
文明の歴史は戦争の歴史でもあります。
農耕とともに戦争は始まり、初期には外敵を防ぐ環濠集落がつくられ、のちには城壁都市がつくられました。
日本には2万5000以上の砦の遺跡があるとされます。
戦争は昔、部族のような小集団で行われていました。
戦争に弱い集団は戦争に強い集団に滅ぼされるか飲み込まれます。
大きな集団は小さな集団よりも強く、組織化された集団は組織化されない集団よりも強いので、集団は次第に大きく、組織化されるようになりました。
ということは、戦争が文明を発展させる大きな原動力だったといえるでしょう。
近代になって生まれた国民国家は特別に戦争の強い集団でした。
そのため、西欧で生まれた国民国家は世界中を植民地化しました。
この時点では、先進国にとって戦争はむしろ利益を生むものでした。
しかし、欧州の国民国家は互いに戦争もしました。その頂点が二度にわたる世界大戦です。
第一次世界大戦は、戦闘員の死者が約1000万人、民間人の死者が約700万人とされ、第二次世界大戦の死者は、戦闘員と民間人を合わせて5000万人から8000万人とされています。
世界大戦は総力戦となって、戦闘員以外も長期にわたって戦争協力に動員されました。
航空機の発達によって、戦地から遠く離れた民間人も被害にあうようになりました。
そして、核兵器が登場しました。
二度の世界大戦があまりにも悲惨だったので、もう戦争はするべきではないという平和主義が台頭しました。
平和主義が勢いづけば、戦争の歴史に終止符が打たれるかもしれません。
しかし、長年の“戦争文化”は深く根を張っています。
軍需産業関係者や職業軍人、政治家、外交官など戦争で利益を得る人もいます(政治家や外交官は戦争があるおかげでステータスが高い)。
現在は、平和勢力と戦争勢力が争っている状況です。
戦争の歴史は長いだけに、戦争を正当化する理論はいろいろあって、そのひとつは「安全保障」という考え方です。
このことについては前回の「『安全保障』という言葉にだまされるな」という記事に書きました。
それととともに戦争を正当化する強力な理論は、国家主義、ナショナリズムです。
今回はナショナリズムについて書きます。
すでに述べたように、今は戦争を行う主体は国家です。
国家が戦争に負けると、国民は殺戮され、略奪され、隷属させられるので、そうならないためには国家を強くしなければなりません。そのための思想がナショナリズムです。
たとえば青森県八戸市〇〇町で生まれ育った人がいるとします。
この人の〇〇町や八戸市や青森県への愛着は「郷土愛」と表現されますが、日本国への愛着は「愛国心」と表現されます。
教育基本法には「我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し」とあって、郷土愛と愛国心が同列になっていますが、実際には郷土愛と愛国心は異質です。
八戸市も青森県も日本国もみな行政を担いますが、戦争をするのは日本国だけです。
郷土愛はあってもなくてもかまいませんが、国民に愛国心がないと戦力が低下します。
そのため、平時から愛国心は鼓舞され、強制されます。国民は愛国心がなくてもあるふりをしなければなりません。
愛国心が特別であることは、国旗損壊罪がつくられたことを見てもわかります。
ナショナリズムによって人々は自国中心の発想になります。
そうすると他国と対立することが増えて、戦争の可能性が高まります。
したがって、平和を実現するには、ナショナリズムを克服し、ものごとを世界規模、地球規模で考えるようにすることです。
そのためにはどうすればいいのでしょうか。
ひとつの具体的方法として「国連中心主義」があります。
国連はそのために設立されたはずです。
ところが、今国連中心主義を唱えると、バカにされる傾向があります。軍事や外交の専門家がみなそう主張しているからです。
実際、国連は常任理事国に拒否権があって、肝心のときに機能しないようになっていますが、だからといって国連を否定すれば、世界は大国が自分勝手にふるまう場になってしまいます。
日本は今はアメリカに従っていますが、いずれ中国に従うことになるかもしれません。
国連をいかにして機能するようにするかという議論をするべきです。
思想面では、「コスモポリタニズム」があります。
ナショナリズムと対比されるのがコスモポリタニズムで、世界市民主義と訳されます。
コスモポリタニズムもまたバカにされがちで、最近はあまり言及されることもありません。
しかし、もっと評価されるべき思想です。
カントは『永遠平和のために』において、国内法、国際法、世界市民法という三つのレベルの法体系を考えました。
カントは「世界政府」は専制政治になる可能性があるとして否定し、平和実現のために「国家連合」を想定し、そこで用いられるのが世界市民法です。
市民権は国内でしか通用しません。人権は世界で通用しますが、人権の範囲が限定的です。世界市民権はその間をつなぐもので、カントは「地球の表面を共同に使用する人類の権利」と定義しました。
この権利があれば、他国の土地に足を踏み入れた外国人が外国人であるというだけの理由でその国の人から敵として扱われることはありません。これはなかなか画期的です。世界中で横行している外国人排斥やヘイトスピーチが一掃できるからです。
こういう重大な思想が顧みられていないのは残念なことです。
マルクスは「万国の労働者は団結せよ」と訴えて、1864年に社会主義インターナショナルを設立しました。社会主義革命は各国の事情に合わせて行うべきだということで、コスモポリタニズムではなくインターナショナリズムとしたのです。しかし、第一次世界大戦が始まると各国の労働者は進んで自国の戦争に参加したので、インターナショナルは崩壊します。
ナショナリズムはインターナショナリズムよりも強力なようです。
SFでは、異星人が地球を侵略する物語がいっぱいありますが、そのとき世界各国は互いに協力して侵略に対処します。つまり同じ戦争でも、“宇宙戦争”においてはナショナリズムは雲散霧消します。
必ずしも戦争にならなくてもかまいません。
フレドリック・ブラウンの「スポンサーから一言」というSF短編があります。世界で戦争の危機が高まって、アメリカでは徴兵事務所に血気盛んな若者が列をなしているとき、すべてのラジオから「スポンサーから一言」という言葉が聞こえて、続いて「戦え」という言葉が放送されます。この言葉は世界中のラジオで、世界各国の言葉で放送されました。調べても原因がわかりません。ただ、これをきっかけに徴兵事務所からは潮が引くように若者の姿はなくなり、戦争の危機は急速に収まりました。
「戦え」と命令されると戦う気がなくなるという人間心理を描いたと同時に、神か超越的な知性を持った異星人の存在を感じることで人間同士が争うのをやめるという物語です。
異星人に攻撃されたら人類が団結するのは当然ですが、攻撃されなくても、異星人の存在を感じるだけで人類は一体感を持つことができるようです。
1969年、アポロ11号が月に到達し、人類が初めて月面に降り立ちました。
SF少年であった私は、人類が宇宙に進出すればナショナリズムはおのずと克服されるだろうと思っていましたが、月面に降り立った宇宙飛行士が月面に星条旗を立てるのを見て愕然としました。
人類初の月到達はアメリカの威信のために利用されたのです。
南極については南極の平和利用などを定めた南極条約(1961年発効)がありますが、宇宙についてはそのような条約がなく、アメリカ、ロシア、中国などが競って軍事利用を進め、日本も航空自衛隊に「宇宙作戦団」を設けています。
戦後しばらくは人類は平和への強い思いを持っていましたが、次第に薄れてきたのかもしれません。
近年、気候変動問題が注目を集めています。
このような地球環境問題は国家レベルでは対応できず、国際協調が必要です。そうすればおのずとナショナリズムは克服されるはずです。
また、人工知能が人類の知能を超えるというシンギュラリティも話題になっています。こうした問題も人類として対処するべきことです。
ところが、現実はそうなっていません。
ナショナリストつまり保守派は地球温暖化説を否定する人が多いのです(トランプ大統領はその典型です)。
人工知能についても、人工知能の暴走が恐れられていますが、アメリカと中国が競争して開発を進めているので、具体的な規制は行われていません。
つまり人類として対処するべき問題に、ナショナリズムが障害になって対処できていないのです。
こうしたことを考えると、ナショナリズムは戦争の可能性を高めるだけでなく、人類にとってさまざまなマイナスを生んでいることがわかります。
ナショナリズムは経済的にもマイナスです。
高市政権は「強い経済」などといっていますが、軍備は価値を生まないので、防衛費を増やすことは経済にマイナスです。
中国からレアアースを買えば安いのに、高市政権は「経済安保」などといって他国から買ったり自前で調達したりしようとしています。当然、高くついて経済的にはマイナスです。
「強い経済」などというものはなく、「強い国」か「豊かな国」かの二択です。
ナショナリズムがなぜだめかということは、倫理的に説明するのがいちばんわかりやすいでしょう。
「国のため」ということは、「業界のため」とか「地元のため」とか「自分のため」よりもよいことで、その限りではナショナリズムも評価できます。
しかし、国際社会で「国のため」を目指すと、他国と争いになります。争いになること自体がマイナスですし、戦争になれば大損失です。
つまりナショナリズムというのは国家規模の利己主義なのです。
個人であれ国家であれ、利己主義がだめなのはわかりきったことです。
「自分のため」を考えていた人が「国のため」を考えるようになるのは進歩ですが、そこにとどまっていてはいけません。
今は「世界のため」「人類のため」を考えるべき時代です。






