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アメリカでトランプ氏の大統領再選に伴ってバックラッシュ(反動)の動きが強まっています。
そのひとつが多様性目標の見直しです。

たとえばアメリカのマクドナルド社は、少なくとも片方の親がヒスパニックかラテン系であることを条件に大学生に最高10万ドル(約1500万円)を支給するという奨学金制度を設けていました。これが保守系団体から他人種への差別に当たるとして提訴され、そのこともあってかマクドナルド社は今月、多様性目標に関する方針を見直すと発表しました。

「多様性の実現」は、国連総会で採択されたSDGsの重要な柱です。
今は多様性(ダイバーシティ)、公平性(エクイティ)、包括性(インクルージョン)をまとめて「DEI」という言葉もよく使われます。
多様性実現を目指すやり方のひとつにクオーター制があります。男性の国会議員が多い場合、女性議員の比率を増やすとか、大学入学者に有色人種の比率を増やすといったやり方です。
しかし、これはものごとの原因はそのままにして結果だけ変えようとするようなものです。
マクドナルドのやり方も保守派につけ込まれるところがあったのではないでしょうか。


そもそも現実とは多様なものです。
たとえば人体を構成する細胞の数は37兆個とされ、一人の人体には100兆個を越える数の微生物が存在するとされます。
人間はそんなことは認識できません。つまり多様な現実の一部しか認識していないのです。
顕微鏡を使うことで微生物の存在が認識できるようになり、望遠鏡を使うことで月の表面に地球と同じように山や谷があることがわかり、地動説の正しいことが明らかになりました。
今では観測衛星とコンピュータを駆使することで複雑な気候の変化がかなり正確に予測できるようになっています。
とはいえ、人間に認識できる多様性は世界の多様性のごくごく一部にすぎません。

そして、人間は言葉を使って世界を認識するということをします。ここに問題があります。
人間は「宇宙」とか「太陽系」という言葉をつくることで認識を広げました。
さらに「神」や「神話」という虚構をつくることで人々は国家のような大きな集団をつくり、文明を発達させてきたとされます。このことは「認知革命」と呼ばれ、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』によって広く知られるところとなりました。

ここでは虚構の問題は関係ないので置いておき、現実と言葉の問題について述べます。

言葉で表現できるのは多様な現実のごく一部です。
たとえば「灰色」という言葉はひとつですが、実際の灰色は黒に近いものから白に近いものまで多様です。これを表現するには、グラデーションを数値で表現するというやり方しかなく、話し言葉では限界があります。
「虹色」は日本では七色ということになっていますが、実際の虹に色と色の境界はないので、国によって色の数は違います。ちなみにLGBTQを象徴する旗としてレインボー・フラッグがパレードなどで使われますが、これは六色になっています。
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つまり言葉は「ある」か「ない」か、「白」か「黒」かみたいな単純な表現になりがちで、「灰色」にあるような多様性はうまく表現できません。
人間の性のあり方は多様ですが、言葉は実質的に「男」と「女」しかなく、その中間の人は表現できませんでした。「白」と「黒」があって「灰色」がないみたいなものです。LGBTQという言葉ができることで性の多様性の認識が少し進んだといえます。

人間の能力は多様で、これは言葉ではとうてい表現できません。しかし、表現しないわけにいかないので、大卒か高卒かとか、東大卒か三流大卒かとか、偏差値がいくらとか、単純化して表現することになります。
単純化すると重要なことがこぼれ落ちるので、ここにひとつ問題があります。
しかし、それよりももっと大きな問題があります。
それは「黒人は(白人より)能力が低い」というような偏見です。
多数の黒人をひとまとめにして一律に能力評価をするというのはむちゃくちゃですが、それがまさに偏見です。
あまりにも非論理的なのではっきりと口に出して言われることはまずありませんが、この認識は広く存在して、社会のあり方を規定しています。
「女性は(男性より)能力が低い」というのも同じです。
マイノリティの存在を無視するというのもやはり偏見です。
こうした偏見によって、もともとあった多様性が社会から消し去られてきました。

ですから、「多様性の実現」を目指すなら、偏見を消去することです。そうすれば、おのずと多様性が出現します。

ところが今は、偏見をそのままにして「多様性の実現」を目指そうとしています。
「偏見」に「多様性」を上書きすれば「偏見」がなくなると考えているようです。

しかし、そうはいきません。
「差別はよくない」というのは知識や理念として脳の表層に植えつけられたものなのに、偏見は幼児期から親や身近な人間の行動を見て学習したものなので、こちらのほうが強いからです。
いくら「多様性」を上書きしても、「偏見」は消えることはなく、個人は矛盾を抱え込みます。
矛盾を解消するために「偏見」を消すよりも「多様性」を消そうとする人のほうが多かったために、今回のバックラッシュが起きてしまったのでしょう。

ですから、偏見と戦って、これに打ち勝たないと、差別解消も多様性の実現もできません。
リベラルにはそういう戦う姿勢が欠けていたのではないでしょうか。
国連の目標も、きれいごとばかりが並んでいて、偏見や差別と戦うという姿勢が見られません。
そもそも「多様性」というのはもともとあるものですから、「多様性の実現」という目標がおかしなものです。
「差別・偏見の解消」を目標にしたほうがわかりやすかったでしょう。

ポリティカル・コレクトネスといって“言葉狩り”をしてきたのも同じ誤りでした。
言葉は表層にあるもので、問題は深層にある差別意識だからです。


差別と戦うには、ひとつは差別が歴史的にどう形成されたかを知ることです。
人種差別は、少なくとも古代ギリシャ・ローマ時代に周辺民族をバルバロイと呼んだことまでさかのぼれます。周辺民族を奴隷にし、植民地支配するためには、周辺民族は自分たちより劣等だと見なす必要がありました。これが人種差別です。これは近代の奴隷制と植民地支配の中でさらに強化されました。
現在、ヨーロッパで移民排斥運動が強まっていて、これをフランスやドイツの国内問題であるかのように報道されていますが、グローバルに見ると白人の人種差別運動が強まっているということです。

もうひとつは、個人の偏見がどう形成されるかを知ることです。
たとえば性差別は、幼児期に両親の関係を見て学習します。人種差別も、親や身近な人が黒人にどう接したかを見て学習します。ですから、こうした偏見をなくすには、家族関係の見直しが不可欠です。

リベラルは、歴史問題や家族関係の見直しという根本的な問題から逃げて、「多様性の実現」という表面的な成果を求めたために、結局保守派の反撃を受けてしまいました。