村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:善悪の知識の木

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「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは名言です。
戦いに勝った者は「自分は正義で、相手は悪だ」と主張し、負けた者はその主張を否定する力がないので、勝った者の主張が社会に広がります。

「勝てば官軍」に当たる言葉は英語にもあります。
「Might is right(力が正義である)」及び
「Losers are always in the wrong(敗者はつねに間違った側になる)」です。
なお、パスカルも「力なき正義は無効である」と言っています。

つまり「正義」というのは、強い者が決めているのです。
最近はそのことが理解されてきて、正義の価値が下落し、正義を主張する人はあまり見かけなくなりました。

そうすると、「悪」の価値も見直されていいはずです。
「悪」も強い者が決めているからです。

さらにいうと、「善」も強い者が決めています。
「善」とはなにかというと、「悪」の対照群です。
テロ行為が「悪」だとすれば、テロ行為をしないのが「善」です。

「正義」も「善」も「悪」もすべて定義がないので、力のある者が恣意的に決めています。
したがって、正義、善、悪で世の中を動かそうとするとうまくいきません。
ハリウッド映画では、正義のヒーローが善人を救うために悪人をやっつけてハッピーエンドになりますが、これはフィクションだからです。

世の中を支配する者は善と悪を恣意的に決めることができます。
そうすると、力のない者はいつ悪人に仕立てられて罰されるかわからないので、安心して暮らせません。
そこで、人を罰することは法律によって厳密に決めることになっています。これが法の支配ないし法治主義といわれるものです。
犯罪者(悪人)と認定するまでの法的手続きは煩雑ですが、どうしても必要な手続きです。
この手続きを省略すると「リンチ」になりますが、リンチが横行すると世の中の秩序が乱れます。


社会は法の支配によって秩序が保たれていますが、法の支配の及ばない領域がふたつあります。
ひとつは国際政治の世界です。ここではロシア、イスラエル、アメリカといった軍事力のある国が好き勝手にふるまっています。
もうひとつは家庭内です。家族は愛情で結びついているので、法律が入り込むべきでないとされてきました。そのためここでも力のある者が好き勝手にふるまっています。


家庭内を見ると、善と悪がどのようにして決められるのかがよくわかります。
小さな子どもは動き回り、大声を出し、物を壊したり、部屋の中を汚したりします。それは子どもとして自然なふるまいですが、親は子どもにおとなしくしてほしい。高度な文明生活と子どもの自然なふるまいはどうしても合わないのです。
そこで、親と子で妥協点を探らねばなりませんが、親は子どもよりも圧倒的な強者です。そのため親は自分勝手にふるまうことができますし、善と悪も自分勝手に決めることができます。
たとえば、おとなしいのは「よい子」で、うるさく騒ぐのは「悪い子」、親の言うことを素直に聞くのは「よい子」で、親の言うことを聞かないのは「悪い子」、好き嫌いを言わないのは「よい子」で、好き嫌いを言うのは「悪い子」、かたづけをするのは「よい子」で、散らかすのは「悪い子」といった具合です。
このように善悪の基準は親の利己心です。したがって、よいとされることが子どもにとってよいこととは限りません。
たとえば親は子どもに「おとなしくしなさい」と言いますが、「おとなしい」を漢字で書くと「大人しい」です。つまり子どもにおとなのようにふるまえと言っているのですが、これは正常な発達の妨げになることは明らかです。

子どもを「よい子」にしつけることは親の義務とされ、しつけを怠る親は非難されます。
こうしたことが幼児虐待を生んでいます。幼児虐待で逮捕された親が判で押したように「しつけのためにやった」と言うのを見てもわかります。

家父長制家族においては、夫は妻に対して圧倒的な強者ですから、夫が善と悪を決めます。
夫に従うのが「よい妻」で、夫に従わないのは「悪い妻」、家事を完璧にこなすのが「よい妻」で、家事の下手なのが「悪い妻」という具合です。
夫にとって都合のよい妻を「良妻賢母」ともいいます。
妻の側からも「よい夫」と「悪い夫」というように夫を評価したいところですが、妻は弱い立場なので、そうした評価が社会的に認知されることはありません。そのため、「悪妻」という言葉はあっても、「悪夫」という言葉はありません。


「よい子」と「悪い子」、「良妻」と「悪妻」という言葉を思い浮かべれば、善と悪は強者が自分に都合よく決めているということがわかります。
ところが、倫理学は善を絶対的な基準と見なしてきました。
アリストテレスは、人間は「最高善」を目指すべきであるとし、カントも「最高善」について論じています。
「よい子」や「よい妻」の最高の状態を目指すべきだということです。そんなことをしても、本人は少しも幸福ではなく、親や夫が喜ぶだけです。
こんな倫理学が顧みられなくなったのは当然です。


善、悪、正義、「べき」などを総称して道徳というとすると、道徳はすべて人間がつくったものですから、そこに必ず人間の下心があります。
道徳は、人間の心を縛る透明な鎖です。
鎖を断ち切ってこそ自由な生き方ができます。



前回の「一神教の神は怖すぎる」という記事で、エデンの園でアダムとイブが神の言いつけにそむいて善悪の知識の木から食べたために楽園を追放されて不幸になったということを書きました。
人間は善悪の知識を持ったために不幸になったという話は暗示的です。
それまで親子は一体で、子どもはなにをしても親から愛されていましたが、親が「よい子」と「悪い子」という認識を持ったときから子どもは行動を束縛され、愛の楽園から追放されたのです。
子ども時代の不幸は人生全体をおおい、さらに世界全体をおおっています。

別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」では、善と悪についてさらに詳しく書いています。


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                 Enrique MeseguerによるPixabayからの画像

なぜ人間社会に幼児虐待という悲惨なことがあるのでしょうか。

幼児虐待は世代連鎖するとされます。つまり子どもを虐待する親は、自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いというのです。
そうすると、その親も子どものころ虐待されていたことになります。そして、その親もまた……とどんどんさかのぼっていくと、「人類最初の虐待親」にたどりつく理屈です。
もちろんそんな正確に連鎖するわけがありませんが、思考実験として「人類最初の虐待親はいかにして生まれたか」を考えるのもおもしろいでしょう。

反対に、いちばん最初から考えるという手もあります。
人類のいちばん最初のことは神話に書かれています。
もちろん神話は事実ではありませんが、なんらかの“真実”があるということもいえます。

旧約聖書の「創世記」に最初の人間であるアダムとイブのことが書かれています。アダムとイブは知恵の木から知恵の実を取って食べたためにエデンの園を追放された――と思っている人が多いのではないでしょうか。私も昔はそう思っていました。
しかし、実際は「知恵の木」でもなければ「知恵の実」でもありません。
この違いは重要です。

今はネットで簡単に聖書が読めます。次のふたつのサイトを参考に、要点をまとめてみました。

創世記(口語訳) - Wikisource

Laudate | はじめての旧約聖書 - 女子パウロ会


神は最初の人であるアダムをつくってエデンの園に住まわせた。エデンの園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」があった。神はアダムに「あなたは園のすべての木から満ち足りるまで食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。必ず死ぬからである」と言った。神はさらにイブをつくって、二人は夫婦となった。二人とも裸だったが、恥かしくはなかった。生き物のうちでもっとも狡猾な蛇はイブに、善悪の知識の木について、「食べてもあなた方は決して死ぬようなことはありません。 その木から食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者になることを神は知っているのです」と言った。イブはその実を取って食べ、アダムにも食べさせた。すると二人の目は開け、自分たちが裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、イチジクの葉で腰を隠した。二人が善悪の知識の木から食べたことを知った神は「人はわれわれの一人のように善悪を知る者となった。彼は命の木からも取って食べ、永久に生きるものになるかもしれない」と言い、アダムとイブを楽園から追放し、以後、人間は苦しみに満ちた生活を強いられるようになった――。

つまり「知恵の木」ではなく、「善悪の知識の木」ないし「善悪を知る木」なのです。

「善悪の知識の木」はヘブライ語の「エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ」の直訳です。
どうしてそれが「知恵の木」と訳されることが多いかというと、「善と悪」には「すべての」という意味もあるからだというのです。つまり「すべての知識の木」だから「知恵の木」というわけです。
しかし、それは間違った解釈でしょう。
「知恵の木」と訳すと、そのあとの「神のように善悪を知る者になる」という言葉とつながりません。

神が善悪の判断をする限りは問題ありません。正しく判断するか、正しくなくても人間は受け入れるしかないからです。
しかし、人間が善悪の判断をすると、自分に都合よく判断します。
みんなが自分に都合よく判断すると、対立と争いが激化します。


この物語は基本的に、幼児期は母親に守られて幸せだった人間が自立するときびしい現実の中で生きなければならないことのアナロジーになっています。そのため誰でも心の深いところで共鳴するものがあるはずです。

子どもが自立するのは、昔なら十二、三歳でしょう。
しかし、善悪の知識を得た人間においては、親は子どもを善悪で評価します。子どもが言葉を覚えたころからそれが始まるでしょう、親から「悪い子」と見なされた子どもは、怒られたり、叱られたり、体罰をされたりします。
つまり人間が善悪の知識を得たことから幼児虐待は始まったのです。

楽園追放の物語は、人間は善悪を知ることで不幸になったということを教えてくれます。

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