村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:しつけ

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保守とリベラルの対立は世界的に大きな問題になっていますが、教育や子育てに関しても保守とリベラルは対立しています。
たとえばブラック校則を問題にするのはもっぱらリベラルで、保守派はまったく無関心です。
保守派は管理教育賛成で、リベラルは管理教育反対です。
昔、体罰賛成か反対かで世論が割れていたころ、保守派はほとんどが体罰賛成でした。戸塚ヨットスクールが問題になったとき、戸塚ヨットスクール支援者として名を連ねたのは保守派ばかりでした。
性教育に反対しているのはもっぱら保守派です。
家庭で虐待された少女を救う活動をしているColaboをバッシングしたのは保守派で、Colaboを支援したのはリベラルでした。

子育てや教育については科学的な研究が進んでいます。
ですから、保守とリベラルの対立についても科学が結論を出す日も近いでしょう。
すでに「しつけ」については科学的な結論が出ています。


これまで社会は親に対して、子どもをしつけるようにと強く要請してきました。
たとえばレストランなどで子どもが騒いでいると、「親が子どもを静かにさせるべきだ」ということと同時に「親が子どもをちゃんとしつけるべきだ」という声が上がります。
子どもをしつけることは親の義務とされているのです。

親が子どもを虐待して死亡させるような事件が起こると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
それに対してコメンテーターなどがなにか言うのを聞いたことがありません。
「しつけ」はよいこととされているので、言いようがないのです。
あえて言うとすれば、「しつけをするのはいいが、やりすぎはよくない」ということでしょうか。しかし、これでは「しつけは殺さない程度にやりなさい」と言っているみたいです。
「あれはしつけではない」と言うのはありそうです。しかし、そう言うと、「では、ほんとうのしつけはどこが違うのか」というふうに話が発展して、これに答えるのは困難です。


「しつけ」というのはもともと武士階級で子どもに礼儀作法などを教えることをいいました。
「躾」というのは日本でつくられた漢字です。この漢字をもとにして「躾というのは身を美しくすることだ」ということもよくいわれます。
「身を美しくする」ということは、逆にいえば心を美しくすることではないわけで、うわべだけということです。

子どもが騒がずに静かにしていれば「しつけができている」とされます。
しかし、子どもが騒いだり動き回ったりするのは自然なことで、発達に必要なことです。子どもをむりに静かにさせると、心身の発達に悪影響があります。
つまりしつけというのは、子どもの発達を無視して、うわべだけおとなの都合のいいようにすることです。

よく公共の場で子どもが騒いではいけないといわれますが、公共の場には子どもも老人も身体障害者もいる権利があり、肩身の狭い思いをする必要はありません。公共の場で子どもに騒ぐなと要求するおとなは、共生社会も子どもの発達も理解しない、ただのわがままなおとなです。子どものいない静かな環境はプライベートの場で求めるべきで、公共の場で求めるべきではありません。


ともかく、親は社会の要請に応えて子どもをしつけようとしますが、子どもの発達に反したことをしようとしているのですからうまくいきません。うまくいかないと親は子どもを叱ります。
そのため、親の子育ての悩み相談でよく見かけるのは「子どもが言うことを聞かない」という悩みと「毎日子どもを叱ってばかりいる。こんなに子どもを叱っていいのだろうか」という悩みです。

「子どもをしつけるべき」という社会の要請が親子関係を破壊していることがよくわかります。


「子どもをしつけるべき」という考え方のもとには、しつけしないと子どもは悪い人間になってしまうという認識があります。つまり「子ども性悪説」です。
性善説と性悪説とどちらが正しいかについて定説がないために、私たちは都合よく性善説と性悪説を使い分けているという話を前にしましたが、子どもに関しては性悪説を使っているわけです。
「子ども性悪説」ということは「おとな性善説」かということになりますが、誰もそんな論理的なことは考えません。その場限りで自分(おとな)にとって都合よく考えているだけです。

「子ども性悪説」は少なくとも西洋近代には一般的でした。
イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間は教育によってはじめて人間となることができる」と書いています。
ということは、人間は教育されないと人間にならないということです。では、なにになるのかというと、カントはおそらく「動物」と言いたいのでしょう。それは、「訓練、あるいは訓育は動物性を人間性に変えて行くものです」とか「人間は訓練されねばなりません。訓練とは、個人の場合にしろ社会人の場合にしろ、動物性が人間性に害を与えることを防ぐように努力することをいいます」と述べていることからもわかります。つまり人間は生まれたときは動物であり、教育によって人間になっていくというのです。
この場合の人間と動物の関係は、進化論以前なので、人間は神に似せてつくられた特別な存在であるというキリスト教的な考え方です。つまり理性的な存在であるおとなが動物的な存在である子どもを導いて人間にしていくのが教育だということです。

ジョン・ロックは自由主義や人権思想の基礎をつくったとされますが、『教育に関する考察』において子どもを動物にたとえています。
彼は、しつけは小さいときからするのがたいせつであるといい、小さいときに甘やかした子どもが大きくなってから束縛しようとしてもうまくいかないとして、こう書いています。


今や一人前になり、以前よりは力も強く、頭も働くようになって、なぜ、今突然に、彼は束縛を受け、拘束されねばならぬのでしょうか。七歳、十四歳、二十歳になって、いままで両親が甘やかして、大幅に許されていた特権を、なぜ彼は失わねばならぬのでしょうか。同じことを犬や、馬やあるいは他の動物にやってみて、その動物が若い間に習った、悪い、手に負えぬ癖が、引き締めたからといって、容易に改められるかご覧なさい。


ジグムント・フロイトの患者にシュレーバーという者がいましたが、その父親は何冊もの本を書いた高名な教育学者でした。シュレーバーの父親は子どもの教育はできるだけ早く、生後五か月には始めなければならないと主張していました。言葉もわからない子どもにどう教育するかというと、たとえば泣きわめいている赤ん坊をよく観察し、窮屈だとか痛い思いをしているわけではなく、病気でもないとなったら、泣きわめいているのは「わがままの最初の現れ」であることがはっきりするといいます。


「こうなったらもはやはじめのようにじっと待っていたりしてはならないので、なんらかの積極的な行動に出る必要がある。速やかに子どもの気を別のものに向けさせたり、厳しく言ってきかせたり、身振りで脅したり、ベッドを叩いたりして……、そういうことでは効き目がない場合には――もちろんそれほど強いことはできないにしても、赤ん坊が泣くのをやめるかもしくは眠り込むまで繰り返し、休むことなく、身体に感ずる形で警告を発し続けるのがよい……」(アリス・ミラー著『魂の殺人』より引用)


これはどう見ても幼児虐待の勧めです。フロイトの時代に神経症患者の研究が進んだのにはこうした背景があったからかもしれません。
ともかく、赤ん坊に「わがまま」があるという考えは「子ども性悪説」そのものです。

なお、中世には「教育」というのは金持ちが家庭教師を雇ってすることで、庶民には無縁のことでした。
「子ども」という概念もなく、子どもは「小さなおとな」と見なされていたとされます。
近代になって庶民も教育やしつけをするようになって、ロックやカントの教育論が出てきたのです。

日本でも江戸時代にしつけをしていたのは武士階級だけです。
幕末から明治の初めに欧米から日本にきた人たちはみな、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、明治政府は富国強兵のために欧米式のしつけを日本に広めました(たとえば国定教科書に乃木希典大将の幼年時代のエピソードを掲載したことなどです。詳しくはこちら)。

西洋式のしつけは、子どもを動物のように調教するというもので、体罰を使うのは当たり前です。
もっとも、日本では子どもを動物と見なすような考え方はないので、しつけをする親はつねに葛藤していたと思われます。

このような時代の流れによって、「しつけのためにやった」と言う幼児虐待の加害者が出現するようになったのです。


しかし、「科学」がこうした子育てのあり方を変えました。
その具体的な始まりは1946年出版のベンジャミン・スポック著『スポック博士の育児書』だったでしょう。この本は世界的ベストセラーになって、1997年版の「編集後記」によると、39か国に翻訳され、世界で4000万部発行されたということです。聖書の次に売れた本という説もあります。

この本の基本的な姿勢を示す部分を引用します。

過去五十年のあいだ、教育者、精神分析学者、小児精神科医、児童心理学者、小児科医などが、いろいろとこどもの心理について研究してきました。その結果が、新聞や雑誌に発表されるたびに、世の親たちは熱心にそれを読んだものです。こうして私たちは、だんだんにいろいろなことを学んできました。

たとえば、こどもは、親の愛情を、なによりも必要とするということ、また、けっこう自分から、大人のように責任をもって、ものごとをしようと努力するものだということ、よく問題をおこす子は、罰が足りないのではなくて、愛情が足りないのが原因だということ、また、年齢に応じた教材を、理解のある先生に教えられさえすれば、すすんで勉強するものだということ、自分の兄弟姉妹に対して、多少やきもちをやいたり、たまには親に腹をたてたりするのも、ごく自然な感情であって、これをいちいちとがめだてする必要はどこにもないということ、生命の真実を知ろうと、こどもなりに興味を持ち、性への関心が出てくるのは、ごく自然なことだということ、闘争心とか、性への興味を、あまり強くおさえつけると、こどもをノイローゼにしてしまうこともあるということ、親がしらずしらずにやっていることも、こどもにとっては、親がそうしようと思ってやっていることとおなじように大きい影響を与えるものだということ、こどもは、めいめい独立した人間だから、そのように扱ってやらなければならないということ、などです。

こういった考え方は、今でこそ、もうあたり前のことになっていますが、発表された当時は、驚くべきことだったのです。というのは、それまで何百年ものあいだ、みんなが考えていたこととは、まるで正反対だったからで、そのために、こどもの本性はどういうものか、とかこどもにはどんなことをしてやらなければならないか、ということで、頭の切りかえができず、とまどってしまった親もたくさんありました。

これは「子ども性悪説」の否定であり、子どもをおとなと同じ人間と見ています。
日本では小児科医で児童心理学者の平井信義(1919年―2006年)が「しつけ無用論」と「叱らない教育」を提唱し、中でも『「心の基地」はおかあさん』という本は140万部のベストセラーになりました。

このような科学的な子育て論によって大きく変わったのが「抱きぐせ」についての考え方です。
昔は、赤ん坊が泣いたからといってすぐ抱きあげると抱きぐせがつくのでよくないとされていました(もっと昔は親子は川の字で寝て、母親や上の子がずっと赤ん坊をおぶっていたので、そんな考え方はありませんでした)。
赤ん坊の要求にすぐ応えると、赤ん坊はどんどん要求をエスカレートさせると考えられていたのです。赤ん坊を敵対的な交渉相手と見なして、駆け引きをしているようなものです。
騒ぐ子どもを静かにさせろというおとなも、そうしないと子どもはどんどんわがままになると考えているのでしょう。実際は、子どもが騒ぐのは今だけで、少し成長すれば騒がなくなります。
今は百八十度考え方が変わって、赤ん坊が泣けばすぐ抱くのがよいとされます。そうすることで赤ん坊は「基本的信頼感」を身につけることができるというのです。基本的信頼感があると、赤ん坊はよく探索行動をし、好奇心を発揮して、次第に親から自立していきます。
基本的信頼感がないと、赤ん坊はいつまでも親に依存し、自立が遅れることになります。

基本的信頼感のもとには、幸せホルモンとも呼ばれるオキシトシンの分泌があります。赤ん坊は授乳のときや母親と見つめ合うときや触れ合うときにオキシトシンの分泌が盛んになります。
こうしたことから、泣くとすぐ抱くと抱きぐせがつくのでよくないという説は“科学的”に否定されたといえます。
今ではこの“抱きぐせ”説を言うのは、子育てに口出しする祖父母の世代くらいではないでしょうか。


科学的に否定されたといえば、体罰肯定論もそうです。
厚生労働省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っていて、そこにおいて「厳しい体罰により、前頭前野(社会生活に極めて重要な脳部位)の容積が19.1%減少」「言葉の暴力により、聴覚野(声や音を知覚する脳部位)が変形」といった科学的研究を示し、「体罰・暴言は子どもの脳の発達に深刻な影響を及ぼします」と明言しています。
これによって少なくとも社会の表面から体罰肯定論はなくなりました。

ここでは体罰とともに暴言も挙がっていますから、当然子どもをきびしく叱ることも脳にダメージを与えます。
「叱らない教育」への転換が求められます。


しつけ、体罰、叱責は子育てから排除されなければなりません。
そうすると家族のあり方も変わります。
保守派は家父長制、つまり父親が威厳をもって家族を支配するという家族を理想としていますが、父親の威厳はしつけ、体罰、叱責と不可分です。
父親が妻や子どもと対等の人間になれば保守思想は崩壊するといっても過言ではありません。


なお、「子どもを愛すること」と「子どもを甘やかすこと」の違いとか、子どもが悪いことをしたときに叱らなくていいのかといった疑問については「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。


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レストラン「サイゼリヤ」で、子連れ客が店員から「子どもが騒いだら退店となります」と言われたということがXで話題となりました。

『サイゼリヤ店員、子どもグズって「騒いだら退店」と警告 広がる波紋に本社広報「個別案件、回答差し控える」』という記事が報じました。そこから一部を引用します。


 11月29日、J-CASTニュースの取材に応じた投稿者によると、東京都内のサイゼリヤで起きた出来事だ。Xに投稿して波紋が広がったのは隣の家族のエピソードだったが、この日の投稿者の家族も入店時に「騒いだら退店になります」と伝えられていた。子どもは未就学児2人で「子どもですので声は大人よりは大きかったかもしれませんが、騒いではおりませんでした」。店内は家族連れ、サラリーマンなどで満席だったとし、「わりと騒がしい状態」だったという。


 案内された席の隣で、2歳程の子どもを連れた3人家族が既に食事をしていた。20分程隣にいたが、子どもは椅子に座って食事をしており、走り回ったりはしていなかったという。にもかかわらず、隣の家族は「騒いだら退店となります」と注意された。当時の様子を次のように振り返った。


「子どもが途中でグズりだして泣いてしまったのですが、すぐにお母さまが抱き上げてあやしていたところ、(投稿者家族の)入店時に対応した店員が来て、『騒いだら退店になります』と伝えていました(即退店しろ、ではなく警告だと思います)。言われたお母様は本当に申し訳なさそうに何度も謝っていました」

J-CASTニュースがサイゼリヤ広報に本部の方針について問い合わせたところ、「個別の案件についての回答は差し控えさせて頂いております」と回答があったということです。
まるで政治家の回答です。


ファミリーレストランは、その名の通り家族連れでくるのが当たり前です。子どもの声が耐えられないという人はファミリーレストランにこないことです。

サイゼリヤには子ども用の椅子が用意されていて、とくに小さな子ども用にはテーブルにはめ込んで使うタイプのものもあります。
子どもがくるのを前提としながら、子どもが騒げば出ていけというのは矛盾しています。子どもは騒ぐのが当たり前で、想定内のはずです。

実際のところは、おとなもけっこう騒いでいるはずです。おとなが騒ぐのは許されて、子どもが騒ぐのは許されないというのはダブルスタンダードです。

投稿者は店員に「泣いただけで退店なのは本部の方針なのか?」と聞くと、店員は「そうです。他のお客様もいるので、その方たちを優先します」と言ったそうです。
これはこの店員だけの考えで、サイゼリヤの方針ではないでしょうが、今の日本の問題を端的に表現しています。
つまりおとなを優先して、子どもを隅に追いやっているのです。
こども家庭庁は「こどもまんなか社会」をスローガンにしているのですから、サイゼリヤのようなことがあれば、子ども家庭庁長官あたりが注意のコメントを出すべきでしょう。



飲食店が客を排除するということはマクドナルドでもありました。

相模原市内のマクドナルドの店舗が1月ごろ、近隣の中学校を名指しして、そこの生徒を「出入り禁止」にするという張り紙を出しました。その画像がツイッター(現X)で7月ごろに拡散して話題になり、朝日新聞も記事にしました。
中学生が店内で騒いで、店員が身の危険を感じるということもあったようで、中学校の職員が呼ばれたり、交番の警察官が対応したりした挙句の張り紙でした。
しかし、新聞に書かれるほどの騒ぎになると、さすがに張り紙はやめただろうと思っていたら、12月19日の『地元中学生を「出禁」にしたマックの今、1年後も"警告"続く…生徒の迷惑行為で警察沙汰、学校「他の飲食店からも通報あった」』という記事に、まだ張り紙が出ていると書かれていました。

もっとも、その張り紙には、中学校を名指しすることはなく、「出入り禁止」という言葉もなく、「他のお客様へご迷惑となる行為が見られました際は、従業員の判断により、警察へ通報する場合があります」と書かれているだけなので、比較的穏当なものです。

ただ、この記事には5000余りという異例に多いヤフーコメントが寄せられていて、人々の関心の高さがうかがえます。
そして、多くの人は問題がまったく理解できていません。

ヤフコメの筆頭には「エキスパート」として流通ジャーナリストの「客は多くの店から気に入ったり、必要に応じて店を選ぶことができる。店も客を選ぶ権利があり、好ましくない客を出禁にする権利がある」という意見が掲載されています。

これはその通りですが、マクドナルドの最初の張り紙はそれとは違います。特定の中学校を名指しで、その中学校の生徒全員を「出禁」にするとしていたのです。
店内で迷惑行為をした客を「出禁」にするのはありですが、ある中学の何人かの生徒が迷惑行為をしただけで、その中学の生徒全員を「出禁」にするのは、なんの罪もない多くの生徒の権利を侵害しています。
これは、マナーの悪い中国人客がいるからといって「中国人出入り禁止」の張り紙をするのと同じで、差別になります。国籍や所属中学という「属性」を理由に人間を不当に扱っているからです。

もっとも、この中学はかなり問題があるのかもしれません。マクドナルド以外の飲食店から2回ほど「生徒のマナーが悪くて困っている」という連絡があったそうです。
全国にマクドナルドの店舗は数多くあるといえども、特定の中学校の生徒を出禁にしているのはここだけではないでしょうか。
どんな教育をしている中学なのか気になります。


しかし、ヤフコメでいちばん人気のコメントは、教師がきびしく指導すると体罰といわれ、家族がきびしく叱ったら虐待といわれるので、誰もきびしい指導をしないからこんなことになるのだという意見です。
これが世の中の平均的な意見かもしれません。
しかし、私の意見はまったく逆です。学校や家庭できびしく指導されるので、学校でも家庭でもないマクドナルドではじけてしまうのです。

これは家庭のしつけの問題だから、学校に問題を持ち込むのはよくないという意見もあります。しかし、もし家庭の問題なら、全国のマクドナルドの店舗で同じような問題が起こっているはずです。

問題があるとすれば、やはりこの中学校でしょう。生徒は学校内であまりにもきびしく指導されているので、学校を出たとたんハメを外してしまうのです。

この中学がどんな教育をしているのかわかりませんが、生徒をたいせつに思う気持ちはあまりなさそうです。
取材に応じた副校長は「出禁にするのを決めるのはお店です。私たちがやめてと言える立場ではありません」と語っています。
本来なら「本校生徒に対する不当な扱いは即刻やめていただきたい」と言うべきところです。

なお、日本マクドナルド社は「学校との個別の案件となりますので回答は控えさせていただきます」とコメントしたということで、こちらも政治家答弁です。

ファミレスやファストフード店は子どもや中学生にとって居心地のいいところです。
子どもや中学生を排除する店があったら、親などが強く反発すると思いましたが、意外なことに、サイゼリヤもマクドナルドも謝罪もなにもせず、ほとんど同じ方針を続けています。
公園や電車内で子どもが騒ぐと問題になってきましたが、それがファミレスやファストフード店にまで広がってきたようです。


政府は12月22日に「こども大綱」を閣議決定し、年間5.3兆円の予算を投じて、
▼子どもの貧困対策
▼障害児などへの支援
▼学校での体罰と不適切な指導の防止
▼児童虐待や自殺を防ぐ取り組みの強化
などを進めるということです。
けっこうなことですが、具体的にどう進めるのか今のところよくわかりません。
そういう懸念に応えるためか、具体的な目標を設置しています。その目標のひとつに、今後5年程度で「子育てなどに温かい社会の実現に向かっていると思う人の割合を、今の28%から70%に上昇させる」というのがあります。

今は「子育てなどに温かい社会の実現に向かっていると思う人」が28%しかいないわけです。
それを70%に引き上げるというのは大胆な目標ですが、サイゼリヤやマクドナルドの店舗の例を見ても、むしろ逆行しているように思えます。
子どもの貧困対策をやっても、子どもに対する社会の目がきびしいのでは、子どもの幸福度も上がりません。


では、どうすればいいかというと、私はこれまで「子どもの人権」ということを強調してきました。
子どもの人権に対する配慮があれば、店から子どもを追い出すようなことはできないので、それである程度解決するはずです。
しかし、「人権」という言葉にはなじめない人もいます。

そこで、「子どもの発達」ということを強調したほうがいいのではないかと思い直しました。
子どもの発達に対する科学的研究がどんどん進んできたからです。

たとえば、昔は赤ん坊が泣くと、すぐ抱きあげるのは“抱きぐせ”がつくのでよくないとされていました。しかし、今はすぐ抱くのがよいとされています。“抱きぐせ”がつくことはなく、「基本的信頼感」が養えるとされるのです。
「基本的信頼感」というのは、自分に対する信頼と世界に対する信頼で、これは赤ん坊が親に受け入れられることで養われるとされます。

「叱るのがよいか、ほめるのがよいか」というのも昔から議論のあるところでしたが、今はほめるほうがパフォーマンスがよいと結論が出ています。スポーツの世界では「ほめて育てる」が主流になっています(選手を叱っている指導者は時代遅れです)。
当然子育てでもほめたほうがよいわけです。ただ、子育て本を見ると、ほめることを勧めつつも、「悪いことをしたときなど、ときに叱ることも必要です」と書かれていることがよくあります。これは古い考えに妥協した態度です。
私が思うに、子どもが悪いことをしたときは「それは悪いことだ」と教えればよく、叱る必要はありません。

子どもが動き回ったり、大声を出したりするのは、それが発達に必要なことだからです。
さまざまな動きをすることで筋肉と運動神経がまんべんなく鍛えられます。
子どもはしばしばマックスと思える大声を出すので、周りのおとなの顰蹙を買いますが、これは当然、声を出す能力を鍛えているのです。大声を出すのを禁じると、声を出す能力が発達せず、助けを求めるために大声を出さなければならないときに大声が出せないということにもなりかねません。もしかすると、歌をうたう才能を殺しているということもありえます。
中学生がバカなことや危ないことをするのも、経験値を上げるという意味があり、のちの人生に役立ちます。
おとなの価値観で子どもの行為をむりに抑えると、正常な発達がゆがめられます。
それに、おとなになれば自然とおとなしくなります。これは子犬や子猫を育てた人ならわかるでしょう。


泣いた赤ん坊をすぐに抱くと抱きぐせがついてよくないとされたのは、赤ん坊は基本的にわがままで、赤ん坊の要求に応えるとどんどん要求をエスカレートさせると考えられたからです。
つまり赤ん坊が泣いてもすぐに抱かないのは、赤ん坊に対する“しつけ”だったのです。
しかし、そんなしつけは無用でした。
ということは、子どもに対するしつけも無用ということになるはずです。


「きびしく育てるか、のびのび育てるか」というのも昔から議論されてきましたが、今は「のびのび育てる」に軍配が上がっています。
子どもの成長する力を信頼していれば、子どもが騒いでも温かく見守れます。

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食事におけるマナーはたいせつです。
スープを音を立ててすすったり、ナイフやフォークを必要以上にカチャカチャさせたりするのは、周りの人を不快にさせます。

では、箸の持ち方がおかしいというのはどうでしょうか。
音を立てたり唾を飛ばしたりするのと違って、どんな箸の持ち方をしても人の迷惑になることはありません。
箸の持ち方がおかしいと食べにくいということはあるでしょうが、それは本人の問題です。

ところが、世の中には「お箸の持ち方がおかしい」と言ってクレームをつける人がかなりいます。


不登校のYouTuber、“少年革命家ゆたぼん”の父親が、ゆたぼんがお寿司を食べる写真をツイートしたところ、「お箸の持ち方がおかしい」というクレームが殺到したそうです。

ゆたぽん
ゆたぽん2
中村幸也@ゆたぼんのパパ」のツイートより



ゆたぼんさんが批判されているのを見て、ダルビッシュ有選手が「ゆたぼんさんのお箸の持ち方どうこうってあんなん俺からしたら上手く持ててるからな」とツイートして、自分の箸の持ち方の動画を投稿しました。

ダルビッシュ有
https://twitter.com/faridyu/status/1224426899981520896

ダルビッシュ選手は前に箸の持ち方でバッシングされたことがあり、それ以来、この問題にはこだわりがあるようです。ツイッターのプロフィールには「箸が箸であればどんな使われ方をされても愛せ。そして箸を使う人すべてを愛せ」という言葉を書いています。


私が思うに、「機能的で、見た目にも美しい箸の持ち方」というのはあるでしょうし、それを目指すのはいいことです。しかし、我流の持ち方をしたからといって非難される筋合いはありません。
ダルビッシュ選手も、「鉛筆の持ち方が変だからといって叩かれないし、歩き方や走り方が変だからといって叩かれない。なぜお箸の持ち方だけ叩かれるのか」という主旨の主張をしています。

問題は、へんな箸の持ち方をする人にあるのではなく、箸の持ち方が悪いと非難する人のほうにあります。
それは、「発言小町」に投稿された次の悩みを読めばわかるはずです。

箸の持ち方を直してほしい
こぶた  2013年7月31日 21:46
33歳会社員です。
お付き合いしている彼に箸の持ち方を直してほしいのですが
何と言うのがよいでしょうか。
付き合い始めくらいに、直してほしいと一度言ったことがあります。
彼は自分でもおかしな持ち方をしているのは自覚していて、
「上司と一緒の時やきちんとした席では直しているから大丈夫」みたいな言い訳をされました。それ以来は気なりつつ口に出していません。
その前にお付き合いした彼もきちんと箸を持てない人で指摘をすると、誰にも迷惑をかけていないし、誰がそんなルールを決めたんだ?という風に逆切れ気味に言い返されたこともあり、直してほしいけど何と言えば気持ちよく直してくれるのか悩んでいます。
私としては、マナーとして当然と思っており、できないことは恥ずかしく思います。また、それをどうでもいいと思っている人は根本的な所で価値観が合わないかもとすら思います。
皆さんなら、パートナーの箸の持ち方がおかしい時はどうしますか?
https://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/0731/608705.htm

この悩み相談に対して、「別れればよい」という回答が多数です。
こうした回答は無責任です。

稼ぎのない男、暴力をふるう男、自分勝手な男、浮気をする男などとは別れたほうが賢明です。
しかし、「箸の持ち方が悪い男」と別れるのは愚かです。そんなことは欠点のうちに入りません。男選びの基準が間違っています。
箸の持ち方を異常に気にするこの女性に問題があるのは明らかです。

ゆたぼんさんやダルビッシュ選手の箸の持ち方をたたく人は、この女性と同じ精神構造と思われます。

どうしてこのような精神構造になってしまったのか、それもこの女性の次の書き込みから推測できます。

こぶた  2013年8月7日 21:30
私が持ち方を直してほしいと彼に言おうと思ったきっかけは、
お正月には両親に彼を紹介しようと思ったからです。
(遠方で年に一度しか帰省しません。)
私の価値観ができあがったように、当然両親は箸の持ち方を見る人です。
口には出さないでしょうか、内心よく思わないでしょう。
その前に直してほしかったのです。
https://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/0731/608705.htm?o=2&g=04&rj=1

基本的に子どもの箸の持ち方は親がしつけます。子どもは当然、箸がうまく使えません。そのときに強引なしつけ方をすると、それが子どものトラウマになります。この女性とか、ゆたぼんやダルビッシュ選手をたたいている人たちは、そうしたトラウマがあるのでしょう。

幼児虐待で逮捕された親はたいてい「しつけのためにやった」と言います。
こういう親は決して特別ではなくて、虐待の程度の軽い親はいっぱいいて、軽いトラウマを受けた子どももいっぱいいて、そうした子どもがおとなになると、ゆたぼんさんやダルビッシュ選手の箸の持ち方をたたくようになります。
こういう人は、自分のしつけのされ方を振り返るといいと思います。

食事のマナーはたいせつです。
箸の持ち方のような細かいことにこだわらず、楽しく食事することが最大のマナーです。

                klee-3845465_1920
                           creisiによるPixabayからの画像             
                                                                              

幼児虐待についての悲惨なニュースが続いています。
幼児虐待をなくしたいと思わない人はいないはずです。
しかし、どうすればいいかを考えようとしても、ほとんどの人はそこで思考停止に陥ってしまいます。
「灯台もと暗し」と言いますが、幼児虐待は自分自身の足元の問題だからです。

考えるには手がかりが必要です。
虐待のある家庭と虐待のない家庭を比較するのがひとつの手です。
虐待のない家庭というのは、要するに普通の家庭です。
そこらにあるのが普通の家庭ですから、たまたま目についた数日前の朝日新聞の投書を、一部省略して紹介します。


(ひととき)わが家の小さな花束
 若い頃の私は、庭仕事には全く関心がなく、草取りが最も嫌いな家事だった。
(中略)
 そんな私を変えたのは、幼い娘だった。ある夜、娘は「明日、保育園にお花を持っていく」と言った。突然のことに「でも家にはお花なんてないよ」と言うと娘は泣き出した。困った私は娘をつれて外に出た。近所の空き地に白いクローバーの花が咲いていた。娘は数本摘んで、小さな花束を作って言った。「これでいい」。娘がとてもいじらしく、小さな庭があるのに何もしなかった自分を恥じた。「ごめんね。そのうち花束を作ってあげる」
 心を入れ替えた私は、雑草を取り、土を耕し、花の苗を植え世話をした。失敗も多かったが、念ずれば通ずるなのか、何とか花が咲いた。バラや宿根草が根付き、庭らしくなった。娘は小中高校時代、毎年1回は花束を抱え、うれしそうに登校した。花束を作るたびにあの夜の罪ほろぼしをしているような気持ちになった。これで少しは許してもらえるかな。
 今は、孫たちに花束を作っている。喜んで持っていく姿を見るのはうれしい。
 (千葉県柏市 主婦 65歳)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14050538.html?rm=150


いい話です。愛情が感じられます。
ただ、この話だけだと、なんの教訓も得られません。
そこで、虐待のある家庭だとどうなるかを想像してみます。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言い、「家にはお花なんてないよ」と言うと、娘は泣き出しました。夜なので花を買いにいくこともできません。ここで、「わがままを言ってはいけません」と叱る母親も多いのではないでしょうか。叱られた娘はますます泣いて、母親もますます叱ってと、負のスパイラルに入ると、虐待が生じてしまいます。

しかし、この母親は娘といっょに家を出ます。「どこにも花はない」と言葉で説得しても娘は納得しないので、いっしょに花を探して、ないことがわかれば納得してくれると思ったのでしょう。
ここがこの母親の偉いところです。言葉で説得するのはおとなの論理です。

娘はクローバーの花を見つけ、「これでいい」と言います。小さい花ですが、ほかにないことがわかったので、それで自分を納得させたのでしょう。子どもでも現実と向き合えば、最善の判断ができるということです。
母親は、娘が小さな花でがまんしたことがわかり、いじらしく思い、庭仕事をしなかった自分のせいだとも思い、それから庭仕事に精を出します。

ここでもほかの母親なら、「そんな小さな花はやめなさい」とか「そんなのを持っていったらお母さんが恥をかくからだめ」とか「昼間自分で摘んだらいいじゃない」とかと、おとなの論理を振り回して、娘とバトルを演じたかもしれません。


この母親は娘の気持ちに寄り添っているので、虐待などは起こりようがありません。
しかし、このように娘の気持ちに寄り添えたのは、母親に気持ちの余裕があったからです。
たとえば家計が苦しくて、借金のことで頭がいっぱいだったとすれば、いくら娘が泣いても、母親は家を出て花を探しにいこうという気にはならず、娘を叱ることで対応していたでしょう。
虐待の起こる家庭というのは、たいてい貧困層で、夫が無職というケースが多いことを見てわかります。

しかし、母親に気持ちの余裕がなくても、夫や親族や近所の人などのささえる人がいれば、やはり虐待は起こらないでしょう。

ですから、生活の余裕と周りのささえが虐待防止にはたいせつなことですが、これは今さら言うまでもないことかもしれません。
あと、もうひとつ、誰も言わない重要なことがあります。
それは「道徳」を持ち込まないということです。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言ったとき、それを「わがまま」ととらえる親がいます。
そして、娘が泣き出すと、「わがまま」がさらにエスカレートしたと見なし、こうしたことを放置すると限りなくわがままになると考えて、叱ってわがままを言わさないようにします。
こうしたやり方が虐待の第一歩です。

子どもがかたづけをしない、食べ物をこぼす、言いつけを守らないなどのことを「わがまま」や「悪」と見なし、しつけをして矯正しなければならないというのが虐待親の認識です。
ですから、事件を起こして逮捕された親は決まって「しつけたのためにやった」と言います。

今の世の中は、親が子どもをしつけるのはよいこととされているので、逮捕された親が「しつけのためにやった」と言うと、誰も反論できません。

道徳は言葉でできています。おとなは言葉を自由にあやつれますが、子どもは言葉が十分に使えません。そのため、道徳はおとなに有利にできています。その道徳に従ってしつけをすると、むしろ親がわがままになり、どうしても虐待につながっていくのです。

愛情のある親は直感的にそのことがわかっているので、子どもにしつけをするにしても、ほどほどにするので、虐待には至りません。

道徳やしつけを根本的に見直すことが幼児虐待防止にはなによりたいせつです。


昔、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」という番組に「良い子・悪い子・普通の子」というコーナーがありました。
娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言って泣いたときの母親の対応をそれにならって言うと、

「悪い母親」は、娘を叱る。
「普通の母親」は、娘の前でおろおろする。
「良い母親」は、娘といっしょに花を探しに出かける。

ということになります。

娘といっしょに花を探しに出かけたら、いろんなたいせつなものを見つけたというお話です。

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