村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 生物学的経済学

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世界的に貧富の差が拡大しています。
これはトマ・ピケティが著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では「資本収益率>経済成長率」という法則が成立する、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを明らかにした通りです。
共産圏が存在していたときは、資本主義国でも労働者に配慮していましたが、冷戦崩壊後は資本主義が強欲な正体を現し、日本では非正規労働者が増えて労働者の低賃金化が進みました。
アメリカでも富裕層に富が集中し、製造業の労働者には「見捨てられた」という不満が強まり、それがトランプ氏を大統領に押し上げたといわれます。しかし、トランプ政権の閣僚の多くは大富豪で、低所得層のための福祉を削減しようとしています。

トマ・ピケティは、「金持ちはますます金持ちになる」という事実を指摘しただけで、なぜそうなるのかは指摘していません。そのこともあって、格差を巡る議論はつねに迷走します。
たとえば堀江貴文氏はYouTubeチャンネルで、財務省解体デモは無意味であると主張して、「努力しようぜみんな。お前が貧乏なのは財務省のせいじゃねえよ。お前のやる気とか能力が足りねえからだよ」と言いました。
「貧乏なのは努力しないからだ」「能力のある者が高収入なのは当然だ」というのは格差を肯定するお決まりの理屈ですが、「貧乏な家に生まれると高収入になるのはむずかしい」とか「誰でも努力できるわけではない」という反論もあり、議論は堂々巡りになります。


ここは原点にまでさかのぼって考えないといけません。
格差社会を思想の課題として初めて取り上げたのはジャン=ジャック・ルソーです。
ルソーは、人間は自然状態では平等で平和に暮らしていたが、文明とともに不平等が生じたと考えました。
マルクス主義もこれを受け継いでいます。原始共産制では人々は平等に暮らしていたが、豊かになるとともに貧富の差が生じたとしました。
しかし、なぜ文明化したり豊かになったりすると貧富の差が生じるのかは説明されません。

ルソーの『人間不平等起源論』から有名なくだりを引用します。

ある土地に囲いをして「これは俺のものだ」ということを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見出した最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。

持てる者と持たざる者が生じた瞬間を描いています。
もちろんこれは寓話で、実際にそういうことがあったということではありませんが、ここには納得いかないものがあります。
ある土地を「これは俺のものだ」と言うことを初めて思いついた人間はいたかもしれません。しかし、周りの人間がその言葉を受け入れたとは思えません。「それはお前のものじゃない。みんなのものだ」と反論したはずです。そうしないと自分が損をするからです。
では、初めて土地所有を実現した人間はどんな人間だったのでしょう。
ある土地を「これは俺のものだ」ということを思いついた人間は、それを思いつくだけに知的能力の優れた人間だったでしょう。当然弁も立つでしょう。しかし、そんな言葉だけで説得はできません。
ではどうしたかというと、その人間は身体能力にも優れていて、反対する人間を殴りつけて従わせたのです。つまり知的能力と身体的能力ともに優れた人間が初めての土地所有者となったのです。

原始時代と変わらない生活をしている未開社会を調査すると、みんな仲良く暮らしています。狩猟も採集も共同作業です。病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも、狩猟の成果は分配されます。食べ物がないと生きていけないので、これは最低限の福祉、つまり生活保護みたいなものです。
また、子どもの数が多い者にはそれに応じて分配の量も増えます。つまり未開社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産制です。

人間の能力は一人一人違うので、狩猟で多くの獲物を捕る人間とあまり捕らない人間がいたはずですが、狩猟採集社会ではお互い利他心で結びついていたので、その違いは問題になりませんでした。
しかし、農耕が始まり、社会に富が蓄積され、集団が大きくなり、また集団の外の人間との交流が広がると、利己心と利己心がぶつかり合い、争いが起こります。そうすると能力の優れた人間が争いに勝ち、富を獲得し、より高い社会的地位につきます。
そして、富は相続され、社会的地位は世襲されるので、強者はますます強くなります。つまり「生物学的強者」が「社会的強者」になるのです。
そしてあるとき、強者の一人が「この土地は俺のものだ」と言うことを思いついたのです。そうすると、弱者は従わざるをえません。そうして土地所有制度が始まったというわけです。

いずれにしても、人間には生まれつき能力差があり、能力差から貧富の差が生まれ、貧富の差は文化の中で蓄積されてどんどん拡大してきて、現代の極端な格差社会が生まれたと考えられます。
こう考えると、自然状態と文明が連続的にとらえられます。


「人間の生まれつきの能力差から社会格差が生まれた」というのはきわめて単純なことですが、これまでほとんどいわれてきませんでした。

たいして勉強しなくても東大に入れる人がいる一方、必死に勉強しても東大に入れない人がいます。その違いは生まれつきの頭のよし悪しによるのだということは誰もが認識しています。
しかし、「あの人は頭がよい」とは言っても、「あの人は生まれつき頭がよい」と言うことはめったにありません。
というのは「人間には生まれつき能力差がある」とか「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーだからです。

人間の能力は、遺伝によって決まっている部分と、環境の影響によって決まる部分があります。
両者の割合がどんなものであるかは、昔から「氏か育ちか」といわれ、議論されてきました。
昔は育ち、とりわけ教育で決まる部分が大きいと考えられていました。
しかし、科学的研究が進むと、遺伝によって決まる要素の大きいことがわかってきました。
科学的研究というのはたとえば、生まれてすぐに引き離されて別の環境で育った一卵性双生児を研究するといったやり方です。

遺伝の要素が大きいといっても、環境の要素も重要です。優れた運動能力を持って生まれてきた人でも、なにも鍛えなければ宝の持ち腐れです。あまり生まれつき運動能力のない人は、一生懸命練習すればある程度のところまでは行けますが、一流になるのはむりでしょう。
ここには「運」の要素もあります。優れたピアノの才能のある子どもでも、最初のピアノの先生との相性が悪くて、ピアノ嫌いになってしまうということもあります(これも環境要素のうちです)。

ところが、先にいったように「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーです。
というのは、人間の遺伝について語ると、差別や優生思想と結びついてしまうからです。
たとえば「知能はある程度遺伝で決まる」と言うと、「知能の低い子どもは大学に行ってもむだだ。早いうちから職業教育をするべきだ」という意見が出てくる可能性があります。
そのため「君子危うきに近寄らず」で、誰も人間の遺伝について語らなくなっているのです。

『遺伝子の不都合な真実』という本を書いた行動遺伝学者の安藤寿康氏は、長年にわたり双生児研究をしてきましたが、教育心理学会で研究発表をするといつも会場には閑古鳥が鳴き、論争すら起こらなかったそうです。「おそらく、文系の世界では『遺伝子』に触れてはならなかったのでしょう」と書いています。
学界でもこのありさまですから、一般社会ではなおさらです。
いや、一般社会で人間の遺伝について語られることはけっこうありますが、それは決まって差別や優生思想がらみです。
ですから、タブーはますます強化されます。


格差社会が発生した根本原因は人間の生まれつきの能力差にあるので、格差社会について語るなら人間の生まれつきの能力差から語り始めなければなりません。
ところが、誰もが生まれつきの能力差を避けて語るので、議論はすべてピンボケになります。

たとえば「親ガチャ」という言葉があります。
親が貧乏だと子どもは十分な教育が受けられません。DVをする親もいます。これらは親ガチャの外れです。
逆に両親がいつも知的な会話をしていて、家には本がいっぱいあり、子どもは大学にも行かせてもらえるというのは、親ガチャの当たりです。
子どもの能力はたぶんに親によって左右されるということを「親ガチャ」という言葉は表現していて、これは自己責任論を否定する意味があります。
しかし、子どもの能力と親の関係をいうなら、親の能力が子どもに遺伝するということもいわねばなりません。
しかし、それはタブーなので誰もいいません。


人間の遺伝について語ることがタブーになったのは、「遺伝」という言葉にも原因があると思われます。
一般の人は「遺伝」という言葉から、親の能力や性格がそのまま子どもに伝わることを想像してしまいます。しかし、実際にはそのまま伝わるということはありません。それは同じ両親から生まれた兄弟が、見た目も性格も能力もかなり違うことを見てもわかるでしょう。親と子を比べてもかなり違います。トンビがタカを生むこともあるし、タカがトンビを生むこともあります。
したがって、私は「遺伝」ではなく「生得」つまり「生まれつき」という言葉を使ったほうがいいと思います。
生まれつきということも、広くとらえれば遺伝になるので、学者はもっぱら遺伝という言葉を使いますが、各個人にとっては、その性質が親から伝わったということより、その性質が変えられるかどうかのほうが重要なので、生まれつきという言葉を使ったほうがいいはずです。
その能力や性格が生まれつきであると思えば、それを変えようというむだな努力をしなくてすみます。
このことは親にとっても重要です。親の役割は子どもをとりあえず全面的に受け入れることです。子どもがうるさいので、おとなしい子どもにしようというのは間違った考えです。子どもがうるさいのは生まれつきの性質だと思えば、受け入れられるはずです。また、あまり成績のよくない子どもをよい学校に入れようとむりに勉強させることもなくなるのではないでしょうか。

また、能力がある程度生まれつきで決まるといっても、鍛えれば伸びることも事実です。能力といっても多様ですから、自分の能力で優れたものはなにかを見つけ(たいていそれは好きなものであることが多いはずです)、早いうちからそれを鍛え、長く続けていれば一流の域に達し、高収入につながることもあるでしょう。


「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーなために、社会にさまざまな混乱が生じています。
学校では、知的障害の子ども以外はみな同じ能力であるという前提で授業をしているので、能力がやや劣った子ども、「境界知能」といわれる子どもは授業から置き去りにされ、社会に不適応になり、犯罪者になったりします。このことは『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口 幸治著)という本によって注目されました。
一方では、頭がよくて授業が退屈だという子どももいるわけで、両方で社会の損失を招いています。

格差社会についての議論が迷走するのも、「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーになっているからです。
そのため「貧乏なのは努力しないからだ」という主張が横行し、生まれつき能力の足りない人が自己責任論で追い詰められています。

人間の生物学的能力差はわずかなのに、社会における収入格差は膨大です。
文明の初めに格差が生じて、拡大してきた軌跡を振り返れば、適正な格差がどんなものであるかについて議論ができます。



なお、「人間の能力は遺伝である程度決まっている」というのは科学的な事実です。科学的事実を言うことがなぜタブーになるのでしょうか。
その原因は、ダーウィンが『種の起源』の12年後に出版した『人間の由来』の間違いにあります。
これについては「道徳観のコペルニクス的転回」で書いています。

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経済学は自己の利益の最大化を目指す「合理的経済人」という人間観を土台にした学問だとされます。
私はそのことを知ったとき、「『人はパンのみにて生くるにあらず』というのに、パンのことだけか」と思ったのを覚えています。
パン以外の、幸福とか生きがいとかは眼中にないのかと思いましたし、なによりも利益追求は人間性の一部でしかないだろうと思いました。

このことには経済学者も引け目を感じているようで、利益以外の面、具体的には倫理や道徳をなんとかして経済学と結びつけようとしてきました。
その代表的なものがマックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。プロテスタントの禁欲的精神が勤勉や貯蓄となって資本主義の発展につながったという逆説的なことを述べた本で、まさに経済と倫理を直結させています。

渋沢栄一は『論語と算盤』という本を書いていて、新一万円札の顔になるということから、改めて注目されています。『論語』の精神を経営に生かすということを述べているので経営学の本というべきですが、「道徳と経済の合一説」ということも主張しています。

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの『経済学と倫理学』という本も、タイトルそのままに経済学と倫理学の関連を論じています。

しかし、このような経済学に倫理学を結びつけようとする試みはうまくいっていません。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にしても、プロテスタントの国でなくても経済発展する国はいくらでもあることがわかって、最近はあまり評価されていません。


そこで、最近注目されているのがアダム・スミスです。
アダム・スミスは最初に『道徳感情論』という倫理学の本を書いて高く評価され、その次に『国富論』という経済学の本を書きました。
今ではアダム・スミスといえば『国富論』で知られ、“経済学の父”とされますが、『道徳感情論』のほうはすっかり忘れられています。

スミスは生涯にこの二冊しか本を書いていません。どちらの本もスミスは死ぬまでに何度も改訂していました。
スミスの中で経済学と倫理学は結合していたはずです。





スミスは『道徳感情論』で、道徳の根拠として人間の感情を挙げました。
人間には他者に共感する性質があり、他者の喜び、悲しみ、怒りなどの感情を自分のことのように感じることができるといいます。しかし、人間はすべての感情に共感するわけではありません。ささいなことで激しく怒っている人を見れば、共感することはありません。つまり他人の感情に是か非かという評価を下しています。
ということは、自分もまた他人から評価されているわけです。人間は誰でも他人からよく評価されたいので、そのようにふるまおうとします。しかし、こちらの人によく評価されると、あちらの人から悪く評価されるということもあります。そのような経験を積むうちに、自分と他人を公平に判断する裁判官のような第三者を胸中につくることができるとスミスは言います。この「公平な観察者」によって人間は公平な判断が下せるというわけです。
つまり人間は公平な判断ができ、それによって公平な法律をつくり、秩序ある社会をつくってきたということです。


スミスの思想はイギリス経験論に分類されます。
スミスと同じスコットランド出身のデイヴィッド・ヒュームは、人間の本性(human nature)に道徳の根拠があるとしました。
スミスはより具体的に人間の感情(sentiments)に道徳の根拠があるとし、しかもかなり論理的に説明したので、これが世の中から評価されました(この説はチャールズ・ダーウィンにも影響を与えました。感情は人間と動物に共通しているので、進化論にとって好都合だったからです)。



スミスは次に『国富論』を書きましたが、このときもまったく同じ人間観でした。つまり公平な判断ができる人間を前提としています。
同じ人間観なのに、『国富論』は歴史的名著となり、『道徳感情論』はほとんど忘れられてしまったのはどうしてでしょうか。

まずひとつ言えることは、「公平な人間」観は間違っていたということです。
たとえば日本は韓国と竹島の領有権を巡って争い、中国とは尖閣諸島の領有権を巡って争っています。これらにおいて、日本人はつねに日本に有利な主張をし、韓国人も中国人も自国に有利な主張をしています。誰も「公平な判断」はしません。
人類は数えきれないほど戦争をしてきましたし、愛し合って結婚した夫婦も数えきれないほど夫婦喧嘩をします。「公平な判断」ができないからです。

人間は利己的です。しばしば公平の基準を越えて不当に利己的にふるまい、争いを引き起こします。
スミスは人間性を買いかぶりました。
もっとも、それはスミスだけではありません。西洋の倫理学はすべてそうです。
プラトンは「善のイデア」ということをいい、アリストテレスは「最高善」ということをいい、ソクラテスは「徳」をいいました。カントも「最高善」といっています。
人間は努力して「最高善」を目指すべきであるというのが倫理学の基本です。
しかし今、倫理学は見向きもされない学問です。図書館や大型書店の倫理学の棚の前にはいつも人けがありません。
ですから、『道徳感情論』が忘れられてしまったのは当然です。

むしろ問題は、間違った人間観をもとにしている『国富論』がなぜ成功したかです。
これは対象を経済活動に限定したことに理由があります。

人間は不当に利己的にふるまう傾向があるといっても、公平の客観的な基準がある場合は別です。不公平なふるまいをすれば周りから非難されます。
経済活動はだいたい客観的な基準に基づいて行われます。物々交換の時代にも、物の個数や重さを互いに確認して取引したはずです。貨幣ができてからは、物だけでなくサービスの価値も客観化できるようになりました。
そして、株式市場や競り市のような公開の場で取引が行われれば、公平にふるまわざるをえません。

スミスは、人間が公平にふるまうので「見えざる手」がうまく機能すると考えていました。
しかし、株式市場のような場でも、人間は隙あらばインサイダー取引や不正な相場操縦行為をしようとしますし、あらゆる経済活動の場で詐欺や不正が行われる可能性があります。
そのため警察、証券取引等監視委員会、国民生活センターなどの「見える手」がつねに不正を排除することで経済を回しているのが現実です。

スミスの説は「夜警国家論」ともいわれます。
しかし、現実には社会にはさまざまな問題が生じて、警察だけでなく行政も肥大化しています。人間は公平でないからです。

ただ、ルールが決まっていて、衆人環視のもとで経済活動が行われれば、人間は公平にふるまいます。
そして、公平な市場において価格が決定されれば、価格メカニズムにより商品、資本、労働、土地が適切に配置されます。
この価格メカニズムについての理論がすばらしかったので、人間観が間違っていたにも関わらず『国富論』は高く評価されたのです。


ただ、スミスの「公平な人間」観は間違いだと言い切ってしまうのも違うかもしれません。
前回の「『性善説対性悪説』を終わらせる」という記事に書いたことですが、人間には善人の面と悪人の面の両面があります。
人間は血縁者と親しい人間には利他行動をします。したがって、共同体の中では公平な人間としてふるまうといえます。
ですから、親密な人間を相手にして単価の安い商品を扱うなら、性善説を前提としたビジネスが可能です。
しかし、今の資本主義社会では、ビジネスで扱う金額が大きく、広範囲な人間を取引相手とするので、不正をする可能性がきわめて高くなります。
人間を公平にふるまわせるには監視と罰則が必要です。


これまでのことをまとめます。
従来の倫理学はまったく価値のないものです(私は「天動説的倫理学」と呼んでいます)。
スミスの『道徳感情論』もそれと同じで、「公平な人間」というありえない人間観を提起したので、今ではほとんど忘れ去られました。
『国富論』も同じ人間観ですが、経済活動は監視しやすいために人間観の間違いはあまり問題にならず、価格メカニズムに関する経済理論が優れていたために歴史的名著となりました。

なお、経済学と倫理学を結びつけようという試みがすべてうまくいかないのは、倫理学が根本的に間違っているからです。
これまで経済学が人文・社会科学の中で比較的成功した学問であったのは、倫理学を完全に切り離していたからです。
経済学と倫理学を結合したければ、倫理学を根本的に変革しなければなりません。

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日本銀行の黒田東彦総裁は6月6日の講演で、最近の物価上昇に関して「家計の値上げ許容度も高まってきている」と発言し、「庶民の気持ちがわかっていない」との批判を浴びて、結局発言を撤回しました。

この発言も問題ですが、私が気になるのはその少し前の発言です。
6月3日の参議院予算委員会で、参考人として出席した黒田総裁に対して立憲民主党の白真勲参院議員が「最近食料品を買った際、以前と比べて価格が上がったと感じるものがあったのかどうか、ご自身がショッピングしたときの感覚、実感をお聞かせください」と質問したところ、黒田総裁は「私自身、スーパーに行ってですね、物を買ったこともありますけれども、基本的には家内がやっておりますので、包括的にですね、物価の動向を直接買うことによって、感じているというほどではありません」と答弁しました。
ろくに買い物をしたことのない人間が日本の金融政策を決めているのです。

黒田総裁は財務省の出身です。
キャリア官僚は残業が多いので、一人暮らしの場合でも自炊することはまず不可能ですし、実家暮らしなら家事は母親に丸投げでしょう。結婚すると専業主婦の妻に丸投げです。
ですから、キャリア官僚のほとんどは自分で家事をしませんし、当然買い物もしません。それが官僚の文化です。
そして、役所の中は圧倒的に男性が多く、女性はあまり出世できません。
おそらく霞が関は、伝統芸能の世界を別にすれば、日本でもっとも古い性別役割分業が生き残っている世界です。

自分で買い物をしない黒田総裁を擁護する人もいます。
たとえば国際政治学者の三浦瑠璃氏は「黒田総裁は専門家なわけです。専門家がマクロの全体の話を見て言っているのに“私が行った今日のスーパーでは、白菜はこのくらいの値段でしたけど”っていうね、エピソードベースで反論しようというのは一番やってはいけない。これが日本全体の政治や経済に関する議論の質を落としている」と言って、逆に質問した白議員を批判しました。
ちなみに三浦氏の夫は元外務官僚です。

嘉悦大学教授の高橋洋一氏も、黒田総裁の「家庭の値上げ許容度は高まっている」という発言は東京大学の渡辺努教授による「値上げに関するアンケート調査」に基づくもので問題はなく、やはりマクロ経済の議論をしないマスコミを批判しました。
高橋氏も財務省の出身です。

霞が関の文化にひたっていると、問題が見えなくなるようです。

日銀総裁が個人的な実感で政策を決めるのは確かに問題で、最終的にはマクロの数字に基づいて決めるべきですが、自分で買い物をしない人間は、マクロの数字の背後にある現実がわかりません。

黒田総裁の「家庭の値上げ許容度は高まっている」という発言の根拠になったアンケート調査というのは、「馴染みの店で馴染みの商品の値段が10%上がったときどうするか」という問いに対して、2021年8月の調査では、「その店でそのまま買う」が43%、「他店に移る」が57%だったのが、2022年4月の調査では、「その店でそのまま買う」が56%に増え、「他店に移る」が44%に減少したというものです。
変化したといっても13ポイントにすぎませんし、それに今年4月ごろの値上げというのは、日清オイリオが4月1日納入分から家庭用の食用油を1キロ当たり40円以上値上げすると発表し、J―オイルミルズが7月1日納入分から家庭用の食用油を1キロ当たり60円以上値上げすると発表するというように、メーカーによる一斉の値上げです。牛丼にしても、松屋が昨年9月、吉野家が10月、すき家が12月と連続的に値上がりしました。ですから、「他店に移る」を選択する人がへるのは当然です。
日ごろ自分で買い物している人ならこうした個々の値上げのニュースに敏感になりますが、黒田総裁はマクロしか見ていないので、「他店に移る」が13ポイント減少したことを「家庭は値上げを許容している」と誤解してしまったのです。

また、黒田総裁はコロナ禍で消費ができなかったために家計に“強制貯蓄”があることも値上げ許容の理由に挙げましたが、多少貯金が増えたからといって「高くてもいいや」という気持ちになるわけがなく、この点でも消費者心理がわかっていないというしかありません。

企業と家計、生産と消費というのは車の両輪みたいなものですが、霞が関の文化には家計も消費も欠落していて、いわば片翼飛行をしているみたいなものなので、その中にいる人間には経済の全体が見えません。


私がこの霞が関文化のもたらす害悪に気づいたのは、1980年代、有機農業が注目され、スーパーにも有機野菜が多く並ぶようになってきたのに、農水省はそれになんの対応もしなかったときです。有機野菜には基準も規制もないので、「無農薬」という表示があっても信用できません(実際、「無農薬」をうたいながら農薬を使用していることが多いと言われていました)。
有機米が初めて公認されたのは1987年のことで、有機栽培のガイドラインが制定されたのは1991年です。
これだけ存在感のある有機農産物を農水省がなかなか認めないのはなぜかと考えたときに、農水省の役人は自分で買い物をしないからではないかと気づきました。スーパーに行けば、有機野菜が多く並んで、色つやなどからそれが一般野菜と質が違うということがわかります。しかし、農水省の役人はデスクで数字ばかり見ているので、有機野菜のことが認識できないのです(あと、彼ら学校秀才は何ヘクタールの土地に何トンの肥料を入れれば何トンの収穫があるというような機械論的な発想を好むこともあるかもしれません)。

黒田総裁が買い物をしないということは、個人的な問題ではなく、日銀政策委員会9人のメンバーのうち女性は1人であるという構造的な問題ともつながっているはずです。
また、黒田総裁は就任当初から2%の物価上昇を目標に掲げてきましたが、消費者なら誰もが望まない目標です。ということは、日本国民が望まない目標であったわけです。
9年たってようやく目標が達成できそうですが、この目標設定も改めて検討する必要があります。


霞が関や永田町、さらには経済界が男社会であることの経済への悪影響は想像以上に大きなものです。

日本で衰退した産業の代表格は家電メーカーです。昔は日本の家電は世界を席巻したものですが、今では見る影もありません。
家電の価格や性能では外国企業も同じ水準のものがつくれるので、そうなると魅力ある製品、消費者のニーズに合った製品をつくるということがたいせつですが、日本の家電メーカーの社員はほとんどが消費行動をしない男性社員なので、そこで差がついたのではないでしょうか。
日本のいわゆる白物家電には、余計な機能のついたものがよくあります。魅力的な製品をつくろうとして的を外している感じです。
もう10年ほど前ですが、電子レンジを買おうと思ったとき、インターネットにつながった電子レンジがあって、レシピ通りにつくると加熱時間が自動的に設定されるというのですが、材料の量などはレシピ通りというわけにはいかず、結局、最後は加熱加減を人間が目で見て確認しなければならないはずで、無意味な製品だと思ったのを覚えています。自分は料理をしない社員が製品開発をしているのではないかと思いました。
今はこの手のものはIoTといってさらに進化していますが、作り手の自己満足のような感じで、消費者に喜ばれている感じはありません。

日本には高い技術を持った企業はあるのに魅力的な製品をつくることができないという傾向があり、それが日本経済の衰退を招いています。
それは結局、日本は性別役割分業が根強くて、男性が生産を担い、女性が消費を担うというように、生産と消費が分離しているためと思われます。

日本の産業が全体的に衰退する中で、自動車産業だけは気を吐いていて、日本経済は自動車産業の一本足打法などと言われます。
なぜ日本の自動車産業は元気なのかというと、自動車の購買の決定権はたいてい男性が持っていて、つまり生産と消費が一致しているからではないでしょうか。



黒田総裁の「家計の値上げ許容度も高まってきている」という発言は大いに批判されましたが、「買い物は基本的には家内がやっております」という発言については、むしろ擁護する声があって、批判する声はまったく聞きませんでした。
買い物をしない人間が日銀総裁をやっているということは、もっと問題にされていいはずです。

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今年は日本共産党結成100周年です。
ソ連東欧圏の崩壊とともに共産主義も思想として破綻したと見なされていますが、日本共産党はずっと「共産党」を名乗って、綱領には「科学的社会主義」が掲げられています。
「科学的社会主義」とはなんでしょうか。

志位和夫委員長は4月14日の記者会見で、ウクライナ侵略に反対することと「科学的社会主義」の関係について問われ、「マルクス、エンゲルスはその生涯を通じて、19世紀の二つの覇権主義――帝政ロシアの膨張主義およびイギリス資本主義の植民地主義に対してたたかいを続けてきた」とし、「日本共産党はマルクス、エンゲルスの立場を引き継ぐものだ」と述べました。
どうやら「科学的社会主義」はマルクス主義のことのようです(レーニンは排除されたようです)。
綱領には「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく(中略)民主主義革命である」とありますが、そのあと「日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる」として、「生産手段の社会化」をうたっています。

国民民主党や連合の芳野友子会長が野党共闘から共産党を排除するよう立憲民主党に要求しているのは、共産党がマルクス主義政党だからということでしょう。

しかし、社会主義経済や計画経済は、格差社会問題や地球環境問題の観点から世界的に見直されています。
単純な反共主義も時代遅れです。

とはいえ、ソ連東欧圏が政治的にも経済的にも行き詰まって崩壊したのは事実です。
マルクス主義はどこが間違っていたのでしょうか。
思想的な観点から解明したいと思います。


そもそもマルクス主義はなぜ「科学的社会主義」を名乗っているのでしょうか。
これにはダーウィンの進化論の影響があります。
ダーウィンとマルクスはほとんど同時代人です(ダーウィンは1809年生まれ、マルクスは1818年生まれ)。
マルクスは『種の起源』を読んで感銘を受け、『資本論』の第一巻をダーウィンに献本しています。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、共産制へと社会が進化するという唯物史観は進化論の影響でしょう。
革命家は体制側に立つキリスト教会とも戦わねばなりませんでしたが、聖書の創造説を否定する進化論の登場は革命家にとって強力な援軍になりました。
マルクス主義は「宗教はアヘンだ」としてキリスト教と全面対決しましたが、それを可能にしたのは進化論の援軍でした。

マルクス主義は進化論を土台にしたので「科学的社会主義」を名乗ったのです。

幸徳秋水は『平民主義』において、「社会主義が自由競争を禁止しようとするのは、進化論の生存競争の法則と矛盾するのではないか」という疑問に答える形で、進化論とマルクス主義の関係について次のように書いています。
ダーウィン氏の進化説は、千古不滅の真理である。けれども、彼はただ、生物自然の進化する根本の理由を説示するにとどまった。
だから、どうしてこれを人類社会に応用すればいいか、という問題になってくると、あの、いわゆるダーウィニアンの徒が、まちまちの議論にわかれ、なかにはひどい謬見におちこんでいる者がある。
そして、ダーウィンが生物自然の領域でなしとげたのと同じような創見を確立して、じかに人類社会の領域にもちこんで貢献したのが、近代社会主義の開祖マルクスである。
マルクスもまた、すべて従来の独断・迷信を排除し、人類社会の史的発展過程を研究して、社会進化の法則が、かならず社会主義に帰着しなくてはならない必然の筋道をあきらかにした。マルクスの『資本論』は、まことにダーウィンの『種原論』(『種の起原』)とならんで種子をおろした十九世紀の大作である。
だから、ダーウィンの進化説は、ほんとうにマルクスの資本論によって、はじめて大成されたものである。いったい、社会主義をさして進化説と矛盾する、というような論者は、まだ社会主義がわからないばかりでなく、また進化説もわからない者である。(幸徳秋水著『平民主義』中公クラシックス)

マルクス主義と進化論は一時期、このように幸福な関係にありました。
しかし、ダーウィンはジェントルマン階級の人間で、しかもイギリスでもっとも格式の高い社交クラブに属するような“最上級国民”でした。その階級的立場ゆえに、ダーウィンは進化論を人間に適用するときに間違いを犯したのです。
ダーウィンは『種の起源』の12年後に著した『人間の由来』で進化論から見た人間を論じ、そこにおいて社会ダーウィン主義と優生思想を肯定し、人種差別を助長する考えを示しました。これ以降、社会ダーウィン主義と優生思想が社会を席巻し、ナチスによるホロコーストの悲劇も生まれました。
現在でも進化論によって人間を論じると、人種差別、社会ダーウィン主義、優生思想を肯定する間違いを犯す者が少なくありません(たとえば橘玲や竹内久美子など)。

ともかく、ダーウィンが進化論の人間への適用を間違ったので、マルクス主義と進化論はたもとを分かちました。
今ではマルクス主義と進化論に密接な関係があったことはほとんど忘れられているので、なぜマルクス主義が「科学的社会主義」を名乗っているのかわからない人も多いかもしれません。


ダーウィンが進化論の人間への適用を間違ったのは、あくまでダーウィンの間違いで、マルクス主義とは無関係です(ダーウィンの間違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく述べています)。
それとは別に、マルクス主義そのものに間違いがあります。


マルクス主義など社会主義思想は、経済体制の変革を目指すものですが、その根底には「人間解放」ということがあります。
人間解放の思想の源流は、ジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』にあります。
『人間不平等起源論』の有名な一節を引用します。

ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と言うことを思いつき、それを信ずるほど単純な人たちを見いだした最初の人が、文明社会の真の創立者であった。

このときから人間社会の不平等が始まって、それ以前の自然状態では平等だったというわけです。
マルクス主義が人間社会の最初の状態を原始共産制と見なしたのと同じです。

ルソーは、土地に囲いをすることを思いついた賢い人間と、それを信じた愚かな人間との間で不平等が生じたとしています。しかし、そんな自分に損になることを単純に信じる人間はいません。実際は土地の囲いを巡って争いがあったはずです。そして、強者が弱者に対して自分の言い分を通したのです。
つまり自然状態でも生物学的な強者と弱者がいました。ただ、その差はわずかでした。しかし、その差をもとにした社会制度ができると、社会的な強者と弱者が生まれ、その差はしだいに拡大してきたというわけです。

ともかく、不平等や支配は個人と個人の関係から生じるので、社会から不平等や支配をなくそうとすれば、個人と個人の関係から正していかなければなりません。

ところが、マルクス主義が問題にしたのは、奴隷と市民、地主と小作人、資本家と労働者という、生産関係における階級支配でした。
資本主義社会では、労働者階級が資本家階級を打ち倒せば人間解放という目的は達成されると考えたのです。
これがマルクス主義の根本的な間違いでした。
労働者階級が資本家階級の支配から解放されたとしても、さまざまな支配のひとつから解放されたにすぎません。

たとえばソ連においては、女性が職場や軍隊にも進出し、男女平等に近づいたようでしたが、党や国家の上層部は男性ばかりで、家庭内の性別役割分業も昔とほとんどかわりませんでした。
つまり女性は男性支配から解放されていなかったのです(フェミニズムがそれを明らかにしました)。


さらに、もうひとつの問題があります。
それは知識階級支配という問題です。
複雑化した現代社会では知識階級の力が大きくなりました。
社会主義運動も、労働者が主体であるというよりも、実質的には知識人が主導して行われていました。
とりわけマルクスやエンゲルスの書く文章はむずかしいので、知識人でないとなかなか理解できません。そのため労働者は読書会や学習会で知識人から学びました。
マルクス主義は「科学的社会主義」という“真理”なので、知識人はより“真理”に近い人ということになりました。
つまりマルクス主義には“知識階級独裁”という罠が隠されていたのです(これを“プロレタリアート独裁”という言葉でごまかしていました)。

革命が成功してソ連が成立すると、党や国家の上層部は知識階級によって占められました。
これはどんな国家でも同じですが、マルクス主義では知識階級支配に対して無警戒なので、ソ連は独裁国家になり、党幹部や国家官僚は特権階級化しました。
これがマルクス主義のもたらした最大の問題です。


マルクス主義は労働者階級が解放されればすべての問題が解決すると考えたのですが、実際には男性が女性を支配しているという問題があり、さらに、知識階級が非知識階級を支配しているという問題もありました。

つまりルソーが想像したように、強者と弱者が出会ったときに支配が生じるので、支配はいたるところにあります。
しかし、今のところ人間解放の思想としては、マルクス主義など社会主義思想とフェミニズム思想しかありません。
このふたつでは不十分です。
いちばん肝心なことが抜けています。

人間が生まれて最初に体験する支配は、親からの支配です。
親は子どもに対して圧倒的な強者です。
親は自分の子どもを思い通りにしようと教育・しつけを行い、「やさしい子になってほしい」とか「たくましい子になってほしい」とか「医者にしたい」とか「ピアニストにしたい」とか考えますが、こうした考えはすべて子どもの人生を支配しようとするものです。
そうしたことがまかり通っているので、悲惨な幼児虐待も起こります。

親子関係は人間関係の原点なので、親子関係に支配があることを理解すれば、あらゆる人間関係の支配が理解できるようになります。
人間社会の不平等や支配を解決するには、親子関係の改善から始めなければなりません。


このようにマルクス主義は、人間解放の思想としては、階級支配しか視野になくて、性差別も子ども差別も無視していたので、まったく不十分でした。

日本共産党の綱領には、フェミニズムが取り入れられて「ジェンダー平等」がうたわれています。
しかし、「子どもの人権」や「子どもの主体性」という言葉はなく、子どもは「教育の対象」ととらえられています。
また、「民主集中制」という言葉もあって、ソ連の独裁政治に対する反省も不十分です。


あと、社会主義経済はうまく機能するのかという問題もあります。
これは大きな問題なので、簡単には答えられませんが、中国もベトナムも市場経済を取り入れることで経済発展をしています。
市場経済を前提に貧富の差の解消をはかるというのが正しい道ではないかと思います。

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「小人閑居して不善をなす」という諺がありますが、現代では「金持ち閑居して宇宙へ行く」という諺も必要です。

ZOZOTOWN創業者の前澤友作氏は12月8日、日本の民間人として初めて宇宙に行き、国際宇宙ステーションに12日間滞在しました。
費用は約100億円だったそうですが、個人資産2000億円以上とされる前澤氏にとってはなんでもないのでしょう。

金持ちが宇宙を目指すのは世界的なブームのようです。
世界一の富豪とされるイーロン・マスク氏は、電気自動車大手テスラのCEOであるだけでなく、宇宙開発企業スペースXも創業し、民間企業による有人宇宙飛行を成功させました。
世界で二番目の富豪とされるジェフ・ベゾス氏は(このへんの富豪の順位は一年ごとに変わりそうです)、アマゾン創業者で会長であるだけでなく、宇宙開発企業ブルー・オリジンを所有し、民間人による宇宙旅行の実現を目指しています。
わが国では堀江貴文氏も、宇宙旅行ビジネスを目指して何度もロケット打ち上げをしています。

こういう人たちを見て、「夢があっていい」という人もいますが、私は「宇宙しか夢がないのか」と思います。
本業で功成り名遂げて、バカみたいに資産ができて、ほかになにかすることがないかと考えたとき、宇宙ビジネスしか思いつかないのでしょう。
小さいころから宇宙へ行くのが夢だったという人ならいいですが、「夢といえば宇宙」というステレオタイプな発想なら、心が貧しいといえます。
それに、宇宙旅行といっても地球の周りをぐるぐる回っているだけで、未知の世界に挑戦するというロマンはありません。


昔の実業家は、松下幸之助にしても本田宗一郎にしても中内功にしても、本業一筋が当たり前で、ほかのビジネスに手を出すことはまずありませんでした。
今は価値観が変わったということもありますが、若くして巨額の資産を手にするようになったことが大きいと思います。
昔の日本は累進課税の税率がすごくて、松下幸之助などは収入の9割以上を税金に取られて、「私は国に税金を納めた手数料をいただいている」と言っていました。
松下幸之助は晩年に松下政経塾をつくりましたが、その程度のことしかできなかったわけです。

今の実業家は若くして巨額の資産を手にし、使いみちがないので、宇宙ビジネスに金をつぎ込みます。
前澤氏などは2019年には100人に100万円ずつのお年玉プレゼント、2020年には1000人に100万円ずつのお年玉プレゼントをしました。

こうしたバラマキや宇宙旅行に対して、「金持ちの道楽」という批判がありますが、それに対して「自分の能力で稼いだ金を好きに使ってなにが悪い」という反論もあります。

ここで問題になるのは、果たして前澤氏は自分の「能力」で稼いだのかということです。
前澤氏は確かに人より能力は高いでしょうが、いくら高いといっても、人の2倍も3倍もないでしょう。
ところが、すでに前澤氏は平均的な人の1000倍ぐらい稼いでいるのです。
前澤氏が能力によって稼いだ部分はほんの少しです。あとは資本主義のからくりによって稼いだのです。


農耕社会では、体力のある人間がいくらがんばって畑を耕しても、人の2倍か3倍が限度でした。
しかし、土地所有制が始まると、広い土地を持つ地主は働かずとも小作料によって人の何倍もの収入を得ることができます。
貧しい小作人は不作のときなどすぐ金がなくなるので、地主は小作人に金を貸し付けて、さらにその金利を得ることもできました。
もちろんこの収入の差は能力とはほとんど関係ありません。

働かずに豊かな生活をする地主と、いくら働いても貧しい生活をする小作人や農奴の関係は見えやすく、不当であることがよくわかるので、今では多くの国で地主と小作人の関係は規制されています。

ところが、農業以外の産業での資本家と労働者、雇う側と雇われる側の関係はあまり規制されず、冷戦後は資本家や雇う側がさらに有利になって、日本では契約社員や派遣社員の形で安く人を雇うことができます。
さらに所得税がどんどん減税されて、今では累進課税は最高45%ですし、株式譲渡所得については税率20%です。
前澤氏は2019年にZOZOTOWNをヤフーに譲渡し、報道によるとそのときに約2400億円を手にしたそうですが、その税率も20%です。
松下幸之助の時代と違って、金持ちは税制面で大幅に優遇されているのです(自民党は財政赤字がふくらむ中でも金持ち減税を進めてきました)。

つまり人間の能力は、知能にせよ体力にせよ、いくら高くても平均より30%とか40%程度なのに、資本主義下では収入は平均の千倍、一万倍ということが可能で、しかも税制で優遇されています。
現代の金持ちを見て、彼は自分の能力によって金持ちになったなどと考えるのは愚かなことです。


前澤氏は本人も戸惑うような巨額のお金を手にしたために、おかしなバラマキをしたり、宇宙に行ったりしているというわけです。
普通金持ちは貧しい人や恵まれない人のために慈善事業をするものですが、前澤氏のお金配りはそういうものではなく、前澤氏が恣意的に選んだり、抽選方式だったりします。
「貧しい人に配れ」という声に対しては、前澤氏本人がツイッターで「誰に配ろうが俺の好き。国の社会保障と一緒にしないでもらいたい」と言っています。
昔の成功した実業家なら、半ば建て前であるとしても、「自分が成功できたのは従業員や周りの人のおかげ」と言ったものですが、前澤氏にはそういう言葉もありません。

ZOZOTOWNを運営する(株)ZOZOのホームページを見ると、従業員数は「1359名/グループ全体」となっています。おそらく正社員はもっと少ないはずですが、単純化して1000人ということにしてみます。前澤氏が手にした2000億円をみんなで分配すると、1人2億円ということになります。前澤氏が200億円取っても、それほど変わりません。
将来の成長を見越して実態以上に株価が高くなっている面はありますが、資本主義社会がいかにいびつかがよくわかります。

前澤氏は、格差が拡大した今の日本を象徴するような存在です。



ところで、前澤氏のような金持ちの存在を能力によって説明するのは、誰が見てもむりがあります。
そこで、最近は格差の理由を「能力」ではなく「努力」で説明することがよく行われています。
「彼が成功したのは努力したからだ。努力しない人間がねたむのはよくない」といった具合です。

「努力」というのはやっかいな問題ですが、これについては、新しく始めた別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」の「第1章の1」で説明しているので、参考にしてください。


経済学の入門書を読むと、たいてい「一物一価の法則」というのが書いてありますが、果たしてこれは「法則」というほどのことでしょうか。これは「当たり前」というべきです。初歩の段階で「一物一価の法則」を学んでしまうと、そのあとのことが頭に入りにくくなってしまいます。
経済学でだいじなのはむしろ「価格変動の法則」でしょう。同じ物でも場所と時間で価格が変動するということを理解すれば、「一物一価の当たり前」はどうでもよくなります。
 
価格変動といえば、需要と供給の法則ということになりますが、需要にせよ供給にせよ抽象的な概念です。そもそも需要とはどうして発生するのでしょうか。こういうことは具体的なことから説明してほしいものです。
 
人間が生きていくにはまず空気が必要ですが、空気はどこにでもあります。水もそれほど苦労せずに手に入ります。問題は食糧です。食糧がないと生きていけませんが、食糧を手に入れるのは簡単なことではありません。
これはどんな動物でも同じです。動物の最大の関心事は食糧を得ることです(次に子孫を残すことです)。食糧を得られないために死んでいく個体はつねに少なからずいます。
 
ですから、人間もつねに食糧を得るために必死であるわけですが、もともと人間は自分の食べるものを自分で得ていて、つまり自給自足の生活をしていたわけで、そうすると市場もありませんし、需要と供給も、価格変動もありません。
しかし、あるとき物々交換が始まりました。こうして市場ができ、経済学が存在する理由ができたわけですが、物々交換はどうして始まったのでしょうか。
物々交換は、双方ともに得だと思うことで成立するのですが、どうして物を交換することで双方が得をするのでしょうか。
これは人間の生理的欲求の性質によります。この生理的欲求は生物学的に規定されています。
 
山の民は主に獣の肉を食べて暮らし、海の民は主に魚を食べて暮らしていますが、いつも同じものを食べていると飽きてきて、別のものを食べたくなります。別のものを食べるとおいしく感じます。これは人間の生まれついての性質で、生物学的に規定されています。そうしてさまざまな栄養素を取り込むことができるわけです。
つまり、山の民はたまに魚を食べると獣の肉よりもおいしく感じ、海の民はたまに獣の肉を食べると魚よりもおいしく感じます。双方がまずいものをおいしいものと交換したと思うから、物々交換が成立するのです。
 
これはあくまで人間が生物学的存在だからです。このことを無視して物々交換の発生を説明することはできないと思います。
 
しかし、経済学の本には、人間の生理的欲求だとか、本能だとか、生物学的要素だとかはめったに書かれていません。たいていは、いきなり市場における価格決定のことから書かれています。
 
経済学の入門書は、人間がほかの動物と同じように暮らしていたところから書き出すと、とてもわかりやすくなると思います。
 

経済学に「限界効用理論」というのがあります。私はこれがどういうことかわかりませんでした。経済学の入門書を読んでもわからないし、経済学部の友人に聞いてもわからない。あるとき、NHK教育テレビでアニメを使って説明しているのをたまたま見る機会があり、今度こそわかるかと思って集中して見ましたが、やはりわかりませんでした。
 
私は、モノの価値というものを経済学はどう説明しているのかが知りたかったのです。マルクス主義経済学では労働価値説というのがあり、これが正しいかどうかは別として、考え方としてはわかります。それに対して、近代経済学では効用価値説というのがあるのですが、この「効用」というのがよくわからないのです。「効用」を理解するには「限界効用」を理解しなければならないのかと思ったのですが、結局「限界効用」もわからないということになってしまいました。
 
もっとも、こういうことはわからなくても困りません。今は市場というものが成立しているので、市場においてモノの価値が決定されるからです。そういう意味では、労働価値説でも効用価値説でもどっちでもいいということになります。
しかし、市場が成立する以前にもモノの価値はあったわけですから、私はそれが知りたかったわけです。
いろいろやってもわからないというのは、私の頭が悪いからだと思って諦めていましたが、やはり納得いかない思いが残ります。
 
ということで、今回ちょいと思いついて検索してみると、「限界効用」も「効用」もわかりました。そして、今までなぜわからなかったかもわかりました。私の問題意識が経済学とずれていたのです。
「限界効用」とはこのようなもののようです。
 
消費者が財を消費するときに得る欲望満足の度合いを効用という。しかし同じ1枚のパンの効用も、1枚目と2枚目とではその大きさは異なるであろう。通常は、1枚目のパンの効用よりも2枚目のそれのほうが小さく、さらに3枚目はもっと小さくなる傾向がある。このように、財の消費量が増加していくときの追加1単位当りの効用を限界効用といい、財の消費量の増加とともに限界効用がしだいに減少することを「限界効用逓減(ていげん)の法則」(または「ゴッセンの第一法則」)という。
(Yahoo!百科事典「限界効用」より)
 
 
なるほど、一枚目のパンより二枚目のパンの価値が小さいというのはよくわかりますし、それが法則化されているというのもわかりました。
しかし、私が知りたかったのは、一枚目のパンの価値はどうして決まるのかということなのです。そういう問題意識で経済学の入門書などを読んでいたので、ぜんぜんわからなかったのです。
 
一枚目のパンの価値について、経済学者はちゃんと論じているでしょうか。論じていないのではないかと思います。
文系の学問がだめなのはここです。いちばん根底のところをないがしろにしているのです。
 
一枚目のパンの価値を論じようとすると、人間はパンなしでは生きていけない存在、つまりただの動物であることを認めなければなりません。これは当たり前のことですが、とくに欧米の学者は認めたくないようです。そのため、経済学の根本のところがいい加減になってしまうのです。
 
たとえば、「水とダイヤモンドのパラドックス」といわれるものがあります。これも人間が動物であることをごまかしているので、よくわからない説明しかできていません。
 
価格の表す希少性は、効用とは区別すべき概念である[1]。伝統的には水とダイヤモンドを例として価値と価格のパラドックスを問題にしたアダム・スミスがいる。水はそれなしで人間が生きていけない程効用の大きなものであるが、豊富に供給されているためその限界効用(後述)は小さくなっており、市場価格は非常に安いものとなっている。一方、ダイヤモンドは単なる装身具であり、水に比べて効用は小さいが非常に希少であるため限界効用が大きく市場では高い価格で取引される。これが水のない砂漠であれば、人は容易に一杯の水のためにダイヤモンドを手放すであろう。水に希少性が出てきたのでダイヤモンドの限界効用を上回ってしまうためである。
(ウィキペディア「効用」より)
 
ウィキペディアにかみついてもしょうがないのですが、ウィキペディアがいちばんわかりやすく説明していたので、取り上げました。
 
砂漠の遭難者がコップ一杯の水のためにダイヤモンドを手放すというのはよくわかります。しかし、それは水に希少性があるからだけではありません。砂漠で希少性があるのは、ガソリンにしてもお米にしても同じです。しかし、ガソリンやお米のためにダイヤモンドを手放すことはありません(つけ加えれば、砂漠ではダイヤモンドの希少性も高まります。近くに宝石店がないので)
なぜ水のためにダイヤモンドを手放すのかといえば、水がなければ人間は生きていけないからです(ウィキペディアにも一応そのことは触れられていますが、市場価値を中心に論じているので、わかりにくい)。
 
つまり、モノの価値の根本には、「人間が生きていくために必要である」ということがあるのです。
ですから、空気、水、食べ物、衣服、住まいなどに価値があります。それらが満たされたときにダイヤモンドなどにも価値が出てくるのです。
ところが、経済学者は市場価値を基準に考えているようで、そのため私とかみ合わなかったのです。
 
これから経済学が真に科学といえる学問になるには、人間が生物であるという前提から組み立てていってもらわなければなりません。

金相場がずっと高値圏にあります。金融危機など世界経済の先行き不透明感から、資金が安全資産とされる金に逃避しているのだと説明されています。
といって、ここで金相場について語ろうというわけではありません。そもそもどうして金にそんなに価値があるのかということについて考えてみます。
 
金に高い価値があるのは、普通こういうふうに説明されます。
 
・産出量が少ない(これまでに産出された総量はオリンピックプール3杯分だそうです)
・工業用に需要がある(コンピュータのCPUなど)
・装飾用に需要がある。
 
ほかにも、化学的に安定していて加工しやすいといった特徴も挙げられますが、要するに工業用や装飾用に需要があるのに、産出量が少なく、その需給によって価値が決まっているわけです(その価値ゆえに資産や貨幣用の需要も出てきます)
問題は、金が装飾用に強い需要があるのはなぜかということです。
それは金の色と光沢が美しいからです。
では、なぜ金は美しいのでしょうか。
言い換えれば、なぜ人は金を美しいと思うのでしょうか。
実は、ここのところについて、はっきり語られることはまずありません。たとえばウィキペディアの「金」の項目を見ても、装飾用の価値について書かれているのはこれぐらいです。
 
「金は多くの時代と地域で貴金属としての価値を認められてきた。化合物ではなく単体で産出されるため装飾品として人類に利用された最古の金属である」
「金は有史以前から貴重な金属として知られていた」
「金とその他の金属の合金は、その見栄えの良さや化学的特性を利用して指輪などの装飾品として、また美術工芸品や宗教用具等の材料として利用されてきた」
 
「見栄えの良さ」という言葉はありますが、どうして見栄えが良いのかは書いてありません。
こういう根本的なことをごまかしているのが、これまでの学問なのです。
 
なぜ人間は金を美しいと思うのでしょうか。
その答えは簡単です。人間は金を美しいと思う性質を生まれながらに持っているからです。
そんなことは当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、これまでその当たり前のことをごまかしていたのです。
 
人間は、甘いものを好み、苦いものを嫌うという性質を生まれながらに持っています。これは進化論からも説明できるので、否定する人はまずいないでしょう。
人間が金を美しいと思う性質を生まれながらに持っていることを進化論から説明するのはちょっとむずかしいかもしれませんが、説明はできなくても、そういう事実があることは明白です。どの時代、どの地域でも、金は価値あるものだったからです。
 
ちなみにカラスはビー玉などの光るものを集めることがあります。光るものを好む性質を持っているのでしょう。人間にも同じ性質があっても不思議ではありません。都会の夜景、花火、星空などは誰でも美しいと思います。
 
人間は金を美しいと思う性質を生まれながらに持っているという考え方は、人間は生物学的存在であって、その性質や能力は生まれながらに決定されているという考え方でもあります。これは人文・社会科学の世界ではタブーとされてきました。
しかし、ものごとを根本から考えようとすれば、人間が生物学的存在であることを無視することはできません。
 
もし人間に金を美しいと思う生まれながらの性質がないとすれば、金の価値は時代の価値観によって変化することになり、資産としての価値に重大な疑義が生じることになりますが、現在の金相場の動きを見れば、誰もが金の資産価値は絶対だと思っているようです。

1015日、格差社会に反対するデモが世界規模で行われました。
格差社会とはなんでしょうか。格差社会はどうして生まれたのでしょうか。それを考えてみたいと思います。
 
人間は生まれながらに能力差があります。頭のよい人と悪い人がいますし、体力のある人とない人がいます。もちろん頭も体も鍛えれば能力は向上しますが、生まれつきの差があることは動かせない事実です。
では、どれくらいの能力差があるのでしょうか。
障害を持って生まれた人もいます。これももちろん生まれつきの能力差ということになりますが、ここでは一応健常者について考えてみることにします。
 
100メートル走の場合、速い人が約10秒ということになります。高校生男子の平均は14秒ぐらい、遅い人でも17秒ぐらいのようです。約10秒の人は相当鍛えた人ですが、それでも遅い人の2倍まではいかないわけです。
持久走の場合は、鍛えた人と鍛えてない人では大きな差が出ますが、鍛えた人同士、あるいは鍛えてない人同士を比べると、やはり2倍まではいかないのではないでしょうか。
 
頭のよさについても同じようなものではないかと思われます。
もっとも、頭のよさというのはいろんな要素から成っています。言語能力、数学的能力、記憶力、頭の回転の速さなど、数えていけばいくらでもあるでしょう。知能検査で測れるのは、その知能検査で測れる頭のよさですが、頭のよさの目安としては知能検査に頼るしかないでしょう。
IQは、95%の人が70から130の間に収まるとされますから、やはり頭のよさが2倍以上になることはまずないのではないかと思われます。
 
要するに、人間の能力は生まれつき違いがありますが、それほど大きくは違わないということです。
たとえば畑を耕すとき、たくさん耕す人とあまり耕せない人がいることになりますが、2倍まで耕せることはまずないということです。
ということは、農耕社会においては、能力によって貧富の差が生じるとしても、2倍まで豊かになる人はまずいない……と言いたいところですが、そんなことはありません。
たとえば、飢饉になったとき、収穫の少ない人は飢え死にしそうになりますが、収穫の多い人はそうではありません。となると、収穫の少ない人は収穫の多い人に食べ物を譲ってもらわなければなりませんが、圧倒的に不利な立場なので、来年の収穫時に2倍にして返せとか、土地の一部をよこせとか言われても、受け入れるしかありません。そうしたことが繰り返されるうちに、地主と小作人に分かれることになり、貧富の差が拡大します。
もっとも、小作人が死ぬと地主も利益を失うため、地主は小作人を死なない程度の貧乏にとどめておきます。
 
さて、現在の資本主義社会ではどうでしょうか。
カジノ資本主義という言葉があるように、ここではマネーゲームが行われています。テーブルを囲んでゲームを行っていると、実力の差はわずかであっても、実力のある者の前にはチップが山と積まれ、実力のない者はすっからかんになって、借金の証文を書き、土地家屋の権利書を渡し、娘を売るというはめに陥ります。
この社会では、マーケットが世界規模で広がっているために、小作人に死なれると困る地主とは違って、富裕層は貧困層が何人死のうと平気です。
そのため貧富の差は、数千倍、数万倍になっていると思われます。
 
農耕社会以前の狩猟採集社会というのは、どういうものであったのかちょっと想像しにくいのですが、おそらくそこでは能力の差が貧富の差だったのではないでしょうか。
能力の差が貧富の差であるような社会が、人間性にかなった本来の社会ではないかと私は考えています。
 
ところで、マルクス主義は生産力が向上して豊かになるとともに貧富の差が生まれ、原始共産制から奴隷制へと移行したと説明しますが、なぜ貧富の差が生まれたのかは明瞭ではありません。私の説明のほうがよほど明瞭ではないでしょうか。
人間は生まれつき能力の差があるということは、人間と社会について考えるときの大前提です。
 
 
次のエントリーも参考にしてください。
「生まれつきの不平等」http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/6522093.html
 

「機会の平等」か「結果の平等」かという問題があります。格差社会を論じるときにも避けて通れない問題です。しかし、この問題はいくら議論しても結論は出ません。なぜなら肝心のことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは、「生まれつきの不平等」ということです。
 
人間は生まれたときからそれぞれ違います。それが個性ですが、能力もまた個性です。頭のよさもそれぞれ違いますし、体力、運動能力も違います。
これは当たり前のことで、否定する人がいるとも思えないのですが、現実には、これは言ってはいけないことになっています。つまり現代のタブーです。
 
なぜこれがタブーになっているかというと、このことを言うと差別を助長するとされるからです。
たとえば、人間も動物ですから、生物学によって人間を研究することはあっていいはずです。しかし、人間を生物学的にとらえることで、過去に社会ダーウィン主義や優生学といった差別思想が生まれたことも事実です。また、エドワード・O・ウィルソンという生物学者が社会生物学と称して、人間を生物学の新しい理論でとらえることを提唱しましたが、この人がひどい差別主義者であったために、寄ってたかってボコボコにされるということもありました(社会生物学論争といいます)
こうして生物学による人間研究は限定的なものになり、人間は生まれによって決まるのか環境によって決まるのかということがいまだに論争の種になっています。
 
なぜ人間を生物学でとらえると差別主義につながるのでしょうか。差別主義というのは偏見によるものであって、正しい認識はむしろ差別主義を消滅させるはずです。
もし生物学が差別主義を助長するとすれば、それは生物学が間違っているからです。私はその間違いに気づきました。
ですから、私が人間を生物学でとらえたり、人間は生まれつき能力に違いがあるといったりしても、それによって差別主義を助長することはありません。
 
ともかく、人間は生まれつき能力に違いがあります。しかも、家庭環境によってもその能力の発達が違ってきます。たとえば、知的で文化的な会話が交わされている家庭で育つのと、アル中の父親が暴力をふるっている家庭で育つのとでは、ぜんぜん違います。
 
「機会の平等」は「スタートラインの平等」ともいわれますが、ほんとうにスタートラインの平等を実現しようと思えば、生まれと家庭環境の違いを踏まえないといけません。
しかし、今そんな議論はほとんど行われていません。
「結果の平等」についても、人間が生まれながらに違うとすれば、「結果の平等」を追求するのはおかしいことになります。
 
人間は生まれながらに能力の差があるということは、すべての社会科学の基礎になるべき重要な認識です。

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