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ネットの子育て悩み相談でよく見かけるのが「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」というものです。
最近、「ほめて育てる」ということが奨励されているので、悩みは深いようです。

「叱る」というのはどういうことでしょうか。
いきなり親が子どもを叱るということはありません。
最初に親は子どもになにかするように要求します。子どもが要求通りに動いてくれないと、親は命令します。それでも子どもが動かないと、親は叱るわけです。

昔は子どもが親の言うことを聞かないと親は体罰をしていました。
今は体罰は社会的に許されないので、もっぱら叱るわけです。
体罰は体に痛みを与えますが、叱ることは心に痛みを与えます。たいして変わりません。

厚労省は、子どもに対する体罰・暴言は脳の萎縮・変形を招くと明言し、「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っています。
なにが暴言かというのは必ずしも明確ではありませんが、どんな叱り方をしても子どもの心は傷つくはずですから、叱ることはすべて暴言と見なしていいのではないでしょうか。


親が子どもに命令したり叱ったりするのは、親子が上下関係になっているからです。
軍隊や企業は厳密に上下関係が決められているので命令があり、命令違反には罰があります。
友人関係には上下がないので、友人に命令することはできません。命令すると友人関係が壊れます。
家族関係も基本的なところは友人関係と同じはずです。


親は子どもに対して命令する権限があると思っていますが、子どもはそうは思っていません。ですから、親に命令されても聞きませんし、叱られても聞きません。
そのため、「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」という親の悩みが出てくるわけです。

もちろん叱るのはよくありませんが、それ以前に命令するのがよくありません。
命令するから、命令違反を叱ってしまうわけです。

命令がだめならどうすればいいかというと、頼めばいいわけです。
親が子どもになにかしてほしい場合は、頼むしかありません。

たとえば子どもが保育園に行くのをしぶったとします。
親がむりやり行かせようとし、それでも行かないと叱るというのが最悪のやり方です。子どもは傷つきますし、ますます保育園嫌いになる可能性があります。

子どもには保育園に行きたくない事情があるわけです。親と離れたくないとか、友だちにいじめられるとか、いやな保育士がいるとか。
親にも子どもに保育園に行ってほしい事情があります。
子どもの行きたくないという気持ちと、親の行ってほしいという気持ちをぶつけ合うと、気持ちの強いほうが勝って、気持ちの弱いほうは譲ることになります。
これが正しい妥協です。
譲ってもらったほうは借りができたので、いずれの機会に借りを返そうとします。
そうして互いに思いやりのある関係が築けます。
親が一方的に命令し、叱っていたのでは、まともな人間関係にはなりません。

夫婦も互いに気持ちをぶつけ合っていけば、正しい妥協ができて、仲良くやっていけるはずです。


家族関係に上下があるのは家父長制の家族です。夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するというのが家父長制です。

家父長制でない本来の親子関係はどんなものでしょうか。
文化人類学の古典とされるブロニスロウ・マリノウスキー著『未開人の性生活』にはこのような記述があります。

トロブリアンド島の子供は、自由と独立を享受している。子供達は早くから両親の監督保護から解放される。つまり正規のしつけという観念も、家庭的な強制という体罰もないのである。親子間の口論をみると、子供があれをしろ、これをしろといわれている。しかしいつの場合も、子供に骨折りを頼むという形でなされており、トロブリアンドの親子間には単なる命令というものは決してみられない。


日本でも江戸時代までは、庶民階級では子どもはたいせつにされ、少なくとも体罰はありませんでした。
明治時代になると武士階級の制度であった家父長制が民法によって国全体の制度となり、夫婦も親子も上下関係となりました。
戦後の日本もまだ家父長制を引きずっています。

愛情で結びついた家族には、上下関係はありませんし、命令も強制もありません。
つい子どもを叱ってしまうという親は、命令や強制で子どもを支配しているのです。


「子どもを叱りすぎてしまう」という悩み相談に対して、子育ての専門家はたいてい「子どもが納得いいくように話し合いをしましょう」とか「感情的に叱ってはいけません」などとアドバイスしますが、叱ることそのものを否定する人はめったにいません。
しかし、「叱らない教育」は平井信義(1919年―2006年)が1970年代から唱えていて、そんな特殊なものではありません。
子どもを尊重していれば命令、強制、叱責などはできないはずです。