村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 右翼思想を解体する

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アメリカ大統領選挙であらわになったのは、保守対リベラルの対立の深刻さです。
この対立は欧州でも日本でも深刻化しつつあります。
今はインターネット上で両者が議論する機会がいくらでもありますが、議論すればするほど感情的な対立が深まります。
世の中はどんどん進歩しているのに、政治の世界はなぜ進歩しないのでしょうか。

フランス革命当時の議会で、議長席から見て右側に王党派や保守派が、左側に共和派や改革派が位置したことから、右翼と左翼という言葉ができました。
つまり保守派が右翼で、改革派が左翼です。これは時代が変わっても一貫しています。
社会主義運動が盛んになったときは、左翼といえば社会主義勢力でした。
最近は社会主義運動が退潮したので、社会改革の方向性は格差解消と差別解消になりました。ですから、左翼といえば人権派と福祉派です。
ただ、左翼という言葉には社会主義のイメージが結びついているので、最近はリベラルということが多くなっています。

保守派と改革派の思想はフランス革命以前からあり、代表的なものがトマス・ホッブスとジャン=ジャック・ルソーの思想です。
ホッブスは『リヴァイアサン』において、自然状態の人間は「万人の万人に対する闘争」をするので、国家権力が人間を支配しなければならないと主張しました。つまり人間性は悪なので、国家権力によって悪を抑制しなければならないという説です。
ルソーは『人間不平等起源論』において、自然状態の人間は平等で平和に暮らしていたが、文明化するとともに不平等や支配が生じたと主張しました。つまり人間性は善で、文明が悪だという説です。
ただ、文明すべてが悪なのではなく、人が人を支配するやり方が悪、つまり権力が悪だということです。

社会改革思想は基本的にルソーの思想と同じ構造になっています。
マルクス主義では、自然状態は原始共産制で人々は平等に暮らしていたが、歴史が“進化”すると奴隷制や封建制という悪が生じたとされます。
フェミニズムでは、自然状態の生物学的性差であるセックスは差別的ではないが、社会的性差であるジェンダーは差別的であるとされます。

単純化していうと、ルソーの思想、マルクス主義、フェミニズムは「人間性は善、権力は悪」というもので、ホッブスの思想は「人間性は悪、権力は善」というものです。
これを政治的な文脈でいうと、リベラルは「統治する側が悪いから世の中が悪くなる」と考え、保守は「統治される側が悪いから世の中が悪くなる」と考えます。
ですから、リベラルは国家権力や大企業や富裕層を攻撃し、保守はマイノリティや貧困層を攻撃します。

リベラルは、貧しい人がいるのは社会制度が悪いからだと考え、保守は、貧しい人がいるのはその人間が怠けているからだと考えます。
リベラルは、子どもが勉強しないのは学校や教師に問題があるからだと考え、保守は、子どもが勉強しないのは子どもが怠けているからだと考えます。
保守の犯罪対策はひたすら警察力を強化して取り締まることですが、リベラルは犯罪者の更生を考えます。


アメリカの独立宣言では「普遍的人権」がうたわれましたが、実際は人権があるのは白人成年男性だけで、先住民、黒人、女子どもに人権はありませんでした。
そのためアメリカの白人成年男性の多くは今も統治者意識を持っていて、この人たちがアメリカの保守の中心になります。
しかし、格差が拡大する中で貧しい者たちは不満を募らせました。いわゆるラストベルトの白人などです。
彼らは富裕層に怒りを向けてもよさそうなものですが、統治者意識からそれができず、統治される側に怒りを向けました。その代表的な対象が不法移民です。
移民は一般的に弱者ですから、移民を攻撃すると弱い者いじめになりますが、「不法」がついていると遠慮なく攻撃できます。
トランプ氏がいちばん力を入れて訴えているのも不法移民問題です。

ヨーロッパで台頭する右翼政党も移民問題をもっとも強く訴えています。
移民は前からいたのに、なぜ今これほど問題になるのか不思議です。
私が想像するに、最近グローバルサウスが力をつけてきて、ヨーロッパの白人の優越感が揺らぎ、その危機意識が移民への怒りとなっているのではないでしょうか。
アメリカの白人の怒りも、白人が少数派になりそうだという危機感と関係しています。

日本の保守も欧米の真似をして、最近はもっぱら不法滞在外国人と生活保護不正受給者を攻撃しています。


保守思想の源流となったホッブスの思想ですが、今では間違いであることがはっきりしています。
人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」ではないからです。
原始時代と変わらない生活をしている未開社会を調査すると、みんな仲良く暮らしています。狩猟も採集も共同作業です。病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも、狩猟の成果は分配されます。食べ物がないと生きていけないので、これは最低限の福祉、つまり生活保護みたいなものです。
また、子どもの数が多い者にはそれに応じて分配の量も増えます。つまり未開社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産制です。

病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも狩猟の成果を分配するのは、いずれ自分が病気やケガをしたときにも分配してもらえるからですし、子どもの数の多い者に多く分配するのも、いずれ自分がたくさんの子持ちになったときに分配してもらえるからです。これは互恵的利他行動といい、人間に限らず社会性動物にはよく見られるものです。

ただし、こうした助け合いがあるのは、多くて150人程度の共同体で暮らしていたからです。親しい人間の間では互恵的利他行動が有効です。
農耕が始まり、集団が大きくなり、交易の範囲が広がると、親しくない人間とつき合うようになります。親しくない人間とつき合うのは経済的動機によるものなので、利己心がぶつかり合い、争うことが増えます。
争うと勝者と敗者が生まれ、強者が弱者を支配するようになり、階級社会や格差社会が生まれたのです。


ホッブスの思想は明らかに誤りです。
進化論からしても「万人の万人に対する闘争」をするような動物は絶滅するはずです。
文明が発達するとともに格差や支配が生じたというルソーの思想、マルクス主義、フェミニズムのほうに分があります。

強者が弱者を支配するのも自然なことではないかという意見があるかもしれませんが、今の格差は自然とかけ離れています。ほんの少し頭がいいだけで人の何倍もの収入を得ることができますし、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で示したように、資産家は労働者以上に金持ちになっていくので、格差は限りなく拡大していきます。

今後の社会は、格差を解消する方向に進むべきですし、それと同時に、利己心で競争する社会から、互いに利他心でつきあえる、共同体に近い社会へと舵を切ることも重要です。


【追記】
ここに書いたことは私の思想の一部分です。詳しくは次のブログで。
「道徳観のコペルニクス的転回」

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自民党総裁選には9人が立候補しました。
半分以上が当選見込みのない泡沫候補です。
多数の候補がいろいろな政策を発表して議論すれば裏金問題が見えにくくなるという魂胆でしょうか。

裏金問題もだいじですが、ほかの大きな争点は、やはり選択的夫婦別姓問題でしょう。
9月12日の報道ステーションでの各候補の態度表明によると、選択的夫婦別姓に賛成なのは小泉進次郎氏、石破茂氏、河野太郎氏で、反対なのは高市早苗氏、小林鷹之氏、加藤勝信氏です。
しかし、いまだにこんな議論をしていることが遅すぎます。
1996年に法務大臣の諮問機関である法制審議会が選択的夫婦別姓制度導入を答申してからもうすぐ30年です。こんなところにも「失われた30年」がありました。

自民党が夫婦別姓に反対する理由は「別姓だと家族の絆が壊れる」というものですが、結婚後に夫婦同姓を強制される制度の国は日本だけです。日本以外の国は家族の絆が壊れているということもありません。
実際のところは、自民党は明治以来の古い家族制度を守りたいのです。

明治の民法では、戸主(家長)が家族に対して絶対的な権限を持ち、結婚も戸主の同意が必要でした。家の財産はすべて戸主のもので、女性には相続権がありませんでした。戸主には勘当(家族を家から排除)する権限もありました。
戸主権を引き継ぐことができるのは原則長男だけですから、嫁が男の子を産まないと嫁が非難されました。
女性は結婚とともに夫の姓に変わり、夫の家の戸主の支配下に入りました。
明治国家は近代国家でしたが、家制度は武家社会を真似たので、封建的なものでした。

こうした明治民法の家族制度は1947年に廃止され、男女平等の制度となりましたが、人々の家族観というのは急には変わりません。とくに地方では大家族が多いこともあり、今でも父親や祖父が権力を持ち、嫁を支配する傾向が色濃く残っています。

自民党が守りたいのはこうした古い家族制度です。
今は結婚すると95%は女性が姓を変えているので、ほとんど昔と同じです。
別姓が認められて、別の姓の女性が家の中に入ってくると、夫や父親は“嫁”として扱いにくくなります。
自民党がいう「家族の絆が壊れる」というのはそういうことでしょう。
自民党の封建的な男尊女卑は明らかに世の中とずれており、社会の進歩の妨げです。


各候補は憲法改正にも意欲を示しています。
しかし、憲法改正について国民の関心は高くなく、ここも自民党はずれています。

もともと憲法改正というのは九条についてでした。軍隊を持てない憲法は日本を骨抜きにするために占領軍が押しつけたものだとして、保守派や右翼は敗戦の屈辱を晴らすためにも九条改正を目指しました。
しかし、憲法施行から77年たって、九条も解釈の変更を重ねて、今では敵基地攻撃能力を持つことも可能とされています。これでは改憲する意味がありません。
そのため、最近は緊急事態条項が優先されるべきだという声もあります。

戦後しばらくは、敗戦の屈辱を晴らしたいという思いと、戦前の日本に回帰したいという思いがかなりの熱を持っていましたが、さすがに国民の意識も冷めてきました。
こういう後ろ向きの憲法改正は終わりにしないといけません(緊急事態条項も実は「ナチスの手口に学べ」という戦前回帰です)。

今後は前向きの憲法改正論議をしていきたいものです。
たとえば、親に教育の義務を課すのをやめて子どもの学習権を規定するとか、まったく機能しない最高裁判所裁判官国民審査を機能するものにするとか、検察組織を政府から干渉を受けない組織にするといったことが考えられます。

自民党はいくら保守政党だといっても、戦前回帰は時代に合わなくなってきています。
自民党が刷新感を出したいなら、こうした戦前回帰の政策を捨てることです。


国民の関心がいちばん強いのは経済政策です。
日本経済を立て直す政策が出てきたでしょうか。

加藤勝信氏は立候補会見で「最優先は国民の所得倍増」と語りました。
「所得倍増」といえば、岸田文雄首相が総裁選に出たときに「令和版所得倍増」を掲げていました。しかし、その後「資産所得倍増」と言い換え、やがてそれも言わなくなりました。
加藤氏はそうした岸田政権の経済政策を批判した上で自分なりの「所得倍増」を打ち出したのかと思ったら、岸田政権批判みたいなことはいっさい言いません。ということは岸田政権の二番煎じとしか思えません。

高市早苗氏は立候補会見において「経済成長をどこまでも追い求め、日本をもう一度世界のてっぺんに押し上げたい」と語りました。
「世界のてっぺん」とはよく言えたものです。
日本はてっぺん近くからあれよあれよというまに5位にまで転落しました。日本は2010年にGDPで中国に抜かれましたが、今では中国のGDPは日本の4倍以上になっています。

高市早苗氏は安倍晋三氏を尊敬しているので、その路線を継承するはずです。
高市政権がアベノミクスと同じようなことをするなら、経済成長も安倍政権並みにしかなりません。

小泉進次郎氏は「労働市場改革」を掲げ、さらに「解雇規制緩和」に言及しました。
これは小泉純一郎首相と同じ路線で、政策までも世襲のようです。

石破茂氏は「地方創生が日本経済の起爆剤」と語りました。
林芳正氏は「最低賃金引上げなどで格差是正」と語りました。
小林鷹之氏は「国の投資で地方に半導体や自動車などの戦略産業の集積地をつくる」と語りました。

あとは省略しますが、誰の政策にも期待が持てません。
なぜかというと、これまで日本経済がだめだった理由を分析していないからです。

なぜ日本経済は30年も成長しないのでしょうか(その期間、世界経済はだいたい年4%程度成長し続けていて、日本の成長は1%弱です)。
少子高齢化が大きな原因であることは確かですが、それだけではないはずです。もし少子高齢化だけが原因なら、当面少子化の流れは止まりそうもないので、日本経済を成長させようという努力もむだなことになります。
「失われた30年」の原因はむずかしい問題かもしれませんが、アベノミクスは成功だったか失敗だったか、失敗だとすればどこがだめだったのかといったことなら論じられるはずです。あるいは岸田政権の経済政策はどこがだめだったかということも言えるはずです。
ところが、総裁選の立候補者はそういう議論はまったくしません。
能力がないからできないということもあるでしょうが、それだけではなく、自民党の体質として当選回数や役職経験による年功序列制になっていて、出世するには「汗をかく」ことや「雑巾がけ」することが求められます。そうして出世した人間は自民党体質にすっかり染まってしまいます。
そうすると政策本位の議論などできず、上下関係や人情に縛られた議論しかできません。
安倍首相は長期政権を築いた大物政治家ですから、誰もアベノミクスを批判できないのです。
「失われた30年」も歴代自民党政権のもとで起こったことです。

これまでのやり方のなにがだめだったかを解明しないで、今後うまくやる方法がわかるわけありません。


裏金議員に適切な対処ができないのも、自民党が年功序列組織であるためです。裏金議員が先輩だったり重鎮だったりするからです。


夫婦別姓問題や改憲問題については、今後政策変更することが可能です。
しかし、体質はそう簡単には変わりません。
自民党が自己変革することはほとんど期待できないので、今の自民党議員には大量落選してもらわなければなりません。
それ以外に日本経済が復活する道はなさそうです。

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パリ五輪開会式を見ると、やはり世界史で重きをなした国は違うなあと思います。

2008年の北京五輪開会式は圧巻でした。紙、絹とシルクロード、陶磁器、茶、羅針盤など中国由来のものを次々と繰り出して、中国の文化がいかに世界に貢献したかを示しました。
ナショナリズムを前面に打ち出して成功したのですが、これは実際に中国文明が世界史の中で偉大だったからです。
次のロンドン五輪開会式も、北京に刺激を受けたのでしょう、イギリスの“偉大な歴史”を示して成功しました。蒸気機関と産業革命が世界を大きく変えたことは誰もが認めざるを得ません。

次のリオデジャネイロ五輪開会式は、ブラジルには中国やイギリスに匹敵するすごい歴史がないのでどうするかと思っていたら、逆のやり方でした。植民地化されたりした苦難の多い歴史を描いて世界の共感を得ることに成功したと思います。そこにアマゾン流域の森林資源という環境問題を加え、一国の歴史とグローバルな問題を組み合わせるというのもうまいやり方でした。

そこで東京五輪開会式になるわけですが、安倍晋三前首相や森喜朗前東京五輪組織委会長の方針は「日本すごい」ということをアピールせよというものだったに違いありません。しかし、日本には中国やイギリスのように、世界にアピールできるすごいものはありません。戦後、焼け野原から世界第二の経済大国になったのはすごかったのですが、それは過去の栄光です。
そこでピクトグラムのパフォーマンス、ゲーム音楽の入場曲、市川海老蔵の歌舞伎、木遣り唄と大工のパフォーマンスなどがあったわけですが、これではたいして「日本すごい」をアピールできませんでした。
「イマジン」や「翼をください」やダイバーシティや復興も盛り込まれて、全体としてわけがわからないものになりました。
電通が編成した制作チームは、日ごろスポンサーの要望を取り入れることに長けているので、政治家からいろんなことを要望されるとみんな取り入れたのでしょう。

当時の週刊文春の報道によると、木遣り唄と大工の棟梁のパフォーマンスが取り入れられたのは、都知事選で火消し団体の支援を受けた小池百合子都知事の強い要望があったからだということです。
聖火リレーの最後の走者に長嶋茂雄氏、王貞治氏、松井秀喜氏が登場しましたが、世界の人にとってはわけのわからない人なので、国内受けをねらったものです。
ただ、長嶋茂雄氏と王貞治氏はプロ野球界のレジェンドですが、松井秀喜氏は年齢も若く、違和感があります。これは森喜朗前東京五輪組織委会長が同郷(石川県)の松井秀喜氏を押し込んだのだといわれました。
国のトップの人間が、最高の開会式で世界の人を感動させようとするのではなく、自分の利益を考えて開会式をねじ曲げているというところに、日本の劣化が現れています。


ともかく、東京五輪は「日本すごい」を打ち出そうとしたものの、日本にすごいところがなかったので失敗しました。
その点、フランスは違います。
フランス革命は世界に貢献しました。これはイギリスの産業革命にも匹敵します。
「世界の人が自由と人権を享受できているのはフランス革命のおかけだ」とフランスが主張してもおかしくありません。

開会式を演出した芸術監督のトマ・ジョリー氏がフランス革命を重視して演出したことは確かです。
そして、そのことが賛否両論を生みました。
産業革命を否定的にとらえる人はまずいないでしょうが、フランス革命はも現在の政治思想ともつながっているので、そう単純ではありません。

政治的立場を右翼と左翼というようになったのは、フランス革命のときの議会で、議長席から見て右側に王党派・貴族派がいて、左側に共和派・急進派がいたからだとされます。
保守派が右翼、改革派が左翼というのは今も同じです。

フランス革命の「自由・平等・友愛」を否定する人はあまりいないでしょうが、左翼的なものを嫌う人はいます。
フランス革命を描いたら左翼的にならざるをえないので、そのため右翼的、保守的な人が開会式の演出に拒否反応を示したのです。


最初に問題になったのは、名画「最後の晩餐」をパロディにしたような場面があったことです。これはキリスト教への冒涜だということになり、ローマ教皇庁(バチカン)も「全世界が共通の価値観の下に集うイベントで、宗教的信念を嘲笑するような暗示はあってはならない」という声明を発表しました。
しかし、芸術監督のトマ・ジョリー氏は、「最後の晩餐」とは無関係で、ギリシャ神話の異教徒の祝宴がアイデアにあったとしています。
ドラァグクイーンなどが出ているところから多様性を表現したものでしょうから、そうすると「最後の晩餐」ではなく「異教徒の祝宴」が正しいような気がします。

もっとも、キリスト教会の立場からは「異教徒の祝宴」でも不愉快です。
右翼・保守派の立場からはLGBTQが出てくること自体が不愉快です。


次に問題になったのは、マリー・アントワネットの生首です。
『レ・ミゼラブル』の「民衆の歌」が流れる中、街頭で蜂起する民衆の姿が描かれ、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のような場面も出てきます(この場面があることを思うとやはり「最後の晩餐」なのかもしれません)。
そして、マリーアントワネットが幽閉されていたという建物が出てきて、首を斬られたマリー・アントワネットが自分の首を持っていて、その首が歌を歌います。
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それからヘビメタのバンド演奏があり、曲の最後に多くの窓から血しぶきを思わせる赤いテープが一斉に飛び出します。

これが「グロテスクだ」「気持ち悪い」という批判を浴びました。
しかし、マリー・アントワネットとルイ16世の処刑はフランス革命の中核をなす事実です。
ギロチンもフランス革命と切っても切り離せません。
ロベスピエールなどの急進派はギロチンで反対派を大量に粛清し、恐怖政治といわれ、これがテロリズムの語源となりました。
フランス革命が血なまぐさかったのは事実ですから、そこをごまかすわけにはいきません。
ギロチンでの処刑シーンはさすがに表現できないでしょうから、ブラックユーモアでうまく表現したというところです。

グロテスクなものに関しては、個人的な好き嫌いがあります。スプラッターホラー映画が好きな人もいれば嫌いな人もいます。
そして、グロテスクなものの好き嫌いには政治的立場が関係しています。
グロテスクな画像を見た人の脳をMRIスキャンすると、右翼的な人の脳は強い拒絶反応を示し、左翼的な人の脳はそうでもないという科学的研究があります。一枚のグロ画像を見せるだけで95%の 確率でその人の思想傾向が当てられたそうです。
私はこれをもとに「右翼思考の謎が解けた!」という記事を書きました。
たとえば戦争の悲惨さを強調するのはつねに左翼で、戦争における英雄的行為を強調するのは右翼です。悲惨でグロテスクな現実は右翼の脳内で美しいものに変換されるようです。

したがって、開会式の演出が「グロテスクで不愉快だ」と批判する人はほんど右翼だと見なしても間違いありません。
開会式の演出は人々の政治的傾向もあぶり出したのです。


「最後の晩餐」のパロディではないかと議論を呼んだ場面ですが、「最後の晩餐」のパロディであってはいけないのでしょうか。
「名画のパロディはよくない」という人はいないでしょう。モナリザはいっぱいパロディになっているからです。
「キリストが描かれた宗教画をパロディにするのはよくない」ということでしょうが、宗教をパロディにしてはいけないということはありません。
風刺誌「シャルリー・エブド」がムハンマドを冒涜したマンガを載せてイスラム諸国から批判の声が上がったとき、マクロン大統領は「フランスには表現の自由がある」と言って批判をはねのけました。
今回、バチカンの批判を受けてパリ五輪組織委は「奇抜な開会式で不快な思いをした人がいるなら申し訳なく思う」と謝罪しました。
イスラムへの態度とバチカンへの態度が違いすぎます。
もっとも、これは組織委の腰が引けているだけかもしれません。マクロン大統領は「フランスのありのままを示した開会式をフランス人は誇りに思っている」と言いました。

「最後の晩餐」のパロディが(だとすればですが)なにを風刺したかというと、キリストと12人の使徒の全員が男性であることでしょう。
キリスト教会はほぼ完全といってもいいぐらいに男性支配の世界です。しかも同性愛嫌悪、LGBTQ嫌悪が強烈です。
ドラァグクイーンやわけのわからない男や女や子どもが並んでいたのは、そうしたキリスト教会を批判したものと思われます。

それだけにキリスト教会や信者の反発も強く、ジョリー芸術監督に対する殺害予告があったために検察当局が捜査していますし、出演したドラァグクイーンなどにもSNS上で中傷があったとして捜査しています。

ジョリー芸術監督は同性愛者であることを公表しています。
ですからこの対立は、多様性を否定するキリスト教勢力と多様性を肯定する左翼勢力との闘争と見ることができます。


右翼と宗教はきわめて近い関係で、アメリカの保守派はキリスト教勢力と変わりませんし、日本の保守派も国家神道や統一教会とつながっています。
開会式の演出はキリスト教批判だからけしからんという人は右翼ですし、グロテスクだからけしからんという人もほぼ右翼です。

フランス革命当時、議場の右側に座っていた勢力と左側に座っていた勢力との争いは今も続いていて、フランス革命はいまだ未完です。
バリ五輪開会式はそのことを浮き彫りにしました。

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名古屋市長で日本保守党共同代表である河村たかし氏は4月22日、「なごや平和の日」に関して「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と語り、各方面から批判を浴びました。
自民党市議団からも批判され、擁護や賛同の声はほとんどありませんでした。
しかし、河村氏は発言を撤回せず、4月30日の記者会見で「道徳的」の意味は「感謝される対象、徳がある」などと説明し、「祖国のために死んでいったことは一つの道徳的行為だった」と改めて語りました。

圧倒的に批判されても河村氏が発言を撤回しないのはどうしてでしょうか。
それは「道徳的」という言葉を使ったからです。
「道徳的」ないし「道徳」という言葉を使った人は決して反省しません。


杉田水脈議員は衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と発言したことがあります。
男女平等を否定する発言にはさすがに批判一色でした。
しかし、杉田議員は発言の撤回も謝罪もしませんでした。衆院本会議場の発言はそのままになっています。
「道徳」という言葉を使ったからです。

広島市の松井一実市長が職員への講話で教育勅語の一部を引用し、新規採用職員の研修用資料にも教育勅語の一部が引用されていることが批判されてきました。
教育勅語については戦後の国会で排除・失効が決議されており、平和都市広島にふさわしくないということなどが主な批判の理由ですが、松井市長は今年3月の記者会見でも「新年度以降もちゃんと説明しながら使いたい」と語り、批判には取り合わない態度です。
松井市長は「道徳」という言葉は使わなかったかもしれませんが、教育勅語が道徳そのものです。

戦後、政治家が教育勅語を肯定する発言をすると、そのたびに批判されますが、それでもこの手の発言は繰り返されてきました。
教育勅語が道徳なので、反省しないのです。

政治の世界ばかりではありません。
最近のネットニュースにあったのですが、大阪のアメリカ村にあるたこ焼き店「しばいたろか!!」はレジのところに《タメ口での注文は料金を1.5倍にさせていただきます。スタッフは奴隷でもなければ友達でもありません》と書かれた紙を張り出していて、これがXに投稿されると炎上しました。
たこ焼き店の社長は取材に対して「決してお客様に対して喧嘩を売ってるわけではありません。ただ、人として普通のことを言ってるだけなんです」と、やはり反省の態度は示しませんでした。自分の行為は道徳的だと思っているからでしょう。


こうしたことは海外でも見られます。
国連は、世界各地の武力紛争がもたらす子どもへの影響を調査し、子どもの権利を著しく侵害した国をリストにして公表していますが、このたび新たにイスラエルをリストに加えたと6月7日に発表しました。
これにイスラエルは猛反発し、ネタニヤフ首相は声明で「国連は殺人者であるハマスを支持しみずからを歴史のブラックリストに加えた。イスラエル軍は世界で最も道徳的な軍隊だ」と述べました。
「道徳的」という言葉を使ったので、イスラエルは絶対反省しないでしょう。


「道徳」を持ち出すと、誰もが思考停止になってしまいます。
これは批判する側も同じです。批判するほうも思考停止して決め手を欠くので、批判される側はぜんぜんこたえません。

そもそも道徳とはなにかということがよくわかっていないのです。
国語辞典では「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体」などと説明されていますが、これではなんのことかわかりません。

道徳はわけがわからないものなので、当然役にも立ちません。そのことを河村たかし名古屋市長の「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」という言葉を例に示してみます。

戦争に行って祖国のために命を捨てるというのは、国家にとっては道徳的行為かもしれませんが、親にとっては「親に先立つ不孝」というきわめて不道徳な行為です。河村市長は実は親不孝という不道徳な行為を勧めていることになります。
それに、「戦争に行く=命を捨てる」というのはおかしな発想で、太平洋戦争でボロ負けした日本特有のものでしょう。
戦争に行く本来の目的は、自分たちが生き延びるために敵を殺すことです。敵兵を殺すのは果たして道徳的行為でしょうか。

つまり道徳には普遍性がないので、見る角度によっては真逆になってしまいます。
教育勅語は「汝臣民」に向けたものなので、あくまで「日本国民の生き方」であって、決して「普遍的な人間の生き方」を示したものではありません。
教育勅語には「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ」(文部省現代語訳)とあります。河村市長も「一身を捧げて」という言葉を受けて「祖国のために命を捨てる」と言ったのでしょう。
しかし、これを外国から見れば「偏狭なナショナリスト」や「狂信的なテロリスト」育成の教えとしか思えません(実際、自爆攻撃につながりました)。

「人のものを盗んではいけない」というのは普遍的な教えのように見えます。しかし、盗まれるものをなにも持たない貧乏人にも大金持ちにも等しく適用されるので、実は金持ちに有利な教えです。
「人に迷惑をかけてはいけない」というのもよくいわれますが、これは身体障害者や病人の存在を無視した考え方です。身体障害者や病人が人に迷惑をかけるといけないみたいです。また、自分が人に助けを求めることもしにくくなります。
日本では「人に迷惑をかけてはいけない」というのは道徳の筆頭に上げられますが、外国ではほとんどいわれることがないそうです。日本人に助け合いの心が少ないことの表れかもしれません。


道徳には根拠もありません。そのため、宗教と結びつく形で存在しています。
欧米では道徳はキリスト教と結びついていて、日曜学校で教えられるのが道徳です。
日本でも教育勅語は現人神である天皇と結びついています。
道徳は宗教の中に閉じ込めておくか、倫理学者の難解な本の中に閉じ込めておくのが賢明です。
道徳を世の中に持ち出すとろくなことになりません。


ところが、保守派はやたらと道徳を公の場に持ち出します。
アメリカの保守派が主張する中絶禁止や同性婚禁止は要するにキリスト教道徳です。
日本でも、保守派が主張する夫婦別姓反対は「家族は同じ姓のもとにまとまるべき」という道徳です。
日本のジェンダーギャップ指数が低位なのも保守派の道徳のせいです。

こういう道徳はみな時代遅れです。
というか、そもそも道徳は時代遅れなものです。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』において「道徳は常に古着である」といっています。
さらに「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない」ともいっています。

芥川龍之介はちゃんと道徳を否定しています。
しかし、今の世の中は、河村市長の発言や水田議員の発言や教育勅語などを表面的に批判するだけで、道徳そのものを批判しないので、中途半端です。そのために保守派の持ち出す道徳で世の中の進歩が妨げられています。

道徳そのものを批判する視点を持っていたのはマルクス主義です。
マルクス主義では、生産関係である下部構造が上部構造を規定するとされ、道徳も上部構造であるイデオロギーのひとつです。ですから、道徳は資本家階級が労働者階級を支配するのに都合よくつくられているとされます。
しかし、どんなに過激なマルクス主義者でも「人を殺してはいけない」とか「人に親切にするべきだ」とかの道徳までは否定しないでしょう。その意味では中途半端です。

フェミニズムは「男尊女卑」や「良妻賢母」などの男女関係の道徳を否定しましたが、道徳全般を否定しているわけではないので、やはり中途半端です。


道徳全般を否定する新たな視点が必要です。
道徳、善悪、価値観などをすべて否定すると、つまり「道徳メガネ」や「価値観メガネ」を外すと、現実がありのままに見えるようになります。
私はそういう視点からこの文章を書きました。

道徳全般を否定する視点を身につけるには別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

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保守とリベラルの対立は世界的に大きな問題になっていますが、教育や子育てに関しても保守とリベラルは対立しています。
たとえばブラック校則を問題にするのはもっぱらリベラルで、保守派はまったく無関心です。
保守派は管理教育賛成で、リベラルは管理教育反対です。
昔、体罰賛成か反対かで世論が割れていたころ、保守派はほとんどが体罰賛成でした。戸塚ヨットスクールが問題になったとき、戸塚ヨットスクール支援者として名を連ねたのは保守派ばかりでした。
性教育に反対しているのはもっぱら保守派です。
家庭で虐待された少女を救う活動をしているColaboをバッシングしたのは保守派で、Colaboを支援したのはリベラルでした。

子育てや教育については科学的な研究が進んでいます。
ですから、保守とリベラルの対立についても科学が結論を出す日も近いでしょう。
すでに「しつけ」については科学的な結論が出ています。


これまで社会は親に対して、子どもをしつけるようにと強く要請してきました。
たとえばレストランなどで子どもが騒いでいると、「親が子どもを静かにさせるべきだ」ということと同時に「親が子どもをちゃんとしつけるべきだ」という声が上がります。
子どもをしつけることは親の義務とされているのです。

親が子どもを虐待して死亡させるような事件が起こると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
それに対してコメンテーターなどがなにか言うのを聞いたことがありません。
「しつけ」はよいこととされているので、言いようがないのです。
あえて言うとすれば、「しつけをするのはいいが、やりすぎはよくない」ということでしょうか。しかし、これでは「しつけは殺さない程度にやりなさい」と言っているみたいです。
「あれはしつけではない」と言うのはありそうです。しかし、そう言うと、「では、ほんとうのしつけはどこが違うのか」というふうに話が発展して、これに答えるのは困難です。


「しつけ」というのはもともと武士階級で子どもに礼儀作法などを教えることをいいました。
「躾」というのは日本でつくられた漢字です。この漢字をもとにして「躾というのは身を美しくすることだ」ということもよくいわれます。
「身を美しくする」ということは、逆にいえば心を美しくすることではないわけで、うわべだけということです。

子どもが騒がずに静かにしていれば「しつけができている」とされます。
しかし、子どもが騒いだり動き回ったりするのは自然なことで、発達に必要なことです。子どもをむりに静かにさせると、心身の発達に悪影響があります。
つまりしつけというのは、子どもの発達を無視して、うわべだけおとなの都合のいいようにすることです。

よく公共の場で子どもが騒いではいけないといわれますが、公共の場には子どもも老人も身体障害者もいる権利があり、肩身の狭い思いをする必要はありません。公共の場で子どもに騒ぐなと要求するおとなは、共生社会も子どもの発達も理解しない、ただのわがままなおとなです。子どものいない静かな環境はプライベートの場で求めるべきで、公共の場で求めるべきではありません。


ともかく、親は社会の要請に応えて子どもをしつけようとしますが、子どもの発達に反したことをしようとしているのですからうまくいきません。うまくいかないと親は子どもを叱ります。
そのため、親の子育ての悩み相談でよく見かけるのは「子どもが言うことを聞かない」という悩みと「毎日子どもを叱ってばかりいる。こんなに子どもを叱っていいのだろうか」という悩みです。

「子どもをしつけるべき」という社会の要請が親子関係を破壊していることがよくわかります。


「子どもをしつけるべき」という考え方のもとには、しつけしないと子どもは悪い人間になってしまうという認識があります。つまり「子ども性悪説」です。
性善説と性悪説とどちらが正しいかについて定説がないために、私たちは都合よく性善説と性悪説を使い分けているという話を前にしましたが、子どもに関しては性悪説を使っているわけです。
「子ども性悪説」ということは「おとな性善説」かということになりますが、誰もそんな論理的なことは考えません。その場限りで自分(おとな)にとって都合よく考えているだけです。

「子ども性悪説」は少なくとも西洋近代には一般的でした。
イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間は教育によってはじめて人間となることができる」と書いています。
ということは、人間は教育されないと人間にならないということです。では、なにになるのかというと、カントはおそらく「動物」と言いたいのでしょう。それは、「訓練、あるいは訓育は動物性を人間性に変えて行くものです」とか「人間は訓練されねばなりません。訓練とは、個人の場合にしろ社会人の場合にしろ、動物性が人間性に害を与えることを防ぐように努力することをいいます」と述べていることからもわかります。つまり人間は生まれたときは動物であり、教育によって人間になっていくというのです。
この場合の人間と動物の関係は、進化論以前なので、人間は神に似せてつくられた特別な存在であるというキリスト教的な考え方です。つまり理性的な存在であるおとなが動物的な存在である子どもを導いて人間にしていくのが教育だということです。

ジョン・ロックは自由主義や人権思想の基礎をつくったとされますが、『教育に関する考察』において子どもを動物にたとえています。
彼は、しつけは小さいときからするのがたいせつであるといい、小さいときに甘やかした子どもが大きくなってから束縛しようとしてもうまくいかないとして、こう書いています。


今や一人前になり、以前よりは力も強く、頭も働くようになって、なぜ、今突然に、彼は束縛を受け、拘束されねばならぬのでしょうか。七歳、十四歳、二十歳になって、いままで両親が甘やかして、大幅に許されていた特権を、なぜ彼は失わねばならぬのでしょうか。同じことを犬や、馬やあるいは他の動物にやってみて、その動物が若い間に習った、悪い、手に負えぬ癖が、引き締めたからといって、容易に改められるかご覧なさい。


ジグムント・フロイトの患者にシュレーバーという者がいましたが、その父親は何冊もの本を書いた高名な教育学者でした。シュレーバーの父親は子どもの教育はできるだけ早く、生後五か月には始めなければならないと主張していました。言葉もわからない子どもにどう教育するかというと、たとえば泣きわめいている赤ん坊をよく観察し、窮屈だとか痛い思いをしているわけではなく、病気でもないとなったら、泣きわめいているのは「わがままの最初の現れ」であることがはっきりするといいます。


「こうなったらもはやはじめのようにじっと待っていたりしてはならないので、なんらかの積極的な行動に出る必要がある。速やかに子どもの気を別のものに向けさせたり、厳しく言ってきかせたり、身振りで脅したり、ベッドを叩いたりして……、そういうことでは効き目がない場合には――もちろんそれほど強いことはできないにしても、赤ん坊が泣くのをやめるかもしくは眠り込むまで繰り返し、休むことなく、身体に感ずる形で警告を発し続けるのがよい……」(アリス・ミラー著『魂の殺人』より引用)


これはどう見ても幼児虐待の勧めです。フロイトの時代に神経症患者の研究が進んだのにはこうした背景があったからかもしれません。
ともかく、赤ん坊に「わがまま」があるという考えは「子ども性悪説」そのものです。

なお、中世には「教育」というのは金持ちが家庭教師を雇ってすることで、庶民には無縁のことでした。
「子ども」という概念もなく、子どもは「小さなおとな」と見なされていたとされます。
近代になって庶民も教育やしつけをするようになって、ロックやカントの教育論が出てきたのです。

日本でも江戸時代にしつけをしていたのは武士階級だけです。
幕末から明治の初めに欧米から日本にきた人たちはみな、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、明治政府は富国強兵のために欧米式のしつけを日本に広めました(たとえば国定教科書に乃木希典大将の幼年時代のエピソードを掲載したことなどです。詳しくはこちら)。

西洋式のしつけは、子どもを動物のように調教するというもので、体罰を使うのは当たり前です。
もっとも、日本では子どもを動物と見なすような考え方はないので、しつけをする親はつねに葛藤していたと思われます。

このような時代の流れによって、「しつけのためにやった」と言う幼児虐待の加害者が出現するようになったのです。


しかし、「科学」がこうした子育てのあり方を変えました。
その具体的な始まりは1946年出版のベンジャミン・スポック著『スポック博士の育児書』だったでしょう。この本は世界的ベストセラーになって、1997年版の「編集後記」によると、39か国に翻訳され、世界で4000万部発行されたということです。聖書の次に売れた本という説もあります。

この本の基本的な姿勢を示す部分を引用します。

過去五十年のあいだ、教育者、精神分析学者、小児精神科医、児童心理学者、小児科医などが、いろいろとこどもの心理について研究してきました。その結果が、新聞や雑誌に発表されるたびに、世の親たちは熱心にそれを読んだものです。こうして私たちは、だんだんにいろいろなことを学んできました。

たとえば、こどもは、親の愛情を、なによりも必要とするということ、また、けっこう自分から、大人のように責任をもって、ものごとをしようと努力するものだということ、よく問題をおこす子は、罰が足りないのではなくて、愛情が足りないのが原因だということ、また、年齢に応じた教材を、理解のある先生に教えられさえすれば、すすんで勉強するものだということ、自分の兄弟姉妹に対して、多少やきもちをやいたり、たまには親に腹をたてたりするのも、ごく自然な感情であって、これをいちいちとがめだてする必要はどこにもないということ、生命の真実を知ろうと、こどもなりに興味を持ち、性への関心が出てくるのは、ごく自然なことだということ、闘争心とか、性への興味を、あまり強くおさえつけると、こどもをノイローゼにしてしまうこともあるということ、親がしらずしらずにやっていることも、こどもにとっては、親がそうしようと思ってやっていることとおなじように大きい影響を与えるものだということ、こどもは、めいめい独立した人間だから、そのように扱ってやらなければならないということ、などです。

こういった考え方は、今でこそ、もうあたり前のことになっていますが、発表された当時は、驚くべきことだったのです。というのは、それまで何百年ものあいだ、みんなが考えていたこととは、まるで正反対だったからで、そのために、こどもの本性はどういうものか、とかこどもにはどんなことをしてやらなければならないか、ということで、頭の切りかえができず、とまどってしまった親もたくさんありました。

これは「子ども性悪説」の否定であり、子どもをおとなと同じ人間と見ています。
日本では小児科医で児童心理学者の平井信義(1919年―2006年)が「しつけ無用論」と「叱らない教育」を提唱し、中でも『「心の基地」はおかあさん』という本は140万部のベストセラーになりました。

このような科学的な子育て論によって大きく変わったのが「抱きぐせ」についての考え方です。
昔は、赤ん坊が泣いたからといってすぐ抱きあげると抱きぐせがつくのでよくないとされていました(もっと昔は親子は川の字で寝て、母親や上の子がずっと赤ん坊をおぶっていたので、そんな考え方はありませんでした)。
赤ん坊の要求にすぐ応えると、赤ん坊はどんどん要求をエスカレートさせると考えられていたのです。赤ん坊を敵対的な交渉相手と見なして、駆け引きをしているようなものです。
騒ぐ子どもを静かにさせろというおとなも、そうしないと子どもはどんどんわがままになると考えているのでしょう。実際は、子どもが騒ぐのは今だけで、少し成長すれば騒がなくなります。
今は百八十度考え方が変わって、赤ん坊が泣けばすぐ抱くのがよいとされます。そうすることで赤ん坊は「基本的信頼感」を身につけることができるというのです。基本的信頼感があると、赤ん坊はよく探索行動をし、好奇心を発揮して、次第に親から自立していきます。
基本的信頼感がないと、赤ん坊はいつまでも親に依存し、自立が遅れることになります。

基本的信頼感のもとには、幸せホルモンとも呼ばれるオキシトシンの分泌があります。赤ん坊は授乳のときや母親と見つめ合うときや触れ合うときにオキシトシンの分泌が盛んになります。
こうしたことから、泣くとすぐ抱くと抱きぐせがつくのでよくないという説は“科学的”に否定されたといえます。
今ではこの“抱きぐせ”説を言うのは、子育てに口出しする祖父母の世代くらいではないでしょうか。


科学的に否定されたといえば、体罰肯定論もそうです。
厚生労働省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っていて、そこにおいて「厳しい体罰により、前頭前野(社会生活に極めて重要な脳部位)の容積が19.1%減少」「言葉の暴力により、聴覚野(声や音を知覚する脳部位)が変形」といった科学的研究を示し、「体罰・暴言は子どもの脳の発達に深刻な影響を及ぼします」と明言しています。
これによって少なくとも社会の表面から体罰肯定論はなくなりました。

ここでは体罰とともに暴言も挙がっていますから、当然子どもをきびしく叱ることも脳にダメージを与えます。
「叱らない教育」への転換が求められます。


しつけ、体罰、叱責は子育てから排除されなければなりません。
そうすると家族のあり方も変わります。
保守派は家父長制、つまり父親が威厳をもって家族を支配するという家族を理想としていますが、父親の威厳はしつけ、体罰、叱責と不可分です。
父親が妻や子どもと対等の人間になれば保守思想は崩壊するといっても過言ではありません。


なお、「子どもを愛すること」と「子どもを甘やかすこと」の違いとか、子どもが悪いことをしたときに叱らなくていいのかといった疑問については「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

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川口駅東口駅前

「川口市クルド人問題」というのがあります。
埼玉県川口市という狭いエリアで、少数のクルド人に関する問題ですが、ヘイトスピーチをしたい人たちが騒いでいます。

きっかけは昨年7月、川口市でクルド人同士の喧嘩があり、クルド人約100人が市立医療センター周辺に集まり、機動隊が出動する騒ぎがあったことです。このときにトルコ国籍の男2人が暴行と公務執行妨害の疑いで逮捕されました。
この事件では計7人が殺人未遂の疑いで逮捕されましたが、全員が不起訴処分となりました。

これ以降、とくに産経新聞が熱心に川口市のクルド人問題を取り上げました。
産経新聞のつくった出来事のリストがあります。

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産経新聞としては、こんなにいろいろなことが起こっているのに、ほかのメディアがほとんど取り上げないのはけしからんと言いたいのでしょう。
しかし、よく見ると、事件らしい事件といえるのは次のことぐらいです。

・大型商業施設で煙幕を出す花火を投げつけた中学生を逮捕。
・ジャーナリストを「殺す」などと脅したクルド人を逮捕(のち不起訴処分)。
・デモの際、日本クルド文化協会関係者が「日本人死ね」とも聞こえかねない発言をしたと指摘され、同協会が釈明、謝罪。
・コンビニ駐車場で女子中学生に性的暴行をしたとしてクルド人を逮捕。

病院周辺で100人が集まって騒いだというのは大きな事件ですが、川口市のクルド人はグループに分かれて対立しているということが背景にあったようです。

「殺す」などと脅されたのはフリージャーナリストの石井孝明氏です。石井氏は川口市クルド問題に取り組んでいたようですが、差別的な投稿で名誉を傷つけられたとしてクルド人などから慰謝料500万円を求めて訴えられています。


もともと川口市は外国人居住者の多い街で、外国人の多さでは東京都新宿区と1位、2位を争ってきました。
川口市のホームページによると、川口市の外国人住民は約4万人で、市人口の約6.7%だということです。
中でも芝園団地という巨大団地は、住民約4500人のうち半分以上が外国人で、その大半が中国人です。
外国人とのトラブルが起こっているのではないかという懸念からか、テレビのニュース番組が何度か取材していましたが、たいしたトラブルはなかったので、そのうちマスコミから無視されるようになりました。
西川口駅周辺は中国人経営の中華料理店が多く、チャイナタウンと呼ばれているというのが少し話題になったぐらいです。

川口市の隣の蕨市にも外国人が多く、市の人口の約10%が外国人です。
川口市と蕨市にクルド人が約3000人住んでいるとされますが、数としては少ないので、メディアが注目しないのは当然です。

クルド人といっても、ほとんどはトルコ国籍で、トルコのパスポートを持っていますから、「トルコ人」と見なすのが普通です。わざわざ「クルド人」とするところになにかの意図があります。


クルド人というのはトルコ、イラク北部、イラン北西部、シリア北東部などに住む民族で、国を持たない最大の民族といわれます。
トルコにおいては、差別されたクルド人が独立運動を起こし、クルド労働者党はトルコ政府からテロ組織認定をされています。
そのため、トルコから日本にきたクルド人の多くは難民申請をしていますが、認められたのは一人だけです。

したがって、クルド人についてはふたつの見方があると思われます。
テロリストのように危険な人間という見方と、中国でいえばウイグル族のように政府から人権侵害されている気の毒な人たちという見方です。
クルド人にヘイトスピーチをしている人間は、クルド人はテロリストかテロリストに準じる人間と見ているのかもしれません。

クルド人は国を持たない民族なので、どうしても差別されがちです。
しかし、日本人はそもそもクルド人とほとんど縁がなく、クルド人に対する差別意識もありませんでした。
なぜ急にクルド人に対するヘイトスピーチが行われるようになったのでしょうか。


今、ヨーロッパでは極右政党が勢力を伸ばしています。6月初めに行われる欧州議会では、現在127議席の極右勢力が184議席になるという予測があります。
極右が支持される主な理由は、移民排斥の主張が共感を呼んでいるからです。
アメリカでも、トランプ氏の移民排斥の主張にバイデン大統領も引きずられています。

日本の右翼保守勢力も、欧米にならって移民排斥を訴えて支持を伸ばしたいところです。
ところが、なかなかうまくいきません。
国民の反移民感情が高まるのは移民による犯罪が目立つからです。
ところが、日本では外国人の数は増えているのに、外国人の犯罪は減少しています。

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つまり日本では外国人との共生がうまくいっているのです。

問題は欧米のほうにありそうです。
欧米で移民との共生がうまくいかないのは、白人至上主義者が移民を差別してるからです。外国人を労働力として入れるものの、仕事は低賃金の汚れ仕事で、住む場所も劣悪な環境に固まって住むことを余儀なくされます。差別されているので犯罪も起きます。

日本人は白人みたいな人種差別意識がないので、うまくいっているのです。

ちなみに欧米の経済の専門家に日本経済復活の処方箋を求めると、ほぼ例外なく日本は移民を入れるべきだとアドバイスします。彼らはローマ帝国が奴隷労働で発展したことが頭にしみついているのです。


移民(外国人)との共生がうまくいっている日本で、移民排斥の主張は共感を呼びません。
ただ、あえて主張するならベトナム人を対象にすればいいかもしれません。
「外国人摘発、ベトナムが最多3400人…9年前の3倍・来日後の生活苦要因」という記事から一部を引用します。
 警察庁によると、昨年の来日外国人の摘発は1万4662件で、前年比1231件減少。摘発人数も同1129人減だった。国籍別ではベトナムが最多の3432人で、次いで中国が2006人だった。
 9年前の2013年は、来日外国人全体の摘発人数が9884人で、うちベトナム人は1118人だった。全体の摘発人数が減る中、ベトナム人の摘発は約3倍に増えていた。

外国人犯罪がへる中で、ベトナム人の犯罪だけが増えているのですから、ヘイトスピーチの対象としてはこれしかありません。
しかし、たとえば産経新聞がベトナム人排斥のキャンペーンをすれば、ベトナム人労働者に頼っている日本企業から反発が起きますし、なによりもベトナム政府やベトナム国民からも反発が起きます。

その点、クルド人を排斥の対象にすれば、トルコ政府は文句を言わないでしょう。
それに、せいぜい3000人と数が少ないので、あまり影響もありません。
そこで産経新聞や保守派は「クルド人差別」をあおるキャンペーンを展開しているというわけです。

ともかく、日本人は意外と外国人との共生をうまくやっているということは認識しておく必要があります。

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岸田内閣の支持率が急落しています。
「増税」「減税」「還元」「給付」などの言葉をもてあそび、さらにさまざまな不祥事が連続したことが理由とされていますが、それよりももっと大きな理由があります。
それは、安倍晋三元首相が亡くなったことです。

安倍氏が亡くなったのは昨年7月のことなので、今の支持率急落とは関係ないと思われるかもしれませんが、人の死というのは受け入れるのに時間がかかるものです。
「死せる孔明生ける仲達を走らす」という言葉もあります。
偉大な軍師である諸葛孔明は死んでからも敵を恐れさせたという中国の故事成句です。
安倍氏も政界における存在感がひじょうに大きかったので、「死せる安倍」がしばらく政治家を走らせていました。
しかし、1年もたつとさすがに誰もがその死を受け入れ、安倍氏の呪縛から解き放たれました。
その結果が内閣支持率に表れてきたというわけです。


安倍氏が首相を辞めてから、私がなによりも恐れていたのは安倍氏の再々登板です。.自分で政権を投げ出して復活するというのを一度やっていますから、二度目があってもおかしくありません。
私はこのブログで岸田政権批判もしましたが、岸田政権批判は安倍氏復活につながるかもしれないと思うと、つい筆が鈍りました。
野党やマスコミも同じだったのではないでしょうか。

しかし、安倍氏が亡くなると、安倍氏の復活がないのはもちろん、安倍氏の後ろ盾がない菅義偉氏の復活もないでしょうし、一部で安倍氏の後継と目されている高市早苗氏も力を失いました。
つまり安倍的なものの復活はなくなったのです。
そうすると、遠慮会釈なく岸田政権批判ができます。
このところのマスコミの論調を見ていると、岸田政権が崩壊してもかまわないというところまで振り切っているように思えます。


一方、これまでは分厚い安倍支持層が岸田政権をささえてきました。
しかし、安倍氏が亡くなってから、安倍支持層は解体しつつあります。
中心人物を失っただけではありません。中心になる保守思想がありません。

昔は憲法改正が保守派の悲願でした。しかし、解釈改憲で新安保法制を成立させ、空母も保有し、敵基地攻撃能力も持つことになると、憲法改正の意味がありません。
靖国神社参拝も、安倍氏は第二次政権の最初の年に一度参拝しましたが、アメリカから「失望」を表明されると、二度と行っていません。
慰安婦問題についても、2015年の日韓合意で安倍氏は「おわびと反省」を表明して、問題を終わらせました(今あるのは「慰安婦像」問題です)。

考えてみれば、保守派の重要な思想はみな安倍氏がつぶしてしまいました。
安倍氏のカリスマ性がそのことを覆い隠していましたが、安倍氏が亡くなって1年もたつと隠しようがなく、保守派の思想が空っぽであることがあらわになりました。

それを象徴するのがいわゆる百田新党、日本保守党の結成です。
百田尚樹氏は自民党がLGBT法案を成立させたのを見てブチ切れ、新党結成を宣言しました。
新党結成のきっかけがLGBT法案成立だったというのが意外です。日本の保守派はもともとLGBTに寛容なものです。LGBTを排除するのはキリスト教右派の思想です。
これまで保守派は統一教会の「韓国はアダム国、日本はエバ国」などというとんでもない思想に侵食されていたわけですが、今後はキリスト教右派の思想を取り込んで生き延びようとしているのでしょうか。

もし百田新党が力を持てば、自民党の力をそぐことになります。つまり保守分裂です。
目標をなくした組織が仲間割れして衰退していくのはよくあることです。


ともかく、今は岸田政権は保守派とともに急速に沈没しているところです。
支持率回復には保守路線からリベラル路線への転換が考えられますが、手遅れかもしれません。

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LGBT法案が6月9日、衆院内閣委員会で可決され、今国会で成立する見通しとなりました。

この法案はもともと2016年に超党派の議員連盟がまとめたもので、自民党保守派の反対でずっと棚ざらしにされていましたが、急に成立を目指すことになりました。
自民党は保守派に配慮した修正案をまとめましたが、その中に「不当な差別はあってはならない」という言葉があると知って、あきれました。
こんな言葉を使う人間がつくった法律は信用できません。
維新の会と国民民主党も独自の修正案をまとめ、最終的に与党の修正案と一本化されました。衆院内閣委で可決されたのはこの一本化された修正案です。

この修正案は、「不当な差別はあってはならない」という言葉はそのままです。
「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」という言葉が加えられました。
「全ての国民が安心」は「全米が泣いた」と同じくらいありえないことです。差別をなくそうとすれば差別主義者は安心していられません。

言葉を「性自認」か「性同一性」にするかという問題がありましたが、これは「ジェンダーアイデンティティー」という言葉で決着しました。
日本の法律になじみのない英語が入りました。

しかし、この法律に英語が入るのは不思議ではありません。

4月23日、LGBTQの権利擁護を訴える国内最大級のイベント「東京レインボープライド」のパレードが約1万人の参加者(主催者発表)で行われましたが、アメリカのラーム・エマニュエル駐日大使も参加し、「ジェンダーや性的指向に関係なく愛する人と共にいるという選択は、誰もが尊重すべきことです」などとスピーチしました。
アメリカの大使が日本でデモに参加したことに驚きました。

普通、アメリカの日本政府への圧力は水面下で行われるものですが、これは人権問題であるためか目に見える形で行われています。
自民党が急に法案の成立を目指すことになったのもアメリカの圧力のせいでしょう。

自公と維新国民が修正案を国会に提出し、立憲民主党、共産党、社民党は原案を国会に提出するという状況下でこんな記事がありました。

エマニュエル米駐日大使、LGBT法案巡り自公の「修正案」に「賛辞」
米国のエマニュエル駐日大使が18日、自身のツイッターを更新し、自民、公明両党が同日国会に提出したLGBTなど性的少数者への理解増進を図る法案について、「岸田文雄首相をはじめ、自民ならびに公明幹部のリーダーシップと、差別の撤廃と平等の推進に向けた行動に賛辞を贈りたい」と評価した。


両党が提出した法案は、2年前に超党派の議員連盟がまとめた法案を一部修正したものだ。これに対し、立憲民主党は自公の「修正案」を「改悪」と批判し、18日に議連の「原案」を対案として国会に提出した。


エマニュエル氏は理解増進法案を巡り、ツイッターでLGBT法制定を促す発信をしてきたことから、「内政干渉」との反発も出ていた。


立民はエマニュエル氏のこうした言動をとらえ、17日に泉健太代表と西村智奈美代表代行が東京都内の米大使館で同氏に面会。立民が議連の原案を国会に提出する方針を伝えていた。


立民は修正案への批判を強めているだけに、幹部は「エマニュエル氏が自公の修正案に対して、どういう発信をするのか注目だ」と関心を寄せていたが、エマニュエル氏は「賛辞」を表明した。
https://www.sankei.com/article/20230518-QTVQ7GVLEVKCHIMLWXAP2BF3YQ/
国会でふたつの案が対立しているとき、立憲民主党の代表と代表代行がわざわざエマニュエル大使に会いにいくということは、アメリカ大使と日本の国会の力関係を暗示しています。
泉代表は大使を説得すれば自民党の態度も変わると思ったのでしょうが、残念ながら大使は翌日に与党案支持を表明しました。

法案が衆院内閣委員会で可決された日には、大使はすかさずこうツイートしました。


ラーム・エマニュエル駐日米国大使
@USAmbJapan
今日の衆議院内閣委員会における「LGBT理解増進法案」の可決は、日本にとって新しい幕開けとなりました。岸田首相のリーダーシップに感謝いたします。LGBTの権利に関して、日本は主導的な役割を担っているのです。日本国民と政治の担い手が、平等とインクルージョンを支持し一致団結しているという、まさに特別な瞬間です。委員会のこの決議は、改革のゴールではなくスタートです。日本国民は自らの声をしっかりと届けることができました。心よりお祝い申し上げます。
午後2:59 · 2023年6月9日

大使のこのような態度は、LGBT法案に反対する保守派から「内政干渉だ」という猛反発を招いています。

なお成立見込みの修正案は、自民党保守派に配慮したものであるため、これまでLGBT法案に期待していた人たちから「後退だ」と批判されています。
一方、保守派の人たちはわずかの修正など評価せず、LGBT法案そのものに反対で、自民党やエマニュエル大使を批判しています。

ネトウヨジャーナリストの有本香氏は「自民党は、女性や子供の安全を脅かし、アイデンティティーを混乱させ、果ては皇室の皇統をゆがめ、破壊しかねない法案に前のめりで突き進んだ」と批判し、百田尚樹氏などは「LGBT法案が成立したら、私は保守政党を立ち上げます」「自民党はもはや保守政党ではありません」とまで言いっています。



日本の保守派はつねにアメリカ従属なのに、ここまでアメリカの意向に逆らうのは珍しいなと思っていたら、それは私の勘違いでした。
エマニュエル大使はバイデン大統領に任命された民主党系の人間です。
アメリカでは2021年2月、LGBTQ+の人々を差別から守るための「平等法」が下院で可決されましたが、上院では共和党の反対が強くてまだ可決されていません。
つまりLGBTQ+の「平等法」はアメリカの民主党と共和党の対立点で、次の大統領選の大きな争点になるといわれています。
エマニュエル大使は米民主党の価値観を日本に持ち込んでいるわけです。

ですから、LGBT法案に反対する日本の保守派はアメリカ共和党の価値観に立っています。
「LGBT法案を成立させても次の大統領選で共和党が勝てば無意味だ」などと主張しています。
自民党では、岸田首相ら政権の中枢はバイデン政権との関係を重視し、保守派議員は共和党との関係を重視して、自民党内で米民主党対米共和党の代理戦争が行われているわけです。
自民党執行部は党議拘束をかけてLGBT法案成立に向けて突っ走り、保守派議員は党議拘束を外すように主張しています。

島田洋一福島県立大学名誉教授は、アメリカにおける民主党対共和党の対立を紹介して日本の保守派の議論をリードしていますが、自民党の世耕弘成参院幹事長が党議拘束は外す必要がないと主張したことについてこんなツイートをしました。


島田洋一(Shimada Yoichi)

@ProfShimada

米民主党と日本の野党はほぼ同レベルだが、米共和党と自民党では大差がある。

共和党では左翼と強く闘う姿勢がないとリーダーになれない。安倍首相亡き後の自民党幹部は皆、左翼に迎合しつつ浅くブレーキを踏む程度。

ブレーキとアクセルの区別すら付かない者も多い。残念ながら世耕氏もアウト


島田氏は米共和党を理想として、それに及ばない自民党を批判しています。
コミンテルンがソ連共産党を理想として日本共産党を批判したみたいなものです。
しかし、島田氏は売国などと批判されることはなく、その主張はむしろ保守派から歓迎されています。

米共和党はキリスト教福音派などの宗教右派の思想をバックボーンとしています。
日本の保守派は天皇制や国家神道をバックボーンとしていそうですが、実は違います。
彼らは天皇制の権威を利用しているだけで、天皇陛下夫妻も上皇陛下夫妻も尊敬していません。


そもそも日本の伝統文化はLGBTに寛容です。
『日本書紀』で日本武尊は熊襲退治のときに女装して敵をあざむきます。日本最高の英雄は女装者だったのです。
平安後期の『とりかへばや物語』は、関白左大臣には二人の子どもがいましたが、男の子は女性的な性格で、女の子は男性的な性格で、関白左大臣は「とりかへばや(取り替えたいなあ)」と嘆いて、男の子を「姫君」として、女の子を「若君」として育てます。そして、二人はそれぞれ波乱万丈の人生を送り、最後に二人は人に気づかれないようにそれぞれの立場を入れ替えるという物語です。
日本ではこういう物語が愛されてきたのですから、LGBT法案にむきになって反対している人たちは日本とは別の文化に染まっているのでしょう。

LGBT法案に反対している人は同性婚にも反対して、家族制度が壊れるなどと主張しています。
しかし、キリスト教圏では同性愛は罪とされ、嫌悪されてきましたが、日本では衆道、男色は認められてきました。同性愛嫌悪がほとんどないのですから、同性婚に反対する理由もありません。
国民の意識も、今年5月のJNNの世論調査で同性婚を法的に認めることに「賛成」は63%、「反対」は24%でしたし、2月の朝日新聞の調査では「認めるべきだ」は72%、「認めるべきでない」は18%でした。
同性婚に必死で反対している人たちは日本人らしくありません。
アメリカの宗教右派の人たちに似ています。

2020年の大統領選挙でトランプ氏がバイデン氏に敗れたとき、日本でもネトウヨはこぞって「選挙は盗まれた」と騒ぎ、右翼雑誌も「選挙は盗まれた」という記事を書き立てました。
トランプ氏に踊らされる愚かな人たちと思って見ていましたが、日本の保守派はもともと米共和党右派なのだと思えば、そうした行動に出るのは当然です。

米共和党は不思議な組織です。党首も綱領も存在せず、全国委員会、州委員会、郡委員会などはありますが、地方ごとに自由に活動して、上部組織の指示に従わないと処罰されるということはありません。入党や離党もまったく自由で、党活動の義務もありません(米民主党も基本的に同じ)。

日本に「米共和党日本委員会」という名前の組織はないでしょうが、もともとあってもなくてもいいような組織です。
日本の保守派のほとんどが米共和党右派の思想に染まっているのですから、日本に「米共和党日本支部」があると見なすとわかりやすくなります。


統一教会と米共和党右派は思想的にほとんど同じです。
統一教会が日本の政界に深く食い込んでいるのに驚かされましたが、日本の政界に深く食い込んでいるのは米共和党右派も同じでした。

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「弱きを助け、強きをくじく」という言葉があります。
正義のヒーローのキャッチフレーズとして昔はよく使われていましたが、最近はあまり耳にしません。
国語辞典には「弱い者を救い、横暴な者をこらしめる。任侠の気風をいう」とあり、任侠に由来する言葉なので、使いにくいのでしょうか。

「強きをくじく」と言っておきながら正義のヒーローがいちばん強いわけで、そこに矛盾があります。任侠という特殊な立場だから成立する言葉かもしれません。

「弱きを助け、強きをくじく」という言葉を批判する立場もあります。
モラロジー道徳教育財団の「道徳の授業:親切・思いやり」というページにこう書かれています。
「弱きを助け、強きをくじく」というと、一見カッコよく、道徳的に聞こえますが、弱者をすべて善人、強者をすべて悪人と見るのも、はなはだあわてた結論でしょう。

 また、弱い者を偏愛することになり、そのため、やたらと強い者を憎み、これに刃向かう気風をつくってしまうという一面があります。

 同情や親切は大切な道徳ですが、深い理性と真に人を愛する心が伴ってこそ、質のよい価値ある道徳といえましょう。

モラロジー道徳教育財団というのは、ウィキペディアによると『廣池千九郎が1926年に説いた「道徳科学」(moral+-logy)を基に始まった修養・道徳団体。教育再生、道徳教育による「日本人の心の再生」を主張し、その出発点を家庭に置く』となっていますが、私の印象としてはひじょうに宗教に近い感じがしますし、道徳教育を重視する点で自民党とも近い感じがします。

強者をすべて悪人、弱者をすべて善人と見なすことに疑問を呈していますが、これはモラロジーが強者の側に立っているからでしょう。


弱者がすべて善人であるかどうかわかりませんが、強者がすべて悪人であるというのはかなり正しいかもしれません。
それを肯定する言葉があります。

それは「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉です。

19世紀末のイギリスの歴史家で政治家のジョン・アクトンが述べた言葉ですが、アクトンはフランス革命の歴史や自由主義を研究した人なので、単なる思いつきの言葉ではありません。

この言葉の正しさは、現実を見てみればわかります。
長い歴史において、善政を敷いた権力者はいないではありませんが、ごく少数です。しかも、その善政の期間は短いものです。
政権が長期化すると、どんな権力者も独裁者と化していきます。独裁者が民衆のための政治をするわけがありません。
最近の政治を見ても、ウラジミール・プーチン、習近平、安倍晋三と、長期政権は独裁化していきます。

企業経営者も同じです。
最初は優秀な経営者でも、長期化するといつしか周りをイエスマンで固め、ワンマン経営者といわれ、独善的な経営をするようになります。

例外がないとはいえませんが、「権力は腐敗する」というのはかなりの程度真実です。

「権力は人を酔わせる。酒に酔った者はいつかさめるが、権力に酔った者は、さめることを知らない」という言葉もあります。
これはアメリカの政治家のジェームズ・バーンズの言葉です。

ともかく、権力は腐敗し、横暴になり、弱者をいじめるので、「弱きを助け、強きをくじく」という原理で行動すれば、ほとんどの場合間違いありません。

決して名言だけを根拠にして主張しているわけではありません。
ちゃんと“科学的”な根拠もあります。
次の実験は、金持ちと貧しい人についてのものですが、現代社会で金を持っていることは権力を持っていることと同じようなものでしょう。
お金持ちほど人をだます傾向あり、米研究
2012年2月29日 14:49 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 北米 米国 ]

【2月29日 AFP】社会的地位の高いお金持ちはそれ以外の人々よりも、交通ルールを守らず、子供のキャンディーを横取りし、金銭的利益のためにうそをつく傾向があるとする研究結果が、27日の米科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に発表された。

 米カリフォルニア大学バークレー校(University of California at Berkeley)とカナダ・トロント大(University of Toronto)の心理学者チームは、米国で行った人間行動に関する7つの実験を分析した。

 ある実験では、メルセデス・ベンツ(Mercedes-Benz)やBMW、トヨタ(Toyota)のプリウス(Prius)などの高級車のドライバーは、カムリ(Camry)やカローラ(Corolla)などの大衆車のドライバーに比べて、交差点での交通ルールを守らない傾向があることが分かった。高級車ドライバーはまた、大衆車ドライバーよりも、道路を横断しようとする歩行者を優先しない傾向があった。

 サイコロを使った別の実験では、サイの目が大きいと50ドル(約4000円)の賞金をもらえるというゲームを行ったところ、社会経済的な地位が高いと自己申告した人では、実際の目よりも大きい数を言う頻度が高かった。「50ドルなど大した金ではない階級の人々がうそをつく頻度は(低所得者層の)3倍だった」と、論文の主執筆者であるカリフォルニア大バークレー校のポール・ピフ(Paul Piff)氏は言う。

 また、自分を雇用者と仮定し、近く廃止する部署であると知りながらもその部署を希望する求職者と面談するという設定では、高い地位の人ほど事実を隠す傾向があった。

 別の実験では、キャンディーが詰まったポットを「近くの研究所の子供たち用」だと言って渡し、「好きならいくつかとっても構わない」と言い添えた場合、お金持ちほど多くのキャンディーをとる傾向があった。平均して、お金持ちがとったキャンディーの量は(お金持ちではない人の)2倍だった。富裕層の施しの量が貧しい人よりも少ない傾向があることを見出しつつあるピフ氏も、お金持ちが子供のお菓子を横取りするというこの事実には驚きを禁じ得ないと言う。

 さらに、自分の社会的地位が高いと思い込ませる実験では、社会的地位が他の人より高いという認識が、貪欲さを増し、例えば、実際より多くのおつりをもらっても黙ってとっておくなど、倫理的な行動規範も薄れる可能性があることも明らかになった。

■富と自立が他人への感受性弱める

 以上の実験結果は「上流階級の個人の間で文化的に共有されているいくつかの規範」を浮き彫りにした、と、論文は述べる。

 例えば、富裕層は貧しい人よりも自立し、財産も多いため、「他人が自分をどう思うか」が貧しい人よりも気にならないかもしれないという。

 ピフ氏によれば、お金を持っている人ほど、貪欲さを肯定的にとらえ、ピンチの時には家族や友人を頼らない傾向がある。こうした「気高さ」が自身を社会から切り離した存在にしているという。「日常生活の極めて異なるレベルでの特権が自立性を生み、自分の行為が他人の幸福へ及ぼす影響への感受性を弱めると同時に自己の利益を最優先させる結果を生んでいる」(ピフ氏)

 だが、論文は、慈善活動を行っている億万長者、ビル・ゲイツ(Bill Gates)氏やウォーレン・バフェット(Warren Buffett)氏などの例外が存在することも指摘する。また、貧困と凶悪犯罪の関連性を示した以前の研究は、貧しい人が必ずしもお金持ちより倫理観が高いわけではないことを示している。

 ただし論文は、「私利私欲は社会のエリート層のより根本的な動機であり、富の蓄積と地位の向上に関連したもっと欲しいという欲求は不正行為を助長しかねない」と指摘する。

 なお、実験はそれぞれ100~200人の米国人を対象に行われたが、「結果は米国外の社会にも当てはまるだろう」とピフ氏は言う。これらのパターンは、特に、格差の大きい社会で顕著に表れることが予想されるという。(c)AFP/Kerry Sheridan
https://www.afpbb.com/articles/-/2861397
要するに金持ちほど悪いことをするという内容です。

私はこれを読んだとき、正直者がバカを見る世の中だから、悪い人間が金持ちになったのではないかと思いました。
しかし、人を押しのけて生きていくような人間が出世することもありますが、周りから信頼される人間が出世する場合もあります。
この論文は、金持ちになったから人の目を気にしなくなり、悪いことをするのではないかと見なしています。
出世して金と権力を手にした人間は、次第に傲慢になり、平気で利己的なふるまいをするようになるということです。
これは「権力は腐敗する」ということに合致します。


前回の「『人間は利己的である』ということ」という記事で、人間は基本的に利己的であるということを述べました。今回の記事はその続編になります。
人間は誰もが利己的ですが、周りに人間がいるのでそんなに利己的なふるまいはできません。弱い立場の者はなおさらです。
しかし、権力を手にすると、利己的なふるまいができるようになり、どんどんエスカレートしていきます。

ですから世の中は、権力者や金持ちや地位の高い者などの強者は利己的にふるまって不当に利益を得て、弱者は不当に利益を奪われています。
しかも、強者は社会制度を自分たちに有利なようにつくっています。
民主主義によって弱者の意志も社会制度に反映されることになっていますが、上が下を支配する力は網の目のように社会に張り巡らされているのに対して、下から上への声を吸い上げる民主主義のパイプは細くて目詰まりしているので、まったく不十分です。

これが世の中の基本の仕組みですから、世直しの原理は「弱きを助け、強きをくじく」ということになるわけです。


つけ加えると、保守派や右翼やネトウヨの原理は「強きを助け、弱きをくじく」です。
したがって、リベラルと保守派の対立というのは、「弱きを助け、強きをくじく」と「強きを助け、弱きをくじく」の対立ととらえることができます。

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(タイの昆虫スナックの屋台)

このところコオロギ食が話題です。
もともと栄養価が高く環境への負荷も少ないことから国連食糧農業機関(FAO)も推奨していましたが、河野太郎デジタル大臣がコオロギを食べるパフォーマンスの映像が拡散したことで急に注目されました。

無印良品が徳島大学と連携して「コオロギチョコ」や「コオロギせんべい」を開発して販売しています。
無印良品の「コオロギが地球を救う」というサイトには、「香ばしいエビのような味がする」「野生のコオロギでなく衛生的な環境で飼育したコオロギを使っている」などと説明されています。

世界では昆虫食はそれほど珍しいものではありませんし、日本でもイナゴやハチの子が食べられていました。
とはいえ、「コオロギを食べるなんて気持ち悪い」と思う人も多いでしょう。
「自分は食べたくない」と思うのは自由です。

しかし、「コオロギ食に反対」という人がかなりいます。
コオロギ食反対は、コオロギを食べたいという人の権利を侵害しています。いったいどういう理屈でしょうか。

ツイッター上でコオロギ食反対を主張する人は、ネトウヨとかなりの程度重なり合っています。
つまりほとんどのネトウヨはコオロギ食反対です。
典型的なのは、ネトウヨジャーナリストの有本香氏が「コオロギ食べない連合」を立ち上げたことです。この話題はツイッターでトレンド入りしました。

なぜネトウヨはコオロギ食に反対するのでしょうか。
一応もっともらしい理由は挙げられています。
たとえば「たんぱく源確保なら昆虫食より日本の畜産業再生が先だ」というものです。
しかし、昆虫食を推進することで畜産業再生が遅れるわけではなく、昆虫食に反対する理由にはなりません。
「昆虫食よりフードロス解決が先だ」というのもありますが、やはり昆虫食推進とフードロス解決を同時進行させればいいだけのことです。それに、廃棄食品を飼料にしてコオロギを育てることができるので、コオロギ食はフードロス解決に貢献するという説があります。


コオロギ食に反対するまともな理由はありません。
実は陰謀論による反対がほとんどです。
反コロナワクチンの陰謀論の代表的なものは、「この世界を陰で支配しているディープステートは人口削減のために有害なワクチンを打たせている」というものですが、それと同じ陰謀論が昆虫食にもあります。
「昆虫食には発がん性、病原菌、寄生虫、アレルゲンがあり、人口削減の陰謀が行われている」というものです。

希望の党から選挙に出たことがあり、さまざまな問題発言を連発している橋本琴絵氏は『聖書にはイナゴ以外の虫は食べては駄目だと書いてあったのですが、2017年から聖書の記載内容が変更されて「イナゴとコオロギ以外は食べてはならない」に書き換えられたので闇が深い。これ冗談ではないですよ』とツイートし、これが拡散しました。
聖書の書き換えができるとなると、そうとう力のある闇組織ということになり、典型的な陰謀論ですが、もちろんそんなことはありません(こちらにファクトチェックあり)。

「支配層は日本人に昆虫を食わせて、自分たちは高級な牛肉を食べ、高級なワインを飲んでいる」とか、さらには「世界の支配層は爬虫類人間で、虫を食糧にするのは爬虫類の発想だ」などというものまであります。

アメリカでも日本でも、右翼や保守派は陰謀論にはまる傾向があります。
とはいえ、右翼や保守派が昆虫食に反対しなければならない理由はないはずです。なぜ反対するのでしょうか。

こう考えたとき、あることを思い出しました。
それは、「グロ画像を見た時の脳の反応で政治的傾向が右なのか左なのかがわかる?(米研究)」という記事です。
私はこの記事にはひじょうに重要なことが書かれていると思い、全文を引用して「右翼思考の謎が解けた!」という記事を書きました。

リンク先を読むのがめんどうな人もいるでしょうから、研究内容を簡単に紹介しておきます。

米バージニア工科大学の研究チームは、83人の男性と女性を対象に、不快な画像、心地よい画像、そのどちらでもないニュートラルな画像を取り混ぜて見せて、MRI脳スキャンを行いました。心地よい画像というのは赤ちゃんや美しい風景などで、不快な画像というのはいわゆるグロ画像のことで、ウジ虫やバラバラ死体、キッチンの流しのヌメっとした汚れやツブツブが密集したものなどです。
次に「銃規制」「同性結婚」「移民問題」などを含む政治理念に関するアンケートに答えてもらうと、右寄り(保守)と左寄り(革新)では、嫌悪の認知、感情の制御、注意力、そして記憶力に関する脳活動が大きく異なっていました。
総じて右寄りの人の脳の方がグロ画像に対して強く反応し、特に保守的な傾向にある人は嫌な画像に強い拒絶反応を示しました。右寄りの人と左寄りの人の脳スキャンは、あまりにも違っていたため、基本的にわずか1枚のグロ画像に対する脳の反応を見るだけで、95%の確率でその人の政治的傾向を当てることができたそうです。

例に挙がっているグロ画像は、要するに生理的な不快感を催すものです。生理的不快感というのは誰でも同じようなものと思えますが、実は個人差が大きかったというわけです。

この研究は「グロ画像」を対象にしたものですが、おそらくは「グロい現実」についても同じことがいえるでしょう。つまり右寄りの人は「グロい現実」に強い不快感を覚えるので、拒否し、抹殺しようとするのです。
こう考えれば、右翼、保守派、ネトウヨの思考法がわかります。

たとえばマンガ「はだしのゲン」について、左翼はこのマンガを強く支持し、右翼は強く拒否します。もちろん内容が左翼的だということもありますが、絵と内容のグロさが決定的要因ではないでしょうか。
アウシュビッツなど強制収容所の悲惨さによく言及するのも左翼です。
カンボジアのポル・ポト政権の大量虐殺はきわめて悲惨で、骸骨の山などの写真もあるので、右翼は反共プロパガンダにこれらの写真を利用すればいいはずですが、ほとんど行われていません。自分もグロい写真は見たくないからでしょう。

右翼、保守派がグロいものに拒否反応を示すとすれば、コオロギ食に拒否反応を示すのも当然です。
その拒否反応がきわめて強いので、自分が拒否しているだけではすまず、世の中からコオロギ食を抹殺したくなるものと思われます。

コロナワクチンについても、注射針が体に刺さるのは不快ですし、薬液が体内で抗体を生成するのを想像するのも不快です。かといって、ワクチンを拒否する合理的、科学的な理由がありません。そこで不合理な陰謀論に飛びつくというわけです。

反コオロギ食の人や反ワクチンの人が陰謀論にはまるのは、そういうことで説明できます。


さらにいうと、同性愛傾向のまったくない人は、同性同士がセックスする場面を想像すると不快になるでしょう。
しかし、自分が不快だからといって人の幸せをじゃまするわけにいきません。普通の人はそう考えて、同性婚に賛成します。
ところが、不快感がきわめて強い人は、同性婚が公認されて、身近に同性婚カップルが存在すると思うだけで自分の幸せが脅かされると感じます。
右翼、保守派が同性婚に反対するのはそういう理由があるからでしょう。


グロい現実に強い不快を感じるという性質は、おそらく生まれつきのものでしょう。
そういう性質の人は多様性を嫌います。多様性にはグロいものも含まれるからです。そうしておのずと外国人排斥思想やLGBTQ排斥思想を身につけて、右翼になっていくのかと思われます。

右翼、保守派、ネトウヨは心のキャパシティの小さい人だと思えば、その思考や行動の原理が見えてきます。
心の狭さは生まれ持った性質なので、批判しても直りません。心のケアをして社会に取り込んでいくというインクルーシブ社会を目指すのが正しい方向です。
しかし、自分を正当化して、陰謀論を信じたり非科学的、非合理的な主張をしたりするのは認知のゆがみですから、そこは批判していかなければなりません。

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