
『結婚帝国』は上野千鶴子氏と信田さよ子氏の対談本です。
2004年に『結婚帝国:女の岐れ道』というタイトルで出版され、2011年に追加対談を足して『結婚帝国』として文庫化されました。
上野千鶴子氏といえば言わずと知れた日本のフェミニズム界の第一人者です。
信田さよ子氏はアダルトチルドレン・ブームを主導したカウンセラーであり、親子関係の問題に関する第一人者です。
男女関係が権力的な支配関係になっていることをフェミニズムは告発してきましたが、親子関係の問題は取り残されてきました。
権威ある心理学者も親子関係の問題を親の側から見がちでした。もっぱら現場のカウンセラーが親子関係が権力的な支配関係になっていることを子どもの側から告発してきたのです。
この二人の対談によって、男女関係というヨコ糸と親子関係というタテ糸が交わることになります。どんな織物ができるでしょうか。
なお、私は親子関係の問題を文明史的観点でとらえてきました。
どんな高度な文明社会でも赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきます。親を初めとするおとなは、その赤ん坊を文明社会に適応させなければなりません。家の中を汚さないよう、高価なものを壊さないよう、道路に飛び出さないようにしつけ、読み書き、数学、歴史など多くのことを教えますが、それらは子どもの意志を無視して強制的に行われ、暴力も伴います。ここに権力的な支配関係があり、これは男女関係の問題よりも(歴史的にも個人史的にも)先行して存在しているというのが私の考えです。
最初のうち対談はあまりかみ合っていない感じがします。
たとえば信田氏が「上野さんは笑うと思うけど、わたしは自分が男の性的欲望の対象になるということを自覚したことはありません」と言うと、上野氏は「カマトトか鈍感か、どちらなんですか?」「男の鼻面引きずり回す女だっているじゃありませんか。やったことはないんですか?」ときびしく問い返し、上野氏自身は「誘惑者としての娘」という位置を3歳のときに父から学んで、若いころは男を試し続けたと語ります。
それから、信田氏が「わたしはルイ・ヴィトンが好きなの」と言うと、上野氏は「わたしは、一点もルイ・ヴィトンやグッチを持たないのが誇りです」と言います。
このときの現場はどんな空気だったのでしょうか。こういう摩擦を恐れない姿勢が今の上野氏をつくったのでしょう。
やがて話がかみ合ってきます。それは男女関係の問題と親子関係の問題がもともとシンクロしているからです。
上野氏は「妻を殴るときは自分が痛いんだ」とか「君を殴るとき、僕の心が泣いているんだ」と言う夫の例を持ち出します。
こうした言葉は、親や教師が子どもを殴るときの常套句です。
ということは、DV男というのは、子どものときに親や教師から殴られた経験が深く刻印されているのではないかと思われます。
暴力にもいろいろな形があります。
信田氏は、「僕はこう思うよ」「でも、私はこう思うわ」などと二人で延々3時間も話し合って、その果てに殴るという夫の例を挙げます。この夫は「話し合いをもって善とする」という家族で育った人なので、夜を徹してでも話し合うのですが、いつも最後には手を出すのです。
上野氏は夫から殴られているにもかかわらず逃げ出さない妻に疑問を呈します。もちろん経済的事情や子どものためなどで別れられないということもありますが、逃げられるのに逃げない妻がいることは上野氏にとって理解できないようです。
信田氏は、別れない妻は「孤独」を理由にするといいます。しかし、実際は妻という座から転がり落ちる恐怖ではないかと信田氏は推測します。夫と別れると自分が社会からこぼれ落ちてしまう。社会的地位があろうと、何億という貯金があろうと、結婚制度から降りたとたんに一人の中年女性になってしまう。それをちょっと考えただけで怖いので、「だって、私が捨てたらあの人はどうなるの」などと理由をつけて別れるのを回避するというのです。
信田氏は「家族は強制収容所である」といいます。子どもは強制的に収容されて、逃げられないからです。
それは妻にとっても同じことで、自分で選んだつもりで入っても、そこは強制収容所だったということになります。
こういうことは隠されてきました。暴力は「愛のムチ」と呼ばれました。
それが「アダルトチルドレン」という言葉が出てきて、人々の認識が変わりつつあります。
「PTSD」という言葉も画期的でした。これはアメリカの精神医学界でも認められたものです。診断マニュアルでは病因を不問にするのが建て前だったのに、PTSDは過去のトラウマ体験が病因であるとするものです。そのため法律や裁判の分野で活用されてきました。
私はこれを読んだとき、最近芸能界などで性加害やセクハラが問題になると、かなりはっきりと被害者寄りの判断が下されるようになったのは、こういう事情だったのかと思いました。
つけ加えると、アメリカでは事情が違います。子ども時代に父親から性的虐待を受けたと娘が父親を裁判に訴えても、記憶は捏造されるというへんな理論があるために娘が敗訴してしまうのです(このことは『アメリカは90年代の「記憶戦争」で道を誤った』という記事に書きました)。
信田氏が「わたしはね、『自立』っていう言葉を、すべて消したほうがいいんじゃないかと思うんです」と言うと、上野氏も大いに同感します。
「自立」はネオリベラリズムの「自己決定・自己責任」に翻訳され、努力と才能で人生の勝ち組になるべきだという考えにつながります。そうすると、摂食障害の女の子たちが「わたしが勉強できないのは、わたしの努力が足りないから」「こんなだめなわたし、でもそれを許してるのもわたし」「ああ、こんなマイナス思考のわたし」という出口のないアリ地獄に落ちることになるといいます。
「自立」を否定するならどうすればいいかというと、信田氏は「依存でもいい」と言います。
上野氏はここは同意しません。自分の限界を知って、「自分にないが、必要なものをよそから調達するスキル」が必要だと言います。これが「自立」に代わるものであるようです。
本書のテーマは「女性と結婚」ということになるでしょう。私は親子関係に焦点を当てたので、本書の全体像は紹介できていません。
そこで、多少修正する意味で、追加対談の中で上野氏が語った結婚についてのデータを紹介しておきます。
(財)家計経済研究所が25歳から35歳までの年齢層の女性を1993年から10年間にわたって追跡調査したところ、シングルだった女性の10年後は、正規雇用者のほうが非正規雇用者よりも結婚確率も出産確率も高かったのです。つまり「妻の側」の安定した経済条件が結婚と出産を高めるのです。そうすると、女性に正規雇用を提供することが少子化対策に有効だということになります。
参政党の神谷宗幣代表は「若い女性に働け働けとやりすぎた」ことが少子化の原因であるようなことを言いましたが、正しくは「非正規で働け働けとやりすぎた」ことが少子化の原因だったのです。
上野氏は結婚確率を高めよと主張しているわけではありません。上野氏はこのところ「おひとりさま」の生き方を追究しているように、結婚にも男にも期待していないようです。
信田氏は既婚者ですが、上野氏ほどではないにしても、同じような立場です。
私は男ですから、そんな考えにくみするわけにいきません。男といってもいろんな男がいます。
最初にいったように、文明社会では子どもに強制的で暴力を伴う教育としつけが行われていますが、そのやり方は一律ではありません。ひどく暴力が行使される場合もあれば、愛情深く育てられる場合もあります。
DV男になるかならないかは、そこである程度決まります。
今の世の中は、とくに男の子に対しては暴力的な子育てが認められています。
「巨人の星」の星飛雄馬が父一徹から受けたようなスパルタ教育は極端だとしても、似たことは広く行われています。私は市民プールやスポーツジムのプールで父親が泣きべそをかいている子どもをむりやり泳がしているのを何度も見てきました。もし星飛雄馬が結婚していたらDV男になっていたでしょう。
しかし、DV男というのは、軍隊に入れば“鬼軍曹”になり、ブラック企業に入れば成績のいい管理職になるので、社会から有用な存在と見なされています。
DV男から逃げない女性も同じことです。親から暴力をふるわれていれば、恋人や配偶者から暴力をふるわれても受け入れてしまいます。
つまり暴力的な子育てがDV男とDV男から逃げない女をつくるのです。
「自立」と「依存」についても、親子関係からとらえるとわかりやすくなります。
赤ん坊は完全に母親に依存しています。成長するとともに少しずつ自立していきますが、不適切な養育があると自立がうまくいきません。親がわざと子どもの自立を妨げ、自分に依存させるということもあります。人間には情緒的な人間関係が必要なので、夫婦関係が形骸化し、友人関係もほとんどないという親は、子どもをいつまでも手元に置いておきたくなるのです。
したがって、成人しても十分に自立していないという人がほとんどです。そういう人に「自立しろ」と言ってもむだなことです。自分の成育歴を振り返り、親子関係を見直し、現在の人間関係の中で親から与えられなかった愛情を補填することで自立ができます。
もっとも、人間は出発点で依存していたのですから、依存するのが本来の姿で、自立は表面的な姿だともいえます。適切な依存関係を持つことが幸せのひとつの条件だと思います。
私は子どもが強制的・暴力的に教育・しつけをされている状況を「子ども差別」と呼んでいます。
この世の中の根底には「子ども差別」と「性差別」というふたつの問題があるわけです。
家父長制も「子ども差別」と「性差別」というふたつの差別で成り立っていると見なすと、わかりやすくなります。
性差別を解消しても自分に利益はないと思う男性が多いので、フェミニズムはあまり男性に支持されません。
しかし、子ども差別は男性自身の問題でもあるので、子ども差別解消の運動は男性を巻き込むことが可能です。
子ども差別をなくし、まともな親子関係で育った男が増えてくれば、上野氏も少しは結婚を肯定的にとらえるようになるのではないでしょうか。
