
3月11日、動画配信サービスで生配信をしていた、いわゆるライバーの女性(22歳)が東京・高田馬場の路上で白昼に刺殺されるという事件が起きました。
容疑者は配信中の動画を見て居場所を知り、ナイフで襲いかかり、十数秒にわたって「助けて」という叫びがあたりに響き、被害者の体には30か所に及ぶ刺し傷があったということです。
現行犯逮捕された職業不詳の高野健一容疑者(42歳)に最初は非難が集まりましたが、犯行に至る事情が報道されるとともに雲行きが変わってきました。
高野容疑者は2021年12月ごろ、被害女性の配信を見たのをきっかけに出会い、「財布を忘れてしまった」「生活費が足りない」といった理由でお金を求める被害女性にお金を貸し続けました。返済を求めても返してもらえないために高野容疑者は裁判に訴え、裁判所は約250万円を返済するよう被害女性に命じる判決を下しました。
しかし、被害女性は数万円を返しただけで、裁判所の命令を無視しました。こうした場合、債権者が返済してもらうには財産開示手続きをしなければならず、それでも債務者が無視すれば刑事事件化しなければならないというように、ひじょうに高いハードルがあります(司法制度の欠陥です。このため一般の人は裁判所に近づきません)。
高野容疑者は財産開示手続きを行い、警察にも借金トラブルの相談をした記録があるそうです。
女性の預金口座には800円しかなかったという報道もあり、だとすると女性は裁判所の命令を無視する作戦だったと思われます。
なお、高野容疑者は裁判所の認めた借金のほかに「投げ銭」もしていたようです。
42歳の男性が22歳の女性に入れあげるというのも愚かですが、その男性から多額の金を巻き上げる女性も問題です。
高野容疑者はある時点で自分が利用されているだけだと気づいたようで、貸した金の返済を求めますが、女性に無視されたため裁判に訴えるという正当な手続きをします。
しかし、この手続きは手間も時間もかかります。
高野容疑者はライバーの女性が楽しそうにライブ配信をしているのを見て、怒りや恨みの感情をつのらせ、ついに犯行に及んだのかと思われます。
ネットにはライバーの女性を非難する声があふれました。非モテ男性が容疑者に同情したということもありそうです。
「自業自得」とか「殺されて当然」とか「判決を無視することが許されてはいけない」などの意見は殺人肯定の意見と変わりません。
3月14日、東京・霞が関の財務省の前で行われていたデモのそばで、NHK党首の立花孝志氏が支持者と握手をしていたところ、いきなりナタで襲われ、耳と頭部をケガするという事件が起きました。
現行犯逮捕された無職の宮西詩音容疑者(30歳)は、「議員を自殺に追い込むようなやつだからやった」と供述し、殺意を認めています。
宮西容疑者の言う「議員」は1月に自殺した元兵庫県議会議員の竹内英明氏のことでしょう。立花氏の誹謗中傷により県議を辞職し、それでも家族が誹謗中傷にさらされることに悩んでいたということです。
ほかにも立花氏の“悪行”は数々あり、これまで逮捕されていないのが不思議です。
この事件についても、被害者の立花氏を非難する声が圧倒的多数で、容疑者を非難する声はほとんどありません。
そのため殺人(未遂)が肯定されているみたいです。
テレビのコメンテーターなどは「殺人はもちろん許されることではありませんが」と前置きしてから犯行の背景などを説明しますが、そうするといつの間にか殺人を肯定するような空気になってしまいます。
日本には死刑制度があります。悪いことをした人間は殺されるべきだとされているわけです。
もちろんそれは法によって裁かれた上でのことです。個人が死刑を執行するのは「私刑」ですから許されません。
しかし、法律にも不備があって、裁判所の力を借りてもなかなか借金が取り戻せないことがあります。
立花氏も、なぜか検察や警察が手を出さないため、やりたい放題をしています。
法が機能していないなら私刑も許されるという考えが出てきてもおかしくありません。
正義のヒーローが活躍する映画がそういう論理です。
テロリストやギャングに警察が無力なとき、正義のヒーローが登場してテロリストやギャングを殺しまくります。
国際社会も、法の支配がないので、軍事力のある国のやりたい放題になっています。
殺人などを肯定する論理は「正義」と呼ばれます。
死刑や正義のヒーローの殺人は「正義の殺人」です。
「正義」は一般に、悪と戦い、悪を滅ぼすものとされています。
しかし、それは大きな勘違いです。
殺人事件が起こり、被害者遺族が犯人に怒りを覚え、死刑にしてほしいと思ったとします。これはなにかというと、要するに「殺人の連鎖」あるいは「殺意の伝染」です。
昔は直接の復讐である仇討ちが許されていました。仇討ちを考えれば「殺人の連鎖」であることがはっきりします。
たとえばあなたが街中を歩いていて人とぶつかり、罵声を浴びせられたとします。あなたの心の中は不愉快な感情でいっぱいになり、そのためなにかのはずみで人に罵声を浴びせたりします。
反対に人に親切にしてもらったら、自分も人に親切にしないといけないなという気持ちになります。
つまり悪も連鎖するし、善も連鎖するのです。
映画の正義のヒーローは、ギャングやテロリストと同じことをしているだけです。
アメリカで多い銃犯罪の犯人も、自分は「正義の殺人」をしていると思っているはずです。
アメリカの警察官が安易に容疑者を射殺するのも同じです。
「相手が悪いことをしたから、こっちのすることは正義だ」と考えると、悪が連鎖して、どんどん悪が増大していきます。
女性ライバー殺人事件や立花氏襲撃事件について、殺人を肯定するような声が多いのも、悪の連鎖だと考えるとわかるでしょう。
善も悪も連鎖します。
世の中をよくするには、悪の連鎖を少しでも善の連鎖に変えていくことです。
もっとも、それは簡単なことではありません。
というのは、善・悪・正義については人によって理解が違うからです。
ですから、善・悪・正義を基準にものごとを考えると、かえって対立や争いが激化してしまいます。
むしろ善・悪・正義という概念を頭から消し去ったほうが現実をありのままにとらえることができて、うまくいきます。
たとえばヒトラー暗殺はよいか悪いかという問題は、善・悪・正義ではなくもっぱら功利主義(最大多数の最大幸福)から判断するとうまくいきます。
善・悪・正義を頭から消し去る方法については「道徳観のコペルニクス的転回」を読めばわかります。