
厚労省の発表によると、昨年の小中高生の自殺者数は527人で、前の年から14人増え、1980年以降で最多となりました。
一方、自殺者の総数は2万268人で、前の年より1569人減り、1978年の統計開始以降2番目に少なくなりました。
自殺者総数はへっているのに、少子化が進む中で子どもの自殺数は増え続けているわけです。
中日スポーツの記事によると、1月30日のTBS系「THE TIME,」で安住紳一郎アナウンサーが「あまり勝手なことは言えませんが、1人の大人として、やっぱり死にたくなったら逃げるしかないと思います。恥ずかしいことではないので、とにかく状況から逃げてください。それしか方法はないと思います。せっかくの命ですから、どうぞ自分の命は大事にしてください」と呼びかけました。
これはXで話題になり、賛同の声が多く上がったということです。
こういうところに価値観の変化を感じます。
ひと昔前なら、「逃げても問題は解決しない」「現実逃避はよくない」「死ぬ気になったらなんでもできる」などと言われたものです。
ところで、安住アナはなにから逃げろと言ったのでしょうか。
安住アナはその少し前に「(自殺の)原因はやはり学校の問題が一番ということのようですけれども」と言っているので、学校から逃げろということのようです。
死にたい理由が、学校でいじめられているとか、先生から差別されているとか、学校生活が合わないとかなら、学校から逃げるのが正解です。
自殺の原因が家庭つまり家族関係にある場合はどうでしょうか。
次の表は文科省が2021年にまとめた「コロナ禍における児童生徒の自殺等に関する現状について」という資料です。令和元年はコロナ以前、令和2年はコロナ発生後ということです。
自殺原因というのは遺書がない限り推測になりますが、これは自殺直後に警察が遺族などに聞き取り調査をした結果に基づいています。

いじめは「その他学友との不和」に含まれますが、そんなに多くありません。
「学業不振」と「その他進路に関する悩み」は学校問題に分類されていますが、成績が悪いからといって、それだけで自殺する子どもがいるでしょうか。
親からよい成績を取ることを期待され、子どもがその期待に応えられないとき、子どもは悩むのです。
「進路に関する悩み」も同じです。親は一流校に進むことを期待し、子どもはその実力がないか別の学校に進みたいというとき、子どもは悩みます。
こういうケースは、最近できた言葉で「教育虐待」といえるでしょう。
「親子関係の不和」とか「家族からのしつけ・叱責」というのは、そのまま子どもへの虐待です。
ということは、子どもの自殺の理由としてもっとも大きいのは、学校でのいじめなどではなく、親による虐待です。
家庭で虐待されたら家庭から逃げなければなりませんが、ここにふたつの困難があります。
ひとつは、子どもは自分が親から虐待されているという認識が持てないことです。
医者などが子どもの体にアザがあるのを見つけて「どうしたの?」と聞いても、子どもは決して「親にたたかれた」などとは言いません。「自分で転んだ」などと言って、必ず親をかばいます。
なぜそうするのかというと、本能としかいいようがありません。哺乳類の子どもは親に絶対的に依存するように生まれついているのです。
子ども時代だけではありません。成長しておとなになっても、自分が虐待されたという認識がないために、理由のない生きづらさを感じているという人が少なくありません。自身の被虐待経験を自覚するには、なんらかの心理学の手助けが必要なようです。「毒親」とか「アダルトチルドレン」などの言葉を知ったことで自分は親にひどいことをされていたのだと気づいたということはよく聞きます。
今は世の中全体が幼児虐待の存在から目をそむけています。「学業不振」という項目があるのも、子どもが成績の悪いことを悩んでいたという話を聞いたとき、そのまま信じてしまったのでしょう。その背後に親の過度の期待や圧力があったのではないかと探れば、また別の結果が出たに違いありません。
もうひとつの困難は、子どもが家から逃げたくなったとしても、どこに逃げたらいいかわからないということです。
親に虐待された子どもは児童相談所が対応し、場合によっては一時保護所で保護し、さらには児童養護施設に移すということになりますが、子どもが一人で行ったら、親の言い分も聞いてから判断するので、子どもより親の言い分を信じる可能性が高いでしょう。
警察に行っても、たいていは家出した子どもとして家に送り返されてしまいますし、うまくいっても児童相談所に送られるだけです。
最初から子どもを救おうという意志を持っているNPO法人などの民間組織のほうが頼りになりますが、活動は限定的です。一般社団法人Colaboは、対象が女の子限定ですが、家出少女に住む家を提供するなど幅広い活動をしてきました。しかし、反対勢力の攻撃を受けて、東京都の資金援助が絶たれてしまっています。
そこで、家で虐待された子どもはトー横やグリ下などに集まってきます。そこには似た境遇の仲間がいるからです。犯罪に巻き込まれることが懸念されますが、家にいることができず、行くところもないことによる必然の結果です。
こども家庭庁は「こどもまんなか社会」というスローガンを掲げていますが、今の社会の実態は「おとなまんなか社会」で、はみ出た子どもの存在は無視されます。
子どもが自殺したくなったとき、その原因が親の虐待にあるということが認識しにくいことと、認識できても逃げていく先がないという、ふたつの困難があるわけですが、これは実は一体のものです。誰もが幼児虐待を認識しにくいので、その対策も講じられていないのです。
今は幼児虐待というのは、子どもを殺したり大ケガをさせたりして新聞ネタになるようなことだと認識されています。つまり特殊な家庭で起こる特殊なことだというわけです。
虐待を認識しないだけでなく、積極的に否認したいという心理も存在します。自分が親から虐待されたトラウマをかかえていて、それを意識下に抑圧している人にそういう心理があります。
しかし、新聞ネタになるようなことは氷山の一角で、水面下に虐待は広範囲に存在します。
そのため子どもの自殺も多いのです。
私は「子ども食堂」みたいに「子ども宿泊所」を多数つくって、家庭から逃げ出した子どもをいつでも受け入れるようにすればいいと考えましたが、実はそういうものはすでにありました。児童相談所内の一時保護所が慢性的に不足していることから、民間の運営する「子どもシェルター」というものがつくられていたのです。
ところが、これは数がもともと少ない上に、行政からの補助金が減額されたり打ち切られたりし、また人手不足などから休止しているところも多いそうです。
これでは「子ども宿泊所」をつくっても同じことかもしれません。
多くの親が子どもを虐待していることはおとなにとって“不都合な真実”なので、これまでないことにされてきました。
子どもの自殺をなくすには、“不都合な真実”を直視しないといけません。
そのため子どもの自殺も多いのです。
私は「子ども食堂」みたいに「子ども宿泊所」を多数つくって、家庭から逃げ出した子どもをいつでも受け入れるようにすればいいと考えましたが、実はそういうものはすでにありました。児童相談所内の一時保護所が慢性的に不足していることから、民間の運営する「子どもシェルター」というものがつくられていたのです。
ところが、これは数がもともと少ない上に、行政からの補助金が減額されたり打ち切られたりし、また人手不足などから休止しているところも多いそうです。
これでは「子ども宿泊所」をつくっても同じことかもしれません。
多くの親が子どもを虐待していることはおとなにとって“不都合な真実”なので、これまでないことにされてきました。
子どもの自殺をなくすには、“不都合な真実”を直視しないといけません。
最近は男女関係の見直しが進んでいます。
昔は当たり前とされたことが今ではセクハラや性加害として告発されます。
これと同じことが親子関係でも起こらなければなりません。
少し前まで子どもへの体罰は当たり前のこととして行われていましたが、今では身体的虐待として告発されます。
今も子どもを叱ることが当たり前に行われていますし、子どもに勉強を強いることや習い事を強制することも当たり前に行われています。
しかし、このために子どもは傷ついています。
こうしたことも今後は変わらなければなりません。
今は子どもの発達の科学的研究が進んでいるので、教育やしつけのあり方も科学的なやり方が示せるようになっています。
こども家庭庁はなんの役割も果たしていないと批判されがちですが、ここはこども家庭庁の出番です。
とりあえずスローガンから見直してほしいものです。
「おとなまんなか社会」はだめですが、「こどもまんなか社会」も同様にだめです。
おとなも子どもも同じように存在が認められる「おとなと子ども平等社会」を目指すべきです。
前回の「石破首相の『楽しい日本』をまじめに考える」という記事で、「楽しい家庭」と「楽しい学校」をつくることが必要だと述べました。今回の記事はそれを発展させたものです。
家庭のあり方は社会のいちばん根底の部分ですから、なによりも優先して取り組まねばなりません。

