村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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岸田首相の選挙演説会場で爆発物を投げて逮捕された木村隆二容疑者(24歳)は、昨年7月の参院選に年齢制限と供託金300万円のために立候補できなかったのは憲法違反だとして国を提訴していました。
裁判は代理人弁護士を立てない「本人訴訟」です。

昨年6月に国に10万円の損害賠償を求めて神戸地裁に提訴、11月に請求が棄却されました。木村容疑者は大阪高裁に控訴し、3月23日に口頭弁論が行われましたが、木村容疑者のツイッターによると「本日の口頭弁論では審議不足を指摘した控訴人に対し、審議を拒否し。いきなりの結審でした。大阪高裁の無法振りが露呈しました」ということです。
木村容疑者はこのようにツイッターで裁判の経緯を報告するとともに自分の主張も発信していました。23件のツイートをしていましたが、その時点でフォロワーは0人だったようです。
いきなり結審したことで敗訴を覚悟し、ツイッターでの発信もうまくいかず、そのためテロに走ったと想像されます。

木村容疑者は安倍元首相暗殺の山上徹也被告との類似が指摘されますが、私が似ているなと思ったのは、Colabo問題に火をつけたツイッター名「暇空茜」氏です。
暇空氏はColaboについての東京都への情報開示請求や住民監査請求を全部一人で行い、ツイッターでその結果を発信していました。暇空氏の主張はほとんどでたらめでしたが、Colaboの会計にも多少の不備があったということで、アンチフェミニズムの波に乗って暇空氏の主張が拡散しました。

木村容疑者も暇空氏も一人で国や東京都と戦い、ツイッターで発信したのは同じですが、結果はまったく違いました。
もちろん二人の主張もまったく違います。
木村容疑者の主張は基本的に選挙制度を改革しようとするものです。
一方、暇空氏は、家庭で虐待されて家出した少女を救う活動をしているColaboを攻撃しました。Colaboの活動が制限されると、家出した少女が自殺したり犯罪の犠牲になったりするので、暇空氏の活動は悪質です。


木村容疑者の選挙制度批判はきわめてまっとうです。
国政選挙は供託金300万円(比例区は600万円)が必要です。
これは貧乏人を立候補させない制度です。
また、既成政党はある程度票数が読めるので、供託金没収ということはまずありませんが、新規参入する勢力は没収のリスクが高いので、新規参入を拒む制度ともいえます。

被選挙権の年齢制限も不合理です。
2016年に選挙権年齢が満20歳以上から満18歳以上に引き下げられましたが、被選挙権年齢は引き下げられませんでした。
なぜ被選挙権年齢をスライドして引き下げなかったのか不思議です。

そもそも参議院30歳以上、衆議院25歳以上という被選挙権年齢が問題です。これでは若者が同世代の代表を国政に送り込むことができません。
最初から若者排除の制度になっているのです。
18歳の若者が立候補して、校則問題や大学入試制度や就活ルールについてなにか訴えたら、おとなにとっても参考になりますし、同世代の若者も選挙に関心を持つでしょう。

木村容疑者の主張は、憲法44条に「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」とあるので、供託金300万円は「財産」で差別していることになり、憲法違反だというものです。
被選挙権年齢についても、成人に被選挙権がないのは憲法違反だというものです。
木村容疑者は自身のツイッターのプロフィールに「普通の国民が政治家になれる民主主義国を目指します」と書いています。

まっとうな主張ですが、日本の裁判所はまっとうな主張が通るところではありません。議員定数不均衡違憲訴訟でも、「違憲判決」や「違憲状態判決」は出ても、事態はなにも改善されません。

「民主主義が機能していない国ではテロは許される」という論理はありえます。
日本では警察、検察がモリカケ桜、統一教会に手を出さず、裁判所は選挙制度の違憲状態を放置してきて、それらが選挙結果に影響を与えてきました。
民主主義を十分に機能させることがテロ防止策として有効です。


もっとも、日本は民主主義が十分に機能していないといっても独裁国というほどではなく、自分の望む政策が実現しないというだけでテロに走ることはありえません。
テロに走るには、もっと大きい、根本的な理由があります。
それは、自分のこれまでの人生が不幸で、挽回の見込みがないと本人が判断して、自暴自棄になることです。
木村容疑者も山上被告も「拡大自殺」みたいなものです。

山上被告は統一教会の宗教二世で、いわば崩壊家庭で育ちました。
木村容疑者の家庭環境はどうだったのでしょうか。

現時点での報道によると、木村容疑者は母親とひとつ上の兄と三人暮らしで、父親は五、六年前から別居しているそうです。

週刊現代の『「父親は株にハマっていた」「庭は雑草で荒れ果てていた」岸田首相襲撃犯・木村隆二容疑者の家族の内情』という記事から引用します。

この住民は、小さい頃の木村容疑者の様子もよく知っていた。容疑者自身はおとなしい子だったが、よく父親に怒られる姿を見かけたという。

「お父さんがよく母親や子どもたちを怒鳴りつけててね。夜中でも怒鳴り声が聞こえることがあって、外にまで聞こえるぐらい大きな声やったもんやから、近所でも話題になってましたね。ドン!という、なにかが落ちるものとか壊れる音を聞いたこともあった。家族は家の中では委縮していたんと違うかな。

お母さんはスラっとしたきれいな人。隆二君はお母さん似やな。たしか百貨店の化粧品売り場で働いていたはずで、外に出るときは化粧もしっかりしてたね。でも、どこかこわばった感じというか、お父さんにおびえてる感じがあったよね」

では、木村容疑者の父親はどういう人物なのでしょう。
『岸田首相襲撃の容疑者の実父が取材に明かした心中「子供のことかわいない親なんておれへん」』という父親のインタビュー記事から引用します。

──隆二さんの幼少期は、お父様がお弁当を作ってあげていたと。
「そんな日常茶飯事のことなんて、いちいち(覚えてない)。逆に尋ねるけど、2週間前に食べたもの覚えてる? 人間の記憶なんてそんなもんや、日常なんて記憶に残れへん」

──今の報道のままでは、お父さんは誤解されてしまう気がします。
「まあ、俺がいちばん(隆二容疑者のことを)思ってるなんていうつもりはないし、順番なんて関係ないと思うよ。お腹を痛めた母親がいちばん思ってるんちゃうか。

 好きな食べ物なんやったんなんて聞かれても、何が好きなん? なんて、聞いたことないから。聞く必要もないと思ってたから。『いらんかったらおいときや』言うてたから、僕は。いるだけ食べたらええねんで、いらんかったら食べんかったらええねんでって。残してても、『なんで食べへんねん』なんて言うたことない。だから、強制なんてしたことないよ」

──幼少期のころの隆二さんについてお聞きしたいです。
「子供のことかわいない親なんて、おれへんやん」

──小学校の時は優秀だったそうですね。
「何をもって優秀っていうか知らんけどやな。僕は比べたことないねん、隆二と他の子を。人と比べてどうのこうのって感性じゃないから。自分がそれでいいと思うんやったら、それでいいから」

 そう言って、父親は部屋に戻っていった。

父親は質問に対してつねにはぐらかして答えています。「子供のことかわいない親なんて、おれへんやん」というのも、一般論を言っていて、自分の木村容疑者に対する思いは言っていません。
家の外まで聞こえるぐらい大声でいつもどなっていたというので、完全なDVです。

木村容疑者はDVの家庭で虐待されて育って、“幸福な生活”というものを知らず、深刻なトラウマをかかえて生きているので、普通の人のように生きることに執着がありません。
ですから、こういう人は容易に自殺します。

中には政治に関心を持つ人もいます。その場合、親への憎しみが権力者に“投影”されます。
木村容疑者は岸田首相を批判し、安倍元首相の国葬も批判していました。
山上被告は、母親の信仰のことばかりが強調されますが、父親もDV男でした。父親への憎しみが安倍元首相に向かったのでしょう。

このように虐待されて育った人は、存在の根底に大きな不幸をかかえているので、もしテロをした場合は、それが大きな原因です。政治的な動機はむしろ表面的なもので、最後のトリガーというところです。

最後のトリガーをなくすためには、警察、検察、裁判所がまともになり、選挙制度を改革して、民主主義が機能する国にすることです。
これはテロ対策とは関係なくするべきことですが、テロ対策という名目があればやりやすくなるでしょう。

根本的な対策は、家庭で虐待されて育った人の心のケアを社会全体で行い、今現在家庭で虐待されている子どもを救済していくことです。
これはテロ防止だけでなく、宅間守による池田小事件や加藤智大による秋葉原通り魔事件などのような事件も防止できますし、社会全体の幸福量を増大させることにもなります。

もっとも、言うはやすしで、今は幼児虐待こそが社会の最大の病巣であるということがあまり認識されていません。
むしろ認識を阻む動きもあります。
家庭で虐待されていた少女を救済する活動をしているColaboへの攻撃などが一例です。

それから、木村容疑者の家庭環境などを報道するのはテロの正当化につながるのでやめるべきだという人がけっこういます。そういう人は、木村容疑者やテロ行為の非難に終始します。
犯罪を非難して犯罪がなくなるのなら、とっくに世の中から犯罪はなくなっています。
犯罪の動機や原因の解明こそがたいせつです。

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「そんなことしてるとお巡りさんに捕まるよ」などと親が子どもに言うことがよくあります。
子どもを脅すのはよくありませんし、日本人の“お上”意識もうかがえますが、警察は悪いやつをつかまえるものだという常識がありました。
しかし、最近はその常識が通用しないようです。


安倍晋三元首相銃撃事件は、明らかに警察の失態で、当然防がなければならない事件でした。
中村格警察庁長官が事件の責任をとって辞任しましたが、中村氏は安倍政権、菅政権のもとで出世して警察庁長官になった人で、自分を引き上げてくれた安倍元首相を守れなかったのですから皮肉なものです。
中村氏は民主党政権時代に仙谷由人官房長官の秘書官となり、政権交代ののちは菅義偉官房長官の秘書官となり、長く重用されました。現場経験が少ないために警備体制の不備に気づかなかったのではという声もあります。

中村氏といえば警視庁刑事部長時代に、伊藤詩織さんをレイプした容疑の山口敬之氏に逮捕状が発行されたとき、直前に逮捕を止めたことで有名です。山口氏は『総理』という安倍首相ヨイショ本を書き、連日のようにテレビ出演して安倍政権を擁護するコメントをしていました。そういう人間を逮捕しようとしたのですから、現場の捜査員もかなりの覚悟を持っていたと思われます。この逮捕を止めたことで中村氏は安倍首相に評価され、警察庁長官に出世したと見られています。
結果的に山口氏は民事訴訟において最高裁でレイプが認定されましたから、現場の捜査員の判断は正しかったわけで、逮捕を止めた中村氏の判断は責められるべきです。

上に媚びて部下の努力を踏みにじる人間が出世したことで、警察庁全体の士気が低下したということもあるはずです。

なお、安倍元首相が演説しているとき、背後の警備が手薄であったことが、銃撃を許した大きな原因でした。
札幌市で選挙応援演説中の安倍首相にヤジを飛ばした人を警官が取り囲み排除するという出来事があったように、警察は聴衆のヤジやプラカードを排除することに力を入れていて、その分背後の警備が手薄になったのではないでしょうか。

警察は、安倍首相のお友だちの山口氏を逮捕しなかっただけではありません。
モリカケ桜でも誰も逮捕しませんでした。
これは警察というより検察の領分がもしれませんが、たとえば森友問題で国有地の不当払い下げとか公文書改ざんとかで強制捜査して、誰かを逮捕していれば、安倍首相は辞任していたかもしれません。そうなれば、安倍氏の政界での立場もまったく変わっていて、山上徹也容疑者の銃撃の対象にはならなかった可能性があります。

警察は、統一教会についても、一時は霊感商法を取り締まっていましたが、あるときからぱったりと追及をやめました。もし警察が霊感商法からさらには高額献金問題まで手を広げて追及していれば、山上容疑者の家庭も崩壊することはなく、山上容疑者が誰かを殺そうなどと考えることもなかったでしょう。

つまり警察の失策、怠慢、政治家への忖度が積み重なった上に起きたのが安倍元首相銃撃事件です。
その中のひとつでも欠けていれば、安倍元首相の命が失われることはなかったはずです。


山上容疑者の銃撃事件をきっかけに世の中の論調が大きく変わりました。
それに、山上容疑者の境遇に同情する声が意外とあって、ネット上で「減刑」を求める署名運動が起きたり、映画の「ジョーカー」のように英雄視する声があったり、山上容疑者はイケメンだとしてファンになる“山上ガールズ”が出現しているというネット記事があったりしました。

こうした山上人気に対して有識者は「これではテロを肯定することになる。テロはいけないということを繰り返し言うべきだ」と主張しています。

「テロはいけない」というのは絶対的な真理のように主張されていますが、これは完全な思考停止です。状況によってはテロも正しくなります。
たとえば憲法が停止されたナチス独裁下のドイツで、ヒトラー暗殺の企てに対しても「テロはいけない」と言って止めなければならないのでしょうか。
あるいはよくあるアメリカ映画のストーリーで、主人公は町の有力者に商売を台無しにされ、家族をレイプされたり殺されたりするが、その有力者は保安官とつるんでいるので、我が物顔で町を歩き回っている。主人公は正義の怒りを爆発させて町の有力者と保安官を射殺する。観客は喝采を送るところですが、有識者はこれもいけないというのでしょうか。

「テロはいけない」ということが言えるのは、民主主義が機能していて、警察がちゃんと役割を果たしている場合だけです。

日本の警察は、それほどひどくありません。だいたい役割を果たしているといえます。
しかし、統一教会と安倍元首相には手を出さずに、好き放題にさせてきました(おそらくは政治家への忖度からです)。
そのいちばんの被害者が山上容疑者です。
映画なら山上容疑者の銃撃の瞬間に観客が喝采するところです。
山上容疑者に同情が集まるのは当然です。


それから日本の場合、マスコミが完全に警察と検察に従属しているという問題があります。
記者は警察と検察から情報をもらって記事を書くので、警察と検察を批判するようなことはほとんど書きません。
一般人を批判する記事も、民事訴訟を恐れるのか書きません。その一般人が犯罪をしている疑いが濃厚であってもです。
警察が逮捕か家宅捜索に動くと、各マスコミが一斉に記事にします。


警察や検察が政権に忖度して一体化しているのが今の問題です。
警察や検察と政権を分離するには、人事権の問題もありますが、警察や検察が国民を忖度するようになればいいわけです。
国民世論が「なぜあんな悪いやつを捕まえないのだ」と怒れば、警察や検察も政権ばかり忖度していられません。
そして、世論の形成にはマスコミの役割が重要です。


法律が善悪や正義を規定するのではありません。
法律は善悪や正義に基づいてつくられるのです。
善悪や正義の判断においては、警察や検察とマスコミ、ジャーナリズムは対等です。
警察や検察が善悪や正義にもとるとき、マスコミ、ジャーナリズムは自信を持ってきびしく批判するべきです。

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