村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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今、世界におけるいちばんの問題はなにかといえば、「愛情不足」です。
「愛情」というのは、ここでは愛、友情、温情、思いやり、親切心なども含めた、人の幸せを願う気持ちの総称ということにします。
人間の心を利己心と利他心に分けると、利他心のことでもあります。

人間は原始時代は親族と共同体の人々といっしょに暮らし、愛情でつながって生きていました。
しかし、文明が発達するとともに富が増大し、親しくない人との交流が増えると、争うことも増えます。今の資本主義社会は激烈な競争社会なので、誰もが利己心を全開にして生きていて、その分利他心が少なくなっています。
人はみな肩肘張って生きていて、ささいなことでいがみ合い、親切や思いやりと出会うことはめったにありません。
これがつまり「愛情不足」社会です。

人体の働きを制御する自律神経には交感神経と副交感神経があります。
交感神経は外の世界に対応するときに働き、副交感神経は体を休めるときに働くもので、アクセルとブレーキにたとえられます。
交感神経と副交感神経はバランスを保っているものですが、競争社会で生きる現代人は交感神経を働かせすぎて、自律神経失調に陥りがちです。
したがって、瞑想やヨガなどで副交感神経の働きを強めてバランスを回復させることが必要になります。

利己心と利他心のバランスも同じです。
現代人は利己心偏重になっているので、利他心つまり愛情を回復させることが、本人にとっても社会にとっても必要です。


ところが、世の中に「愛情不足」という問題があることはほとんど認識されていません。
ただし、誰もが無意識のうちに愛情不足を感じているので、それを補うために映画、小説、音楽の中には「愛」があふれています。
それらは創作された愛ですから、現実の愛とは違います。たとえば白血病の少女と夢を追う青年の恋愛で、青年は少女との約束を果たすために命がけでがんばる――といった物語があると、そこに描かれた愛は純粋で、崇高なものになります。
キリスト教では、神の人間への愛を「アガペー」といって、無償で不変なものとしています。
ロマン主義では恋愛至上主義があって、やはり愛を純粋なものとして描きました。
そのため、愛や愛情というのは非現実的なものというイメージになっています。


その影響か、政治家が「愛」を口にすることはありません。唯一の例外は「友愛」を掲げた鳩山由紀夫元首相です。
もっとも、鳩山元首相の評価とともに「友愛」の評価も下がってしまいました。

政治の世界で例外的に「愛」という言葉が使われているのが「愛国心」です。
ただ、愛国心の「愛」は通常考えられている「愛」ではありません。
愛国心は「自国を愛する心」と「他国を憎む心」が一体となったものです。
戦争するときは国内の結束を固め、他国への敵意を高めなければなりませんが、それは急にやっても間に合わないので、普段からやっておかなければなりません。ですから、どの国でも愛国心は奨励されたり強要されたりしています。
「他国も自国と同じように愛しています」というような態度は愛国心の観点からはきびしく批判されます。

なお、ひところは「愛のムチ」という言葉もよく語られましたが、この「愛」も愛国心の「愛」に似ています。


フィクションの中の愛は現実的でないので、すべて頭の中から消去すると、ほんとうの愛が見えてきます。
それは動物的、本能的なものです。哺乳類の親が子どもの世話をしている様子を思い浮かべればわかります。そこに本来の親の愛情があります。
この愛情は子どもが生きていく上で必要なものです。それは人間でも同じです。
体が成長するには栄養が必要ですが、心が成長するには愛情が必要です。

第二次世界大戦後、多くの戦災孤児が施設に収容されましたが、衛生状態も栄養状態もいいのにも関わらず子どもの死亡率が高く、ホスピタリズム(施設病)と呼ばれました。そして、それぞれの子どもに担当の看護婦をつけて世話をするようにすると死亡率が改善したことから、ホスピタリズムの原因は母子分離による愛情不足であると判断されました。
家庭の中で育った子どもでも、愛情不足であればホスピタリズムになりえます。


人間は小さいときに子どもの立場で親子愛を経験し、成長すると異性愛を経験し、子どもができると親の立場で親子愛を経験します。
これが人生を貫く太い愛情の線です。
これと比べると友情などは小さいものです。

親子愛と異性愛は人間の本質的な部分ですが、競争社会の原理がそこまで侵食してきました。
夫婦は互いに家事を押しつけ、親は子どもを競争社会に適応させるためにむりやり勉強させているので、親子愛も異性愛も空洞化しています。

親子愛と異性愛はつながっています。親子愛がうまくいっていないと、異性愛もなかなかうまくいきません。子どものときに親から殴られていると異性にDVをしたりします。また、親から十分に愛されていないと自己肯定感が低いので、異性に告白する勇気が出ませんし、嫉妬や束縛が激しくなったりします。少子化の原因に未婚化・晩婚化がありますから、「愛情不足」は少子化の原因でもあります。
親に十分に依存できないと、のちのアルコール依存や薬物依存やギャンブル依存の原因になります。

「愛情不足」は社会全体の問題ですが、その中心は親子愛と異性愛です。ここを改善すれば社会全体も改善されるはずです。


2023年4月にこども家庭庁が発足しました。
こども家庭庁が第一に取り組むべきは「家庭再生」でしょう。家族関係を本来の姿にすることです。

教育界では「教育再生」が重要課題とされていて、政府の設置した教育再生実行会議もあります。「家庭再生」も当然あるべきです。

こども家庭庁は「こどもまんなか社会」というスローガンを掲げています。これは子どもの位置を隅からまんなかへ変えるだけの意味しかなく、人間関係を変える意味はありません。愛情は人間関係のあり方です。

こども家庭庁は「オレンジリボン・児童虐待防止推進キャンペーン」というのをやっています。これはもちろんいいことですが、児童虐待というのは愛情不足の極端なもので、いわばピラミッドの頂点です。ピラミッドの底辺から正していかなければいけません。それこそが子ども家庭庁の取り組むべきことです。

「愛情あふれる家庭キャンペーン」でもやって、よい親子関係、よい夫婦関係とはこのようなものだということを啓蒙していくべきです。
今は人間関係の科学的研究が進んでいるので、そんなにむずかしいことではありません。

家族関係が変われば世界が変わります。
子どものときに親から十分に愛されると、自己肯定感が育まれるとともに、世界は信頼に足るものだという感覚が持てるようになり、それを「基本的信頼感」といいます。
基本的信頼感のある人は周りの人とよい関係をつくることができます。
基本的信頼感のない人間が安全保障政策を担当すると、隣国を信用することができず、最終的に軍事力に頼る結論を導くことになります。

映画や小説の中と同じようにリアルでも「愛」という言葉が普通に語られるようになってほしいものです。


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              Daniela DimitrovaによるPixabayからの画像 

人間が生きて成長していくためにはさまざまな栄養素が必要で、ビタミンCが欠乏すると壊血病になり、ビタミンB1が欠乏すると脚気になり、カルシウムが不足すると骨が弱くなるということは栄養学によって明らかになっています。同様に、人間の心が成長するためには愛情という栄養素が必要で、愛情が不足すると愛情欠乏症になります。しかし、愛情はビタミンやミネラルのような物質ではないので、このメカニズムは科学としてはいまだ明らかになっていません。

第二次大戦後、大量の孤児が発生し、孤児院などの施設に収容されましたが、衣食住が十分な環境であっても、孤児の死亡率が高いという現象が見られました。原因を探ったところ、母親的な存在との情緒的なつながりの不足と考えられ、子ども一人ずつに担当の看護婦を決めて世話をすることで改善しました。
以来、施設において愛情不足により、幼児の死亡率の高さ、身体の成長や言語の発達の遅れが生じることを
「ホスピタリズム(施設病)」というようになりました。
しかし、ホスピタリズムという言葉だと、施設特有の現象と誤解されるかもしれません。そのためかどうか、最近はほとんど使われなくなりました。

「愛情遮断症候群」という言葉もありますが、この言葉だと第三者が愛情を遮断したような誤解を生みます。
精神科医の岡田尊司氏は「愛着障害」という言葉を使っていて、これは割と広がっていますが、この言葉だと愛着するほうに問題があるようにも理解できます。

そこで、私は「愛情欠乏症」ないし「愛情欠乏症候群」という言葉を使っています。この
言葉がいちばん意味が明快ではないでしょうか。


最近、幼児虐待が社会問題化して、愛情不足の問題が否応なく認識されてきました。
わが子を殺したりケガさせたりする親は極端な例ですが、それ以外の親はみんな十分な愛情を子に与えているかというと、そんなことはありません。むしろどんな親も完全な愛情を与えられないというべきで、その不足の度合いによってさまざまな問題が生じてきます。

たとえば依存症が愛情欠乏のひとつの症状です。子ども時代に親に十分に依存できなかったために、なにかに極端に依存してしまうのです。
たとえば恋愛関係になると、恋人に極端に依存するので、「重い」と言われたりします。DVを受けても逃げられないのも、相手に極端に依存しているからです。振られてもその事実を受け入れることができずにストーカーになる人も同じだと思われます。
アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、買物依存症などは有名ですが、セックス依存症や仕事依存症、もっとほかにもあるはずです。

リストカットや摂食障害も愛情欠乏症です。これらはカウンセリングにかかることが多いと思われますが、カウンセラーもピンからキリまであるので、愛情不足に原因があると把握してくれる場合とそうでない場合とで、治り方がぜんぜん違ってきます。

私は以前、リストカットを繰り返す若い女性が出てくるドキュメンタリー番組を見たことがあります。その女性の手首には二十か三十くらいの傷がびっしりとついていて、私は見た瞬間、耐えがたいほどの痛々しい思いがしました。その女性の母親は、「死ぬのだけはやめてね」と言っていて、一見、娘の命をたいせつに思っているようですが、「私に迷惑をかけるのだけはやめてね」という意味としか思えません。娘は母親の愛情を得ようとしてリストカットを繰り返しているのでしょう。

不登校、引きこもり、家庭内暴力なども、原因はいろいろあるにせよ、愛情という心の栄養不足が根底にあります。 

人生になんの意味があるのだろうと悩む若者もいます。こういう悩みは哲学的だとしてほめる人もいますが、私の考えでは、これも愛情欠乏症の一種です。若いのに前向きに生きていけないのは、たいていは愛情不足が原因です。

 
これらをまとめて愛情欠乏症候群ということになりますが、愛情は客観的に測定できないこともあって、この病気に対する理解はまだまだです。

それに、親に向かって「あなたは子どもへの愛情不足です」と言うのは、最大級の人格否定になるので、なかなか言えません。
また、それを言うと子どもも傷つきます。親の愛情が足りないのは自分自身に愛される価値がないからだと思うからです。

しかし、「虐待の世代連鎖」という言葉があるように、親の愛情不足は多くの場合、その親自身が親から十分に愛されてこなかったことが原因です。また、夫婦仲が悪いとか低収入で生活が苦しいということも子どもへの愛情不足につながります。
いずれにせよ、子どもが栄養失調になるのは子どものせいでないように、子どもが愛情欠乏症になるのは子どものせいではありません。


愛情不足の親のあり方はさまざまです。暴力をふるったりネグレクトしたりするのはわかりやすいケースです。教育熱心は愛情の表れとされますが、愛情のない教育熱心はいくらでもあります。巧妙に子どもを支配する親は「毒親」と言われます。

愛情不足の親に対する子どもの反応はふたつに分かれます。
活動的で気の強い子どもは、親に反抗し、喧嘩し、家出したり、仲間といっしょに盛り場をうろついたりします。私はこれを「行動化する不良」と呼んでいます。若くして結婚して親元を離れることも多くあります。
活動的でなく気の弱い子どもは、争いを避けるために親に合わせるので「よい子」と思われたりしますが、心を病んで、不登校、引きこもり、家庭内暴力という方向に行きます。これを私は「行動化しない不良」と呼んでいます。

こうしたことはすべて親の愛情不足が原因ですが、世の中にはまだはっきりと認識されていません。しかし、いずれ脳科学や生理学や認知科学などが愛情を客観的に測定することを可能にし、そのときには栄養学と同様に愛情学が生まれ、世の中から愛情欠乏症候群は一掃されるでしょう。

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