村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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右派、保守派の基本はナショナリズムです。ナショナリズムは国家規模の利己主義ですから、各国に保守派政権ができると必然的に互いに衝突し、戦争になる可能性が高まります。
そうならないようにナショナリズムの主張を弱めると、国内の支持者が失望するというジレンマに陥ります。ですから、保守派政権は長続きしないだろうということを私は前に書きました。
しかし、時代が変わって、ナショナリズムも変わりました。いわば旧型から新型にモデルチェンジしていたのです。
どうモデルチェンジしたのか、改めて確認しておきたいと思います。


高市首相は韓国の李在明大統領と10月30日に会談し、李大統領が「心配はすべてなくなった」と述べるなど、きわめて友好的な会談だったようです。
翌日には習近平主席と会談し、「戦略的互恵関係」を確認しました。
高市首相はナショナリズムの主張を封印し、現実的な対応をしましたが、高市支持者から不満の声は上がりません。むしろうまくやったと評価されているようです。
靖国神社参拝については前から行わないことになっていましたが、やはり不満の声は上がっていません。
つまり高市支持者は、高市政権が中国や韓国に強い態度に出ることを望んでいるわけではないのです。
高市支持者の関心はもっぱら国内にあります。

参政党のスローガンは「日本人ファースト」でした。これが日本の保守派の心情にぴったりなのです。
「日本ファースト」だと外国とぶつかってしまいます。それは望まないわけです。
国内で外国人を差別している限り国際的な問題になりません。
それに外国人は犯罪的だとか、マナーが悪いとかの理由をつければ、これは差別ではないという言い訳が立ちやすくなります。
つまり今のナショナリズムは、国内だけで完結する内向きのナショナリズムです。

これはヨーロッパでも同じようです。
ドイツでもフランスでも極右政党が伸びています。いずれ政権を取るかもしれません。そうすると二十世紀のようにドイツとフランスが戦争をすることになるかというと、そうはならないでしょう。
イタリアでは2022年の総選挙で極右政党「イタリアの同胞」が第一党となり、党首のジョルジャ・メローニ氏が首相に就任しました。メローニ首相はイタリア史上初の女性首相です。くしくも高市首相と同じです。
極右政権ができたということで警戒されましたが、メローニ首相はそれまでの極右的な主張を封印して現実路線をとり、一応安定政権を築いています。
考えてみれば、ヨーロッパの極右政党がもっとも強く主張することは移民排斥です。移民を国から追い出すことに限れば国内問題です。他国との摩擦は起きません(追い出される移民の母国は不愉快でしょうが)。

今はグローバル経済のもとで各国が互いに密接につながっているので、自国ファーストを主張して他国と対立することは損にしかなりません(自国ファーストの主張ができるのはアメリカぐらいですが、それですらうまくいっていません)。ましてや戦争になると、ウクライナ戦争を見てもわかるように、ただ悲惨なだけです。
極右政党とその支持者もそういうことはわきまえているのでしょう。
高市政権とその支持者も同じです。


日本の保守派はみな反中国です。
しかし、中国に直接なにかを強く言うことはありません。
尖閣諸島について強く主張したところで、中国が日本の領有権を認めることは考えられませんし、習近平主席がへそを曲げるとやっかいです。なにしろ中国のGDPは日本の約4.5倍です。
保守派やネトウヨもそういうことはわかっているので、彼らは日本の親中国の政治家、たとえば引退した二階俊博氏や林芳正衆院議員などを“媚中派”として非難するだけです。
中国人が日本の土地を買うのを規制しろとか、中国人留学生が優遇されすぎているとか、中国人のマナーが悪いとかいったこともよくいわれますが、これらはすべて国内問題です。

対象は中国人に限りません。外国人の犯罪が多いとか、外国人のマナーが悪いとか、オーバーツーリズムをなんとかしろとか、外国人が生活保護を受けているとか、社会保険料を払っていないとか、起訴されないとかといったことが盛んにいわれます。
たいていは大げさであるかフェイクですが、こうして外国人を差別して非難することが保守派のメインの“仕事”になっています。

高市首相は総裁選のときに外国人が奈良公園の鹿をいじめているという話をし、これは根拠がないと批判されましたが、それによって支持も得ました。
今、高市内閣が高い支持率を得ているのは、こうした外国人差別の人の支持があるからでしょう。


しかし、国内の外国人を差別するだけでは終わりません。保守派の矛先は日本人にも向けられます。
高市政権は「スパイ防止法」制定に向けて動き出しました。
スパイ防止法はかつて「日本はスパイ天国」というデマのもとに制定に向けた動きが強まった時期がありましたが、特定秘密保護法が制定されてスパイ防止法の必要性がなくなりました。
今度は「スパイ防止法がないのは日本だけ」というプロパガンダが行われています。
防止法の対象となる「国家機密」がきわめてあいまいで広範囲であり、機密を「探知・収集」、「外国に通報」、「他人に漏らす」などの行為もあいまいで広範囲なので、誰にでも「スパイ」の汚名を着せることができます。
参政党の神谷宗幣代表は先の参院選で「極端な思想の人たちを洗い出すのがスパイ防止法」と発言しました。
スパイ防止法ができなくても、法案について議論するだけで、「スパイ防止法に反対するのはスパイ」と言って日本人を分断することができます。

日本国を侮辱する目的で日本国旗を損壊した人を罰する「国旗損壊罪」を制定しようとする動きもあります。
バカバカしい法律なので、いちいち批判は書きませんが、この法案に反対する人を「反日日本人」と決めつけて、やはり日本人を分断しようという考えでしょう。


つまり今の保守派は、外国に対してはなにも主張せず、もっぱら国内で外国人を差別し、日本人を分断する「内向きナショナリズム」になっています。
「内向きナショナリズム」は互いに連携することが可能です。バンス副大統領やイーロン・マスク氏は欧州の極右政党の支持を表明しています。
つまり欧州の極右政党やトランプ政権の移民排斥運動は、世界的な人種差別運動と見ることができます。
「内向きナショナリズム」は、グローバルノース対グローバルサウスの世界的対立の一部です。
日本の保守派は“名誉白人”のつもりで外国人差別をしているわけです。

ナショナリズムの変質を見きわめて、今は外国人差別と日本人分断に対処することがたいせつです。


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高市早苗政権が発足しました。
内閣支持率は好調で、とくに若者の支持が高いそうです。
私などから見ると、安倍政権の二番煎じとしか見えませんが、第二次安倍政権の発足が2012年ですから、若い人には新鮮に見えるのかもしれません。
それに、石破茂前首相と高市早苗首相は政治的スタンスがまったく違いますから、自民党得意の「疑似政権交代」感が強く出たということもあるでしょう。ですから、裏金問題などがかすんでしまいました。

しかし、あくまで疑似政権交代であって、ずっと自民党中心政権が続いていくことになります。これが日本にとって最大の問題です。


アベノミクスは日本にとってよかったのか悪かったのかという基本的なことも検証されていません。
高市首相はサナエノミクスという言葉を使っていますが、これはアベノミクスと同じなのか違うのかもよくわかりません。
自民党においては安倍首相が神格化されて、批判が封じられているのです。
自民党だけでなく保守派全体も安倍首相とその政策を批判しません。

最近、在留外国人や訪日観光客の増加が問題になっていますが、これは安倍政権が「移民政策ではない」と言いながら外国人労働者を増やし続け、菅義偉官房長官が訪日観光客を増やす政策をやってきたからです。
ところが、外国人を増加させた安倍政権を批判しないので、現状に対する反省がありませんし、これから外国人政策をどうするのかもよくわかりません。
高市首相は所信表明演説で「一部の外国人による違法行為やルールからの逸脱に対し(中略)政府として毅然と対応します」と言う一方で、「人口減少に伴う人手不足の状況において、外国人材を必要とする分野があることは事実です。インバウンド観光も重要です」とも言っています。
外国人労働者の増加は財界の要請でもあるので、自民党は今後も応えていくのでしょう。


とはいえ、高市首相は元気ですし、高市応援団も元気です。
高市首相の所信表明演説のときに野党のヤジがうるさいという批判の声がSNSなどで上がりました。ほかにもNHKのニュースで高市首相を映すとき意図的に映像を揺らしているとか、時事通信の高市首相の写真に悪意が感じられるとか、よくわからないことまで批判しています。
国会の野党のヤジについては、石破首相や岸田首相のときは問題にならなかったのに、高市首相のときに問題になったのですから、高市首相に原因があることになります。少なくともヤジるほうとヤジられるほうの両方に原因があると見るべきですが、高市応援団は一方的な見方しかしません。

高市応援団がなぜうるさいかというと、基本にナショナリズムがあるからです。ナショナリズムは国家規模の利己主義です。
国家主義は愛国主義ともいい、「愛」という言葉が入っています。それに「国のため」という利他的な名分もあります。
人はみな日ごろ利己的な主張を抑えて生活しているので、その抑えられたものが「愛」や「利他的」という装いのもとに噴出するのです。

しかし、ナショナリズムの主張というのは、国内で言っている分にはあまり問題になりませんが、国際社会で主張すると他国と摩擦を起こしますし、へたをすると戦争になります。
ですから、対外的にはナショナリズムの主張は抑制せざるをえません。

これは安倍政権を振り返れば明らかです。
安倍氏は第一次政権のとき靖国参拝をしなかったことを「痛恨の極み」とし、第二次政権においては首相就任1年後に靖国参拝をしました。これは中国韓国の反発を招き、アメリカからも「失望」を表明されたために、もう二度と参拝しませんでした。

従軍慰安婦問題についても、安倍首相は「強制連行はなかった」と強硬に主張していましたが、結局日韓合意において「おわびと反省」を表明しました。
このときはオバマ政権の圧力に屈した形でしたが、そうでなくても軍国主義時代の蛮行を正当化しようとすれば、国際社会での日本の評価が下がるだけです。

きわめつけは、2020年に習近平主席を国賓として招待しようとしたことです。安倍首相はそれまで中国包囲網の外交をしていたので、安倍支持者は現実を受け止められない様子でした。結局、コロナ禍によって習近平主席の来日は中止となりました。
国内では「国益追求」などと勇ましいことを言っていても、国際社会では協調外交をせざるをえないのが現実です。


これは高市政権でも同じです。
高市首相は靖国神社の例大祭に毎年参拝しているのに、首相就任直前の今年は参拝を見送りました。

高市首相は就任記者会見で韓国人記者の質問に対して「韓国は日本にとって重要な隣国です」などと述べたあと「韓国のりは大好き。コスメも使っています。韓国ドラマも見ています」と笑顔で語りました。

高市首相が所信表明演説において中国を安全保障上の「深刻な懸念」としたことについて、中国外務省の副報道局長は「平和と安全において中国は最も実績ある大国だ」と反論し、さらに「日本側は侵略の歴史を真剣に反省し、安全保障分野で言動を慎むよう求める」と述べました。
日本側としてはちょっとカチンとくる言い方ですが、官房長官か誰かが言い返したということはありません。
こんなことで言い争いをして日中関係が悪化してはなんの利益にもならないので、当然です。


高市首相は所信表明演説で「強い」という言葉を乱発しましたが、外国に強く出ることはできず、“内弁慶”にならざるをえません。
高市支持者はそういう現実をどう受け止めるかです。
高市首相を「弱腰」と責めることはなさそうです。安倍首相のときもそうだったからです。

そこで懸念されるのは、国内の外国人に対する排斥や攻撃です。


鈴木馨祐前法相は7月の講演で「15年後の2040年ごろには外国人比率が10%まで上昇する可能性がある」と述べました。
参政党の神谷宗幣代表は、8月28日の配信番組で「緩やかに外国人を受け入れていくのは10%以下ではないか、との概算をわれわれはしている」と述べました。これまでの主張と違うのではないかと支持者は驚きました。
日本維新の会は9月19日に公表した外国人政策と「移民問題」に関する政策提言で「欧州の経験をみれば、10%を超えると地域社会でさまざまな社会問題が顕在化し、緊張が高まることは明白だ」としました。
どうやら外国人を10%程度まで増やすことはほぼ決まっているようです(背後には財界の要請があるはずです)。

現在の外国人は約3%ですから、3倍強に増えることになります。
そのとき、高市応援団は政権を非難できるでしょうか。外国人を非難するほうに行くのではないでしょうか。
国内の外国人を非難してもなんの国益にもなりません。ただの「弱い者いじめ」です。

安倍政権のときは「移民政策ではない」という言葉に安倍支持者はみんなだまされました。
高市支持者はとくに、高市政権の外国人政策を見きわめないといけません。


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自民党総裁に大方の予想に反して高市早苗氏が選ばれました。党員票を予想以上に獲得したことが議員票も動かしました。
ここでも参政党を押し上げたのと同じ草の根の保守パワーがありました。

保守、右派、極右といわれる勢力がヨーロッパで急速に伸長しています。アメリカのトランプ政権はそれに先行していました。日本は少し遅れて追随しているわけです。

こうした勢力はナショナリズム、排外主義などを掲げていて、これらの主張は衆愚に受けるので、右派ポピュリズムとも呼ばれます。
この調子で各国で右派ポピュリズム勢力が伸びて政権を取るようになると、世界は破滅に向かいます。
ナショナリズム、愛国主義、自国ファースト、排外主義は、要するに国家規模の利己主義ですから、利己主義と利己主義は当然ぶつかります。
これは子どもでもわかる理屈です。

アメリカは自国ファーストでやっていますが、これはアメリカが世界一の大国だからできることです(とはいえ各国は不満なので、水面下でアメリカ離れをしつつあります)。
小国は自国ファーストの外交なんかできません。そうすると、国内の支持者が離反して、政権は長く持たないでしょう。
国内の支持者の期待に応えようとすると、他国と衝突します。


自国ファーストはうまくいかないということがなぜわからないかというと、視野が狭くて国内のことしか見ていないからです。
実際、毎日のニュースのほとんどは国内のことです。海外のニュースもありますが、興味がない人には頭の中を通り抜けていきます。

それから、先ほど「子どもでもわかる理屈」といいましたが、子どもはいつも「自分さえよければいいというのはだめだ」とか「利己主義はよくない」とか言われているので、わかるはずです。

しかし、実はここに問題があります。
「利己主義はよくない」と説くおとな自身が利己主義者です。人間は基本的に利己主義者だからです。
そうすると、「利己主義はよくないと利己主義者は言った」ということになり、これは「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人は言った」という有名なパラドックスと同じです。
「利己主義はよくない」という言葉には偽善があり、人はみな子どものときからこの偽善にうんざりしています。
そうしたところに「自国ファースト」の主張に出会うと、これまで抑えていた自分の中の利己主義が引き出されてしまうのです。
「自国ファースト」は、国内に限定すれば利他主義に見えるので、本人は自分は利他的な主張をしていると思って、どんどん主張を強めていきます。


人間は基本的に利己的です。
公平の基準を越えて利己的にふるまう傾向があります。
いつもなわばり争いをしている動物と同じです。
ただ、動物のなわばり争いは本能の歯止めがあるのでほどほどのところで止まりますが、人間はそうはいきません。
そこで人間は、争いを回避するために「法の支配」という方法を考え出しました。法律によって公平の基準を客観的に決めれば、争うことはかなり回避できます。
しかし、まだ国際社会には法の支配が行き届いていないので、ここでの争いは深刻化し、戦争になる可能性があります。
そういうことを考えると、「自国ファースト」の主張はあまりにも無神経です。


しかし、「人間は利己的である」ということは常識になっていません。
人間は自分は利己的であると認めたくないようです。
しかし、他人についてはしばしば利己的だと非難します。
つまり「自分は利己的でないが他人は利己的だ」ということになります。
私はこれを「天動説的倫理学」と呼んでいます。
「天動説的倫理学」はまったく非論理的なので、「ナショナリズムは国家規模の利己主義である」ということすらはっきりとは認識されていません。

自分も含めて「人間は少し利己的である」というのが正しい認識です。
したがって、自分の判断を少し利他的な方向に補正すれば、公平な判断ができることになり、むだな争いは避けられます。


結局のところたいせつなのは、私がかねて主張しているように、自分中心の発想から抜け出すことです。
安全保障についても、自国の安全ばかり考えていてはだめです。
習近平主席や金正恩委員長の立場になって考え、そして日本の立場になって考え、そうして第三者の視点から日本の安全保障や国益を考えればうまくいきます。

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2024年でいちばん大きな出来事は、トランプ氏の米大統領再選だったでしょう。
トランプ氏はタイム誌の「今年の人」にも選ばれています。

トランプ氏については、戦争を止めて世界を平和にしてくれると期待する向きもありますが、「アメリカ・ファースト」はアメリカの利己主義ですから、必然的に世界は利己主義と利己主義のぶつかり合いになります。現にトランプ氏は大統領就任前からもうすでにカナダ、メキシコ、パナマ、グリーンランドと軋轢を生んでいます。

トランプ氏のような政治家が人気になる現象は世界中で見られます。
いちばん最初はフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ元大統領です。トランプ氏が一期目の当選をした2016年にドゥテルテ氏もフィリピンの大統領選に立候補し、その主張がトランプ氏に似ていることから「フィリピンのトランプ」と呼ばれました。ドゥテルテ氏が主に訴えたのは犯罪対策ですが、そのやり方は人権上問題があると指摘されると、「人権に関する法律など忘れてしまえ。私が大統領になった暁には市長時代と同じようにやる。麻薬密売人や強盗、それから怠け者共、お前らは逃げた方がいい。市長として私はお前らのような連中を殺してきたんだ」と言いました。
2019年にイギリス首相に就任したボリス・ジョンソン氏も暴言を連発する人なので、「イギリスのトランプ」と呼ばれました。
チェコのアンドレイ・バビシュ前首相も反移民政策を掲げて「チェコのトランプ」と呼ばれましたし、
ブラジルのジャイル・ボルソナロ前大統領は「ブラジルのトランプ」と呼ばれ、アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領は「アルゼンチンのトランプ」と呼ばれています。

彼らは要するにポピュリズムが生んだポピュリスト政治家です。
その主張には移民排斥、強硬な犯罪対策、人権軽視、環境問題軽視といった傾向があり、暴言、差別発言を平気でするという特徴があります。
こうしたポピュリスト政治家が表に出てきたのは、インターネットあるいはSNSのおかげです。いわゆるオールドメディアは差別発言をする政治家を排除してきました。

去年、兵庫県知事選で再選された斎藤元彦知事や都知事選で旋風を巻き起こした石丸伸二氏は、きわめて攻撃的な言動をする政治家で、SNSによって人気になったということでは「ミニ・トランプ」ともいえるポピュリスト政治家です。


日本ではこうした政治家の人気をきっかけに「オールドメディアの敗北」ということがいわれました。
しかし、ニューメディアによって形成された民意はひどいものでした。
兵庫県知事選の場合、立花孝志氏の根拠の定かでない主張を信じる人が大勢いて、それが斎藤知事当選の原動力になりました。
新聞、テレビ局の情報はある程度信用できますが、SNS、掲示板の情報は基本的に信用できないので、必ずソースを確かめないといけないという常識すらない人が大勢いたのです。

匿名で情報発信のできるインターネットの世界はもともと差別、デマ、誹謗中傷の吹き荒れる世界でしたが、昔の人はそのことを前提として参加していました。それに、PCを持ってネットに書き込みのできる人は少数派でしたから、学歴もある程度高かったといえます。
しかし、スマホの普及でネット人口が爆発的に増えて、今ではネット民は国民平均とほとんど同じです。
では、SNSで形成される民意は国民の平均的な民意と見なしていいかというと、そんなことはありません。

オールドメディアは、事実の報道には裏付けを求めますし、差別語は排除し、個人のプライバシーも尊重します。つまり情報の質の低下に一定の歯止めがあります。
しかし、SNSにそうした歯止めはほとんどないので、虚実入り混じった情報があふれています。
そうした情報に触れると、人は真偽を見きわめるという厄介な作業をするよりも、心地よい情報を選択したくなります。
そして、一度ある種の情報を選択すると、SNSのプラットフォームはそれに類似する情報を提供するように仕組まれているので、いっそう深くその種の心地よい情報にはまっていくことになります。


人間が心地よく思う情報には一定の傾向があります。
ひとつは「単純化された情報」です。
『サピエンス全史』を書いた歴史家のユヴァル・ノア・ハラリは、人類は複雑な現実を単純に説明する「物語」をつくって、集団で共有することで文明を発展させてきたといいます。
ネットでもそういう「物語」を語れる人がネットの世論をリードします。専門家は複雑な現実を複雑なまま語ろうとするので、ほとんど無視されます。

それから、人に好まれるのは「不満のはけ口を教えてくれる情報」です。
人々は日常生活の中で不満をため込んで生きているので、どこかでそれを吐き出したいと思っています。そこに悪徳政治家とか、不倫芸能人とか、車内のマナーが悪い乗客とか、家事育児を手伝わない夫とかの情報が与えられると、ネットで書き込みをして攻撃するか、書き込みはしなくても心の中で彼らをバカにして、溜飲を下げることができます。

「単純化された情報」と「不満のはけ口を教えてくれる情報」の組み合わせは最強です。
複雑な政治の世界を既得権益層対改革派の対立というふうに単純化し、既得権益層を悪者として攻撃すると多くの人を引きつけることができます。

陰謀論というのも基本的に「単純化された情報」と「不満のはけ口を教えてくれる情報」から成っています。
世の中に解決困難なさまざまな問題があるのはディープステートが陰で政府を支配しているからだという説は、きわめて単純ですし、攻撃すべき対象も示されます。
コロナワクチンを打つべきかどうかというのもむずかしい問題ですが、ワクチンに関する陰謀論は単純に説明してくれ、製薬会社などの悪者も示してくれます。

それから好まれるのは「利己主義を肯定してくれる情報」です。
人間は誰でも利己主義者ですが、他人と協調するためにつねに自分の利己主義を抑えて生活しています。
ナショナリズム、つまり「自国ファースト」の考え方は、国家規模の利己主義ですが、国内で主張する分には声高に主張しても許されるので、日ごろ抑えつけた利己主義をナショナリズムとして吐き出すと気持ちがすっきりします。
また、地球環境のために温室効果ガス排出削減をしなければならないとされていますが、経済のことを考えれば削減なんかしたくない。そこで、地球温暖化だの気候変動などはフェイクだという情報に飛びつきます。ポピュリスト政治家はおしなべて地球環境問題を軽視します。

SNS内の論調はナショナリズムが優勢で、ポピュリスト政治家はみな右派、保守派です。
これは実は深刻な問題です。
ナショナリズム、自国ファーストは最終的に戦争につながるからです。
ですから、SNSにはびこるナショナリズム、自国ファーストはきびしく批判されなければなりません。


ところが、日本では兵庫県知事選で斎藤知事が再選されたとき、テレビのキャスターなどは反省の態度を示していました。
反応があべこべです。
民主主義においては「民意」は絶対だという誤解があるのでしょうか。
しかし、民意は間違うことがありますし、とりわけいい加減な情報があふれるSNSではおかしな民意が形勢されがちです。
ニューメディアを批判することはオールドメディアの重要な役割です。

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丸川珠代五輪相は5月11日の記者会見で、五輪開催の意義について問われ、「コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある」と述べたところ、「意味不明」「精神論はやめろ」などの批判が殺到しました。
そのため丸川五輪相は14日に「絆」の意味を補足して、「特別な努力をした人たちの輝きが勇気を与えてくれる。と同時に、私たちが勇気を持って一歩進み、社会の活動を進めていく具体的な後押しになるという思いです」と述べましたが、ますます意味不明と批判されました。

「安全安心な大会」などと言っていますが、実際はコロナ下で危険を冒して開催するのですから、それに匹敵する意義が必要です。

五輪招致の時点では「復興五輪」といって、東日本大震災から復興した日本の姿を見せるという意義が示されました。
新型コロナウイルスのために一年延期になった時点では、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」ということが言われました。

現在では、「新型コロナウイルスに打ち勝った証」とは言えないので、「努力したアスリートのために」とか「池江璃花子選手のために」などと各自が勝手なことを言っています。
丸川五輪相が「絆」と言ったのは、「自助・共助・公助、そして絆」が政治信条の菅首相にこびたのでしょうか。


東京五輪は別にして、オリンピックそのものには意義があります。
ただ、時代とともにそれは変遷してきました。

昔はオリンピックの理念というと、「より速く、より高く、より強く」ということが必ず言われたものですが、最近はまったく言われません。今もオリンピック憲章には書かれているのですが。
この言葉の背後にある進歩主義思想が今は評価されないからでしょう。

「オリンピックは参加することに意義がある」というクーベルタン男爵の言葉も最近はあまり言われません。
勝利至上主義を戒めた言葉と思われますが、最近は勝利至上主義、メダル至上主義が横行しているからでしょう。

アマチュアリズムも昔はオリンピックの重要な理念でしたが、1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除されました。
以来、商業主義がしだいに強まり、今ではオリンピックは巨額マネーの動く商業主義のイベントになりました。
日本が開催地に立候補したのも、要は利権のためです。


オリンピックは商業主義のイベントとして大成功しましたが、大成功したのは意義があったからです。
それはどんな意義かというと、案外認識されていないかもしれません。

ビッグなスポーツイベントは世界陸上、世界水泳、サッカーワールドカップ、アジア大会などいくつもありますが、オリンピックがそれらと違うのは、ほとんどすべての種目を網羅する総合スポーツ大会であることです。
そして、世界のほとんどの国が参加します。
そのために、各国の総合スポーツ力が順位づけられます。

国の総合スポーツ力というのは国力の有力なバロメーターです。
国力を見るにはGDPのほうが正確ですが、GDPは無味乾燥な数字です。
スポーツは闘争や競争であり、勝ち負けがあるので、人々は興奮します。
個々の勝ち負けがメダルになり、最終的にメダルの数の多さで国の優劣が決まります。

ですから、オリンピックほどナショナリズムや愛国心の高揚するイベントはほかにありません。
戦争はもっともナショナリズムの高揚するイベントですが、オリンピックはその次ぐらいの位置づけになります。

古代ギリシャでは、戦争をしていても、オリンピックが開催されるときは休戦する習わしでした。
そのために「平和の祭典」と呼ばれますが、古代オリンピックの種目は、短距離走、長距離走のほか、戦車競走、円盤投げ、やり投げ、レスリング、ボクシングなど、戦争に関わるものがほとんどなので、当時の人々は戦争もオリンピックも同じ感覚でやっていたのではないでしょうか。
そういう意味では、「平和の祭典」というより「疑似戦争」といったほうがいいかもしれません。

近代オリンピックも、表彰式には必ず国旗掲揚と国歌演奏を行い、各国のメダル獲得数を明示して、ナショナリズムを高揚させる演出になっています。
ほとんどの人は、自国の選手がメダルを獲得するか否かに関心があって、メダルを獲得すると熱狂しますが、スポーツの中身にはあまり関心がありません。


このように近代オリンピックは「疑似戦争」として各国の国民のナショナリズムを刺激することで商業主義的な成功を収めたわけです。


私は「疑似戦争」という言葉を使いましたが、これは決して悪い意味ではありません。「疑似戦争」では人も死にませんし、家も壊れません。「本物の戦争」とは天と地ほども違います。
ですから、「疑似戦争」を「平和の祭典」と呼んで楽しむのは悪くありません。
ナショナリズムの部分を嫌う人もいますが、多くの人はナショナリズムの高揚感が好きなものです(ナショナリズムは「拡張された利己主義」だからです)。


ともかく、オリンピックは多くの人が興奮できる楽しいお祭りなのですが、今回はコロナとの戦いの真っ最中です。
オリンピックを開催したからといって、コロナとの戦いは休戦になりません。

現在、スポーツ大会は無観客や観客制限で開催されつつありますが、各地のお祭りはほとんどが中止になっています。
コロナ下では、お祭りをやってもお祭り本来の楽しさがないからです。

オリンピックが純然たるスポーツ大会なら、厳密な感染防止対策のもとで開催する意味はありますが、実際のところは、オリンピックの意義は、ナショナリズムの高揚感を味わうお祭りだということにあります。

コロナ下でお祭りを強行開催するということはありえません。

植松聖
移送中の植松聖被告

植松聖被告が障害者19人を殺害したやまゆり園事件の裁判員裁判が進行中です。
マスコミは植松被告の言い分を「身勝手な主張」と切り捨てていますが、そう単純なものではありません。植松被告は「国のため、社会のため」ということを主張しているからです。

1月24日の公判では、こんなことを述べていました。

弁護人から「意思疎通が出来ない方にも親や兄弟がいる。家族のことを、どう考える?」と聞かれると、植松被告は「子どもが重度障害を持っていても、守りたい気持ちは分かるが、受け入れることは出来ない」と主張。その上で「自分のお金と時間で面倒を見ることが出来ないから。お金を国から支給されているからです。お金と時間がかかる以上は、愛して守ってはいけないと思います」と声を大にした。

植松被告は、弁護人から「安楽死で世の中はどうなる?」と聞かれると「生き生きと暮らすじゃなく、働ける社会になると思います」と主張。働くことが重要かと聞かれると「そうです。仕事をしないから動けなくなってしまう。ボケてしまうんだと思います」と答えた。若い人で仕事をしていない人もいるが? と聞かれると「働けない人を守るから、働けない人が生まれると思う。支給されたお金で生活するのは間違っていると思う。日本は借金だらけ。(障がい者を殺せば)借金を減らすことは出来ると思います」などと主張。国が障がい者に支給する手当が、国の財政を圧迫しているという趣旨の持論を展開し、自己正当化した。
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202001240000212.html

自分が犯罪者になっても国の財政を救おうとは、まさに“滅私奉公”で、愛国者の鑑です。

2月5日の公判では、植松被告は障害者を殺したのは「社会の役に立つと思ったから」と主張しました。

「やまゆり園」植松被告「趣味は大麻です」繰り返す
45人が殺傷された「津久井やまゆり園」事件の裁判員裁判第10回公判が5日、横浜地裁(青沼潔裁判長)で開かれ、遺族らが元職員の植松聖被告(30)に対する被告人質問を行った。

姉(当時60)を殺害された男性が「なぜ殺さなければならなかったのか」と尋ねると、植松被告は「社会の役に立つと思ったから」と答えた。植松被告は「ご遺族の方とこうして話すのは心苦しい」と述べ、謝罪も口にしたが、「重度障害者を育てるのは間違い」と言い切り、「趣味は大麻です」と2回繰り返した。

長男一矢さん(46)が重傷を負った尾野剛志さん(76)が「家族は悩みながら、小さな喜びを感じて生活している。あなたはそれを奪った」と謝罪の言葉を求めると、ひときわ大きな声で「誠に申し訳ありませんでした」と答えた。尾野さんが「今、幸せですか」と問うと、「幸せではありません。いや、どうだろう」と首元に触れた。

被害者参加制度に基づくこの日の質問は、被害者からの直接の問いかけに植松被告がどう答えるか注目されていた。尾野さんは生い立ちから探るために、。初公判で指をかんだ意味に関する質問も制止されたという。質問を終えて法廷を出た尾野さんは「残念です」と話した。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200205-02050870-nksports-soci

植松被告は「国のため、社会のため」という大義名分を押し出して、殺人を正当化しています。

人の命よりも国家を上位に置くのは、よくある考え方です。特攻隊でなくても、若者が兵隊になって戦争に行くこと自体、命より上に国家を置いていることになります。
「障害者は殺していい」というところに着目すると、植松被告の考え方は優生思想になりますが、「国のため」というところに着目すると、ナショナリズムや右翼思想になります。
植松被告は2016年2月、衆院議長公邸を訪れて「障害者が安楽死できる世界を」という手紙を渡しました。自分のやろうとすることは「国のため」なので、理解してもらえると思ったようです。


右翼政治家の石原慎太郎氏も植松被告と同じような考えの持ち主です。
石原氏が都知事になった1999年、重度障害者が治療を受けている病院を視察したとき問題発言をし、さらにやまゆり園事件にも言及しました。

 重度障害者たちが治療を受けている病院を視察した石原氏は、会見にて「ああいう人ってのは、人格があるのかね」と語ったのだ。その後も「絶対よくならない、自分が誰だかわからない、人間として生まれてきたけれど、ああいう障害で、ああいう状況になって」「ああいう問題って、安楽死につながるんじゃないかという気がする」などと発言した。
 ちなみに昨年7月、神奈川県相模原市の知的障害者施設で19人が死亡し、20人が重傷を負った殺傷事件ついても石原氏は言及しており、「文學界」(文藝春秋/16年10月号)の対談で「あれは僕、ある意味で分かるんですよ」と心境を吐露してみせた。
https://biz-journal.jp/2017/03/post_18396.html

優生思想とナショナリズム、右翼思想は表裏一体であることがわかります。

ネトウヨが跋扈するような右翼的な世相と、人権を軽視する風潮がこの事件を生んだともいえます。


ところで、植松被告がこうした犯行に及んだのは、親から人としての愛を受けられなかったからだというのが私の考えです。
『「やまゆり園」植松被告「趣味は大麻です」繰り返す』という記事で、被害者側は『被告と両親に関する質問を用意したが、「事件と関係ない」と弁護側に止められた』ということです。
弁護側に止められたということは、裁判長もそれを認めたのでしょう。
日本の司法はいつまで親子関係をブラックボックスに入れておくのでしょうか。

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