村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:子ども差別

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人間は自分中心に社会を見ています。天文学の天動説と同じなので、ものごとを深く考えていくとわけがわからなくなります(むずかしい哲学がそれです)。
自分中心を脱した正しい視点から社会を見ていくブログです。


世の中にはさまざまな対立軸があります。
保守対リベラル、男性対女性、富裕層対貧困層、知識人対大衆、先進国対途上国などです。
このほかに、きわめて重要なのにほとんど認識されていない対立軸があります。
それは「おとな対子ども」です。

おとなと子どもはそんな対立する関係ではないと思う人もいるでしょう。
しかし、男性対女性も昔はそう思われていました。フェミニズムが登場して初めて男性対女性という対立が可視化されたのです。

世代間対立があることは誰もが認めるでしょう。
今ならZ世代、氷河期世代、バブル世代、団塊世代などに分かれて対立しています。
しかし、世代をいう場合は20歳前後の「若者」までです。それ以下の年齢の「子ども」世代は無視されています。

日本では1946年の総選挙において女性参政権が認められ、初めての「普通選挙」が行われたとされています。
しかし、このときは20歳以下に参政権はなかったので、実際は年齢制限選挙でした。年齢制限選挙を普通選挙と偽ったのです。

同じことは前にもありました。
1925年に選挙権の納税要件を撤廃した「普通選挙法案」が成立しました。男子のみの制限選挙であったのに普通選挙と偽ったのです。女性は無視されていました。
今は18歳以下に投票権のない年齢制限選挙ですが、メディアは「年齢制限選挙」という言葉を使わずに普通選挙に見せかけています。


どんなに高度に発達した文明社会でも、生まれてくる赤ん坊は原始時代と同じです。
原始時代にはおとなも子どもも似たような意識状態だったでしょう。
しかし、文明社会では、文明化したおとなの意識と子どもの意識が乖離します。
共感性の乏しい親は子どもに愛情を持ちにくくなるかもしれません。
文明社会では礼儀や行儀が重視されるので、親は小さな子どもにむりやり礼儀や行儀を教えなければなりません。これが「しつけ」ですが、このときにしばしば暴力が伴います。
子どもは文明社会に適応するために多くのことを学習しなければなりません。
江戸時代には寺子屋に通わない子どもも十分に生きていけましたが、近代になると社会が急速に複雑化するので、中学までが義務教育になり、高校を出るのは最低限のことになり、大学、さらには大学院に行くことが求められるようになりました。
そうすると、子どもは小さいときから勉強しなければなりません。人間には好奇心や学習意欲が備わっていますが、それだけでは足りないと考えられていて、家庭でも学校でも勉強が強制されます。

つまり文明社会では、子どもに強制的・暴力的な教育としつけが行われているのです。
このようなおとなと子どもの関係は「対立」というのが当然です。
強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは傷つきます。つまり子どもはみな被虐待児です。
これはおとなになっても尾を引くので、おとなはみなアダルトチルドレンです。DV、依存症、自傷行為、自殺につながることもあります。

このような強制的・暴力的な教育としつけを受けた子どもは、おとなになると子どもに対して同じことをするので、そのやり方は次の世代に受け継がれていきます。学校の運動部で上級生から暴力的な指導を受けた一年生が、二年生になると一年生に対して同じような暴力的な指導をするのと同じです。


大人と子どもの対立関係はその他の対立関係にも影響します。
たとえば古代ローマ帝国や近代列強は、文明の遅れた地域を植民地化し、そこの人間を奴隷化しました。子どもを暴力的に支配する人間は、文明の遅れた人間を暴力的に支配することが平気でできるからです。
男性が女性を暴力的に支配することも同様です。

私はおとなが子どもを暴力的に支配することを「子ども差別」と呼んでいます。
そうすると、子ども差別、性差別、人種差別が三大差別ということになります。
今は性差別と人種差別をなくそうと努力していますが、子ども差別を放置しているのでうまくいきません。

保守対リベラルの対立のもとにも、おとな対子どもの対立があります。
リベラルは社会体制を改革しようという立場なので、親に反抗する子どもと心情的に共通します。
一方、保守は反抗する子どもを力で抑えつける父親と心情的に共通しています。
アメリカで保守対リベラルの対立が先鋭化しているのは、家庭内で親子関係の暴力的な傾向が強まっているからでしょう。


ところが、このようなおとなと子どもの対立関係は、ほとんど認識されてきませんでした。
おとなは子どもに強制的・暴力的な教育としつけをしていても、子どもはそれを喜んで受け入れているとごまかしてきたのです。女性をレイプした男性が、相手も喜んでいたと主張するのと同じです。
レイプのたとえは決して行きすぎではありません。今の世の中、親から虐待されて殺される子どもが毎年何十人もいます。

おとなの視点からだけ見ていては、おとなと子どもの関係は正しく把握できません。
子どもの視点あるいは神の視点から見て初めて全体像が把握できます。
そうした視点を確立するには次の記事が役に立つはずです。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」

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家庭で虐待された少女の支援活動をしている一般社団法人「Colabo」の会計に不適切なところがあると指摘されたことがきっかけで、ネット上で大きな騒ぎになっています。
都に住民監査請求をしてこの問題に火をつけた「暇空茜」を名乗る人物はインタビュー記事で「もはやこれはネット界における『大戦』です。ロシアとウクライナの戦争と同じで、話し合いなど通用しない」と言いました。

Colaboには東京都が21年度に2600万円の支援金を支出しているので、公金の問題であるのは事実です。しかし、上のインタビュー記事を見てもわかりますが、不適切な支出といってもそれほどのことではありませんし、そもそも一社団法人の問題です。それがなぜ大騒ぎになるのでしょうか。


家庭で虐待されて逃げ出した少女は、そのままだと犯罪の被害者になりかねません。Colaboはとりあえず少女を救う小規模なボランティア活動から始まりました。
ボランティア活動や慈善活動などをする人は、とりわけネットの世界では「偽善」とか「売名」とかの非難を浴びせられます。若いころから被災者援助や刑務所慰問などをしてきた杉良太郎氏などは、あまりにも非難されるので、自分から「偽善で売名ですよ」などと開き直っています。
ですから、もともとColaboを「偽善」だと非難したい人たちがいて、会計不正疑惑が生じたことで一気に表面化したということがあるでしょう。

それから、Colabo代表の仁藤夢乃氏はメディアに登場することも多く、フェミニスト活動家と見なされていて、Colaboを支援する人たちもフェミニストが多いようです。
それに、Colaboが援助の対象とするのは少女だけです。
こうしたことから男とすれば、フェミニストたちが勝手なことをやっているという印象になるのかもしれません。

しかし、救済するべき少年少女は多数いて、Colaboの力は限られていますから、救済の対象を限定するのはしかたないことです。
むしろ問題は、少年を救済するColaboのような組織がないことです。

フェミニズムというと、どうしても男対女ということになりますが、Colaboの活動は子どもを救済することですから、おとな対子どもととらえるべきです。
そして、おとな対子どもには大きな問題があります。


日本の自殺は全体として減少傾向ですが、子どもの自殺は増加傾向で、とりわけ2020年度の全国の小学校、中学校、高校の児童生徒の自殺は415人と、19年度の317人と比べて31%の大幅な増加となりました。
子どもの自殺というと、学校でのいじめが自殺の原因だというケースをマスコミは大きく取り上げますが、実際はいじめが原因の自殺はごく少数です。
自殺の原因の多くは家庭にあります。コロナ禍で休校やリモート授業が増えた中で自殺が増えていることからもそれがわかるでしょう。

家庭で虐待された子どもは家出やプチ家出をします。児童養護施設などはなかなか対応してくれませんし、子どももお役所的な対応を嫌います。
泊まるところのない少女は“神待ち”などをして犯罪被害にあい、少年は盛り場をうろついて不良グループに引き込まれ、犯罪者への道をたどるというのがありがちなことですし、中には自殺する子どももいます。
ですから、子どもの自殺を防ぐには、虐待されて家庭にいられない子どもの居場所をつくる必要があります。私は「子ども食堂」があるように「子ども宿泊所」がいたるところにあって、家で煮詰まった子どもが気軽に泊まれるようになっていればいいと考えました。そうすればとりあえず自殺は防げますし、深刻な状況の子どもを宿泊所を通して行政の福祉につなげることもできます。そういうことを、私は「子どもの自殺を防ぐ最善の方法」という記事で書きました。

そのとき調べたら、家出した子どもに居場所を提供する活動をしているのはColaboぐらいしかありませんでした。ほかにないこともないでしょうが、少なくともColaboは先駆者であり、圧倒的に存在感がありました。

ですから、Colaboみたいな組織がもっともっと必要なのです。
Colabo批判は方向が逆です。


ところが、「家庭で虐待された子どもを救済する」ということに反対し、足を引っ張ろうとする人がいます。
どんな人かというと、要するに家庭で子どもを虐待している親です。

幼児虐待というと、マスコミが取り上げるのは子どもが親に虐待されて死んだとか重傷を負ったといった事件だけです。
こうした事件は氷山の一角で、死亡や重傷に至らないような虐待は多数あります。
2020年度に全国の児童相談所が相談対応した件数は約20万5000件でした。しかし、この数字もまだまだ氷山の一角です。

博報堂生活総合研究所は子どもの変化を十年ごとに調査しており、2017年に発表された「こども二十年変化」によると、「お母さんにぶたれたことがある」が48.6%、「お父さんにぶたれたことがある」が38.4%でした(小学4年生から中学2年生の男女800人対象)。その十年前は、「お母さんにぶたれたことがある」が71.4%、「お父さんにぶたれたことがある」が58.8%で、さらにその十年前は「お母さんにぶたれたことがある」が79.5%、「お父さんにぶたれたことがある」が69.8%でした。つまり昔はほとんどの子どもが親から身体的虐待を受けていたのです。

最近は体罰批判が強まり、身体的虐待はへってきましたが、心理的虐待はどうでしょうか。
心理的虐待は客観的判断がむずかしいので、アンケートの数字で示すことはできません。
子育てのアドバイスでよくあるのは「叱るのではなく、ほめましょう」というものです。また、子育ての悩みでよくあるのが「毎日子どもを叱ってばかりいます。よくないと思うのですが、やめられません」というものです。
こうしたことから子どもを叱りすぎる親が多いと思われます。
きびしい叱責、日常的な叱責は心理的虐待です。

これまでは体罰もきびしい叱責も当たり前のこととされ、幼児虐待とは認識されませんでした。
ですから、家出した子どもは警察が家庭に連れ戻しましたし、盛り場をうろついている子どもは少年補導員がやはり家庭に連れ戻しました。
社会全体で虐待の手助けをしていたわけです。

そうしたところにColaboが登場し、虐待された子どもを虐待された子どもとして扱うようになりました。
これは画期的なことでした。
そして、虐待していた親にとっては不都合なことでした。
これまでは虐待した子どもが家から逃げ出してもすぐに連れ戻されて、なにごともなかったのに、今は逃げ出した子どもはどこかで保護され、子どもが逃げ出したのは家庭で虐待されからだとされるようになったからです。
ですから、虐待している親、虐待を虐待と思っていない人たちは前からColaboに批判的で、会計不正疑惑をきっかけにそういう人たちがいっせいに声を上げたというわけです。


虐待のある家庭を擁護する勢力の代表的なものは統一教会(現・世界平和統一家庭連合)です。
統一教会の信者の家庭の多くは崩壊状態で、子どもには信仰の強制という虐待が行われています。しかし、創始者の文鮮明が「家庭は、神が創造した最高の組織です」と言ったように「家庭をたいせつにする」ということが重要な教義になっていて、最近は家庭教育支援法の制定に力を入れています。
「家庭をたいせつにする」という点では自民党も同じで、安倍晋三元首相も家庭教育支援法の制定を目指していました。
統一教会や自民党にとっての「家庭」というのは、親と子が愛情の絆で結ばれている家庭ではなくて、親が子ども力で支配している家庭です。
これを「家父長制」といいます。

今、Colabo問題が大きな騒ぎになっているのは、家父長制を守ろうという勢力と、家父長制を解体して家族が愛情の絆で結ばれる家庭を再生しようという勢力がぶつかり合っているからです。
そういう意味ではまさに「大戦」です。
これは政治における最大の対立点でもあります。


なお、こうした問題をとらえるにはフェミニズムだけでは不十分です。
家父長制は男が女を支配する性差別と、おとなが子どもを支配する子ども差別というふたつの差別構造から成っています。
フェミニズムは性差別をなくして女性を解放しようという理論ですから、それに加えて、子ども差別をなくして子どもを解放しようという理論が必要です。
たとえば母親が男の子を虐待するというケースはフェミニズムではとらえられません。

幼児虐待、子育ての困難、学校でのいじめ、登校拒否などの問題も「子ども差別」という観点でとらえることができます。
そうした観点があれば、幼児虐待から子どもを救うColaboのような運動に男性も巻き込んでいくことができるはずです。

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