
アメリカ大統領選挙であらわになったのは、保守対リベラルの対立の深刻さです。
この対立は欧州でも日本でも深刻化しつつあります。
今はインターネット上で両者が議論する機会がいくらでもありますが、議論すればするほど感情的な対立が深まります。
世の中はどんどん進歩しているのに、政治の世界はなぜ進歩しないのでしょうか。
フランス革命当時の議会で、議長席から見て右側に王党派や保守派が、左側に共和派や改革派が位置したことから、右翼と左翼という言葉ができました。
つまり保守派が右翼で、改革派が左翼です。これは時代が変わっても一貫しています。
社会主義運動が盛んになったときは、左翼といえば社会主義勢力でした。
最近は社会主義運動が退潮したので、社会改革の方向性は格差解消と差別解消になりました。ですから、左翼といえば人権派と福祉派です。
ただ、左翼という言葉には社会主義のイメージが結びついているので、最近はリベラルということが多くなっています。
保守派と改革派の思想はフランス革命以前からあり、代表的なものがトマス・ホッブスとジャン=ジャック・ルソーの思想です。
ホッブスは『リヴァイアサン』において、自然状態の人間は「万人の万人に対する闘争」をするので、国家権力が人間を支配しなければならないと主張しました。つまり人間性は悪なので、国家権力によって悪を抑制しなければならないという説です。
ルソーは『人間不平等起源論』において、自然状態の人間は平等で平和に暮らしていたが、文明化するとともに不平等や支配が生じたと主張しました。つまり人間性は善で、文明が悪だという説です。
ただ、文明すべてが悪なのではなく、人が人を支配するやり方が悪、つまり権力が悪だということです。
社会改革思想は基本的にルソーの思想と同じ構造になっています。
マルクス主義では、自然状態は原始共産制で人々は平等に暮らしていたが、歴史が“進化”すると奴隷制や封建制という悪が生じたとされます。
フェミニズムでは、自然状態の生物学的性差であるセックスは差別的ではないが、社会的性差であるジェンダーは差別的であるとされます。
単純化していうと、ルソーの思想、マルクス主義、フェミニズムは「人間性は善、権力は悪」というもので、ホッブスの思想は「人間性は悪、権力は善」というものです。
これを政治的な文脈でいうと、リベラルは「統治する側が悪いから世の中が悪くなる」と考え、保守は「統治される側が悪いから世の中が悪くなる」と考えます。
ですから、リベラルは国家権力や大企業や富裕層を攻撃し、保守はマイノリティや貧困層を攻撃します。
リベラルは、貧しい人がいるのは社会制度が悪いからだと考え、保守は、貧しい人がいるのはその人間が怠けているからだと考えます。
リベラルは、子どもが勉強しないのは学校や教師に問題があるからだと考え、保守は、子どもが勉強しないのは子どもが怠けているからだと考えます。
保守の犯罪対策はひたすら警察力を強化して取り締まることですが、リベラルは犯罪者の更生を考えます。
アメリカの独立宣言では「普遍的人権」がうたわれましたが、実際は人権があるのは白人成年男性だけで、先住民、黒人、女子どもに人権はありませんでした。
そのためアメリカの白人成年男性の多くは今も統治者意識を持っていて、この人たちがアメリカの保守の中心になります。
しかし、格差が拡大する中で貧しい者たちは不満を募らせました。いわゆるラストベルトの白人などです。
彼らは富裕層に怒りを向けてもよさそうなものですが、統治者意識からそれができず、統治される側に怒りを向けました。その代表的な対象が不法移民です。
移民は一般的に弱者ですから、移民を攻撃すると弱い者いじめになりますが、「不法」がついていると遠慮なく攻撃できます。
トランプ氏がいちばん力を入れて訴えているのも不法移民問題です。
ヨーロッパで台頭する右翼政党も移民問題をもっとも強く訴えています。
移民は前からいたのに、なぜ今これほど問題になるのか不思議です。
私が想像するに、最近グローバルサウスが力をつけてきて、ヨーロッパの白人の優越感が揺らぎ、その危機意識が移民への怒りとなっているのではないでしょうか。
アメリカの白人の怒りも、白人が少数派になりそうだという危機感と関係しています。
日本の保守も欧米の真似をして、最近はもっぱら不法滞在外国人と生活保護不正受給者を攻撃しています。
保守思想の源流となったホッブスの思想ですが、今では間違いであることがはっきりしています。
人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」ではないからです。
原始時代と変わらない生活をしている未開社会を調査すると、みんな仲良く暮らしています。狩猟も採集も共同作業です。病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも、狩猟の成果は分配されます。食べ物がないと生きていけないので、これは最低限の福祉、つまり生活保護みたいなものです。
また、子どもの数が多い者にはそれに応じて分配の量も増えます。つまり未開社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産制です。
病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも狩猟の成果を分配するのは、いずれ自分が病気やケガをしたときにも分配してもらえるからですし、子どもの数の多い者に多く分配するのも、いずれ自分がたくさんの子持ちになったときに分配してもらえるからです。これは互恵的利他行動といい、人間に限らず社会性動物にはよく見られるものです。
ただし、こうした助け合いがあるのは、多くて150人程度の共同体で暮らしていたからです。親しい人間の間では互恵的利他行動が有効です。
農耕が始まり、集団が大きくなり、交易の範囲が広がると、親しくない人間とつき合うようになります。親しくない人間とつき合うのは経済的動機によるものなので、利己心がぶつかり合い、争うことが増えます。
争うと勝者と敗者が生まれ、強者が弱者を支配するようになり、階級社会や格差社会が生まれたのです。
ホッブスの思想は明らかに誤りです。
進化論からしても「万人の万人に対する闘争」をするような動物は絶滅するはずです。
文明が発達するとともに格差や支配が生じたというルソーの思想、マルクス主義、フェミニズムのほうに分があります。
強者が弱者を支配するのも自然なことではないかという意見があるかもしれませんが、今の格差は自然とかけ離れています。ほんの少し頭がいいだけで人の何倍もの収入を得ることができますし、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で示したように、資産家は労働者以上に金持ちになっていくので、格差は限りなく拡大していきます。
今後の社会は、格差を解消する方向に進むべきですし、それと同時に、利己心で競争する社会から、互いに利他心でつきあえる、共同体に近い社会へと舵を切ることも重要です。
【追記】
ここに書いたことは私の思想の一部分です。詳しくは次のブログで。
「道徳観のコペルニクス的転回」
