村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 躾か虐待か

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このごろなにかとカスハラ(カスタマー・ハラスメント)が話題です。
東京都は全国初のカスハラ防止条例をつくり、4月1日から施行されます。
政府は3月11日、カスハラ対策を企業に義務付ける労働施策総合推進法などの改正案を閣議決定しました。パワハラやセクハラはすでに企業の防止義務がありますが、カスハラに関する法規制はこれまでありませんでした。
カスハラが増えているのかどうかはよくわかりませんが、治安のいい日本で大声で店員を威圧するようなカスハラ行為が悪目立ちすることは確かです。

女性508人を対象にしたネット調査で「デートで最もされたら嫌なことを教えてください」という質問にもっとも多かったのは「店員への態度が悪い」22.8%でした(2位は「時計やスマホばかりを見る」18.7%)(1000人に聞いた「デートでされたら嫌なこと」1位は? | マイナビニュース)。

恋愛カウンセラーの堺屋大地氏は、年間約1500件のペースで恋愛相談を受けてきた経験から「飲食店デートで嫌われる男性」として筆頭に「偉そうな上から目線で店員に横柄な態度を取っている」を挙げ、その次に「料理が遅いなど些細なことで激しくクレームを入れる」を挙げています(「飲食店デートで嫌われる男性」が実はよくやっている10の行動 | 日刊SPA!)。

デートのときにもカスハラ行為をする男がかなりいるようです。


カスハラをするのはどんな人間でしょうか。
カスハラ人間は、自分は相手より上だと思ってやっています。つまり弱い者いじめです。
ですから、デートで店員にカスハラをする男は、デート相手の女性にはそんなことをしなくても、結婚するとパワハラ、モラハラ、DVをする可能性があります。
それから、カスハラ人間は、出発点は正当なクレームを言っている場合が多いと思われますが、その主張のしかたが異常に激しく、しつこいのです。だからカスハラになります。
なぜ激しく主張するかというと、自分は正義だと思っているからです。
ここがカスハラの厄介なところです。

カスハラ人間は、どうしてそういう人間になったのでしょうか。

この答えはきわめて単純です。
その人間は子どものころ親から(親とは限りませんが)激しく叱られて育ったのです。
親が子どもを叱るというのは弱い者いじめです。しかも、親は悪いことをした子どもを叱るのは正義だと思っています。
そのため、一度叱るだけでなく、しつこく叱って、とことん子どもを追い詰めるような親もいます。
「虐待の連鎖」という言葉があって、虐待されて育った子どもは親になると自分の子どもを虐待することがありますが、虐待が第三者に向かうとカスハラになるわけです。
つまりカスハラ人間は、親からされたことを他人にしているだけなのです。

日常生活で激しく怒っている人を見かけることは、カスハラ以外はめったにありません。
しかし、ひとつ例外があります。親が子どもに対して怒る場合です。これは「しつけ」として社会的に正当化されているので、しばしば見かけます。
家庭内など人目につかないところではもっと頻繁に行われています。
カスハラをする人間が多くなるのは当然です。


子どもに対する暴力・暴言が子どもの脳を萎縮・変形させることは明らかになっています。
今では暴力あるいは体罰を肯定する人はほとんどいません。
しかし、暴言については「叱る」と称して肯定されています。
たとえば公共の場で子どもが騒いでいて迷惑だったという話がネットでよくあります。そういうときは親が叱るべきだという声が圧倒的です。
さらには、よその子どもであっても叱るべきだという声もあります。
叱ることは肯定されているどころか、むしろ義務とされているのです。

子どもを叱っても、子どもが親の思う通りになるとは限りません。
そうするともっと激しく叱ることになります。
子どもが宿題をやっていないということで叱ると、子どもは叱られたくないので、宿題をやったと嘘をつくようになります。そうすると今度は宿題と嘘と叱る対象が増えます。

子育ての悩み相談でよくあるのは、「子どもを叱ってばかりいて、やめられない。こんなに叱っていると悪影響があるのではないか心配だ」というものです。
最近は「叱る依存」という言葉があって、依存症のひとつに数えられたりします。
子どもを叱るととりあえず子どもはやっていたことをやめるので、親は満足感を得ます。
そうすると「叱る→満足感」という脳の回路ができて、親は満足感を得るために、叱る行動を増やしていくという理屈です。

叱られた子どもはその行動をやめても、その行動がよくないことだと理解したわけではないので、親の目のないところでその行動をします。
ですから、親はその行動がよくないことだと理解させるのが本来のやり方です。
しかし、たいてい子どもは幼いのでまだ理解力がありません。ですから親は叱って、その場限りの満足を得ようとするのです。

叱らなくても、子どもは成長すれば自分で判断して適切な行動ができるようになります。
子どもの成長が待てない親、子どもの判断力を信じられない親が子どもを叱るのです。

最近の子育て法の本を見ると、ほとんどが自己肯定感を持たせるためにほめて育てましょうと書いてあります。
ただ、叱ることを100%否定する本はまだそんなに多くありません。今は過渡期というところです。


叱られて育った子どもは、脳と心にダメージを受け、その影響はさまざまな形で出てきます。
カスハラをすることもそのひとつですが、パワハラ、モラハラにもつながっています。
さらに学校でのいじめの原因にもなっているに違いありません。
親が子どもを叱るというのは弱い者いじめですから、子どもは家庭でされたことを学校でもするのです。


親が子どもを叱る習慣というのは社会全体に悪影響を与えています。
今のカスハラ対策というのは、カスハラが起こってからの対策ですが、カスハラが起こる原因にも目を向ける必要があります。

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厚労省の発表によると、昨年の小中高生の自殺者数は527人で、前の年から14人増え、1980年以降で最多となりました。
一方、自殺者の総数は2万268人で、前の年より1569人減り、1978年の統計開始以降2番目に少なくなりました。
自殺者総数はへっているのに、少子化が進む中で子どもの自殺数は増え続けているわけです。

中日スポーツの記事によると、1月30日のTBS系「THE TIME,」で安住紳一郎アナウンサーが「あまり勝手なことは言えませんが、1人の大人として、やっぱり死にたくなったら逃げるしかないと思います。恥ずかしいことではないので、とにかく状況から逃げてください。それしか方法はないと思います。せっかくの命ですから、どうぞ自分の命は大事にしてください」と呼びかけました。
これはXで話題になり、賛同の声が多く上がったということです。

こういうところに価値観の変化を感じます。
ひと昔前なら、「逃げても問題は解決しない」「現実逃避はよくない」「死ぬ気になったらなんでもできる」などと言われたものです。

ところで、安住アナはなにから逃げろと言ったのでしょうか。
安住アナはその少し前に「(自殺の)原因はやはり学校の問題が一番ということのようですけれども」と言っているので、学校から逃げろということのようです。
死にたい理由が、学校でいじめられているとか、先生から差別されているとか、学校生活が合わないとかなら、学校から逃げるのが正解です。

自殺の原因が家庭つまり家族関係にある場合はどうでしょうか。
次の表は文科省が2021年にまとめた「コロナ禍における児童生徒の自殺等に関する現状について」という資料です。令和元年はコロナ以前、令和2年はコロナ発生後ということです。
自殺原因というのは遺書がない限り推測になりますが、これは自殺直後に警察が遺族などに聞き取り調査をした結果に基づいています。
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いじめは「その他学友との不和」に含まれますが、そんなに多くありません。

「学業不振」と「その他進路に関する悩み」は学校問題に分類されていますが、成績が悪いからといって、それだけで自殺する子どもがいるでしょうか。
親からよい成績を取ることを期待され、子どもがその期待に応えられないとき、子どもは悩むのです。
「進路に関する悩み」も同じです。親は一流校に進むことを期待し、子どもはその実力がないか別の学校に進みたいというとき、子どもは悩みます。
こういうケースは、最近できた言葉で「教育虐待」といえるでしょう。

「親子関係の不和」とか「家族からのしつけ・叱責」というのは、そのまま子どもへの虐待です。
ということは、子どもの自殺の理由としてもっとも大きいのは、学校でのいじめなどではなく、親による虐待です。


家庭で虐待されたら家庭から逃げなければなりませんが、ここにふたつの困難があります。
ひとつは、子どもは自分が親から虐待されているという認識が持てないことです。
医者などが子どもの体にアザがあるのを見つけて「どうしたの?」と聞いても、子どもは決して「親にたたかれた」などとは言いません。「自分で転んだ」などと言って、必ず親をかばいます。
なぜそうするのかというと、本能としかいいようがありません。哺乳類の子どもは親に絶対的に依存するように生まれついているのです。

子ども時代だけではありません。成長しておとなになっても、自分が虐待されたという認識がないために、理由のない生きづらさを感じているという人が少なくありません。自身の被虐待経験を自覚するには、なんらかの心理学の手助けが必要なようです。「毒親」とか「アダルトチルドレン」などの言葉を知ったことで自分は親にひどいことをされていたのだと気づいたということはよく聞きます。

今は世の中全体が幼児虐待の存在から目をそむけています。「学業不振」という項目があるのも、子どもが成績の悪いことを悩んでいたという話を聞いたとき、そのまま信じてしまったのでしょう。その背後に親の過度の期待や圧力があったのではないかと探れば、また別の結果が出たに違いありません。

もうひとつの困難は、子どもが家から逃げたくなったとしても、どこに逃げたらいいかわからないということです。
親に虐待された子どもは児童相談所が対応し、場合によっては一時保護所で保護し、さらには児童養護施設に移すということになりますが、子どもが一人で行ったら、親の言い分も聞いてから判断するので、子どもより親の言い分を信じる可能性が高いでしょう。
警察に行っても、たいていは家出した子どもとして家に送り返されてしまいますし、うまくいっても児童相談所に送られるだけです。

最初から子どもを救おうという意志を持っているNPO法人などの民間組織のほうが頼りになりますが、活動は限定的です。一般社団法人Colaboは、対象が女の子限定ですが、家出少女に住む家を提供するなど幅広い活動をしてきました。しかし、反対勢力の攻撃を受けて、東京都の資金援助が絶たれてしまっています。

そこで、家で虐待された子どもはトー横やグリ下などに集まってきます。そこには似た境遇の仲間がいるからです。犯罪に巻き込まれることが懸念されますが、家にいることができず、行くところもないことによる必然の結果です。

こども家庭庁は「こどもまんなか社会」というスローガンを掲げていますが、今の社会の実態は「おとなまんなか社会」で、はみ出た子どもの存在は無視されます。


子どもが自殺したくなったとき、その原因が親の虐待にあるということが認識しにくいことと、認識できても逃げていく先がないという、ふたつの困難があるわけですが、これは実は一体のものです。誰もが幼児虐待を認識しにくいので、その対策も講じられていないのです。

今は幼児虐待というのは、子どもを殺したり大ケガをさせたりして新聞ネタになるようなことだと認識されています。つまり特殊な家庭で起こる特殊なことだというわけです。
虐待を認識しないだけでなく、積極的に否認したいという心理も存在します。自分が親から虐待されたトラウマをかかえていて、それを意識下に抑圧している人にそういう心理があります。


しかし、新聞ネタになるようなことは氷山の一角で、水面下に虐待は広範囲に存在します。
そのため子どもの自殺も多いのです。
私は「子ども食堂」みたいに「子ども宿泊所」を多数つくって、家庭から逃げ出した子どもをいつでも受け入れるようにすればいいと考えましたが、実はそういうものはすでにありました。児童相談所内の一時保護所が慢性的に不足していることから、民間の運営する「子どもシェルター」というものがつくられていたのです。
ところが、これは数がもともと少ない上に、行政からの補助金が減額されたり打ち切られたりし、また人手不足などから休止しているところも多いそうです。
これでは「子ども宿泊所」をつくっても同じことかもしれません。


多くの親が子どもを虐待していることはおとなにとって“不都合な真実”なので、これまでないことにされてきました。
子どもの自殺をなくすには、“不都合な真実”を直視しないといけません。

最近は男女関係の見直しが進んでいます。
昔は当たり前とされたことが今ではセクハラや性加害として告発されます。
これと同じことが親子関係でも起こらなければなりません。
少し前まで子どもへの体罰は当たり前のこととして行われていましたが、今では身体的虐待として告発されます。
今も子どもを叱ることが当たり前に行われていますし、子どもに勉強を強いることや習い事を強制することも当たり前に行われています。
しかし、このために子どもは傷ついています。
こうしたことも今後は変わらなければなりません。

今は子どもの発達の科学的研究が進んでいるので、教育やしつけのあり方も科学的なやり方が示せるようになっています。
こども家庭庁はなんの役割も果たしていないと批判されがちですが、ここはこども家庭庁の出番です。

とりあえずスローガンから見直してほしいものです。
「おとなまんなか社会」はだめですが、「こどもまんなか社会」も同様にだめです。
おとなも子どもも同じように存在が認められる「おとなと子ども平等社会」を目指すべきです。


前回の「石破首相の『楽しい日本』をまじめに考える」という記事で、「楽しい家庭」と「楽しい学校」をつくることが必要だと述べました。今回の記事はそれを発展させたものです。
家庭のあり方は社会のいちばん根底の部分ですから、なによりも優先して取り組まねばなりません。

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滋賀医科大学の2人の男子学生が当時21歳の女子大学生に性的暴行をした罪に問われた裁判があり、大津地方裁判所は今年1月にそれぞれに懲役5年と懲役2年6か月の実刑判決を言い渡しました。
谷口真紀裁判長は「体格で勝る被告らが、複数人で暴行や脅迫を加えて繰り返し性的な行為に及んでいて、被害者の人格を踏みにじる卑劣で悪質な犯行だ。被害者の屈辱感や精神的苦痛は著しい」と指摘しました。

ところが12月18日、大阪高裁は大津地裁判決を破棄し、両被告に無罪を言い渡し、飯島健太郎裁判長は「女子大学生が同意していた疑いを払しょくできない」と述べました。

この逆転無罪判決に対して怒りの声が上がり、X上では「#飯島健太郎裁判長に抗議します」がトレンド入りし、「大阪高裁の“医大生による性的暴行”逆転無罪に対する反対意思を表明します」というオンライン署名活動も行われました。

このときの性行為ではスマホによる動画撮影が行われていました。男2人と女1人で動画撮影が行われていたというだけで、異様な状況だということがわかります。
しかも、動画には女性が「やめてください」「絶対だめ」「嫌だ」と言っているのが映されていました。
しかし、判決では「拒否したとは言い切れない」とし、そもそも被告男性の家に入ったことを性的同意があったと見なしました。

いまだにこんな価値観があるのかと、信じられない思いです。
大津地裁の判決は女性裁判長でしたが、この大阪高裁の判決は男性裁判長だということが大きいでしょう。
それに、裁判官とか検察官は男女関係や親子関係についておかしな感覚の人が少なくありません。


大阪地検の元検事正・北川健太郎被告は「これでお前も俺の女だ」と言いながら部下の女性をレイプし、女性は「抵抗すると殺される」という恐怖を感じたそうです。
北川被告は初公判では容疑を認め、謝罪の言葉も口にしていましたが、その後否認に転じ、弁護士は「北川さんには、女性が抵抗できない状態だったとの認識はなく、同意があったと思っていた」と説明しました。
被害女性は記者会見で涙ながらの訴えをしましたが、北川被告には届かないようです。


2019年3月には、あまりにもひどいトンデモ判決があったので、私はこのブログで「裁判官を裁く」という記事で取り上げたことがあります。
その判決についてのNHKニュースを紹介します。

今回のケースでは、父親が当時19歳の実の娘に性的暴行をした罪に問われました。
裁判では、娘が同意していたかどうかや、娘が抵抗できない状態につけこんだかどうかが争われました。
 
ことし3月26日の判決で、名古屋地方裁判所岡崎支部の鵜飼祐充裁判長は娘が同意していなかったと認めました。
また、娘が中学2年生の頃から父親が性行為を繰り返し、拒んだら暴力を振るうなど立場を利用して性的虐待を続けていたことも認め「娘は抵抗する意思を奪われ、専門学校の学費の返済を求められていた負い目から精神的にも支配されていた」と指摘しました。
 
一方で、刑法の要件に基づいて「相手が抵抗できない状態につけこんだかどうか」を検討した結果、「娘と父親が強い支配による従属関係にあったとは言い難く、娘が、一時、弟らに相談して性的暴行を受けないような対策もしていたことなどから、心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」として無罪を言い渡しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190513/k10011914731000.html


論理的にもおかしいのは明らかです。 こういうひどい判決をなくしていくには、判決を出した裁判長個人を批判するしかないということを書きました。
ただ、当時は裁判官や検察官個人を批判するということはほとんど行われませんでした。
ですから、今回「#飯島健太郎裁判長に抗議します」というハッシュタグがトレンド入りしたのには時代の変化を感じます。


裁判官や検察官におかしな人が多いのには理由があります。
スポーツマンタイプという言葉があるように、スポーツ選手には活動的で陽気といった性格傾向があります。政治家や芸術家や学者などにもそれぞれ特徴的な性格傾向があり、これを社会的性格といいます。
法律家にも社会的性格があって、それは権威主義的パーソナリティであると考えられます。
権威主義的パーソナリティというのは、ウィキペディアによると「硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格(パーソナリティ)のこと」とされます。
つまり強者の側に立って弱者を攻撃する性格ということです。
裁判官や検察官というのは人を裁き罰する職業です。世の中には「人が人を裁くのはおかしい」と考える人もいて、そういう人は裁判官や検察官にはならないでしょう。ましてや日本では死刑制度があるのでなおさらです。
裁判官や検察官になるのは、人を裁き罰することが普通にできる人か、好んでする人です。
弁護士は人を裁くのではなく、どちらかというと人を助ける職業ですから、弁護士になるのはまた別のパーソナリティの人です。
このように職業によって性格の偏りがあり、それがおかしな判決の背景にあります。


性加害、つまりレイプをする男というのは、どうしてそういうことをする人間になったのでしょうか。
相手が拒否したり苦痛を感じたりしているのがわかっていて、そこに性的興奮を覚えるというのはかなり異常なパーソナリティです。
昔は強い性欲があるからレイプするのだと考えられていましたが、今は相手を支配し攻撃する快楽のためにレイプするのだと考えられています。つまり性欲の問題ではなくパーソナリティの問題だということです。

殺人などの凶悪犯の脳を調べると、脳に異常の見つかることが多いことは知られています。
性犯罪者の脳にも異常の見つかることが多いとされます。
問題は、脳の異常が生まれつきのものか、生まれたのちに生じたものかです。
生まれつきのものなら更生は困難ですし、そもそも罰することに意味があるのかということにもなります。
しかし、最近は幼児期に虐待されると脳が委縮・変形することがわかってきました。
そうすると、犯罪者に見られる脳の異常は、幼児期の被虐待経験によってもたらされたものもあるに違いありません。

ジョナサン・H. ピンカス著『脳が殺す』という本は、神経内科医が150人の凶悪な殺人犯と面談し、動機を詳しく調査した本です。
それによると、ある人間を凶悪犯に仕立てる真の動機は「幼児期の虐待」「精神疾患」「脳(前頭葉)の損傷」の三つが複合したものだということです。
少なくとも11人の犯罪者の成育歴と犯行の実際が詳しく書かれていますが、どの事例も犯罪者は幼児期にすさまじい虐待を受けています。これを読んだ印象では、「脳の損傷」というのは虐待によってもたらされたものではないかと思えます。
『脳が殺す』がアメリカで出版されたのは2001年のことで、当時はまだ被虐待経験が脳の損傷を生むという因果関係がはっきりしていなかったようです。今となっては「幼児期の虐待」と「脳の損傷」は同じものと見なしていいのではないでしょうか。


人が権威主義的パーソナリティになることにも幼児虐待が関係しています。
「子どもは親に従うべきだ」という権威主義的な親に育てられると、子どもは権威主義的パーソナリティになりやすくなります(反抗して逆方向に行ってしまう場合もありますが)。
親が子どもを力で支配し、きびしい叱責をしたり体罰をしたりしていると、その子どもが親になったときに自分の子どもに同じことをするだけでなく、恋人や配偶者にDVをする可能性がありますし、もし裁判官になればレイプやDVに甘い判決を書く可能性もあります。

虐待の影響はさまざまな形となって現れます。
たとえば人がなぜ変態性欲を持つようになるのかはよくわかっていませんが、少なくともサドマゾヒズムについては幼児体験が影響していることが考えられます。洋物のSMのポルノでは激しいむち打ちでみみずばれができるようなものがいっぱいありますが、日本のAVのSMものは縛りが主体で、むち打ちはつけ足しのような感じです。これは西洋では子どもに対するむち打ちが広く行われてきた影響でしょう。


ところが、司法の世界では幼児虐待がきわめて軽視されています。
日本でも凶悪犯はおしなべて幼児期に虐待を経験しています。
しかし、弁護側が被告の幼児期の虐待を説明して情状酌量を求めても、判決にはほとんど反映されません。

『脳が殺す』は犯罪の動機を「幼児期の虐待」「精神疾患」「脳(前頭葉)の損傷」の複合であるとしています。
ところが、日本の司法では(日本の司法に限りませんが)、「自由意志」を主な犯罪の動機と見なしています。
まったく非科学的な態度です。これでは犯罪対策も立てられませんし、更生プログラムもつくれません。


今の世の中の最大の問題は、家庭の中がブラックボックスになっていることです。
そこには「男女平等」もなければ「子どもの人権」もなく、虐待があっても隠されます。
そのため家庭の中で暴力や強権的支配が再生産され続け、そこから凶悪犯やレイプ犯やおかしな判決を書く裁判官が出てきます。
社会改革と同時に家庭改革を進めなければなりません。

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3月17日放映のTBS系「ドーナツトーク」で女優の水野美紀さんが「夫婦円満の秘訣」として言った言葉が印象的でした。子どもが生まれたばかりの霜降り明星のせいやさんに対して言った言葉です。

「女の人は産んだから子どものことがわかるだろうって思いがちですよね。男の人は抱っこするのも怖いっていう人がいるんですけど、それはお母さんも同じなんですよ。こっちもほんとうにわからないし、すごい不安抱えながら必死でお世話していると、子どもをかわいいなって眺める瞬間ってないんですよ。唯一お母さんが肩の力を抜いて子どもをかわいいなって眺められる瞬間って、お父さんが抱っこしてるときなんですよ。だから、いっぱい抱っこしてあげてほしいです、赤ちゃんを」

この発言に周りから賛同の拍手が起こり、ヒコロヒーさんが「こういうのをネットニュースにしてほしいですよね」と言うと、水野さんが「ほんとにこういうのはならない。“ご意見番が怒ってる”みたいなのばっかり」と応じて、笑いにしました。


これは夫婦の育児分担の話になっていますが、私は母親も育児のことはわからないということが印象に残りました。
母親はまったく育児初心者のところから育児を始めなければならないのです。
父親が協力してくれたら助けになるとはいっても、父親もまた育児初心者です。
育児初心者二人ではあまり意味がなくて、できれば初心者とベテランの組み合わせでありたいところです。

新卒で会社に入ったら、先輩のやり方を見ながら少しずつ仕事を覚えていきます。いきなり大きな仕事を任されることはないはずです。
ところが、育児については、なんの経験もないのにいきなり“命”という大きなものを任されるのです。

こんなことになったのは、核家族化が進んだからです。
本来の人間社会ではこんなことはありませんでした。
「本来の人間社会」とはなにかというと、狩猟採集社会です。
人類の歴史は600万年とも700万年ともいいますが、農耕牧畜が始まったのは約1万年前です。
それまで人類はずっと狩猟採集生活をしてきて、それに適応するように進化してきました。

狩猟採集社会での子育ては、共同繁殖ないし共同養育といわれるものです。
もっとも、最近は「共同養育」という言葉はもっぱら「父母が離婚後も共同で子育てをすること」という意味で使われているようなので、「共同子育て」といったほうがいいかもしれません。

『「核家族は子育てに適していない」と狩猟採集社会を分析した研究者が主張』という記事から部分的に引用します。
ケンブリッジ大学考古学部で進化人類学を専門とするニキル・チョーダリー氏らは、コンゴ共和国に住む狩猟採集民のムベンジェレ族の文化を調査・分析した結果を発表しました。
(中略)
調査の結果として、ムベンジェレ族の乳児は最大15人の異なる養育者から1日約9時間、丁寧な世話と身体的接触を受けていることが判明しました。多数の擁護者がいることによって、子どもが泣きだした際の50%は10秒以内に誰かが対処し、25秒以上対応が遅れたケースは10%に満たなかったとのこと。また、「乳児の3メートル以内に誰もおらず、視線が合わない」という孤独な状況に乳児が置かれた時間は日中の12時間で平均して14.7分のみで、常に誰かの近くに置かれた状態にあったと分析されています。
(中略)
母親以外の複数の養育者が育児に積極的にかかわるスタイルは動物学で「アロマザリング」と呼ばれており、乳児や幼児の健全な心理学的発達をもたらす可能性が高いと考えられてきました。
(中略)
また、同様の子育てスタイルはムベンジェレ族だけではなく、中央アフリカのピグミー、ボツワナのブッシュマン、タンザニアのハヅァ族、ブラジルのヤノマミ族など、さまざまな地域の狩猟採集社会でも共通してみられるもので、乳児が日中の半分以上を母親以外に抱かれていたり、母親が狩りにでかける時間を親戚の家で集まったりと、集団的子育てが行われていることが過去の研究で示されています。

長谷川眞理子総合研究大学院大学学長はわが国の進化生物学界の第一人者でもありますが、「進化生物学から見た"子ども"と"思春期"」において、このように語っています。
また、人類進化の95%は狩猟採集民だったわけですけれども、その中で誰が子どもの世話をするかというと共同繁殖です。いろんな人がかかわって育てていて、親、特に母親が1人でケアするのが普通という社会は存在しません。それから、小さい子たちの周りには異年齢の集団、ちょっと上の子どもたちがたくさんいるし、血縁、非血縁を問わず、いろんな大人がいて、一緒に暮らしている。そういう人たちが入れ替わり立ち替わり子どもを見ているし、食料自体も、親がとってきたものだけでなく、みんながシェアをするので、みんなに支えられて子どもは育つというのが人間の原点です。そうでないとやっぱり無理なんです。脳が大きい、すごく時間をかけて育てなきゃいけない、でも、何もできない時期が何年も続くという存在を、血縁の一番濃い親だけが全部やるなんて無理で、単に食べて生き続けるということだけとっても、さまざまなサポート、ネットワークがあります。

去年出たProceedings of the Royal Society だったと思うのですが、その論文で、狩猟採集民の集団の構成を調べると、血縁者だけじゃなくて、非血縁者がいっぱいいるし、お母さんの友達とか、お父さんの友達とか、お父さんの弟とか、血縁を超えたいろんなソーシャルネットワークが常に流動的にあることがわかりました。お互いに食べ物をサポートし合う関係というのが、子どもをサポートし合う関係でもあり、みんなでリスクも責任も分散してヒトの子どもも育つということなのでしょう。だから、原点はこれなんだということをもう一回、社会福祉の制度の中に考え入れないとダメだと私は思います。
今は核家族の中で母親と父親が、ひどいときには母親が一人で子育てをしているので、母親が育児ノイローゼになるのはむしろ当然かもしれません。
祖父母が育児の手伝いをしてくれる場合は恵まれていますが、三世代同居世帯がいいかというと、そうとは限りません。祖父母がいると両親の独立や自由が制限されるからです。

核家族化の方向へ進んできた文明は針路を間違ったようです。これからは軌道修正をはからなければなりません。
ところが、今の国の政策はさらに間違った方向へ進もうとしています。


2006年9月に第一次安倍政権が発足し、同年12月に教育基本法が改正されました。
このときは「愛国心条項」が加わったことが批判されましたが、家庭教育に関する第十条も新設されました。
(家庭教育)
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

保護者に対しては、憲法で学校教育を受けさせる義務が規定されていましたが、ここで家庭教育の責任も規定されたのです。
「家庭教育を支援する」という言葉もありますが、これは親の負担を軽減するものではありません。むしろ負担を重くするものです。

たとえば文科省は改正教育基本法に基づき「早寝早起き朝ごはん」運動というものを展開し、全国協議会をつくって今もやっています。
朝ごはんを毎日食べている子どもはそうでない子どもより、学力調査の正答率や体力合計点が高いというデータを示し、“科学的”にも「早寝早起き朝ごはん」が子どもの健康によいと主張するのですが、では、朝ごはんは誰がつくるかというと各家庭であるわけです。
これでは親の負担が増えるだけです。

では、どうすればいいかというと、共同子育ての観点を取り入れることです。
たとえば朝ごはんが食べられる「子ども食堂」をつくるとか、各家庭に朝ごはんを配達するとか、学校給食で朝ごはんを提供するとかするのです。そうすれば親の負担は軽減されます。


2012年からは自治体で家庭教育支援条例を制定する動きが顕在化し、2023年4月時点で10県6市で制定されました。
こうした動きの背後にあるのは日本会議や統一教会などの宗教右派です。
こうした勢力は家父長制を理想としているので、子育ての責任を全部母親に押しつけます。
文科省の政策もそれと同一歩調をとってきました。


「家庭教育の責任」を規定する教育基本法は、いわば「自助」の子育てを求めています。
これからは「共助」と「公助」の子育てに転換するべきです。
子どもは親だけではなく、たくさんの人間に育てられるのが本来の姿です。
「共同子育て」という考え方を取り入れれば、子育ての負担も軽減されますし、少子化対策にもなります。

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マンガ家の西原理恵子氏の長女である鴨志田ひよ氏が昨年7月にXに「アパートから飛び降りして骨盤折りました。もう既に入院生活苦しいですが、歩けるようになるまで頑張ります」と投稿したことから、西原理恵子氏は毒親ではないかということがネットの一部で話題になりました。

ひよ氏は女優として舞台「ロメオとジュリエット」に出演するなどし、エッセイも書いているようです。ネットの情報によると23歳です。

西原氏は「毎日かあさん」というマンガで子育ての日常を描いて、そこに「ぴよ美」として登場するのがひよ氏です。「毎日かあさん」は毎日新聞に連載された人気漫画で、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、手塚治虫文化賞を受賞しています。
しかし、ひよ氏はマンガで自分のことが描かれるのは許可なしに個人情報がさらされることだとして抗議していました。
ほかにもブログで母親から虐待されたことについていろいろと書いていました。
しかし、毒親問題についての取材依頼は断っていたようです。

そうしたところ、「SmartFLASH」に【『毎日かあさん』西原理恵子氏の“毒親”素顔を作家・生島マリカ氏が証言「お前はブス」「家を出ていけ」娘を“飛び降り”させた暴言虐待の9年間】という記事が掲載されました。
作家の生島マリカ氏はひよ氏が14歳のころに西原氏から「娘が反抗期で誰の言うことも聞かないから、面倒を見てほしい」と頼まれて関わるようになり、そのときに知った西原氏の毒親ぶりを語ったのです。

もっとも、それに対して西原氏はX上で「事実を歪曲したものです」「今回の記事も娘への対面取材のないまま掲載しています」「みなさまはどうぞ静かにお見守りくださいますようお願い申し上げます」といった声明を発表しました。
ひよ氏もXで「もう関わりたくないのでそっとしておいて下さい」「飛び降りた理由家族とかそういうんじゃない」と表明し、虐待に関するブログとXの記述を削除しました。

なお、西原氏と事実上の夫婦関係にある高須克弥氏も「僕はこの件については真実を熟知しております。西原理恵子は立派なお母さんです。虐待はしていないと断言できます」と表明しました。

ひよ氏の父親は戦場カメラマンの鴨志田穣氏で、アルコール依存症のために西原氏と離婚、ガンのために2007年に亡くなりました。その後、西原氏は高須氏と夫婦関係になりましたが、ひよ氏はずっと父親を慕っていました。


ひよ氏が「そっとしておいて下さい」と言うならそうするべきですが、そうするべきでない事情もあります。
西原氏も高須氏も虐待はなかったと主張していますが、ひよ氏はブログやXに母親から虐待されたことを書いていましたし、生島氏も基本的に同じことを述べています。
どちらが正しいかは明らかでしょう。
西原氏は自分が虐待したというのは不都合な事実だから否定しているだけです。

しかし、ここでひよ氏が虐待はあったと主張して西原氏とやり合ったら、いろんなメディアが食いついて、世の中を騒がせることになります。
ひよ氏はそうなるのがいやなので、表向き否定したのです。

しかし、このまま虐待の事実がなかったことにされると、ひよ氏のメンタルが心配です。
ひよ氏がブログやXで西原氏から虐待されたことを公表したのは、理解されたかったからです。理解されればある程度癒されます。

ひよ氏が虐待に関するブログなどを削除しても、まとめサイトなどに残っています。
しかし、本人が削除したものを引用するのはよくないので、まだブログに残っている文章を引用します。

「ひよだよ」の2021年9月の文章です。
手首の手術をついにするかも

なんか、ひよちゃん第1章完結、のような気分。

手首の間接から肘まで、の傷跡を、一本の線にするんだけど、最初は記録にこの傷跡達をなにかに収めて起きたいな、、なんて思って居たけれど。

ただ、私にとって負の遺産でしかないことは、二重まぶたを作り直した時に立証された。

12歳の時ブスだからという理由で下手な二重にされ、後に自分で好きなデザインで話の会う先生に二重にしてもらったら、自分のことが好きでたまらなくなった。

たぶん、これが、普通の人がこの世に生を受けた瞬間から持ってる当たり前の感情なのだろう。


あとは手首だ。長い歴史、たくさん私を支えてくれた手首。この手首があと少しだけ、弱くあと数ミリでも、静脈が太かったり表面に近かったりしたら、いま、私はいないだろう。

リストカットを繰り返していると、同じところは切りにくいので、傷跡が手首から腕へと広がっていきます。
リストカットは死の一歩手前の行為だということがよくわかります。
なお、ひよ氏は望まないのに西原氏から二重まぶたの整形手術を強制されました。これだけでも立派な虐待です。

次は飛び降りて骨折した約1か月後に書かれた文章です。
文章が、うまくかけない、今までは脳にふわふわと言葉が浮かんできたのに。

ずっと風邪薬でodして、ゲロ吐いて、座ってタバコ吸って、たぬき(匿名掲示板)で叩かれてる自分を見て泣いてた。気づいたら今だ。

吐いても吐いても何故か太って行って、冷静な判断ができる時にiPhoneをみると、食事をした形跡がある。

泣いて泣いて、涙が全てを枯らしてくれればいいのにとねがいつづけても、何も解決することはなく、ただ、現実が強く浮かび上がる。

匿名で人を殺すこと、言葉で人を殺すこと、全てが容易で、あまりにも単純すぎた。

愛されてることが小さく見えて、匿名の言葉が体内で膨らんでいった。

歩んでいくことを、辞めたくなった。

耐えることも、我慢するのもおわりだ、虫の様、光を求め続け、その先にある太陽に沈みたかった。

ありふれた喜びや幸せをこれからも感じられないなら、辛いことが脳内でいっぱいになってるのなら、私は消えて無くなりたかった。

風邪薬のオーバードーズと摂食障害がうかがえます。
飛び降りた原因ははっきりしません。「自殺未遂」と決めつけるのも違うと思いますが、ひよ氏が生と死の崖っぷちを歩いていることは感じられます。


ひよ氏がなぜそうなったかは、「SmartFLASH」の記事における生島氏の次の言葉から推測できます。

「最初は『ひどい頭痛がするから病院まで付き添ってほしい』という相談でした。当然『お母さんに相談したの?』と聞いたら、『相手にしてくれないし、もし病院に行って何もなかったら怒られる』って。体調不良の娘を叱ることがあるのかと、そのときから不信感が芽生えたんです」(同前)

子どもの体調が悪いとき、誰よりも心配して世話をしてくれるのが母親です。
母親がまったくその役割を果たさなくて、ほかに誰もその役割を果たしてくれる人がいないと、子どもは自分の命の価値がわからなくなります。
リストカットは、なんとか自分の命の価値を確かめようとする行為ではないでしょうか。

ひよ氏にとっては、母親である西原氏が過去の虐待を認めて謝罪してくれれば理想でしたが、現実には西原氏は虐待を全面否定しました。
ひよ氏もそれに同調していますが、あくまでうわべだけです。
これではひよ氏にとってはまったく救いがありません。
最悪の事態まで考えられます。
ひよ氏の身近な人やカウンセラーが彼女の苦しみを受け止めてくれるといいのですが。


世の中もひよ氏の思いを受け止めていません。
西原氏が虐待を否定する声明を出したとき、「嘘をつくな。ちゃんとひなさんに謝れ」という声はまったく上がりませんでした。
結局、虐待を否定する親の声だけがまかり通っています。


幼児虐待を経験しておとなになった人を「虐待サバイバー」といいます。
虐待される子どもは声を上げることができませんが、虐待サバイバーなら声を上げることは可能です。
しかし、かりに声を上げても、ひよ氏もそうですが、世の中は受け止めてくれません。

性加害の被害者は、昔は沈黙を強いられていましたが、最近ようやく声を上げられるようになり、世の中も受け止めるようになってきました。
虐待サバイバーの声も受け止める世の中に早くなってほしいものです。


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レストラン「サイゼリヤ」で、子連れ客が店員から「子どもが騒いだら退店となります」と言われたということがXで話題となりました。

『サイゼリヤ店員、子どもグズって「騒いだら退店」と警告 広がる波紋に本社広報「個別案件、回答差し控える」』という記事が報じました。そこから一部を引用します。


 11月29日、J-CASTニュースの取材に応じた投稿者によると、東京都内のサイゼリヤで起きた出来事だ。Xに投稿して波紋が広がったのは隣の家族のエピソードだったが、この日の投稿者の家族も入店時に「騒いだら退店になります」と伝えられていた。子どもは未就学児2人で「子どもですので声は大人よりは大きかったかもしれませんが、騒いではおりませんでした」。店内は家族連れ、サラリーマンなどで満席だったとし、「わりと騒がしい状態」だったという。


 案内された席の隣で、2歳程の子どもを連れた3人家族が既に食事をしていた。20分程隣にいたが、子どもは椅子に座って食事をしており、走り回ったりはしていなかったという。にもかかわらず、隣の家族は「騒いだら退店となります」と注意された。当時の様子を次のように振り返った。


「子どもが途中でグズりだして泣いてしまったのですが、すぐにお母さまが抱き上げてあやしていたところ、(投稿者家族の)入店時に対応した店員が来て、『騒いだら退店になります』と伝えていました(即退店しろ、ではなく警告だと思います)。言われたお母様は本当に申し訳なさそうに何度も謝っていました」

J-CASTニュースがサイゼリヤ広報に本部の方針について問い合わせたところ、「個別の案件についての回答は差し控えさせて頂いております」と回答があったということです。
まるで政治家の回答です。


ファミリーレストランは、その名の通り家族連れでくるのが当たり前です。子どもの声が耐えられないという人はファミリーレストランにこないことです。

サイゼリヤには子ども用の椅子が用意されていて、とくに小さな子ども用にはテーブルにはめ込んで使うタイプのものもあります。
子どもがくるのを前提としながら、子どもが騒げば出ていけというのは矛盾しています。子どもは騒ぐのが当たり前で、想定内のはずです。

実際のところは、おとなもけっこう騒いでいるはずです。おとなが騒ぐのは許されて、子どもが騒ぐのは許されないというのはダブルスタンダードです。

投稿者は店員に「泣いただけで退店なのは本部の方針なのか?」と聞くと、店員は「そうです。他のお客様もいるので、その方たちを優先します」と言ったそうです。
これはこの店員だけの考えで、サイゼリヤの方針ではないでしょうが、今の日本の問題を端的に表現しています。
つまりおとなを優先して、子どもを隅に追いやっているのです。
こども家庭庁は「こどもまんなか社会」をスローガンにしているのですから、サイゼリヤのようなことがあれば、子ども家庭庁長官あたりが注意のコメントを出すべきでしょう。



飲食店が客を排除するということはマクドナルドでもありました。

相模原市内のマクドナルドの店舗が1月ごろ、近隣の中学校を名指しして、そこの生徒を「出入り禁止」にするという張り紙を出しました。その画像がツイッター(現X)で7月ごろに拡散して話題になり、朝日新聞も記事にしました。
中学生が店内で騒いで、店員が身の危険を感じるということもあったようで、中学校の職員が呼ばれたり、交番の警察官が対応したりした挙句の張り紙でした。
しかし、新聞に書かれるほどの騒ぎになると、さすがに張り紙はやめただろうと思っていたら、12月19日の『地元中学生を「出禁」にしたマックの今、1年後も"警告"続く…生徒の迷惑行為で警察沙汰、学校「他の飲食店からも通報あった」』という記事に、まだ張り紙が出ていると書かれていました。

もっとも、その張り紙には、中学校を名指しすることはなく、「出入り禁止」という言葉もなく、「他のお客様へご迷惑となる行為が見られました際は、従業員の判断により、警察へ通報する場合があります」と書かれているだけなので、比較的穏当なものです。

ただ、この記事には5000余りという異例に多いヤフーコメントが寄せられていて、人々の関心の高さがうかがえます。
そして、多くの人は問題がまったく理解できていません。

ヤフコメの筆頭には「エキスパート」として流通ジャーナリストの「客は多くの店から気に入ったり、必要に応じて店を選ぶことができる。店も客を選ぶ権利があり、好ましくない客を出禁にする権利がある」という意見が掲載されています。

これはその通りですが、マクドナルドの最初の張り紙はそれとは違います。特定の中学校を名指しで、その中学校の生徒全員を「出禁」にするとしていたのです。
店内で迷惑行為をした客を「出禁」にするのはありですが、ある中学の何人かの生徒が迷惑行為をしただけで、その中学の生徒全員を「出禁」にするのは、なんの罪もない多くの生徒の権利を侵害しています。
これは、マナーの悪い中国人客がいるからといって「中国人出入り禁止」の張り紙をするのと同じで、差別になります。国籍や所属中学という「属性」を理由に人間を不当に扱っているからです。

もっとも、この中学はかなり問題があるのかもしれません。マクドナルド以外の飲食店から2回ほど「生徒のマナーが悪くて困っている」という連絡があったそうです。
全国にマクドナルドの店舗は数多くあるといえども、特定の中学校の生徒を出禁にしているのはここだけではないでしょうか。
どんな教育をしている中学なのか気になります。


しかし、ヤフコメでいちばん人気のコメントは、教師がきびしく指導すると体罰といわれ、家族がきびしく叱ったら虐待といわれるので、誰もきびしい指導をしないからこんなことになるのだという意見です。
これが世の中の平均的な意見かもしれません。
しかし、私の意見はまったく逆です。学校や家庭できびしく指導されるので、学校でも家庭でもないマクドナルドではじけてしまうのです。

これは家庭のしつけの問題だから、学校に問題を持ち込むのはよくないという意見もあります。しかし、もし家庭の問題なら、全国のマクドナルドの店舗で同じような問題が起こっているはずです。

問題があるとすれば、やはりこの中学校でしょう。生徒は学校内であまりにもきびしく指導されているので、学校を出たとたんハメを外してしまうのです。

この中学がどんな教育をしているのかわかりませんが、生徒をたいせつに思う気持ちはあまりなさそうです。
取材に応じた副校長は「出禁にするのを決めるのはお店です。私たちがやめてと言える立場ではありません」と語っています。
本来なら「本校生徒に対する不当な扱いは即刻やめていただきたい」と言うべきところです。

なお、日本マクドナルド社は「学校との個別の案件となりますので回答は控えさせていただきます」とコメントしたということで、こちらも政治家答弁です。

ファミレスやファストフード店は子どもや中学生にとって居心地のいいところです。
子どもや中学生を排除する店があったら、親などが強く反発すると思いましたが、意外なことに、サイゼリヤもマクドナルドも謝罪もなにもせず、ほとんど同じ方針を続けています。
公園や電車内で子どもが騒ぐと問題になってきましたが、それがファミレスやファストフード店にまで広がってきたようです。


政府は12月22日に「こども大綱」を閣議決定し、年間5.3兆円の予算を投じて、
▼子どもの貧困対策
▼障害児などへの支援
▼学校での体罰と不適切な指導の防止
▼児童虐待や自殺を防ぐ取り組みの強化
などを進めるということです。
けっこうなことですが、具体的にどう進めるのか今のところよくわかりません。
そういう懸念に応えるためか、具体的な目標を設置しています。その目標のひとつに、今後5年程度で「子育てなどに温かい社会の実現に向かっていると思う人の割合を、今の28%から70%に上昇させる」というのがあります。

今は「子育てなどに温かい社会の実現に向かっていると思う人」が28%しかいないわけです。
それを70%に引き上げるというのは大胆な目標ですが、サイゼリヤやマクドナルドの店舗の例を見ても、むしろ逆行しているように思えます。
子どもの貧困対策をやっても、子どもに対する社会の目がきびしいのでは、子どもの幸福度も上がりません。


では、どうすればいいかというと、私はこれまで「子どもの人権」ということを強調してきました。
子どもの人権に対する配慮があれば、店から子どもを追い出すようなことはできないので、それである程度解決するはずです。
しかし、「人権」という言葉にはなじめない人もいます。

そこで、「子どもの発達」ということを強調したほうがいいのではないかと思い直しました。
子どもの発達に対する科学的研究がどんどん進んできたからです。

たとえば、昔は赤ん坊が泣くと、すぐ抱きあげるのは“抱きぐせ”がつくのでよくないとされていました。しかし、今はすぐ抱くのがよいとされています。“抱きぐせ”がつくことはなく、「基本的信頼感」が養えるとされるのです。
「基本的信頼感」というのは、自分に対する信頼と世界に対する信頼で、これは赤ん坊が親に受け入れられることで養われるとされます。

「叱るのがよいか、ほめるのがよいか」というのも昔から議論のあるところでしたが、今はほめるほうがパフォーマンスがよいと結論が出ています。スポーツの世界では「ほめて育てる」が主流になっています(選手を叱っている指導者は時代遅れです)。
当然子育てでもほめたほうがよいわけです。ただ、子育て本を見ると、ほめることを勧めつつも、「悪いことをしたときなど、ときに叱ることも必要です」と書かれていることがよくあります。これは古い考えに妥協した態度です。
私が思うに、子どもが悪いことをしたときは「それは悪いことだ」と教えればよく、叱る必要はありません。

子どもが動き回ったり、大声を出したりするのは、それが発達に必要なことだからです。
さまざまな動きをすることで筋肉と運動神経がまんべんなく鍛えられます。
子どもはしばしばマックスと思える大声を出すので、周りのおとなの顰蹙を買いますが、これは当然、声を出す能力を鍛えているのです。大声を出すのを禁じると、声を出す能力が発達せず、助けを求めるために大声を出さなければならないときに大声が出せないということにもなりかねません。もしかすると、歌をうたう才能を殺しているということもありえます。
中学生がバカなことや危ないことをするのも、経験値を上げるという意味があり、のちの人生に役立ちます。
おとなの価値観で子どもの行為をむりに抑えると、正常な発達がゆがめられます。
それに、おとなになれば自然とおとなしくなります。これは子犬や子猫を育てた人ならわかるでしょう。


泣いた赤ん坊をすぐに抱くと抱きぐせがついてよくないとされたのは、赤ん坊は基本的にわがままで、赤ん坊の要求に応えるとどんどん要求をエスカレートさせると考えられたからです。
つまり赤ん坊が泣いてもすぐに抱かないのは、赤ん坊に対する“しつけ”だったのです。
しかし、そんなしつけは無用でした。
ということは、子どもに対するしつけも無用ということになるはずです。


「きびしく育てるか、のびのび育てるか」というのも昔から議論されてきましたが、今は「のびのび育てる」に軍配が上がっています。
子どもの成長する力を信頼していれば、子どもが騒いでも温かく見守れます。

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京アニ放火殺人の青葉真司被告は、京アニに自分の小説を盗用されたということを理由に京アニに放火しました。
「京アニに盗用された」というのは妄想というしかありません。
ということは、青葉被告は自分と無関係な、なんの罪もない人間を殺したことになり、通り魔事件と同じようなものです。

青葉被告もそのことは意識していました。
というのは、青葉被告は9月14日の被告人質問において、秋葉原通り魔事件の加藤智大(死刑執行ずみ)について「そういう事件を起こしたことについて、共感というか、類似点じゃないが、他人事には思えなかった」と語ったからです。また、加藤智大が包丁6本を持っていたことを参考に自分も包丁6本を購入して準備したということです。

秋葉原通り魔事件にしても京アニ放火殺人事件にしても、なんの落ち度もない人間が殺されたわけで、被害者遺族が加害者に対して憤りを覚えるのは当然です。

では、殺される側に落ち度のある殺人だったらどうなのでしょうか。
強者が弱者を一方的に虐待し続けて、弱者がついに怒りを爆発させて立ち上がり強者を倒す――というのはエンターテインメントの物語の定番です。
昔は任侠映画で高倉健が最後に悪いヤクザのところに斬り込むシーンでは、観客が拍手喝采したものですし、今でも半沢直樹が「やられたらやり返す。倍返しだ!」と叫ぶシーンでは、視聴者は心の中で拍手喝采しているはずです。

もちろん今は、悪いやつに個人で復讐することは禁じられていて、法の裁きに任せることになっていますが、法が裁いてくれるとは限りません。


今年3月、佐賀県鳥栖市で19歳の大学生が両親を殺害するという事件があり、9月15日、佐賀地裁は19歳の大学生に懲役24年の判決を言い渡しました。
2人殺して懲役24年なら、量刑としては普通か、むしろ軽いと思われるかもしれませんが、必ずしもそうとはいえません。
というのは、このような親族間の殺人は、長年しいたげられていた者ががまんの限界に達し、「正義の怒り」が爆発して犯行に及ぶというケースが多いからです。

この事件はどういうものだったのか、朝日新聞の『両親殺害の背景にあった「教育虐待」 大学進学後も暴力、正座、罵倒』という記事からまとめてみます。

殺された両親の長男である被告は、小学校のころから成績が悪いと父親に胸ぐらをつかまれ、蹴られてアザができたこともあります。1時間以上、正座をさせられ、説教され、「失敗作」や「人間として下の下」などとののしられ、長男は「心が壊れそうになった」と公判で述べました。
父親が決めた中学受験の勉強が始まると、さらに暴言や暴力はエスカレートしたといいます。高校は佐賀県トップの公立進学校に入り、大学は九州大学に入りましたが、それでも虐待はやみませんでした。
父親自身は大学受験に失敗し、自分の学歴を「九州大学を中退した」と周りの人に偽っていました。
出廷した心理学の専門家は、父親の行為を「教育虐待」であるとし、父親に学歴コンプレックスがあったと証言しました。
岡崎忠之裁判長は「父親による身体的、心理的、教育虐待と、それらによる精神的支配のもとで育った」と指摘し、「心理的、身体的虐待を受けるなどしたことが、殺害を決意したことに大きく影響している」と犯行の背景事情を認定しました。

ところが、判決は懲役24年でした。
これは裁判員裁判だったので、裁判長よりも裁判員の意向が大きかったのかもしれません。

被告は父親に虐待されたのに母親も殺したことについて、読売新聞の『元九州大生の19歳は「養育環境に問題あり」…鳥栖市の両親殺害事件公判で専門家』という記事によると、父親を刺したとき母親が止めに入ったために排除するために刺したと説明し、「味方でいてくれたのに、恩を仇で返すことになって申し訳ない」と述べたということです。

母親を殺した説明は説得力がありませんが、父親を殺したことについてはかなり同情できます。
長男は公判において「父親にいつか仕返ししてやると思うようになり、高校生になって殺してやると考えました」「仕返しをすることをずっと支えに生きてきて、それを放棄すれば、これまで生きてきた意味がなくなるので、放棄はできませんでした」などと語りました。
長年の虐待で思考がゆがんでいることがわかりますが、その思考のゆがみは長男のせいではなく父親のせいです。

冷静に判断しても、父親が長男を虐待した罪と、長男が父親を殺した罪は、かなり相殺されるはずです。

1968年、29歳の女性が父親を絞殺するという事件がありました。この女性は14歳のころに父親に犯され、それからずっと関係を持って、父親との子どもを5人出産しました。この関係は周囲の人間はみな知っていましたが、誰もなにもできませんでした。女性に好きな男性ができ、結婚の約束をすると、父親は激怒します。そして、女性は父親が眠っている間に首を絞めたのです。
当時は尊属殺人は特別に重罪にする規定がありましたが、最高裁は尊属殺の規定は違憲であるとし、女性に執行猶予つきの判決を下しました。

こういう例があるのですから、性的虐待と教育虐待の違いはありますが、この事件についても、もし父親殺しだけなら執行猶予つきの判決になってもおかしくありません。

それに、殺人事件の場合は被害者遺族の感情が重視され、それが重罰の根拠とされますが、この事件の場合は、加害者が被害者遺族でもあるわけです。
いや、ほかにも親族はいます。その親族は弁護士を通して書面で判決について「到底受け入れられるような内容ではなかった。長年父親からの虐待に苦しんだ末の思い詰めた結果だということを、もっと重視してもらいたかった」と述べました。


京アニ放火殺人事件の青葉真司被告や秋葉原通り魔事件の加藤智大も親からひどい虐待を受けていましたが、犯行の矛先は親ではなく罪のない他人に向けられました。
しかし、この事件は正しく親に向けられたわけで、「やられたらやり返す」を地でいく犯行でした。

おそらく控訴審があるでしょうから、そのときは虐待した父親の罪を正しく評価した判決を期待したいものです。

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京都アニメーション放火殺人事件の裁判員裁判が9月5日から始まりましたが、マスコミが今までと違って、青葉真司被告の生い立ちを詳しく報道しています。
検察も冒頭陳述で青葉被告の生い立ちにかなり言及しました。
少しずつ世の中の価値観も変わってきているようです。

だいたいこうした合理的な動機のない凶悪事件の場合、犯人はほぼ確実に幼児期に親や親代わりの人間から虐待を受けています。「非人間的な環境で育ったことが原因で非人間的な人間になった」という因果関係があるだけです。
ところが、2008年の秋葉原通り魔事件の場合、犯人の加藤智大が派遣切りにあったこと、携帯電話向けの電子掲示板に依存していたところなりすましの被害にあったことなどが犯行の引き金になったという報道ばかりでした。
ただ、週刊文春と週刊新潮だけが加藤が母親に虐待されていたことを報じました。
このころから少しずつマスコミが凶悪事件の犯人の生い立ちを報じるようになったと思います。

青葉被告の生い立ちはどうだったのでしょうか。
青葉被告は1978年生まれ、埼玉県さいたま市出身で、両親と兄と妹の五人家族でしたが、小学校3年生のときに両親が離婚して母親は家を出ていきました。父親はトラック運転手、タクシー運転手をしていましたが、交通事故を起こして解雇され、それから貧困生活になります。青葉被告は父親からひどい虐待を受けます。家はゴミ屋敷になり、彼は日常的に万引きをするようになります。母親に会いにいったこともありますが、母親には会えず、母方の祖母に「離婚しているのでうちの子ではない」と言われて追い返されたそうです。女性の下着を盗んで逮捕され、コンビニ強盗をしたときは懲役3年6か月の実刑判決を受けました。父親は1999年にアパートで自殺し、その後、兄、妹も自殺しています。なんともすさまじい家庭だったようです(兄と妹の自殺は週刊文春が報じていますが、裁判には兄と妹の調書が提出されています。自殺していないのか自殺前の調書かは不明)。
ただ、彼は中学は不登校になりますが、定時制高校は皆勤だったそうで、同じコンビニに8年間勤務したこともあります。


青葉被告が父親からどのような虐待を受けたかは公判で明らかになっています。
『「体育祭なんか行くんじゃねぇ」傍聴から見えた青葉真司被告の"壮絶"家庭環境 ズボンをアイロンで乾かし父親が激高「逆らえない」絶対的服従に近い父親への忠誠心【京アニ裁判】』という記事から3か所を引用します。


ところが離婚してしばらくすると、父親は徐々に、青葉被告や兄を虐対するようになったという。


青葉被告「父から正座をさせられたり、ほうきの柄で叩かれたりしていた」
弁護人「父にベランダの外に立たされたことは?」
青葉被告「『素っ裸で立ってろ』と言われた記憶がある」
弁護人「酷い言葉をかけられたことは?」
青葉被告「日常茶飯事すぎて、わからない」


さらに、青葉被告が父親に対して、「絶対的服従」に近い忠誠心を持っていたと思える経緯が明かされた。

中学時代、青葉被告は体育祭で履くズボンをアイロンで乾かしていたところ、突然、父親に怒られたと話した。



青葉被告「中学1年生の時に体育祭でズボンをアイロンで乾かしていた。すると、『何で乾燥機を使わないんだ』と怒られた。そして『体育祭に行くんじゃねぇ』と言われ、体育祭に行けなかった」

弁護人「実際に行けなかった?」

青葉被告「そう言われたら、逆らえなかった」

弁護人「アイロンで乾かしてもいいと思うが、父から理由は言われた?」

青葉被告「理由というか、もう意味もなく理不尽にやる、そこに理由はない」


さらに、青葉被告が柔道の大会で準優勝した際、贈呈された盾を「燃やせ」と父親から言われ、「1人で燃やした」というエピソードを話した。



弁護人「父親からは、どうしてこいと言われた?」


青葉被告「燃やしてこいと言われた」


弁護人「燃やす理由は?」


青葉被告「そこに理解を求める人間ではない。ああしろ、こうしろと、それだけ。上意下達みたいな感じ。燃やすしか方法はない」


弁護人「実際に燃やした?」


青葉被告「自分で燃やした」

子どもを虐待する親にまともな論理などありません。子どもはただ不条理な世界に置かれるだけです。
彼がまともな人間に育たなかったのは当然です。
うまく人間関係がつくれないので、ひとつところに長く勤めても、信頼を得て責任ある仕事を任されるということにはなりません。
小説家になるという夢を追いかけたのは、むしろよくやったといえるでしょう。
しかし、普通の人間なら、夢が破れても平凡な人生に意味を見いだして生きていけますが、彼の場合は、夢が破れたら、悲惨な人生の延長線上を生きていくしかないわけです。


このような人間の犯罪はどう裁けばいいのでしょうか。
ここで注意しなければいけないのは、私たちは日ごろ「死ね」などという言葉は使わないようにしていますが、このような事件のときは「死刑にしろ」ということを公然と言えるので、日ごろ抑圧している処罰感情が噴き出して、過剰に罰してしまう傾向があるということです。

この事件は36人が死亡、32人が重軽傷を負うという大きな被害を出しました。
しかし、青葉被告はそういう大量殺人を意図したとは思えません。結果がそうなっただけです。
カントは、罪というのは結果ではなく動機で裁くべきだと言っています。36人死亡という結果で裁くのはカントの思想に反します。
もっとも、刑事司法の世界では、カントの説など無視して結果で裁くということが普通に行われていますが。

こういう事件の犯人に死刑も意味がありません。犯行が「拡大自殺」と同じようなものだからです。
死刑にすると、抑止力になるどころか、逆に「死刑になりたい」という動機の犯行を生みかねません。

刑事司法の論理では、こうした犯罪は犯人の「自由意志」が引き起こしたととらえます。つまり人間は自分の心を自由にコントロールすることができるので、心の中に「悪意」や「犯意」が生じれば、それは本人が悪いということになります。
「犯行をやめようと思えばやめられたのにやめなかった」という判決文の決まり文句がそれをよく表しています。

もっとも、今は文系の学者でも大っぴらに「人間には自由意志がある」と言う人はいないでしょう。
自由意志があることを前提にしているのは刑事司法の世界ぐらいです。


しかし、今回の裁判では検察の考えが少し変わったかもしれません。
検察側の冒頭陳述は、「犯意」ではなく「パーソナリティー」を強調したものになりました。
『冒頭陳述詳報(上)「京アニ監督と恋愛関係」と妄想、過度な自尊心と指摘』という記事から、「パーソナリティー」という言葉が使われたセンテンスだけ抜き出してみます。


「京アニ大賞に応募した渾身(こんしん)の力作を落選とされ、小説のアイデアまで京アニや同社所属のアニメーターである女性監督に盗用されたと一方的に思い込み、京アニ社員も連帯責任で恨んだという、被告の自己愛的で他責的なパーソナリティーから責任を転嫁して起こした事件」
「親子の適切なコミュニケーションが取れていなかったため、独りよがりで疑り深いパーソナリティーがみられる」
「うまくいかないことを人のせいにするパーソナリティーが認められる」
「不満をため込んで攻撃的になるパーソナリティーが認められる」
「ここでも不満をため込んで攻撃的になるパーソナリティーがみられる」
「こうした妄想も疑り深いパーソナリティーがみられる」

しかし、犯行を被告のパーソナリティーのせいにしても、被告がそのパーソナリティーになったのは被告のせいではありません。
人間は生まれ持った性質と育った環境というふたつの要素によってパーソナリティーを形成しますが、そのどちらも本人は選べません。ある程度成長すると環境は選べますが、子どもにはできません。
青葉被告も生まれたときはまともな人間だったでしょう。しかし、父親のひどい虐待で傷ついてしまいました。
たとえていえば、新車として納品されたときはまともだったのに、ボコボコにされてポンコツ車になったみたいなものです。青葉被告はもの心ついて自分で車を運転しようとしたときには、真っ直ぐ進もうとしても車は右や左にぶれて、ブレーキやアクセルもうまく機能せず、あちこちぶつけてばかりという人生になりました。
青葉被告は自分がポンコツ車に乗っているとは思わないので、ぶつかるのは向こうが悪いからだと思います。それを人から見ると、「逆恨みする攻撃的なパーソナリティー」となるわけです。

この「パーソナリティー」は「脳」とつながっています。
厚生労働省は「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを展開していて、そこにおいて幼児期に虐待された人は脳が委縮・変形するということを強調しています。

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厚生労働省のホームページより

脳が委縮・変形した人を一般人と同じように裁いていいのでしょうか。

心理的な面から見ると、幼児期にひどい虐待を受けた人は複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症することが多いものです。
複雑性PTSDは適切な治療を受ければ治癒します。
ということは、虐待によって委縮・変形した脳も本来の形に戻る可能性があるということでしょう。

青葉被告のような凶悪犯には、マスコミや被害者遺族は「謝罪しろ」「反省しろ」と迫りますが、虐待によって脳やパーソナリティがゆがんでいれば、反省するわけがありません。
適切な治療で青葉被告の心を癒し、青葉被告が“真人間”になれば、自分の罪に向かい合って、反省や謝罪の言葉を口にするようになるでしょう。

こんな凶悪犯が真人間になるのかと疑問に思うかもしれませんが、周りの人間の対応次第で可能です。
青葉被告の治療にあたった医師団と青葉被告はこんな会話をしていました。『「“死に逃げ”させない」ぶれなかった主治医 “予測死亡率97.45%”だった青葉被告 4カ月の治療を記した手記 京アニ放火殺人』という記事から3か所を引用します。


上田教授の手記より:
スピーチカニューレを入れ替えすると、声が出たことに驚いていた。「こ、声が出る」「もう二度と声を出せないと思っていた」そういいながら泣き始めた


鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:
で、そのあともずっとその日は泣いていたので、夕方にまた「なんで泣くんだ」って話を聞いたら、自分とまったく縁がないというか、メリットがない自分にここまで治療に関わる人間、ナースも含めて、いるっていうことに関して、そういう人間がいるんだという感じでずっと泣いていました



(Q.青葉被告と会話を交わす機会もあったと思うが?)

医療チームの一員 福田隆人医師:

何回かしゃべる機会はあったんですけど、一番心に残っているというか、克明に覚えているのは、「まわりに味方がいなかった」っていうのが一番言葉で残ってて



医療チームの一員 福田隆人医師:

どこかで彼の人生を変えるところはあったんじゃないかなっていうのを、その言葉を聞いて思って。僕たちって治療を始めたときから転院したときのことまでしか知らないですけど、40年以上の人生があって、どこかで支えとなる人がいたら、現実はもうちょっと変わったんじゃないかなっていうのは、そのとき思いました



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


自分も全身熱傷になったことは予想外?



青葉真司被告:


全く予想していなかったです。目覚めたときは夢と現実を行ったり来たりしているのかと思いました。僕なんか、底辺の中の“低”の人間で、生きる価値がないんです。死んでも誰も悲しまないし、だからどうなってもいいやという思いでした



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


俺らが治療して考えに変化があった?



青葉真司被告:


今までのことを考え直さないといけないと思っています



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


もう自暴自棄になったらあかんで



青葉真司被告:


はい、分かりました。すみませんでした


私の考えでは、青葉被告のような人間を罰するのは間違っています。

今の司法制度では、心神喪失と心神耗弱の人間には刑事責任能力があまり問えないことになっていて、場合によっては無罪もあります。
心神耗弱は、精神障害や薬物・アルコールの摂取などの原因によって判断能力が低下した状態とされますが、その原因に幼児虐待によってパーソナリティーや脳にゆがみが生じたことも付け加えればいいわけです。

被虐待者である犯人の責任を問わない代わりに、虐待した親の責任を問えばいいわけです。
今は犯人にすべての責任を負わせているので、虐待した親は無罪放免になります(実際は水面下で周囲の人から陰湿な迫害があるでしょう。はっきり責任を問えばそういうこともなくなります)。
今の時代、幼児虐待の防止が大きな課題になっているので、子どもを虐待した親の責任を問う制度をつくることには大きな意味があります。

なお、「虐待されても犯罪者にならない人もいる」と言って、虐待と犯罪の関係を否定する人がいますが、虐待といっても千差万別ですから、虐待されても犯罪者にならない者がいるのは当たり前です。
少なくとも世の中から幼児虐待がなくなれば青葉被告のような犯罪者もいなくなることは確かです。

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岐阜県銃乱射の18歳自衛官候補生、長野県立てこもり4人殺害の青木政憲容疑者、安倍元首相暗殺の山上徹也被告、この3人をつなぐ一本の糸は「自衛隊入隊経験」です。

現役の自衛隊員が射撃訓練中に小銃を乱射するというのはショッキングな出来事ですが、それにしても、テレビのコメンテーターが「自衛隊は人の命を救う仕事なのにこんなことが起こって残念」と言っていたのにはあきれました。
自衛隊は災害時などに人命救助活動をしますが、これは“副業”です。“本業”はあくまで戦争で人を殺すことです。
まともな人間はなんの恨みもない人間を殺すことはできません。ですから、軍隊の訓練は兵隊をまともでない人間にすることです。
そのためどこの国の軍隊も、新兵訓練にはパワハラ、暴力が横行するものです。自衛隊が例外であるはずはありません。

自衛隊の非人間的な訓練が18歳自衛官候補生に銃乱射事件を起こさせた――というのはわかりやすい説明ですが、実際には今年の4月に入隊してわずか2か月ほどしか訓練を受けていないので、この説明にはむりがあります。

長野県立てこもり4人射殺事件の青木政憲容疑者は、大学中退後、父親に半ばむりやり自衛隊に入隊させられたようです。しかし、2、3か月後に除隊しているので、これも自衛隊の訓練の影響はほとんどなさそうです。

安倍元首相暗殺の山上徹也被告は1999年に高校卒業後、専門学校に入学するも中退、2002年に海上自衛隊に入隊し、3年間勤務します。
二十歳そこそこの若者にとって3年間勤務の影響は小さくないと思われますが、事件を起こすのは20年近くたってからですから、やはり自衛隊勤務と事件を結びつけるのはむりがあります。
ただ、自衛隊で銃器を扱った経験が手製銃づくりを思いつかせたということはあるでしょう。


これらの事件と自衛隊入隊は直接結びつきません。
しかし、自衛隊に入隊しようとした動機と事件は関係あるかもしれません。

長野県の青木政憲容疑者は父親から半ばむりやり自衛隊に入隊させられたというので、本人に入隊の動機はないことになりますが、安倍元首相暗殺の山上徹也被告の動機はかなり明白です。
山上被告の母親は統一教会に入信して多額の寄付を行ったことで家庭崩壊し、父親と兄は自殺しています。
山上被告は崩壊家庭から逃げ出すために自衛隊に入ったのです。

近所の会社に就職したのでは家庭から逃げ出したことになりませんが、自衛隊員になれば一般社会から切り離されます。
それに、自衛隊員の生活は駐屯地の隊舎や艦内などでの共同生活なので、山上被告はそこに家庭の代わりを求めたのかもしれません。

銃乱射の18歳自衛官は、幼くして児童養護施設に預けられ、幼稚園と小学校は施設から通いました。その後、親元で生活するようになりますが、中学の後半は児童心理養育施設に入ります。高校に進学してからは、複数の里親のもとを転々としたということです。
つまり彼は親からネグレクトされて、まともな家庭生活というものをほとんど知らないのです。
高校卒業後、すぐに自衛隊に入ったのも、そこに家庭の代わりを求めたのではないでしょうか。


私がこうしたことを考えるようになったきっかけは、池田小事件の宅間守元死刑囚(死刑執行ずみ)の生い立ちを知ったことです。
宅間守は父親からひどい虐待を受け、母親は家事、育児が苦手で、ほとんどネグレクトされ、母親は結果的に精神を病んで長く精神病院で暮らし、兄は40代後半のころに自殺しています。
宅間守は小学生のころから自衛隊に強い関心を持っていて、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていたこともあり、高校生になると同級生に「俺は自衛隊に入るからお前らとはあと少しの付き合いや」と発言していたこともあったそうです。
そして高校退学後、18歳で航空自衛隊に入隊しますが、1年余りで除隊させられます。「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたということです。
宅間守の場合、自衛隊は明らかに崩壊家庭からの脱出先です。
自衛隊で自分を鍛えて強くなりたいという思いもあったでしょう。
池田小事件を起こしたのは47歳のときなので、30年近くも前の自衛隊入隊の経歴は誰も問題にしませんでしたが、私は崩壊家庭からの脱出先に自衛隊が選ばれるケースがあるということで印象に残りました。

山上徹也被告の経歴を見たとき、宅間守と同じだと思いました。
銃乱射の18歳自衛官候補生もまったく同じです。

自衛隊入隊と凶悪犯罪が結びつくわけではありません。
家庭崩壊と凶悪犯罪が結びつき、その間に自衛隊入隊がはさまる場合があるということです。

崩壊家庭で育ったからといって凶悪犯罪をするわけではありませんが、凶悪犯罪をする人間はほとんどの場合、崩壊家庭で育って、親から虐待されています。
とりわけ動機不明の犯罪、不可解な動機の犯罪はすべて崩壊家庭とつながっているといっても過言ではありません。


崩壊家庭の子どもは家庭から逃げ出して、不良になったり、援助交際をしたりします。
最近話題の「トー横キッズ」もそうした子どもたちです(名古屋には「ドン横キッズ」、大阪には「グリ下キッズ」がいます)。
こうした子どもたちについては、犯罪をしたり犯罪に巻き込まれたりということばかりが話題になりますが、そのもとに崩壊家庭があるということはまったく無視されています。

凶悪犯罪についても同じです。
根本的な原因は崩壊家庭、幼児虐待にあります。


崩壊家庭の問題が認識されるのは、子どもが虐待されて死ぬか大けがをした場合だけです。
その前に子どもを助けなければならないのですが、誰もが見て見ぬふりをするので、なかなか助けられません。

崩壊家庭を本来の健全な家庭にすることは最大の社会改革です。

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1月16日に静岡県牧之原市で13歳(中学1年生)の少女が実の母を刃物で数か所刺して殺害するという事件が起きました。
文春オンラインの記事には「トラブルの発端は、スマホでのSNSの使い過ぎを母親から注意されたことだったようです。母親が激しく娘を叱責し口論になった後、娘は母親が寝ている時間帯に部屋に入り、犯行に及んだとみられています」と書かれています。

スマホやゲームについては、どこまで子どもに使わせていいのか悩んでいる親が少なくないでしょう。スマホのトラブルだけが事件の原因ととらえるのは単純すぎますが、この事件をきっかけに子どものスマホやゲームの使い方について議論が起こるかと思いました。

「スマホ脳」「ゲーム脳」という言葉があって、スマホやゲームのやりすぎはよくないという説がありますが、一方で、「テレビゲームで遊ぶ子供は認知能力が向上…長期的な影響は不明」という記事に示されているように、テレビゲームをよくする子どもはほとんどしない子どもより認知能力テストで高い成績を示したというデータもあります。
常識的に考えても、夢中でゲームをすれば脳は鍛えられるはずです。
将棋の藤井聡太五冠は5歳で将棋を覚え、それからずっと将棋漬けで“将棋脳”になっているはずですが、まともに育っているように見えます。
スマホについても、ITスキルは今後絶対必要になるので、小さいころから使いこなしていたほうが有利に決まっています。

私の考えでは、ドラッグやアルコールなど体に悪いものは別ですが、人間は基本的にやりたいことをやって悪いことにはなりません。ゲームかなにかに夢中になれば、いずれ飽きて関心はほかに移っていきますし、いつまでも夢中であるなら、それはそれで道が開けます。やりたいことを止められると、ほかのことにも集中できなくなります。

もちろんほかの考え方もあるでしょうから、議論すればいいことです。
ところが、そうした議論はほとんど起きていません。
ネットの書き込みなどには、「子育てに正解はない」「家庭ごとに違ったやり方があっていい」といったものがほとんどです。

つまり今は、教育に関しては親の裁量権が広く認められています。
では、その教育の結果の責任は誰が負うのでしょうか。


刑法の規定では14歳未満の子どもには刑事責任が問えないので、今回の13歳の少女も刑事罰が科されることはなく、今後は家庭裁判所が少女を少年院か児童自立支援施設に送致するか保護観察処分にすることになると思われます。
昔は16歳未満は刑事責任が問えないとなっていたのですが、1997年にいわゆる酒鬼薔薇事件が起きて厳罰化を求める世論が高まり、少年法改正によって14歳未満となりました。
しかし、13歳による殺人が起きたわけです。

少年に刑事罰を科さないのは、少年は更生しやすいので、罰よりも教育や保護のほうが効果的だということからです。
しかし、おとなは罰されるのに少年は罰されないのはおかしいと考える人もいます。それに、刑事責任年齢が14歳となっていることにも根拠がありません。
少年の刑事罰の問題は論理的にすっきりしません。
なぜすっきりしないかというと、たいせつなことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは「おとなの責任」です。

13歳、14歳の子どもといえば、親または親の代理人の完全な保護監督下に置かれ、教育・しつけを受けていて、さらに教師による教育も受けています。もしその子どもが犯罪やなにかの問題行動を起こしたら、親と教師に責任があると考えるのが普通です。
ですから、子どもの責任を問わない分、おとなの責任を問うことにすれば、論理的にすっきりします。
まともな親なら「この子に罪はない。代わりに私を罰してくれ」と言うものです。

ところが、今の世の中は「おとなの責任」は問わないことになっています。
13歳の少女の場合も、母親がスマホの使いすぎを注意したことの是非を論じると母親の責任を問うことになりそうですから、そういう議論自体が封じられています。

このケースは母親が亡くなっているので、母親の責任を問う意味がないともいえますが、亡くなっていないケースでも同じです。

酒鬼薔薇事件の場合は、少年Aは両親(とくに母親)にきびしくしつけされていましたが、マスコミは両親の責任をまったく追及しませんでした。両親が弁解を書き連ねた『「少年A」この子を生んで』という本を出版しても、それをそのまま受け入れました。

昨年1月15日、大学入学共通テストの日、試験会場となった東大前の路上で17歳の少年が刃物で3人に切りつけて負傷させるという事件がありました。少年は愛知県の名門高校に通う2年生で、犯行時に「東大」や「偏差値」という言葉を叫んでいました。親や学校が少年に受験のプレッシャーを過剰に与えていたのではないかと想像されますが、やはりそうしたことは追及されませんでした。

マスコミは「子どもは親と別人格」という論理を用いて、事件を起こした少年への批判が親に向かわないようにしています。
しかし、そういう論理が通用するのは社会の表面だけです。水面下では親のプライバシーをあばいて、人格攻撃する動きが活発に展開されます。

私が「おとなの責任」をいうのは、親への人格攻撃を勧めているのではありません。
親が子どもにどういう教育をしたかを明らかにして、ほかの親の参考になるようにすることを目指しています。


「おとなの責任」をないことにするのは、学校のいじめ問題にも表れています。

『「法律」でいじめを見ると…弁護士が小学生に出張授業 認識変わるきっかけに【鹿児島発】』という記事において、弁護士が小学生に対して『「いじめ」は、一つ一つの行動を取って見ると、実はそれを大人がやったら犯罪になる行為。たたいたり蹴ったりする行為は、「暴行罪」という犯罪になります』と言うと、小学生はいじめの重大性を認識して真剣な表情になったなどと書かれています。
しかし、弁護士なら「おとながしたら暴行罪という犯罪になる行為も、子どもがしたら犯罪になりません。なぜでしょうか。それは、おとながあなたたち子どもをたいせつにしたいと思うからです」とでも言うべきです。

そもそもは弁護士が子どもに対して出張授業をするのが間違っているのです。同じするなら親と教師に対してするべきです。
親や教師に向かって「おとながしたら暴行罪という犯罪になる行為も、子どもがしたら犯罪になりません。なぜでしょうか。それは、あなたたち親や教師に責任があるからです」と言えば、親や教師の意識が改善され、いじめ防止にもつながるかもしれません。
いじめというのは、学校という檻の中で起こるのですから、檻の設置及び管理をする文科省、教師、親に責任があります。


しかし、おとなは「おとなの責任」を認めたくないので、あの手この手でごまかしをします。
たとえばひろゆき氏は1月19日に次のようなツイートをしました。

人間だけでなくイルカやカラスなどの動物もイジメをします。大人でもイジメはあります。
「イジメを無くそう」という綺麗事は、イジメられてる子には無意味です。
綺麗事ではない現実的な解決策を大人は伝えるべきだと思うんですよね。

イルカやカラスのいじめがどういう状況のことをいっているのかよくわかりませんが、おとな社会のいじめと学校のいじめは数がまったく違います。
2021年度の小中高校などにおけるいじめの認知件数は61万5,351件と過去最多となりましたが、この数字もすべてとはいえません。一般社会でのいじめの件数の調査はありませんが、会社でのいじめが学校でのいじめより少ないのは明らかです。若いタレントさんがデビューまでのいきさつを語るのをテレビで見ていると、みな判で押したように学校でいじめられていたと言います(少なくとも8割ぐらいは言います。私個人の感想ですが)。また、同窓会に行くと自分をいじめた人と会うので行きたくないという声をけっこ聞きますが、こういう人は社会ではいじめにあっていないのでしょう。

ひろゆき氏はさらに次のようにツイートしました。

フランスは「イジメをする人に問題がある」と考え、加害者側がクラスを変えられたりします。
日本は被害者が学校を変える事を勧められたり、中学の校長が自殺した子に
「イジメはなかった。彼女の中には以前から死にたいって気持ちがあったんだと思います」と責任転嫁。


加害者がクラスを変えるのでは、新しいクラスでいじめをするだけではないかという疑問はさて置いて、ひろゆき氏は「イジメをする人に問題がある」というフランス式の考えに賛同して、いじめをする子どもに責任を負わせています。校長も批判していますが、これはいじめをする子どもに責任を負わせないことを批判しているのです。
いじめをする子どもに責任を負わせれば、「おとなの責任」はないことになります。

親や教師は「いじめはよくない」ということを教えているはずです。それでいじめが起これば、教え方が悪かったわけで、教えた者の責任が問われるべきです。

「特別の教科道徳」が小学校では2018年度から、中学校では2019年度から実施され、文科省の「小学校学習指導要領解説」に「今回の道徳教育の改善に関する議論の発端となったのは,いじめの問題への対応であり,児童がこうした現実の困難な問題に主体的に対処することのできる実効性ある力を育成していく上で,道徳教育も大きな役割を果たすことが強く求められた」と書かれているように、道徳教育の大きなねらいはいじめの防止でした。
ところが、いじめの認知件数は過去最高を更新したわけです。
明らかに道徳教育の失敗ですが、誰も責任を取ろうとしません。いや、責任を問う声すら上がりません。おとなはみな「おとなの責任」をないことにしたいのです。

いじめ発生の原因は明白です。
学校生活は、長時間の退屈な授業と無意味な規律の強制で檻の中で生活しているも同然です。
ニワトリは限度を越えた狭いケージで飼われると、ストレスから互いの体をつつき合って、弱い個体は全身の羽根を抜かれてしまいます。
学校のいじめもそれと同じです。どちらがいじめているかはたいした問題ではありません。

ですから、いじめ対策としては、一斉授業から個別授業へ、無意味な規則の廃止といったことが重要です。

家庭でのストレスも学校でのいじめの原因になります。
たとえばスマホやゲームを禁止されることもストレスです。
親が子どものスマホやゲームを禁止するなら、ちゃんと理由を示して子どもを納得させなければなりません。
今回の13歳の少女の事件については、そこが欠けていたかと思われます。


子どもが納得しないことを親が強制するのは、今は普通に行われていますが、いずれ親によるパワハラと認定されるでしょう。
昔は当たり前とされた親による体罰が今は虐待と認定されるのと同じことです。
これからは「おとなの責任」が問われる社会になるはずです。

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