われます。
一般の人は「遺伝」という言葉から、親の能力や性格がそのまま子どもに伝わることを想像してしまいます。しかし、実際にはそのまま伝わるということはありません。それは同じ両親から生まれた兄弟が、見た目も性格も能力もかなり違うことを見てもわかるでしょう。親と子を比べてもかなり違います。トンビがタカを生むこともあるし、タカがトンビを生むこともあります。
したがって、私は「遺伝」ではなく「生得」つまり「生まれつき」という言葉を使ったほうがいいと思います。
生まれつきということも、広くとらえれば遺伝になるので、学者はもっぱら遺伝という言葉を使いますが、各個人にとっては、その性質が親から伝わったということより、その性質が変えられるかどうかのほうが重要なので、生まれつきという言葉を使ったほうがいいはずです。
その能力や性格が生まれつきであると思えば、それを変えようというむだな努力をしなくてすみます。
このことは親にとっても重要です。親の役割は子どもをとりあえず全面的に受け入れることです。子どもがうるさいので、おとなしい子どもにしようというのは間違った考えです。子どもがうるさいのは生まれつきの性質だと思えば、受け入れられるはずです。また、あまり成績のよくない子どもをよい学校に入れようとむりに勉強させることもなくなるのではないでしょうか。

また、能力がある程度生まれつきで決まるといっても、鍛えれば伸びることも事実です。能力といっても多様ですから、自分の能力で優れたものはなにかを見つけ(たいていそれは好きなものであることが多いはずです)、早いうちからそれを鍛え、長く続けていれば一流の域に達し、高収入につながることもあるでしょう。


「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーなために、社会にさまざまな混乱が生じています。
学校では、知的障害の子ども以外はみな同じ能力であるという前提で授業をしているので、能力がやや劣った子ども、「境界知能」といわれる子どもは授業から置き去りにされ、社会に不適応になり、犯罪者になったりします。このことは『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口 幸治著)という本によって注目されました。
一方では、頭がよくて授業が退屈だという子どももいるわけで、両方で社会の損失を招いています。

格差社会についての議論が迷走するのも、「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーになっているからです。
そのため「貧乏なのは努力しないからだ」という主張が横行し、生まれつき能力の足りない人が自己責任論で追い詰められています。

人間の生物学的能力差はわずかなのに、社会における収入格差は膨大です。
文明の初めに格差が生じて、拡大してきた軌跡を振り返れば、適正な格差がどんなものであるかについて議論ができます。



なお、「人間の能力は遺伝である程度決まっている」というのは科学的な事実です。科学的事実を言うことがなぜタブーになるのでしょうか。
その原因は、ダーウィンが『種の起源』の12年後に出版した『人間の由来』の間違いにあります。
これについては「道徳観のコペルニクス的転回」で書いています。

hospital-8786632_1280

「失われた30年」で日本から失われたものは経済力だけではありません。
科学技術力は経済力以上に失われました。
科学技術の注目論文の数で日本は世界ランキングを落とし続けています。

スクリーンショット 2025-02-15 165409

日本の科学技術力低下の原因として指摘されるのは、科学技術振興予算が少ないことです。
国の経済が成長しないと予算も増えないのは当然です。
しかし、科学技術力は経済力以上に衰退しています。これはどうしてでしょうか。

2004年に国立大学が法人化されました。それを契機に日本の科学技術力は低下し始めました。これは論文数の推移を見ても明らかです。

スクリーンショット 2025-02-15 164731

国立大学法人化とはどういうものなのでしょう。
中屋敷均神戸大学大学院農学研究科教授の『日本の科学研究が衰退している「2つの理由」』から一部を引用します。

大学という現場にいると、この10年に限らず、2004年の国立大学法人化以降、研究環境は悪化の一途をたどっているというのが実感である。この期間に起こった変化の一つは、大学への競争原理、つまり淘汰圧の導入である。

以前の大学は、贅沢を言わなければ、大学から支給される研究費だけで、細々とではあってもなんとか研究を続けることができた。しかし、大学の法人化以降、「選択と集中」の掛け声の下に改革が進み、それが難しくなっている。運営費交付金と呼ばれる国からの基本給のようなお金がどんどん減り、営業成績に準じたボーナスのような競争的資金と言われる予算が増えた。

運営費交付金の大部分は、職員の給与やその他、大学運営に必須な部分に使われており、結局減らされたのは教員の研究費である。その代わりに競争的資金による研究費を増やすことで、やる気のある研究者は、競争に勝ち抜いて自分でお金を稼ぎなさいというのが政府の思想である。

雇用の形態も競争的になった。特に若い研究者を中心に雇用が任期付きになり、若手研究者は社会的に不安定な身分となってしまった。成果を出し続けないと、任期が切れた際に次の職がない。

大学教員は身分が安定しているので、ろくに研究もしない者がいるという批判が昔からありました。
毎年同じ講義をする教員がいるなどということもよくいわれます。
文科省としては、競争原理を導入することで研究者に仕事をさせようとしたのでしょう。

人を働かせるときに有効だと信じられている方法は、よく働いた者には昇給やボーナスで報い、働きの悪かった者には減給や降格で報いるというものです。つまり賞と罰、アメとムチで働かせるというやり方です。
このやり方は社会の基本となっています。
しかし、このやり方はどんな場合でも有効なわけではありません。むしろマイナスになることがあります。


心理学者のエドワード・L・デシは1970年代の初めにある心理実験を行いました。学生をふたつのグループに分け、どちらにもソマというパズルを解いてもらいます。ソマというのは、ルービックキューブを簡単にしたようなもので、知恵の輪に近いともいえます。デシ自身もソマにはまったことがあるそうです。ひとつのグループには、ソマのパズルがひとつ解けるごとに1ドルの報酬が与えられ、もうひとつのグループには報酬は与えられません。
30分パズルを解いたところで実験の監督者は実験の終了を告げ、なにをしてもいいのでしばらく部屋で待機しているように言います。部屋には雑誌などが置かれています。そうすると、報酬をもらっていたグループは、雑誌を読む者が多く、パズルを解き続ける者は少数でした。報酬のなかったグループは、多くの者がパズルを解き続けました。

パズルはもともとおもしろいものですから、報酬がなくてもやる人間がいるのは当然です。
ところが、報酬をもらった人間は、あまりおもしろさを感じなくなるようなのです。
この報酬のマイナス効果は、最初は心理学者にもあまり信じられなかったそうですが、デシは何度も実験を繰り返して、その結果「外的報酬の悪影響」(アンダーマイング効果)があることを明らかにしました。

アメとムチによる「外発的動機づけ」は、実は「内発的動機づけ」を阻害してしまいます。
内発的動機づけとはなにかというと、
・「よい仕事ができた」という喜び
・「よい仕事をしてくれた」と感謝される喜び
・前よりもよい仕事ができるようになったという成長の喜び
といったものです。
「やりがい」とか「働きがい」というとわかりやすいかもしれません(これに当たる言葉は外国にないという説があります)。
デシはその著書の中で「外から動機づけられるよりも自分で自分を動機づけるほうが、創造性、責任感、健康な行動、変化の持続性といった点で優れていたのである」と書いています。


内発的動機づけを高める上でたいせつなのは「自律性」です。つまり自分のことを自分でコントロールしているという感覚です。
アメとムチによる動機づけがだめなのは、他人にコントロールされているという感覚になるからです。
セールスマンが売り上げに応じて歩合給を得るというのはマイナスになりません。他人にコントロールされていないからです。

もっとも、単純作業の仕事というのは内発的動機づけがむずかしいとされます。
ピラミッドをつくる奴隷は、王の墓をつくりたいという動機がないので、文字通りムチによって働かせるしかありません。

『Humankind 希望の歴史 』(ルトガー・ブレグマン著)という本には、内発的動機づけの経営で成功したオランダの在宅ケア組織「ビュートゾルフ」が紹介されています。介護という仕事は、人を相手にする仕事で、直接感謝もされるので、比較的やりがいを感じやすい仕事だといえるでしょう。

もっぱら内発的動機づけによって仕事をしているのが芸術家です。芸術家にアメとムチで仕事をさせようとすると、かえって仕事の質が低下するでしょう。
利益を度外視して仕事をするような“こだわりの職人”も似たようなものです。


では、科学者はどうでしょうか。
科学者が研究をする動機はおそらく、真理を探究したいとか、人類の進歩に貢献したいとか、科学史に名前を刻みたいとか、世間から賞賛されたいといったことでしょう。
つまりもともと高い内発的動機づけがされているのです。
独創的な発想もそこから出てくるのでしょう。
そこにアメとムチで外発的動機づけを行うことにしたのが文科省です。


研究者は、研究計画書を提出して承認されなければなりませんが、これまではかなりいい加減であったようです。
それが厳密化されて、研究計画書を書くのに時間がかかって研究時間が少なくなるという弊害が生じています。

ちなみに2021年のノーベル物理学賞に選ばれた真鍋淑郎氏は、日本生まれで東大卒ですが、アメリカに渡って気象をコンピュータによって解析する研究をし、現在は国籍を日本からアメリカに変更しています。
真鍋氏は受賞の記者会見で「私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありません」と発言し、日本の研究者をざわつかせました。

ともかく、研究計画が承認されるか否かが重大問題になり、また身分も不安定になったので、研究者は内発的動機づけが困難になりました。
それが日本の科学技術力が低下した大きな原因です。

なお、アメとムチによる動機づけは、怠けている研究者には有効でしょうが、価値ある研究成果を出しそうな優秀でやる気のある研究者にはマイナスでしかありません。


文科省はなぜこのような“改革”をしたのでしょうか。
自民党は新自由主義の政党なので、新自由主義の競争原理と成果主義を科学技術政策にも持ち込んだのでしょう。
大学法人化が失敗だということが明らかになっても改めようとしないのは、イデオロギーに固執しているからです。

さらに、自民党は科学者や学者に敵意を持っているようです。
それは日本学術会議に対する態度を見ればわかります。
科学者へのリスペクトのない政治家が国を治めては科学技術力が低下するのは当然です。


(内発的動機づけについてわかりやすく解説しているサイトはこちら)
「内発的動機付けとは|具体例をわかりやすく解説」

このページのトップヘ