
乃木希典像と東郷平八郎像
明治時代になって学校制度が始まると、それまで寺子屋で伸び伸びと学習していた子どもたちは、規律ある学校に通わされるようになりました。
規律が重視されたのは兵士と産業労働者を育成するためなのに、今も同じ規律重視の学校教育が行われているのはまったく時代遅れだということを、前回の「“ゆたぼんアンチ”に伝えたいこと」という記事に書きました。
教育が時代遅れだと、時代遅れの人間が量産され、国全体が時代遅れになってしまいます。
明治政府は学校制度を始めただけでなく、家庭教育の改革も行いました。
明治政府が理想とした家庭教育はどんなものでしょうか。
それを知るには、国定教科書に載った乃木希典大将の子ども時代の話が参考になります。
乃木大将の話は修身の教科書と国語の教科書に載り、当時の日本人はみな知っていました。
この話はネット上には出ていないので、ここに全文を書き写します。
乃木大将の幼年時代
乃木大将は、幼少の時体が弱く、其の上臆病であつた。幼名を無人(なきと)といつたが、寒いと言つては泣き、暑いと言つては泣き、朝晩よく泣いたので、近所の人は、大将のことを、無人ではない泣人(なきと)だと言つたといふことである。
大将の父は、長府藩主に仕へて、江戸で若君のお守役をしていたが、自分の子供がかう弱虫の泣虫では、第一藩主に対しても申しわけがない、どうかして子供の体を丈夫にし、気を強くしなければならないと思つた。
そこで、大将が四五歳の時から、父はうす暗い中に大将を起して、往復四粁もある高輪の泉岳寺へよく連れて行つた。泉岳寺には、名高い四十七士の墓がある。父は、途々義士のことを大将に話して聞かせて、其の墓に参詣したのである。
或年の冬、大将が思わず「寒い。」と言つた。父は、
「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」
と言つて、大将を井戸端へ連れて行き、着物をぬがせて、頭から冷水を浴びせかけた。大将は、これから後一生の間、「寒い。」とも「暑い。」とも言わなかつたといふことである。
母もまたえらい人であつた。大将が何かたべ物の中にきらひな物があると見れば、三度々々の食事に、必ず其のきらひな物ばかり出して、大将がなれるまで、うち中の者がそればかりたべるやうにした。其のため大将には、全くたべ物に好ききらひがないやうになつた。
大将が十歳の年、一家は郷里へ帰ることになつた。其の時大将は、江戸から大阪まで、馬やかごに乘らず、両親と共に歩いて行つた。当時、体がもうこれだけ丈夫になつて居たのである。
郷里の家は、六畳・三畳の二間と、せまい土間があるだけの、小さい粗末な家であつた。けれども、刀・槍・長刀など、武士の魂と呼ばれる物は、何時もきらきら光つて居た。
此の父母の下に、此の家にそだつた乃木大将が、一生を忠誠質素で押し通して、武人の手本と仰がれるやうになつたのは、まことにいわれのあることである。(『日本教科書体系 近代編 海後宗臣等編 第8巻 国語』)
乃木少年の嫌いな食べ物のことが出てきます。教科書には具体的には書かれていませんが、これがニンジンであることは全国民が知っていました。
ですから、子どもがニンジンを嫌いだというと、いや、ニンジンに限らずなにかを嫌いだというと、親はその嫌いなものをむりやり食べさせるということが全国の家庭で行われていたのです。
これは私の若いころも似たようなものでしたし、今でも子どもの好き嫌いは矯正しなければならないと考えている親がいます。
人間はなにかを食べたあとで体の調子が悪くなると、その食べ物を生理的に受けつけなくなることがあります。これは生体の防御反応なので、矯正することはできません。
食べ物を嫌いになる理由はいろいろありますが、基本的に放置しておくしかなく、たいていは何年かすれば食べられるようになります。
子どもに冬に冷水を浴びせかけるというのもひどい話です。
子どもにむりやり嫌いなニンジンを食べさせることも冷水を浴びせることも、今では幼児虐待と見なされるでしょう。
昔は国家が幼児虐待を奨励していたわけです。
こうした教育(虐待)の結果、乃木少年は親に向かって「暑い」も「寒い」も、「好き」も「嫌い」も言わなくなりました。
とてもまともな親子関係とは思えませんが、国定教科書はこれをよしとしていたのです。
普通、父親が子どもにきびしいと、母親がやさしいとしたものですが、乃木家では両親ともにきびしかったので、乃木少年は家を逃げ出すことになります。
乃木は16歳のとき、虚弱な体では武士に向かないと思い、学問で身を立てようと決心し、父親に許可を願い出ますが、拒否されます。そこで無断で家を出て、親戚の玉木文之進の家に世話になろうとします。玉木文之進は吉田松陰の叔父であり、松下村塾の創始者でもあります。
しかし、文之進からは、武士の家に生まれて武芸を好まないのであれば百姓をせよと一喝されてしまいます。乃木は失意のうちに文之進の家を出ますが、夫人が追いかけてきて、もう夜だから一泊して明日帰りなさいと言われたので、泊まることにします。その夜、夫人から、あなたが農業に従事するなら自分は夜に日本外史などを講義してあげましょうと言われ、玉木家で百姓をする決心をします。
農業と林業の仕事は虚弱な乃木にはきびしいものでしたが、次第に慣れてきます。
次は乃木が後年、学習院生徒に対して当時の様子を語った言葉です。
農耕の暇には畑中にて玉木翁より学問上の話も聞き、夜に入れば、夫人が糸を紡ぐ傍らにて日本外史などを読み習ひたり。此の如くすること一年に及びしに、余が体力は著しく発達し、全く前日の面影を一変するに至りぬ。余は是に於いて玉木翁の教育の効果の空しからざるを悟り、漸く武士としての修養を積まんと志すに至れり。
わずか1年で乃木は虚弱な体から頑健な体になったというのです。
乃木家にいたときも両親からきびしく体を鍛えられていましたが、それはまったく効果がありませんでした。
玉木家ではなにが違ったかというと、農作業をしていたこともありますが、玉木夫妻の愛情に恵まれたからではないでしょうか(あと、食事がまともなものになったということもありそうです)。
つまり乃木家で虐待されていた乃木少年は、玉木夫妻のもとで“育て直し”をされたのです。
このへんの事情を、大濱徹也著『乃木希典』はこのように解説しています。
少年無人にとり、このような養育は好ましいものではなかった。家庭にあって、父親のみならず母親までが、父親と同じように、厳格すぎる態度で無人にあたったことは、少年の心にある母性的な愛への憧憬がみたされないまま、少年に、常に愛の渇きを覚えさせた。
※
玉木家での生活は、まず農業をもととした身体づくりではあったが、辰子夫人の温かい庇護下、実家の父母のもとでは見出せない慰安とおちつきを無人にもたらした。彼は玉木夫妻により、世に立ちうる人間として心身ともにととのえられたのである。
理想の家庭教育がもしあるとすれば、玉木家のほうでしょう。
しかし、国定教科書は乃木家のほうだとしました。
戦争とは非人間的な行為ですから、軍国日本にとっては、愛情ある家庭より、虐待のある家庭のほうが好都合だったからです。
この軍国日本の時代遅れの家庭教育観は、いまだ一掃されていないのではないでしょうか。
乃木は、玉木家で愛情ある家庭に触れたとはいえ、16歳まで虐待の家庭で育ち、その経験が人格の中心を形成しました。
乃木は世の中から誠実、清廉、忠誠、質素、勇敢、無私な人間であると評されました。まるで修身の教科書から抜け出てきたような人間です。
しかし、司馬遼太郎は『殉死』の中で繰り返し乃木を「スタイリスト」と評しました。
乃木の部下として親しく交わり、のちに戦記文学で名をなした作家の桜井忠温は、乃木について次のように記しています。
「人間としての乃木さんは淋しい暗いものであった」
「暗いものが煙のやうに乃木さんの一生を蔽ふてゐた」
<参考文献>
『日本教科書体系 近代編 海後宗臣等編 第8巻 国語』
小田襄著『史蹟と人物:国定教科書準拠』
大濱徹也著『乃木希典』
桑原嶽・菅原一彪編『乃木希典の世界』
福田和也著『乃木希典』
司馬遼太郎『殉死』
