村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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最近の私たち夫婦の会話はこんな具合です。
 
「あそこのあれ、明日開店だって」
「そうか。そのうち行こうか」
「そうね」
 
「あそこのあれ」というのは、商店街の中で新規開店の工事中だったレストランのことです。前に夫婦の会話で出ていたので、「あそこのあれ」というだけで通じるわけです。
 
「あれ、もうなくなるよ」
「買ってあるわよ」
 
「あれ」というのはシャンプーのことです。風呂から出てきて言ったので、妻も想像がつくわけです。
 
長年連れ添った夫婦だから、いい加減な言葉でも以心伝心でわかり合えるのだというと聞こえがいいのですが、実際のところは、年を取ったせいか適切な言葉が出てこなくて、代名詞でごまかしているわけです。
ですから、通じないこともいっぱいあります。
 
「ちょっと、あれ取ってよ」
「あれじゃわからんよ」
 
「あの人から電話があったよ」
「あの人って誰よ」
 
実際は、しょっちゅうこんな会話が交わされているわけです。あまりにもこういうことが多いので、むしろおもしろがって言っているような状態です。
 
「ちょっと、そこにあれなかった?」
「あれってなに」
「あれっていえばあれよ」
「ここのそれじゃないの?」
「それじゃなくてあれよ」
 
年中こういう会話を交わしていると、きっと人類が言葉をしゃべり始めたころはこんな感じだったに違いないと思えてきました。
つまり人類が最初に口にした名詞は代名詞だったに違いありません。
しかし、代名詞だけでは通じないことが多くあり、「あそこ」では通じないので、「山」とか「川」とか「谷」とかの言葉をつくりだしたのでしょう。これが普通名詞です。
しかし、山といってもいくつもありますから、「大山」とか「北山」とか「笹山」とか名づけて区別します。これが固有名詞です。
 
つまり、名詞の発生の順序としては、
代名詞→普通名詞→固有名詞
という順になります。
 
ですから、代名詞というネーミングは間違っていることになります。代名詞ではなく「原始名詞」とでもいうべきです。
 
最初に普通名詞ができて、次に普通名詞に代わるものとして代名詞ができたなんていう説は、とても信じられないでしょう。
代名詞を「原始名詞」と名づけると、普通名詞は「一次派生名詞」、固有名詞は「二次派生名詞」と名づけることもできるはずです。
 
言語学ではこのことについてどう考えられているのでしょうか。
人類がこれほどの言語能力を持ったのはなぜかというのはもちろん大問題で、これについてはいろいろな説があります。あまりにもいろいろな説があって、珍説奇説が横行したために、一時フランスの言語学会で言語起源説の発表が禁止されたことがあるくらいです。ですから、名詞発生の順序についても、定説はないのではないかと想像されます。
 
私の名詞発生順序仮説も特許みたいにどこかに出願しておきたいものです。

子育てに際して、子どもの「わがまま」に悩んでいる親は多いことと思いますが、そもそも「わがまま」とはなんでしょうか。視点を変えてみるとわかってくることもあるはずです。今回取り上げるのは介護にまつわる相談です。
 
「わがままな母に閉口」相談者 50歳女性
脳梗塞の後遺症でまひがある母を自宅で介護していました。しかし、あまりのわがままに家族がお手上げ状態となり、ホーム入居に踏み切りました。入居してからも母は文句ばかりで、2回ホームを移りました。もう家族がみるしかないのでしょうか。(「定年時代」平成2310月下旬号)
 
回答者は介護相談の専門家である中村寿美子さんです。中村さんはこう回答しています。
 
思うように動けない、気持ちがうまく伝わらないといったお母さまのもどかしい思いが、わがままとなって周囲を困らせているのでしょう。
ダメージを受けた脳の部位によって、運動機能に障害(まひ)が出たり感情のコントロールが難しくなるなど、症状はさまざまです。「手に負えないわがままは病気のせい」と理解できませんか。
 
相談の文章では運動機能のまひしか書いてありませんが、高次脳機能障害では感情のコントロールができにくくなる場合があります。だとしたら「わがまま」はまさに「病気の症状」ということになります。
「病気の症状」と認識したら、周りの人の対応も変わってくるはずです。お母さんの態度を叱責したり矯正しようとしたりすることもなくなるでしょう。
 
 
では、子どもの「わがまま」はどうでしょうか。
これは「病気の症状」ではありません。
では、なにかというと、「人間本来の姿」です。
ですから、叱責したり矯正しようとしたりしても、なかなかうまくいくものではありません。
そして、考えなければならないのは、親にも「人間本来の姿」があるはずだということです。
 
「人間本来の姿」というのはそれほどすばらしいものではありません。少しの「わがまま」が含まれています。
ですから、人間はつねにぶつかり合います。これは家族内でも国際社会でも同じです。
対等の人間であれば、勝ったり負けたりするうちに、ぶつかり合いを回避する知恵を身につけます。しかし、強者と弱者であれば、つねに強者が「わがまま」を通すことになります。
親と子の関係がそうです。親は子に対して圧倒的に強者ですから、自分の「わがまま」を通します。そして、子どもは自分が親になると、親のやり方を学習した上にさらに自分の「わがまま」をつけ加えます。それを何世代も繰り返しているうちに、親の「わがまま」がどんどん肥大してきたのです。「しつけ」や「教育」もその中で生まれました。
子どもを親にとって都合のいい存在にしようとすることが「しつけ」や「教育」なのです。
 
自分の子どもが「わがまま」に見えたときは、自分はもっと「わがまま」なのではないかとわが身を振り返ったほうがいいでしょう。
自分は「わがまま」でないけど生まれた子どもは「わがまま」だったというのは、理屈としてもおかしいですから。

ロックの世界では「30歳以上を信じるな」という言葉があります。そうすると、自分が30歳以上になったらどうなるのでしょうか。もちろん、「若いころはバカなことを考えていたなあ」ということになるわけです。いや、ロックンローラーは永遠の青春なので、違うかもしれませんが。
 
誰でもおとなになれば、若いころと考えが変わります。ただ変わるのではありません。若者と敵対するように変わります。だから、若者から「30歳以上を信じるな」と言われてしまうのです。
おとなと若者の関係は、資本家と労働者の階級対立に似ています。いや、それよりもたちが悪いといえます。親と子の関係まで階級対立みたいになっているからです。
 
次に取り上げる人生相談はその典型みたいなものです。回答者である作家の出久根達郎氏にはたいへん失礼になりますが、重要な問題ですので、どうしても取り上げさせていただきます。
 
 
読売新聞「人生案内」 
 
20歳のフリーター女性。過干渉な母親に悩んでいます。
 私はバイト先で、遅番の仕事に入ることが多いのです。その場合、家に帰るのが夜10時過ぎになるのですが、帰宅時間が遅いと母によく怒られます。夜に友達と遊ぶ際も同じなので、友達より早く帰ることになりますが、この年で夜9時や10時が「遅い」と叱るのは変じゃないでしょうか。
 金銭管理も私に任せてくれません。働いて稼いだのは私なのに、私にキャッシュカードを持たせず、給料が入ると母が引き出し、そこから数千円を私に渡します。まるでお小遣いです。
 それ以上の金額が必要になり、こっそりカードを取って私がお金を引き出すと、「必要なお金なら渡すって言ったでしょ!」と叱られます。でも、もし正直に必要な理由を言うと、「一緒に買い物に行こう」などという展開になるので、嫌なんです。
 これらの例は氷山の一角。娘とはいえ、ここまで干渉するというのは妥当なのでしょうか。また、私に努力すべき点があるならば、どのようなことか教えてください。(埼玉・K子)
 あなたのお話だけを聞いていると、融通のきかない、やかましいお母さんのようですが、お母さんにもそれなりの言い分があることでしょう。あなたはお母さんに心配をかけたことがあるのではありませんか。それでお母さんは急に厳しくなったのではありませんか。
 アルバイトの内容は、正直に伝えているのですか。仕事で遅くなるのに説教を言うのは理不尽すぎます。帰宅時間や金銭の管理は、あなたぐらいの年齢でしたら、多くの親がしていることで、あなただけが特別なのではありません。していない親の方が、珍しいくらいです。
 時間については、親と話し合いで決めたらよいでしょう。お金も、必要なら申告すれば出す、と言うのですから、多少、窮屈であっても問題ないじゃありませんか。もっと自由にと願うなら、お母さんの信用を得ることです。あなたのことを心配してくれる親は、今はうっとうしいでしょうが、やがてありがたみがわかります。
 (出久根 達郎・作家)
2011621日 読売新聞)
 
 
回答者の出久根達郎氏は明らかに母親側に立って回答しています。それが正しいなら問題ありませんが、どうしてもそうとは思えません。
 
回答者は、お母さんが厳しくなったのは相談者がお母さんに心配をかけたからではないかと言っていますが、これは根拠がありません。いや、親に心配をかけない子どもなどいないはずです。どんな親も子どものことを心配します。お母さんがきびしい原因を、子どもがお母さんに心配をかけたからだとするのはむりがあると思います。
 
回答者は「仕事で遅くなるのに説教を言うのは理不尽すぎます」と当然の指摘をしていますが、同時に「アルバイトの内容は、正直に伝えているのですか」とも書いています。そのため、母親が理不尽すぎるのは、相談者が正直に伝えていないためだとも読めてしまいます。
 
「帰宅時間や金銭の管理は、あなたぐらいの年齢でしたら、多くの親がしていることで、あなただけが特別なのではありません。していない親の方が、珍しいくらいです」という指摘にいたっては、ちょっとあきれてしまいます。
帰宅時間はさておき、子どものアルバイトの金銭の管理を親がしているというのは、私の知る範囲ではありません(中学生ならあるかもしれません)。アルバイトで稼いだ金は自分が手にしてこそ、労働の価値や喜びがわかるのです。そして、そこから食費や家賃分を親に払うというのが日本の常識でしょう。
子どものアルバイトの金銭を親が管理するというのは、鵜飼いの鵜や管理売春を連想してしまいます。この親はまったく理不尽ですし、相談者もいったいどういう気持ちでアルバイトをしているのか少々不可解でもあります。
 
「もっと自由にと願うなら、お母さんの信用を得ることです」という指摘も根本的に間違っています。自由と信用は関係ありません。国民が自由を求めるとき、国民は独裁者の信用を得なければいけないのでしょうか。
 
この相談者である二十歳のフリーター女性は明らかに母親から不当な扱いを受けています。しかし、回答者は母親よりもむしろ相談者の態度に問題があると指摘しています。
かりに人口を30歳以上と30歳未満に分ければ、社会の実権を握っているのは30歳以上のほうで、30歳未満はいわば被支配階級ということになります。この人生相談は被支配階級からなされ、支配階級の者が回答したために、へんなことになってしまいました。
おとなと若者の関係は、資本家と労働者の関係以上に問題をはらんでいます。格差社会や少子化や非婚や引きこもりなどの問題も、おとなと若者の関係から考えるとよりわかりやすくなります。
 
マルクス主義は資本家と労働者の関係を問題にし、フェミニズムは男と女の関係を問題にしましたが、これからは大人と若者・子どもの関係がより大きな問題としてクローズアップされてくるはずです。
 
 

たいていの夫婦は結婚するとき、「笑いの絶えない明るい家庭を築きたい」と語りますが、現実に多くの夫婦は喧嘩を繰り返し、関係が冷却化し、離婚するか仮面夫婦になるかしていきます。なぜ望んだような夫婦になれないのでしょうか。
それはひと言でいえば、家庭に道徳を持ち込むからです。道徳は、たとえば菅降ろしをするときや、東電批判をするときや、生活保護を受けようとする人を批判するときには便利な道具ですが、家庭に持ち込むものではありません。
 
たとえば妻が和食を食べたいといい、夫は中華を食べたいといったために喧嘩の起こることがあります。こういうときは、互いに感情をぶつければいいのです。そうすれば、和食を食べたいという感情と、中華を食べたいという感情と、どちらが強いかで勝負が決まります。そして、それが最善の解決のはずです。
こうした感情がぶつかり合う喧嘩は一過性のもので、あとを引きません。
 
しかし、現実の喧嘩は、「なんでお前はいつも俺に逆らうんだ?」「あなたは自分のことしか考えてないのね」というふうに展開しがちです。そして、ここには道徳がかかわっています。
夫は「妻は夫に従順であるべきだ」という道徳があらかじめ頭に入っているので、普通に和食を食べたいと主張することが非難の対象になります。
妻は「夫は妻に思いやりを示すべきだ」という道徳が頭に入っているので、普通に中華を食べたいと主張することが自己中心的な行為に見えます。
つまり、脳に道徳が注入されていると、相手の行動がことあるごとに悪に見えるのです。自分勝手だ、怠慢だ、だらしない、傲慢だなどと相手を非難するのが「道徳脳」の特徴です。
 
そして、相手を道徳的に非難すると、非難する側は自分からそれをやめることができません。なぜなら、相手の不道徳な行為を容認すると、自分も不道徳な人間になってしまうからです。そのため、道徳のかかわる喧嘩は過酷なものになっていき、必然的に夫婦関係は壊れていきます。多くの夫婦はこの道をたどります。
 
もっとも、普通に生活していると、誰でも脳に道徳を注入されてしまいます。とすると、家庭に道徳を持ち込まないことは不可能ではないでしょうか。
いえ、そんなことはありません。愛情と道徳は反比例の関係にあります。ですから、愛情があると道徳は消えてしまいます。そのため、新婚夫婦は仲良くいられるのです。
しかし、愛情はだんだん薄れていきます。少なくとも恋愛感情は確実に薄れていきます。そうすると、相手を道徳的に非難する気持ちが芽生えてきます。
相手を自分勝手だ、だらしないなどと道徳的に非難する気持ちが自分の中に芽生えたら、それは自分の愛情が少なくなっているのだなと考えてください。そして、道徳的に非難する気持ちを抑えるのです。そうすると、愛情と道徳は反比例する関係にあるので、自然と愛情が復活し、いつまでも仲良くいられるのです。
 
これは本当の話です。私が実践しているからです。

人生相談を見ていると、本人の努力では解決不能ではないかと思われる相談があります。それでも、回答者はなんかの回答をしなければなりませんが、「横やり人生相談」では自由に回答できるのが強みです。次の相談も、相談者よりもむしろ家族の態度に問題のあるケースです。
 朝日新聞「悩みのるつぼ」
借金で迷惑かけた私です  
 30代半ばの既婚女性です。6歳、3歳と、男の子と女の子がひとりずついます。独身時代からの勤めを今も続けています。
 私にはどうやら浪費癖があるようで、独身時代から給料などはきれいに使い切ってしまっていました。
 ギャンブルにはまったり、他の男性に貢いだりすることこそありませんが、結婚後も、夫に使い道を報告することもないまま、買い物を続けました。そして気がついたら、数百万円も使ってしまっていました。
 カードローンやクレジットの返済は、夫の両親にお願いして払ってもらいました。
 夫はかなり怒りました。
 実家にお願いせざるを得なかったので、今後は感謝をしながら正しい人生を歩んでいかなければならないと思っています。でも、私には何ひとつ、取りえがありません。
 整理整頓も、料理も子育ても、妻としても、たいして何もできないのです。せっぱつまっても、できないのです。これだけは誰にも負けることがないというものもなければ、大好きなことも特にありません。
 このままでは親子関係も、夫婦関係もどんどん悪くなる一方です。こんな年になって、こんな悩みは恥ずかしくてしかたないのですが、自分で悩んでいても何の答えも出ません。
 何か助言をいただければ幸いです。
 
これに対して回答者の評論家岡田斗司夫さんの回答を要約してみるとこんな具合です。
問題の出発点は、「私には取り柄がない」という認識です。そのため浪費に走る。浪費の借金で評判が落ちる。評判を取り返すには取り柄が必要だ。だが、私には取り柄がない――という無限リピートに陥っています。これを脱出するには、キャラを変えることです。今まで目指した「カッコいい私」は諦めて、「おバカだけど頑張る=愛される私」を目指しましょう。そのためには、今まで浪費していたけど今は浪費していない金額を家族に報告し、夫にほめてもらいましょう。ほめられること、評価されることがあなたには必要です。もし夫がほめてくれなかったら、僕にメールしてください。僕がほめてあげますから。
 
私もだいたい同じような認識ですが、ただ、最後の部分には同意できません。夫がほめてくれたらいいのですが、まずほめてくれないでしょう。岡田斗司夫さんにメールを送ってほめてもらうというのも、現実にはありえないでしょう。とすると、この回答では問題を解決できないことになります。
 相談者は、自己評価が低く、「私には取り柄がない」という認識を持っているのはその通りでしょう(買物依存症の原因はたいていそれです)。その上、借金を夫の実家に肩代わりしてもらい、夫からは怒られ、さらに自己評価が下がってしまいました。こんな状態で、夫との関係を改善することができるとは思えません。それどころか、低い自己評価を忘れるために、また浪費に走ってしまう可能性があります。
 
おそらく誰でも、相談者が悪いからこの問題が生じたのだと考えるでしょう。そして、問題を解決する責任は相談者自身にあると考えるでしょう。
私もまた、確かに相談者が悪いからこの問題が生じたのだと考えますが、それに加えて、夫や夫の両親のやり方が悪いために、問題がさらにこじれてしまったのだと考えます。
ですから、責任はむしろ夫と夫の両親のほうが大きいくらいだと考えます。
では、夫と夫の両親のどこが悪かったのでしょうか。
 
妻に数百万円の借金があると発覚したとき、夫と夫の両親は離婚も考えたかもしれません。しかし、子どももいるし、世間体もあるし、ここはお金を出して解決しようと最終的に判断したのでしょう。
お金を出すと決めた以上、正しいお金の出し方があります。それはきっぱりと、気持ちよく出すということです。
ところが、両親はお金を出すときに、いろいろ恩着せがましいことをいったのでしょう。そのため相談者は「今後は感謝をしながら正しい人生を歩んでいかなければならないと考えています」と書いています。この文章にはぜんぜん感謝の気持ちがありません。感謝の気持ちがあれば、「夫の両親にとても感謝しています」と書くはずです。
「夫はかなり怒りました」と書いてあるから、そうなのでしょう。まずいことをしたと思っているときに怒られると、ますます落ち込みます。
つまり、夫と夫の両親は、よってたかって相談者の自己評価を下げるようなことをしているのです。これでは問題が解決しないばかりか、さらに深刻化することが予想されますし、現に相談者の自己評価は最低レベルになり、人生相談に救いを求めています。
 
では、どうすればよかったのでしょう。
両親は「ちっとも気にしなくていいよ。お互い家族じゃないか」とでもいってぽんとお金を出せばよかったのです。そして夫は、「お前の気持ちをわかってやれなかった俺も悪かった。これからはこんなに借金がふくらむ前にいってくれ」といえばよかったのです。
こうすれば、相談者は家族に感謝し、家族のために立ち直ろうという気になったでしょう。
実に単純な理屈です。
 
しかし、現実には、夫と夫の両親の対応のまずさを指摘する人はほとんどなく(私ぐらい?)、相談者を批判する人が圧倒的でしょう。
この世の価値観はあべこべなのです。
 
ところで、相談者はどうしてこんなに低い自己評価を持つにいたったのでしょうか。相談者は2人の子どもを育てながら独身時代からの勤めを続けているということですから、世間的には高く評価されてもいいはずです。なんの手がかりもありませんが、おそらくは育った家庭で評価されなかったのでしょう。
そして、夫や夫の両親も評価してくれる人ではなかったわけです。
こういう不幸から脱出するのは容易なことではありませんが、正しい認識を持つことはその第一歩です。

新聞や雑誌の人生相談を読むと、この回答者のいっていることは違うなあ、私のほうがもっとうまく答えられるのに、と感じることがよくあります。そこで、相談されてもいないのに、勝手に自分なりの回答を書いてみることにしました。回答者に対しては失礼になるかもしれませんが、相談者がもし読んでくれればプラスになるかもしれないということで、ご容赦ください(相談者が読んでくれる可能性はまずないでしょうが)
題して「横やり人生相談」ということで、シリーズにしていくつもりです。
 
 
読売新聞「人生案内」
小2息子 私にだけ反抗
 
 30代主婦。息子は昨年、小学校に入学しましたが、反抗期なのか、母親の私の言うことを聞きません。
 朝学校に行く時はだらだらと支度し、学校から帰っても宿題もせず、ずっとだらだら過ごしています。それを注意すると、荒っぽい言葉で言い返してきます。学校で忘れ物をしたのを私のせいにして、暴言を吐いたこともあります。
 こうした態度は私にだけで、父である夫に対しては反抗もせず、1度注意されれば素直に聞きます。荒っぽい言葉も出ません。夫からは「お前が息子にガミガミ言いすぎるから、余計言うことを聞かなくなるんだ」と注意されました。
 といって、夫の言う通りあまり怒らずに放っておくと、息子の態度はますます横暴になります。どういう接し方をすれば、素直に母親の言うことを聞き、暴言を吐かなくなるでしょうか。(東京・N子)
 「小1プロブレム」という言葉をご存じでしょうか。授業中に動き回ったり、友達や先生に乱暴な態度を取ったりする子どもが近年増えています。
 息子さんの反抗は母親のあなたに向けられているようですが、行動パターンとしては同じでしょう。慣れない小学校生活からのストレスなどが背後にあると考えられます。従来は入学後、1か月ほどで収まっていましたが、最近は1年くらい続く子どもも少なくない点も似ています。
 対策はただ怒るだけではダメです。授業に興味が持てたり先生に優しく抱きしめられたりすると、落ち着きを取り戻すことがあります。家庭と学校の連携が大切ですから、担任の先生に相談し協力を求めてください。
 もう一つ大事なことは家庭内での親の振る舞い、特に父親の態度です。ある家庭での例ですが、子どもが母親に反抗的な態度を取った時、「ママを侮辱することはパパが許さない」という夫の一言で子どもが立ち直ったと言います。息子さんを叱りすぎないようにという夫の助言にあなたが耳を傾けることも必要でしょうが、夫にも自分が批評家・傍観者的になっていないか、反省してもらう必要があるように思います。
 (大日向 雅美・大学教授)
201152  読売新聞)
 
 
このお母さんに問題がありそうなのは誰にもわかるでしょうが、どう問題なのかを指摘できる人はあまりいないのではないでしょうか。
このお母さんは、息子の行動を表現するのに、「朝学校に行く時はだらだらと支度し、学校から帰っても宿題もせず、ずっとだらだら過ごしています」と二度も「だらだら」という言葉を使っています。よほど息子の行動が腹にすえかねているのでしょう。
「だらだら」という言葉には、お母さんの感情や価値判断が入っています。この言葉を基準にものごとを考えては、この問題の解決は見えてきません。
この息子は朝学校の支度をするとき、「元気がなく、行動がゆっくり」という状態にあるのです。これが客観的な表現です。
では、なぜ「元気がなく、行動がゆっくり」なのかというと、おそらく学校に行くのがいやなのでしょう。そして、学校から帰ってきても「元気がなく、行動がゆっくり」なのは、疲れているからだし、宿題などいやなことがあるからでしょう。
 
回答者は「慣れない小学校生活からのストレスなど」と元気のない原因を指摘しています。おそらくその通りでしょう。それ以外の原因が考えられないからです。
ところが、このお母さんは、息子が「だらだら」するのは息子自身に原因があると考えています。
このお母さんはまた、「荒っぽい言葉」「暴言」「横暴」という言葉で息子の行動を表現しています。そして、それも息子自身に原因があると考えています。
 
ところが、この息子はお父さんにはまったくそういう態度をとらないというのです。
これによって、息子の問題ある態度はむしろお母さんに原因があるのではないかと誰でも推測できるでしょう。
つまり、息子の態度が「だらだら」しているとしか見えないお母さんは、息子にいら立ちをぶつけるので、息子は「荒っぽい言葉」「暴言」「横暴」で応えているというふうに推測できるのです。
 
このケースは、息子がお母さんとお父さんに対する態度がまったく違うので、問題は息子ではなくお母さんにあると誰にでも推測できましたが、もしお父さんがお母さんと同じように息子に接していたら、多くの人は息子に問題があると推測したかもしれません。そうしてなにも悪くない子が「悪い子」にされてしまう悲劇が世の中にはいっぱいあります。
 
このケースの問題の始まりは、お母さんの態度にあります。この相談の冒頭でお母さんは「反抗期なのか、母親の私の言うことを聞きません」といい、最後に「どういう接し方をすれば、素直に母親の言うことを聞き、暴言を吐かなくなるでしょうか」といっています。つまり、このお母さんの最大の望みは、息子が自分の言うことを素直に聞いてくれることなのです。
これはきわめて自己中心的な態度です。少しでも思いやりがあれば、息子が慣れない学校でつらい思いをしているのではないかという当然の推測ができたでしょう。
 
このお母さんは息子の態度を「だらだら」「荒っぽい言葉」「暴言」「横暴」と道徳的に問題のある態度ととらえています。つまり「道徳の目」で息子を見ています。
「愛情の目」がないとき代わりに出てくるのが「道徳の目」です。
自分の子どもが道徳的に問題のある態度をとっていると思えたとき、自分は「愛情の目」をなくしているのではないかと疑ってみてください。
 
 
ところで、回答者は夫にも反省してもらう必要があるといっていますが、これは問題を正しくとらえていません。母親が反省するのが先決ですし、それで問題は解決するはずです。

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