村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:いじめ

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1月16日に静岡県牧之原市で13歳(中学1年生)の少女が実の母を刃物で数か所刺して殺害するという事件が起きました。
文春オンラインの記事には「トラブルの発端は、スマホでのSNSの使い過ぎを母親から注意されたことだったようです。母親が激しく娘を叱責し口論になった後、娘は母親が寝ている時間帯に部屋に入り、犯行に及んだとみられています」と書かれています。

スマホやゲームについては、どこまで子どもに使わせていいのか悩んでいる親が少なくないでしょう。スマホのトラブルだけが事件の原因ととらえるのは単純すぎますが、この事件をきっかけに子どものスマホやゲームの使い方について議論が起こるかと思いました。

「スマホ脳」「ゲーム脳」という言葉があって、スマホやゲームのやりすぎはよくないという説がありますが、一方で、「テレビゲームで遊ぶ子供は認知能力が向上…長期的な影響は不明」という記事に示されているように、テレビゲームをよくする子どもはほとんどしない子どもより認知能力テストで高い成績を示したというデータもあります。
常識的に考えても、夢中でゲームをすれば脳は鍛えられるはずです。
将棋の藤井聡太五冠は5歳で将棋を覚え、それからずっと将棋漬けで“将棋脳”になっているはずですが、まともに育っているように見えます。
スマホについても、ITスキルは今後絶対必要になるので、小さいころから使いこなしていたほうが有利に決まっています。

私の考えでは、ドラッグやアルコールなど体に悪いものは別ですが、人間は基本的にやりたいことをやって悪いことにはなりません。ゲームかなにかに夢中になれば、いずれ飽きて関心はほかに移っていきますし、いつまでも夢中であるなら、それはそれで道が開けます。やりたいことを止められると、ほかのことにも集中できなくなります。

もちろんほかの考え方もあるでしょうから、議論すればいいことです。
ところが、そうした議論はほとんど起きていません。
ネットの書き込みなどには、「子育てに正解はない」「家庭ごとに違ったやり方があっていい」といったものがほとんどです。

つまり今は、教育に関しては親の裁量権が広く認められています。
では、その教育の結果の責任は誰が負うのでしょうか。


刑法の規定では14歳未満の子どもには刑事責任が問えないので、今回の13歳の少女も刑事罰が科されることはなく、今後は家庭裁判所が少女を少年院か児童自立支援施設に送致するか保護観察処分にすることになると思われます。
昔は16歳未満は刑事責任が問えないとなっていたのですが、1997年にいわゆる酒鬼薔薇事件が起きて厳罰化を求める世論が高まり、少年法改正によって14歳未満となりました。
しかし、13歳による殺人が起きたわけです。

少年に刑事罰を科さないのは、少年は更生しやすいので、罰よりも教育や保護のほうが効果的だということからです。
しかし、おとなは罰されるのに少年は罰されないのはおかしいと考える人もいます。それに、刑事責任年齢が14歳となっていることにも根拠がありません。
少年の刑事罰の問題は論理的にすっきりしません。
なぜすっきりしないかというと、たいせつなことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは「おとなの責任」です。

13歳、14歳の子どもといえば、親または親の代理人の完全な保護監督下に置かれ、教育・しつけを受けていて、さらに教師による教育も受けています。もしその子どもが犯罪やなにかの問題行動を起こしたら、親と教師に責任があると考えるのが普通です。
ですから、子どもの責任を問わない分、おとなの責任を問うことにすれば、論理的にすっきりします。
まともな親なら「この子に罪はない。代わりに私を罰してくれ」と言うものです。

ところが、今の世の中は「おとなの責任」は問わないことになっています。
13歳の少女の場合も、母親がスマホの使いすぎを注意したことの是非を論じると母親の責任を問うことになりそうですから、そういう議論自体が封じられています。

このケースは母親が亡くなっているので、母親の責任を問う意味がないともいえますが、亡くなっていないケースでも同じです。

酒鬼薔薇事件の場合は、少年Aは両親(とくに母親)にきびしくしつけされていましたが、マスコミは両親の責任をまったく追及しませんでした。両親が弁解を書き連ねた『「少年A」この子を生んで』という本を出版しても、それをそのまま受け入れました。

昨年1月15日、大学入学共通テストの日、試験会場となった東大前の路上で17歳の少年が刃物で3人に切りつけて負傷させるという事件がありました。少年は愛知県の名門高校に通う2年生で、犯行時に「東大」や「偏差値」という言葉を叫んでいました。親や学校が少年に受験のプレッシャーを過剰に与えていたのではないかと想像されますが、やはりそうしたことは追及されませんでした。

マスコミは「子どもは親と別人格」という論理を用いて、事件を起こした少年への批判が親に向かわないようにしています。
しかし、そういう論理が通用するのは社会の表面だけです。水面下では親のプライバシーをあばいて、人格攻撃する動きが活発に展開されます。

私が「おとなの責任」をいうのは、親への人格攻撃を勧めているのではありません。
親が子どもにどういう教育をしたかを明らかにして、ほかの親の参考になるようにすることを目指しています。


「おとなの責任」をないことにするのは、学校のいじめ問題にも表れています。

『「法律」でいじめを見ると…弁護士が小学生に出張授業 認識変わるきっかけに【鹿児島発】』という記事において、弁護士が小学生に対して『「いじめ」は、一つ一つの行動を取って見ると、実はそれを大人がやったら犯罪になる行為。たたいたり蹴ったりする行為は、「暴行罪」という犯罪になります』と言うと、小学生はいじめの重大性を認識して真剣な表情になったなどと書かれています。
しかし、弁護士なら「おとながしたら暴行罪という犯罪になる行為も、子どもがしたら犯罪になりません。なぜでしょうか。それは、おとながあなたたち子どもをたいせつにしたいと思うからです」とでも言うべきです。

そもそもは弁護士が子どもに対して出張授業をするのが間違っているのです。同じするなら親と教師に対してするべきです。
親や教師に向かって「おとながしたら暴行罪という犯罪になる行為も、子どもがしたら犯罪になりません。なぜでしょうか。それは、あなたたち親や教師に責任があるからです」と言えば、親や教師の意識が改善され、いじめ防止にもつながるかもしれません。
いじめというのは、学校という檻の中で起こるのですから、檻の設置及び管理をする文科省、教師、親に責任があります。


しかし、おとなは「おとなの責任」を認めたくないので、あの手この手でごまかしをします。
たとえばひろゆき氏は1月19日に次のようなツイートをしました。

人間だけでなくイルカやカラスなどの動物もイジメをします。大人でもイジメはあります。
「イジメを無くそう」という綺麗事は、イジメられてる子には無意味です。
綺麗事ではない現実的な解決策を大人は伝えるべきだと思うんですよね。

イルカやカラスのいじめがどういう状況のことをいっているのかよくわかりませんが、おとな社会のいじめと学校のいじめは数がまったく違います。
2021年度の小中高校などにおけるいじめの認知件数は61万5,351件と過去最多となりましたが、この数字もすべてとはいえません。一般社会でのいじめの件数の調査はありませんが、会社でのいじめが学校でのいじめより少ないのは明らかです。若いタレントさんがデビューまでのいきさつを語るのをテレビで見ていると、みな判で押したように学校でいじめられていたと言います(少なくとも8割ぐらいは言います。私個人の感想ですが)。また、同窓会に行くと自分をいじめた人と会うので行きたくないという声をけっこ聞きますが、こういう人は社会ではいじめにあっていないのでしょう。

ひろゆき氏はさらに次のようにツイートしました。

フランスは「イジメをする人に問題がある」と考え、加害者側がクラスを変えられたりします。
日本は被害者が学校を変える事を勧められたり、中学の校長が自殺した子に
「イジメはなかった。彼女の中には以前から死にたいって気持ちがあったんだと思います」と責任転嫁。


加害者がクラスを変えるのでは、新しいクラスでいじめをするだけではないかという疑問はさて置いて、ひろゆき氏は「イジメをする人に問題がある」というフランス式の考えに賛同して、いじめをする子どもに責任を負わせています。校長も批判していますが、これはいじめをする子どもに責任を負わせないことを批判しているのです。
いじめをする子どもに責任を負わせれば、「おとなの責任」はないことになります。

親や教師は「いじめはよくない」ということを教えているはずです。それでいじめが起これば、教え方が悪かったわけで、教えた者の責任が問われるべきです。

「特別の教科道徳」が小学校では2018年度から、中学校では2019年度から実施され、文科省の「小学校学習指導要領解説」に「今回の道徳教育の改善に関する議論の発端となったのは,いじめの問題への対応であり,児童がこうした現実の困難な問題に主体的に対処することのできる実効性ある力を育成していく上で,道徳教育も大きな役割を果たすことが強く求められた」と書かれているように、道徳教育の大きなねらいはいじめの防止でした。
ところが、いじめの認知件数は過去最高を更新したわけです。
明らかに道徳教育の失敗ですが、誰も責任を取ろうとしません。いや、責任を問う声すら上がりません。おとなはみな「おとなの責任」をないことにしたいのです。

いじめ発生の原因は明白です。
学校生活は、長時間の退屈な授業と無意味な規律の強制で檻の中で生活しているも同然です。
ニワトリは限度を越えた狭いケージで飼われると、ストレスから互いの体をつつき合って、弱い個体は全身の羽根を抜かれてしまいます。
学校のいじめもそれと同じです。どちらがいじめているかはたいした問題ではありません。

ですから、いじめ対策としては、一斉授業から個別授業へ、無意味な規則の廃止といったことが重要です。

家庭でのストレスも学校でのいじめの原因になります。
たとえばスマホやゲームを禁止されることもストレスです。
親が子どものスマホやゲームを禁止するなら、ちゃんと理由を示して子どもを納得させなければなりません。
今回の13歳の少女の事件については、そこが欠けていたかと思われます。


子どもが納得しないことを親が強制するのは、今は普通に行われていますが、いずれ親によるパワハラと認定されるでしょう。
昔は当たり前とされた親による体罰が今は虐待と認定されるのと同じことです。
これからは「おとなの責任」が問われる社会になるはずです。

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いじめ防止対策推進法が2013年に成立したのに、学校でのいじめは少しも解決せず、自殺につながるような深刻ないじめもあとをたちません。
それも当然で、いじめ防止法は学校のいじめ防止体制の整備やいじめが起きたときの対処法を主に規定するもので、いじめの発生を防止する規定はほとんどありません。
あえて探すと、次のようなことだけです。

第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。
   ※
第九条 保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。
   ※
第十五条 学校の設置者及びその設置する学校は、児童等の豊かな情操と道徳心を培い、心の通う対人交流の能力の素地を養うことがいじめの防止に資することを踏まえ、全ての教育活動を通じた道徳教育及び体験活動等の充実を図らなければならない。

文科省のホームページにある「いじめ防止対策推進法(概要)」も、学校のするべき基本的施策は「道徳教育等の充実」であるとしています。

道徳教育の好きな自民党らしい法律です。
しかし、道徳教育でいじめがなくなるわけがありません。
道徳で社会がよくなったり、道徳教育でよい人間がつくれたりするなら、とっくに理想社会が実現しています。
道徳を当てにする法律をつくったのが失敗でした。


そのため、いじめをする子どもを厳罰にしろという声が高まっています。
罰を抑止力にしていじめをなくそうというわけです。
これは刑法の基本的な思想でもあります。
しかし、一般社会でも厳罰化で犯罪はなくならないのですから、学校でも厳罰化でいじめはなくならないでしょう。
それに、こうしたやり方は、監視の目がないと悪いことをする人間をつくりそうです。

さらにいうと、いじめている子どもはたいてい自分はいじめをしているという自覚がありません。相手をからかっているだけ、いじっているだけ、いっしょに遊んでいるだけといった認識です(いじめられている子もたいていはっきりと「いや」という意志表示をしないものです)。
ですから、「いじめはよくない」とか「いじめた者は罰する」と言ってもあまり効果がないのです。


「いじめている側はいじめとは思っていない」ということがよくわかるニュースがありました。
“背の順”の整列に異議 小学校教員・松尾英明さんが訴え「いじめのひとつと考えてもいいんじゃないか」
 小学校で当たり前のように行われている“背の順”による整列。背の順に異議を唱える声が上がり、波紋を広げている。

 公立小学校教員・松尾英明氏は「背の低い順に並ばせるのは差別である」と自らの著書で訴えている。さらに「子どもたち同士の中でも背の高い、低いというのは気にするようになるんです。コンプレックスを抱くということがありますので傷つく人がいるということを考えると、これはいじめのひとつと考えてもいいんじゃないかと思っています」と主張している。

 “背の順”について、並ぶことが嫌とか思ったことあるか聞かれた街の子どもは「(男児)あまりない」「(女児)ない~」と答え、親は「考えたこともなかったです。すごく現代ならではだなと思いました」と気にしない意見が上がった一方、「背の順はイヤ。前の方もイヤです。目立ったりするし、(後ろでも)横から見ればいける。バラバラでもいいと思う」といった反対の声も上がっている。

 松尾さんは、背の順ではなく名簿順を勧めていて「名簿順であれば序列意識がなくなり、成長によって起きる“順序の変動”といった混乱も避けることができる」と指摘している。また、声をあげた理由について「全体の数%の子たちがすごく嫌な思いをしている。その声が全体の中の少数派であったとしても、少数派の人たちに目を向けるということ自体がものすごく大事なことだと思うので、私はすごく意味があることだと思っています」と心境を明かしている。(『ABEMAヒルズ』より)
https://news.yahoo.co.jp/articles/03a789e2c45a296eb91677997e6df5b183aee259
私も“背の順”による整列は当たり前と思っていたので、この記事には意表をつかれました。

私自身は背の高いほうだったので、小学校、中学校で校庭に整列するときはかなり後ろでした。そのときは背が高くてよかったと思いましたし、いつも前のほうにいる子はいやだろうなとも思いました。
男の子の世界では、背が高いことは価値があります。背が低いと、それだけで体力的に不利ですし、しばしば「チビ」と言われてバカにされます(「チビ」と呼ぶのはいじめであるとして、最近はないかもしれません)。
背の順に整列すると、背の低い子はそのことが誰の目にも歴然となります。当然いやに違いありません。
これは、体重の順に整列することを考えてみればわかるでしょう。あるいはテストの点数順の整列とかでも同じです。

もっとも、この記事についてのヤフコメを見ると、「背の順の整列は前を見やすくするための合理的なものなのでいじめではない」という意見が圧倒的です。

しかし、私自身の体験を振り返ってみると、小学校と中学校では校庭で背の順に整列していましたが、高校では整列ということをしたことがありません。朝礼というものがなかったし、全校集会とかなにかのイベントのときは整列せずに雑然と集まっていました。それでなんの問題もありませんでした。
校庭に整列するというのは軍国教育の名残です。整列する経験が役立つのは自衛隊か警察などに就職した場合だけで、一般社会では無意味です。
ですから、校庭や体育館に集合したとき、整列せずに雑然と集まっていればいいのです。そうすれば背の低さも気になりません。

なお、運動会で全員にかけっこをさせるのも、足の遅い子にとっては屈辱以外のなにものでもありません。こういうことをさせると自己肯定感が低くなり、競争嫌いの子どもになりかねません。競争は自分の得意な分野でするべきです。

背の順の整列にせよかけっこにせよ、させるほうは認識していませんが、一部の子どもにとってはいじめそのものです。

もっとも、いじめ防止法では、こうしたケースはいじめとは見なされません。いじめの定義が「児童生徒が他の児童生徒に行う行為」となっているからです。
教師や親が子どもをいじめても、いじめにはならないのです。
これもいじめ防止法の欠陥です。

社会にもいじめはありますが、それほど多くはありません。しかし、学校におけるいじめは圧倒的に多くあります(社会におけるいじめの数の統計はないので、比較できませんが)。
これは学校をつくってきた文科省や教育委員会や教師に責任があり、さらには親にも責任があります。


道徳教育も厳罰化もいじめ防止には役立ちません。
では、どうすればいいかというと、私の知る範囲ではシュタイナー教育の考え方がいいと思います。

日本におけるルドルフ・シュタイナー思想研究の第一人者である高橋巌の著書『シュタイナー教育の方法』から引用します。

そこで、そういう子どもの「いじめ」が中学一年生のクラスに起こった時に、現在の時点でどういう態度をとることができるかと言うと、先生はその暴力を引き起こしている子ども、いじめられっ子ではなく、いじめっ子の方とできるだけ親しくなる、ということが必要です。
まず先生は、暴力を引き起こしている「いじめっ子をかばう」という姿勢をとる必要があります。いじめっ子をかばうということは、いじめっ子がいちばんかわいそうな存在だからです。人をいじめるということでしか自分を表現できないのですから、どんなにその子の内面は苦しんでいるかわかりません。ですからまず先生はその子と仲好しになって、その子どもとだけでいろんな約束をするのです。たとえば「君はきっと今度の秋の運動会では百メートル競走の代表選手になるはずだから、一緒に今から練習してくれないか」とか、あるいは「このクラスのこの子はとてもからだが悪いので、君、ぜひ面倒をみてくれ」とか、「先生の代わりに、今入院している誰それのお見舞いに行ってくれ。その時に悪いけどこのお金でお花を買ってくれ」とか、そういうような形でその子どもと個人的に関っていく、というところから始めるのです。その子どもが他の子どもをいじめる必要がなくなるところまで面倒をみるということが第一です。
それから第二に、もちろんいじめられる子どもに対しても、同じようにできるだけ細かく配慮して、そしてその子がどうしていじめられるのか、そのいじめられる原因を見つけ出して、それを皆にわからない仕方で、解消するように配慮するのです。そういう筋道を先生が辿って行かないかぎり、問題は解決できません。

いじめっ子にいじめをやめさせる方法としては、これが王道であると思えます。

高橋は、先生は親のような立場に立てと説いています。
たとえば、子どもが犯罪を起こして親が警察に行ったときは、親は「自分の責任だ」と感じて、警察の側ではなく子どもの側に立つはずです。
「そういう形で子どもの側に立てれば、まともな先生なのです。ところが、裁判官であったり警察官であったりする態度をとって何とも思わない先生でしたら、それは教師でも何でもない、ということになります」と高橋は書いています。

今の世の中は、教師だけではなく親も警察官や裁判官の立場に立っている感があります。

シュタイナーの思想は神智学といい、神秘思想でもあり、かなり宗教的なものです。
宗教といってもいろいろありますが、深い宗教思想は善悪を超越します。
親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というのもそうです。
キリストの「汝の敵を愛せよ」というのもそうでしょう。

一般には「いじめっ子は悪、いじめられっ子は善」と考えられていますが、ひとつのクラスに善と悪があるのもおかしなことです。
善悪を超越した目を持つことがたいせつです。

シュタイナーの思想は「宗教的寛容」と名づけることができるかもしれません。


いじめは進化倫理学の立場から考察することもできます。

生物としての人間に基づいて倫理を考えるのが進化倫理学です。
哺乳類の場合、子どもは親に守られ、親に世話をされて、つまり親の愛情を受けて育ちます。
しかし、人間の場合、親は高度に文明化していますが、赤ん坊は原始時代と変わらない状態で生まれてくるので、親と子のあり方が大きく乖離しています。親は子どもの気持ちが理解しにくく、「なぜこんなことがわからないのか」といった理不尽な感情を抱きがちです。また、文明化された生活様式の中で子どもは物を壊したり汚したりするので、それも親にはがまんできません。そうしたことが親の愛情不足につながり、さらには虐待につながります。

また、文明社会に適応するには多くのことを学習しなければならないので、学校では子どもの好奇心や学習意欲以上のことを教えます。空腹になればおいしく食べられるのに、その前にむりやり食べさせるみたいなことをしているのです。

文明が発達すればするほど親と子が乖離し、学校での子どもの負担が増えます。こうしたストレスがいじめにつながっているのです。
ですから、いじめをなくすには家庭と学校のあり方から見直していかなければなりません。
いじめ防止法にはこうした発想がまったくなく、そのため効果がないのです。


いじめ対策としては、道徳教育も厳罰化もうまくいきません。これらはおとな本位の発想だからです。
宗教的寛容や進化倫理学によって、子どもの立場から考えることが必要です。

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セクハラやレイプ被害を告発する「#MeToo」運動が世界的に行われ、日本ではハイヒール強制に反対する「#KuToo」運動があり、そして、最近韓国では学生時代のいじめを告発する「#暴Too」運動が大きな社会問題になっています。

最初のきっかけは、CMなどにも出演する女子バレーボールのスター選手、イ・ジェヨンとダヨン姉妹が過去に壮絶ないじめをしていた事実が発覚したことです。2人は謝罪しましたが、代表選手の資格を剥奪されました。
それから、過去のいじめを告発するということが芸能界でも次々と起きて、ドラマやバラエティ番組がいくつも放送できなくなる事態になっています(詳しいことはこちらの記事で)。

日本では「いじめ」ですが、韓国では「学校暴力」と呼ばれて、法律で定義され、日本よりも犯罪という意識が強いようです。

しかし、小中高校時代のことを告発されても、被害者本人と級友の証言以外に証拠はないはずで、実際、告発された人物はたいていいじめの事実を否定するので、事態はこじれます。
ただ、有名人が告発されると、それだけで大きなイメージダウンになります。


日本でも似たことがありました。
週刊文春によると、眞子さまの婚約者である小室圭さんが中高時代に同級生の女性をいじめて、そのため女性は高校1年で退学し、2年ほど引きこもり生活をし、「人生を狂わされた」と言っているということです。
これなどまったく信ぴょう性がありません。マスコミはずっと小室圭さん批判をしてきて、この報道もその一環です。捏造したものではないかという疑念があります。

それに、学校時代にいじめられたという人はいっぱいいます。そういう人がみんな告発をするようになって、告発された人がなんらかの対応をしなければならないとなると、世の中は大きな難題を背負い込むことになります。
そんなことを考えさせられる文春の報道でした。


それから、私が思い出したのは、1980年代から90年代にかけてアメリカで、幼児期に親から虐待されたとして成人した子どもが損害賠償を求めて親を訴えるケースが頻発したことです。
これに対して、訴えられた親を支援する財団が設立され、心理学者が動員され、幼児虐待の記憶はセラピストによって捏造されたものだという反論がなされ、その結果、訴訟のほとんどは親側の勝利で終わりました(この経緯はウィキペディアの「虚偽記憶」の項目で読めます)。

幼児虐待は家庭という密室で行われ、少なくとも10年、20年も前のことなので決定的な証拠はほとんどなく、そうすると幼児虐待を隠ぺいする方向、つまり親に有利な方向になってしまいます。


韓国の「#暴Too」運動は、これらとはまったく異質です。

「#MeToo」運動が告発するセクハラやレイプは、男と女という強者と弱者の関係で起き、「#KuToo」運動が告発するハイヒール強制は、会社と女性社員という強者と弱者の関係で起き、幼児虐待はもちろん親と子という強者と弱者の関係で起きます。
ですから、こうした運動は社会改革の運動でもあります。

ところが、学校でのいじめは、基本的に同級生という対等の関係で起きます。
もちろん強い者が弱い者をいじめるのですが、強い弱いといってもわずかな差です。ときには立場が入れ替わることもあります。
いじめた者を裁いたところで、社会も変わりませんし、学校も変わりません。
それに、証拠がないので裁判に持ち込んでも勝てることはまずありません。
そうすると、有名人に対する個人攻撃、人格攻撃になるだけです。


さらに、根本的なことを言うと、「#暴Too」運動は告発する相手が違います。

「自由の裏に責任」とよく言われますが、子どもは義務教育や校則や教師の指導に縛られているので、自由がなく、責任の主体にはなりません。
学校でいじめが起きたとき、責任が問われるのは教師と学校です。
日本でいじめで子どもが自殺したとき、自殺した子どもの親が損害賠償請求の訴訟を起こすことがありますが、訴訟の相手はいじめた子どもではなく、たいていはいじめた子どもの親と、管理責任のある学校と教育委員会です。

いじめ防止基本法には、「児童等は、いじめを行ってはならない」とありますが、いじめを行った児童の責任を問う規定はなく、国、地方公共団体、学校設置者、学校及び教職員、保護者の責務の規定があるだけです。
ですから、いじめた子どもが成人になったとしても、その責任を問うことはできないでしょう。
責任を問うなら、当時の学校、教師、教育委員会、そしていじめっ子の保護者です。


韓国でも、自由のない子どもの責任を問うことができないのは同じはずです。
いじめられた人がいじめた相手を憎んで、告発したくなる気持ちはわかりますが、社会やマスコミは冷静に責任の所在を判断して対処する必要があります。
そうすれば「#暴Too」運動も沈静化するでしょう。

いじめっ子の責任を問うよりも学校の管理責任を問うほうがよほど建設的です。

ピンクシャツデー


2月26日はピンクシャツデーです。

ピンクシャツデーというのは、ピンクのシャツやピンク色のものを身につけることで「いじめ反対」の意思表示をする日で、毎年2月の最終水曜日に行われます。
カナダから始まり、今は世界数十か国に広がっているそうです。

ある実際の出来事がきっかけとなってこの運動は始まりました。どんな出来事だったのか、「日本ピンクシャツデー公式サイト」から引用します。


舞台は2007年、カナダ・ノバスコシア州のハイスクールです。9年生(中学3年生)の男子生徒がピンク色のポロシャツを着て登校したことをきっかけに、ホモセクシャルだとからかわれ暴行を受け、たえきれずに帰宅してしまいました。その出来事を聞いた上級生のデイヴィッド氏とトラヴィス氏。12年生(高校3年生)の彼らにとっては、その学校で過ごす最後の年でした。

「いじめなんて、もう、うんざりだ!」「アクションを起こそう!」

そう思ったふたりは、その日の放課後、ディスカウントストアへ行き75枚(∗)のピンク色のシャツやタンクトップを買いこみました。そしてその夜、学校のBBS掲示板やメール等を通じてクラスメートたちに呼びかけました。

「明日、一緒に学校でピンクシャツを着よう」と。

翌朝、ふたりはピンク色のシャツやタンクトップを入れたビニール袋を手に登校しました。学校について校門で配りはじめようとしたふたりの目に映った光景・・・

それはピンクシャツを着た生徒たちが次々と登校してくる姿でした。ピンクシャツが用意できなかった生徒たちは、リストバンドやリボンなど、ピンク色の小物を身につけて登校してきました。頭から爪先まで、全身にピンク色をまとった生徒もいました。

ふたりの意思は一夜のうちに広まっていたのです。

ふたりが呼びかけた人数より遥か多く、数百人もの生徒たちがピンクシャツやピンク色のものを身につけ登校してきたことで、その日、学校中がピンク色に染まりました。いじめられた生徒は、ピンク色を身につけた生徒たちであふれる学校の様子を見て、肩の荷がおりたような安堵の表情を浮かべていたそうです。以来、その学校でいじめを聞くことはなくなりました。

このことが地元メディアで取り上げられると、またたくまにカナダ全土に広がり、さらに世界に広がったというわけです。

いい話です。ちょっと感動的です。

しかし、疑問も感じます。
ピンク色のポロシャツを着た男子生徒をいじめた生徒たちはどうなったのでしょうか。なにも書いてありません。
いじめっ子へのケアがなければ、いじめ防止は成功しないのではないかと思います(あるいは罰するとか排除するとかいう考え方もあるでしょう)。

それから思ったのは、学校でのいじめは日本だけでなく世界的な問題なのだなということです。
ということは、教育制度や学校制度と深く結びついているわけです。
ピンクシャツデーのようなことで防止できるとは思えません。


日本で学校のいじめが問題になるとよく「いじめは社会のどこにでもある」という声が出ます。
確かにいじめは社会のどこにでもあるでしょうが、学校のいじめと社会のいじめでは件数や深刻さがまったく違います。

学校でのいじめ件数は調査されてわかりますが(2018年度の小中高のいじめ件数は約54万件)、社会でのいじめ件数は調査しようがないので、比較はできません。
しかし、学校を卒業して何年もたっているのにいまだにいじめられたことがトラウマになっているとか、同窓会に行くと昔のいじめっ子と会うので行きたくないとかいう人がよくいます。こういう人は、社会ではいじめにあっていないでしょう。
テレビで若いタレントが自分のことを語るとき、学校でいじめにあっていたと語る人もひじょうに多いです。芸能人になるぐらいだから個性的な人が多いということを割り引いても、今の学校にいかにいじめが蔓延しているかがわかります。
つまり学校といじめは切っても切り離せないのです。

これはもう、学校の構造的な問題と見るしかありません。
日本では6歳の子と7歳の子を同じ教室に入れて教えますが、この年での1年の違いは大きく、ここからすでにむりがあります。
また、椅子にじっと座って先生の話を聞くというのも、小さい子どもにとっては拷問みたいなものです。
子どもには好奇心があり、学びたい意欲がありますが、学校はおとなの都合で教えるので、お腹の空いていない子どもにむりやり食べさせるような教え方をしています。
学ぶというのは本来楽しいことですが、学校での勉強は苦行です。

学校教育が子どもにとってはいじめみたいなものなので、子ども同士がいじめをするのは当然です。
学校制度はどの国も同じようなものなので、世界中の学校でいじめが発生することになります。

いじめは子どもの問題ではなく学校の問題ととらえなければなりません。
いじめ防止をしたいなら、「子どもが楽しく通える学校」をつくるしかありません。
それ以外のやり方はすべて対症療法です。

ピンクシャツデーは、対症療法の効果すらなさそうです。
ピンクシャツデーに参加する人は善意からでしょうが、自己満足と言われてもしかたありません。
ピンクシャツデーをするなら、単なるデモンストレーションに終わらせるのではなく、いじめの根本原因を考える日にするべきです。

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