村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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アメリカ大統領選でトランプ氏勝利の可能性が高まっています。
世論調査ではハリス氏が数ポイントリードしていますが、大統領選の賭けサイトではトランプ氏の勝率が60%に達し、株式市場でも“トランプ銘柄”の上昇が目立っています。
どうしてトランプ氏は人気なのでしょうか。

トランプ氏は不法移民について「彼らは第三世界の刑務所や精神科病院から来た」「米国に悪い遺伝子が入っている」「米国の血を汚している」などと言っています。
そして、こうした犯罪者の侵略に責任があるのはバイデン大統領とハリス副大統領だとし、「ジョー・バイデンは精神的に障害を負った。カマラは生まれつきそうだった。考えてみれば、わが国にこんなことが起こるのを許すのは精神障害者だけだ」と語りました。

大統領選の投票日の混乱の可能性について問われ、インタビュアーが「外国の扇動者」の例を持ち出すと、トランプ氏は「より大きな問題は国内の人だと思う。米国には非常に悪い人間がいるし、病んだ人々もいる。急進左翼の異常者だ」とし、「必要なら州兵によって、あるいはもし本当に必要なら軍隊によって、ごく簡単に対処できると思う」と述べました。
投票日にトランプ氏は軍隊を動かすことはできないので、なにか勘違いをしていますが、もし権限があるなら、みずから映画「シビル・ウォー」のような内戦を起こすかもしれません。
また、ハマスによるイスラエル襲撃から1年たった日に「再選されたらユダヤ人嫌いを排除する」とも述べました。


トランプ氏は銃撃事件で耳を負傷したときから元気がなくなり、得意の攻撃的な弁舌も威力がなくなりました。
しかし、このところ元気が戻ってきて、攻撃的な言葉を連発しています。
それがどうやらアメリカ国民に受けているようです。
暴言を連発するほど支持率が上がるというのは、どういう理屈でしょうか。

どこの国であれ、人々は強いリーダーを求めます。
トランプ氏は体が大きく、タフで、その上強い言葉を発するので、それが強いリーダーのイメージになっています。
トランプ氏の「遺伝子」「血を汚している」「精神障害者」などの発言は差別的だとして批判されましたし、「不法移民がペットを食べている」という発言は事実でないと批判されましたが、トランプ氏は撤回も謝罪もしません。それがまた“強さ”と認識されているのでしょう。

トランプ氏の姪であるメアリー・L・トランプ氏が書いた暴露本によると、トランプ氏の父親は『権力を持つ者だけが、物事の善悪を決める。うそをつくことは悪ではなく「生き方」の一つ。謝罪や心の弱さを見せることは負け犬のすることだ』ということを子どもたちに教えたそうです。
トランプ氏はその教育方針を実践していることになります。

なお、パワハラで内部告発されて失職した兵庫県の斎藤元彦前知事は、世の中から総バッシングされても頑として自分の非を認めず、そうするうちにだんだんと斉藤前知事の支持者が増えてくるという現象が見られました。トランプ流はなかなか有効なようです。


暴言を連発するトランプ氏ですが、決してでたらめを言っているわけではなく、一貫性があります。
これらの暴言はすべて「悪いやつをやっつけてアメリカをよくする」ということを言っています。
「悪いやつ」が不法移民や精神障害者や急進左翼やユダヤ人嫌いであるわけです。

「悪いやつをやっつけて世の中をよくする」というのは、正義のヒーローが活躍するハリウッド映画の論理です。
こうした物語は一般に「勧善懲悪」といわれます。「水戸黄門」などは勧善懲悪の典型です。
しかし、ハリウッド映画には勧善懲悪という言葉は合いません。というのは「勧善」の部分がなくて「懲悪」ばかりだからです。
正義のヒーローが悪いやつを派手にやっつけるシーンを中心につくられています。

日本でもどこの国でも、勧善懲悪や正義の物語は一段低く見られて、それほどつくられません。
ところが、アメリカではきわめて多くつくられています。
アメリカ人は正義のヒーローが悪人をやっつける物語がとくに好きなようです。
ですから、悪いやつをやっつけると言うトランプ氏が正義のヒーローと重なって、アメリカ国民に人気なのでしょう。


正義の力で悪いやつをやっつけても世の中はよくなりません。
なぜなら善、悪、正義には定義がないので、「悪いやつ」というのは権力者が恣意的に決めるからです。
そうすると権力が暴走し、悪くない者が「悪いやつ」とされて、世の中が混乱するだけです。
そうならないように、誰が「悪いやつ」かは法律で厳密に決めるというやり方が採用されています。それが「法の支配」です。
ところが、アメリカではしばしば「法の支配」よりも「正義の支配」が優先されます(「正義の支配」は「力の支配」とイコールです)。
そのためトランプ氏の「悪いやつをやっつけてアメリカをよくする」という主張がアメリカ国民に支持されるのでしょう。


アメリカでは犯罪に徹底的にきびしく対処してきました。
犯罪者はどんどん刑務所に入れるというやり方です。
しかし、再犯率が高いので、「スリーストライク法」というのがつくられました。これは、1年以上の刑を2度受けた者は、3度目はどんな微罪でも終身刑になるという法律です。
その結果、2015年の数字ですが、アメリカの人口は世界の5%なのに囚人の数は世界全体の25%を占める約220万人にのぼり、アメリカの成人の100人に1人が刑務所の中にいるということになりました(今は少し減少しています)。
つまり「悪いやつをやっつける」という正義の論理によるアメリカの犯罪対策は失敗だったのです。

ところが、多くのアメリカ人は自分たちの失敗を認めたくないようです。
そのため「不法移民が犯罪を持ち込んでいる」というトランプ氏らの主張に食いついています(統計的には不法移民とアメリカ生まれの人の犯罪率に差はないとされます)。


ともかく、「悪いやつをやっつけてアメリカをよくする」というトランプ氏の主張は根本的に間違っているので、トランプ氏が当選してからの混乱が懸念されます。
とりわけ「急進左翼に軍隊を使って対処する」とか「ユダヤ人嫌いを排除する」と言っているので、トランプ政権の政策に反対する大規模なデモが起こったときに、警察や軍と衝突するといったことが懸念されます。

一方、トランプ氏が世界大戦の引き金を引くといったことはないかもしれません。
ハマスによるイスラエル襲撃の1周年の日にトランプ氏は「(国内の)ユダヤ人嫌いを排除する」と言いましたが、「ハマスを排除する」とか「ヒズボラを排除する」とは言いませんでした。

一方、バイデン大統領は、イスラエル軍がヒズボラの最高指導者ナスララ師を殺害したと発表したとき、「正義の措置だ」という声明を発表しましたし、やはりイスラエル軍がハマスの指導者シンワル氏を殺害したとき、「テロリストが正義から逃れることはできない」という声明を発表しました。
また、バイデン大統領はロシアのウクライナ侵略を「悪」と思っているので妥協しません。

トランプ氏とバイデン大統領は対照的です。
バイデン大統領はネタニヤフ首相を苦々しく思っていますが、ハマスやヒズボラをやっつけることは賞賛します。
トランプ氏はネタニヤフ首相と仲良しでイスラエルを支持していますが、ハマスやヒズボラをやつつけることにはあまり興味がないようです。

アメリカはロシア、中国、イスラム圏と争って覇権を確立するという世界戦略を持っています。
こうした考え方を代表するのがネオコンですが、ネオコンでなくても、アメリカ全体にこうした半ば無意識の世界制覇の野望が存在しています。
バイデン大統領はその世界戦略の中で動いていますし、ハリス氏も同じでしょう。
ところが、トランプ氏にはその野望がまったくありませんし、世界戦略も理解していません。
トランプ氏の関心はもっぱらアメリカ国内の対立に向けられています。
ですから、トランプ氏はウクライナを放棄するのも平気です。
日本や韓国に米軍を駐留させている意味がわからず、日本や韓国を守るためだと思っているので、日本や韓国に駐留の対価を要求します。
中国が台湾に侵攻したときに軍事力行使の可能性を問われると、「その必要はないだろう。中国に150から200%の関税を課す」と答えました。アメリカの歴代政権が軍事介入の可能性をほのめかして中国を牽制してきたのとはまったく違います。
トランプ氏はプーチン大統領とも金正恩委員長とも仲良しですし、習近平主席については「習近平は私のことを尊敬している」と語っています。
トランプ氏が大統領になれば、大きな戦争は起こりそうにありません。
ここはトランプ氏を評価できるところです。


アメリカ国民は「正義」が大好きです。
バイデン・ハリス氏らの「正義」は「世界の悪いやつをやっつける」というもので、世界を分断します。
トランプ氏の「正義」は「国内の悪いやつをやっつける」というもので、国内を分断します。
まさに「究極の選択」ですが、アメリカ国民は「世界の悪いやつをやっつける」ことに次第に興味を失って、トランプ流を支持しているようです。

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ヘイトスピーチ、誹謗中傷、自粛警察、感染者差別など、社会から寛容さが失われていると感じる人は多いでしょう。
では、寛容さを取り戻すにはどうすればいいかというと、誰もその方法を示すことができません。

ヘイトスピーチをする人に対して、「マイノリティに対して寛容になるべきだ」と主張すると、「その主張はヘイトスピーチをする人に対して寛容ではない」という反論がしばしばなされます。
これは「寛容のパラドックス」と言い、カール・ポパーが名づけました。
ポパーは「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という結論に達しましたが、見た目が矛盾しているので、この論理で社会を寛容にするのは困難です。

しょっちゅう夫婦喧嘩をしている人は寛容さが足りないといえるでしょう。
本人が寛容さが足りないことを自覚して、寛容になろうとしても、具体的にどうやればいいかわからないので、なかなか夫婦喧嘩も止められません。

「寛容」を国語辞典で引くと、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とありますが、漠然としています。

ウィキペディアによると、「寛容」という概念は、ヨーロッパで宗教改革が起きて宗教対立が激化したために重要視されるようになったということです。
その後、宗教対立以外にも広く寛容のたいせつさが説かれるようになり、宗教的寛容と道徳的寛容として区別する考え方もあります。
日本では宗教対立はそれほど深刻でなかったので、もっぱら道徳的寛容という意味で「寛容」という言葉が用いられていることになります。


道徳的寛容の典型的な物語は「レ・ミゼラブル」(ヴィクトル・ユーゴー著)です。
主人公のジャン・ヴァルジャンはたった1個のパンを盗んだために19年間も服役し、すっかり心がすさんでいました。あるとき泊まった教会の司教は彼を暖かく迎えてくれましたが、彼は教会の銀の食器を盗んで逃げ出し、憲兵に捕まります。しかし、司教は「食器は私が与えた」と言って彼をかばい、さらに2本の銀の燭台も与えます。司教の寛容さに触れたジャン・ヴァルジャンは回心し、ここから長い物語が始まります。これは寛容の連鎖の物語です。

身近なことでよくあるのは、学生のカンニングが発覚して、規定によると単位取り消しで留年になるが、その学生は就職も内定していて、留年させても誰も得しないという場合、担当の教授がカンニングを不問にするというようなことです。
あるいは、商店で万引きした子どもが常習でもなさそうな場合、警察に通報しないで許してやるということもよくあります。

これらが典型的な寛容の例ですが、その特徴を一言でいうと「悪を許す」ということになります。
これは道徳や法律に反するので、社会的に許されません。

教授が学生のカンニングを見逃したことが公になれば、教授も学生もバッシングを受けます。誰も損していないといっても、カンニングをしないまじめな学生に対して不公平だということはあります。
万引きの子どもを見逃したことが知られると、「盗みはいけないことだとわからせるべきだ」といった批判が起きます。

つまり寛容というのは道徳と正面衝突するのです。
「寛容の美徳」という言葉があるので、寛容は道徳の一部と理解されているかもしれませんが、それは誤解です。

道徳というより勧善懲悪と言ったほうがいいかもしれませんが、どちらでもたいした違いはありません。

勧善懲悪は一般に物語の中の原理として理解されています。
有効に機能するのは物語の中だけだからです(もちろん有効に機能するように物語がつくられているのです)。

司法も勧善懲悪を採用しています。悪に対する対症療法として一時的には有効だからです。

マスコミも勧善懲悪を採用しています。読者や視聴者を満足させるからです。

しかし、対症療法だけでは病気が進行してしまうかもしれません。
根本療法(原因療法)が必要ですが、それに当たるのが寛容です。

寛容は心理カウンセリングに似ています。
悪から立ち直るのは本人の力によるという考え方です。
このやり方は、時間はかかっても事態を改善させます。
勧善懲悪は力でその人間を変えようとすることで、目先はうまくいっても、事態をさらに悪化させる可能性があります。

現在、少年法改正による厳罰化が進められようとしていますが、一方で少年の更生に厳罰化はよくないという声もあります。
これは勧善懲悪対寛容の構図と見なすと、よくわかるでしょう。


現在は勧善懲悪の原理が社会をおおっています。
寛容もたいせつなこととされますが、具体的に悪を許すことをすると、社会から非難されます。つまり総論賛成各論反対なのです。
ですから、カンニングや万引きを見逃すといったことは、あくまで隠れて行われています。

最近はマスコミやネットの議論が勧善懲悪の傾向を強めていて、寛容の実行がますます困難になっています。
寛容の復権を目指す人は、ポパーの「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」というようなおかしな理屈は無視して、勧善懲悪の原理を敵と見なして戦うべきです。

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