
トランプ氏暗殺未遂事件は衝撃的でしたが、1人死亡、2人重傷という犠牲はあったものの、トランプ氏自身は耳を負傷しただけの軽傷ですみました。
トランプ氏は事件直後に拳を突き上げるポーズをとったように、「テロに屈しない」というお決まりの言葉とともに、ますます攻撃的な言動で分断を深めるのではないかと思われました。
ところが、共和党全国大会で大統領候補の指名受諾演説を行う際、トランプ氏は一転して抑制的な語り口となり、内容も「社会における不一致と分断は癒やされなければならない。私はアメリカの半分ではなく、アメリカ全体のための大統領になろうと立候補した」などと、分断解消を訴えるものとなりました。
報道によると、事件後演説原稿を全面的に書き替えたそうです。
バイデン大統領の名前を出して批判したのも一か所だけでした。
演説の後半は調子が上がっていつものトランプ節を取り戻したなどといわれていますが、1時間30分の動画を見ると、後半もいつものトランプ氏とはまったく違います。笑顔や得意そうな表情や余裕の表情がありませんし、例のトランプダンスもありません。聴衆の盛り上がりも今一歩です。
なぜかほとんど指摘されないことですが、暗殺未遂事件以降、トランプ氏はまるで別人になりました。
あれだけ分断や対立をあおってきた人間が「癒し」などという言葉を使うのですから、別人といっておかしくありません。
演説内容が融和的になったのは、無党派層を取り込むためだと説明されていますが、無党派層を取り込む必要性は前からありました。今回の演説内容変更は事件が影響したとしか考えられません。
犯人の銃弾はトランプ氏の右耳に当たりました。もし2、3センチ銃弾がずれていたらトランプ氏の命はなかったでしょう。
死に直面した人間は心理的に大きな衝撃を受けます。戦場で繰り返し死の恐怖を味わった兵士は、帰還後もPTSDを患うことが少なくありません。
トランプ氏も当然大きな心理的衝撃を受けました。それは、銃撃されて1分ほどして立ち上がったときの表情にも表れています。
それを見て私はトランプ氏も“人の子”だなと思いました。



このあとトランプ氏は拳を突き上げるポーズをします。
しかし、それはあくまでうわべのことです。
強い心理的衝撃を受けたことは変わらず、それが演説内容の変更になって現れました。
ボクサーが不意のパンチを食らってダウンし、それからはガードを固める作戦に変更したみたいなものです。
あるいは愛国心に燃えて戦場に赴いた兵士が、耳元を敵の銃弾がかすめたとたん命が惜しくなったみたいなものです。
人間として当たり前の反応です。
ところが、メディアはやたら拳を突き上げるポーズを取り上げて、トランプ氏に「不屈の精神」があったかのように伝えます。
共和党大会ではトランプ氏を神格化するような言葉があふれました。
トランプ支持者がトランプ氏の神格化をはかるのはわかりますが、メディアまで同じようなことをしてはいけません。
「トランプ氏は銃撃された直後はこんな顔をしていた。そのあとも弱気になり、演説内容を全面的に変えた」と報道してもらいたいものです。
もっとも、トランプ氏の弱気も一時的だったかもしれません。
トランプ氏は7月20日、ミシガン州グランドラピッズの選挙集会で演説し、冒頭からジョークを言うなど「トランプ節全開」とメディアで報じられました。バイデン氏出馬でもめる民主党を「病気で、弱く、哀れなやつらで、選挙も戦えない」と罵倒しました。
早くも融和から分断へと逆戻りしたようですが、完全には戻れません。
というのは、銃撃の犯人をテロリストとして単純に批判できないからです。

その場で射殺された容疑者はトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性です。共和党員として有権者登録を行っていましたが、民主党に15ドル寄付をしたこともあります。高校卒業後は地域の療養院で栄養補助員として働いていました。高校時代、射撃部に入ろうとしましたが、射撃の腕がないので断られました。地元の射撃クラブに少なくとも1年間在籍していました。犯行に使ったAR-15ライフル銃は父親が購入したものです。父親はリバタリアン党員、母親は民主党員であるようです。
容疑者は高校時代にいじめを受けていたという情報もありますが、きわめて平凡な白人家庭で育った20歳の若者です。本人も父親も銃規制反対派に違いないので、トランプ支持層と見なされておかしくありません。
トランプ氏は共和党の大統領候補指名受諾演説で「不法移民は刑務所や精神科病院からやってくる。そしてテロリストたちも、これまでに見たことない数が入ってくる」と語りました。
これはいつも言っている得意のセリフです。
しかし、今回のテロリストは、外から入ってきたのではなく、ラストベルトの普通の白人家庭から出てきたホームグロウン型のテロリストです。
今のところトランプ氏は、すでに射殺されたとはいえクルックス容疑者を非難することはしていないようです。
いかにもひ弱そうな20歳の若者は非難しにくいかもしれませんが、彼がもし移民だったり黒人だったりすれば、トランプ氏は非難しているかもしれません。
クルックス容疑者がいかにしてテロリストになったかというのは重要な問題で、ぜひとも解明しなければなりません。
これは当然、家族の問題ということになるので、保守派がよりどころとする「家族の絆」にメスを入れることになります。
しかし、今のところメディアは、クルックス容疑者の父親に電話して「今はなにも話せない」というようなコメントを引き出しただけです。
両親がなにも語らないなら、親族や近所の人から取材してクルックス家の実態を解明すればいいわけですが、アメリカのメディアは保守派に配慮しすぎるのか、家族の問題には踏み込まない傾向があるようです。
大統領候補暗殺未遂という大事件としてメディアも対応してもらいたいものです。
ここで、バイデン大統領が大統領選から撤退してハリス副大統領を候補として支持すると表明したというニュースが入ってきました。
トランプ氏が一時的に弱気になり、バイデン大統領の批判を控えたので、バイデン大統領も撤退表明がしやすくなったということがありそうです。
一発の銃弾が世界を大きく変えたかもしれません。
