村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:幼児虐待

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『結婚帝国』は上野千鶴子氏と信田さよ子氏の対談本です。
2004年に『結婚帝国:女の岐れ道』というタイトルで出版され、2011年に追加対談を足して『結婚帝国』として文庫化されました。

上野千鶴子氏といえば言わずと知れた日本のフェミニズム界の第一人者です。
信田さよ子氏はアダルトチルドレン・ブームを主導したカウンセラーであり、親子関係の問題に関する第一人者です。
男女関係が権力的な支配関係になっていることをフェミニズムは告発してきましたが、親子関係の問題は取り残されてきました。
権威ある心理学者も親子関係の問題を親の側から見がちでした。もっぱら現場のカウンセラーが親子関係が権力的な支配関係になっていることを子どもの側から告発してきたのです。
この二人の対談によって、男女関係というヨコ糸と親子関係というタテ糸が交わることになります。どんな織物ができるでしょうか。

なお、私は親子関係の問題を文明史的観点でとらえてきました。
どんな高度な文明社会でも赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきます。親を初めとするおとなは、その赤ん坊を文明社会に適応させなければなりません。家の中を汚さないよう、高価なものを壊さないよう、道路に飛び出さないようにしつけ、読み書き、数学、歴史など多くのことを教えますが、それらは子どもの意志を無視して強制的に行われ、暴力も伴います。ここに権力的な支配関係があり、これは男女関係の問題よりも(歴史的にも個人史的にも)先行して存在しているというのが私の考えです。


最初のうち対談はあまりかみ合っていない感じがします。
たとえば信田氏が「上野さんは笑うと思うけど、わたしは自分が男の性的欲望の対象になるということを自覚したことはありません」と言うと、上野氏は「カマトトか鈍感か、どちらなんですか?」「男の鼻面引きずり回す女だっているじゃありませんか。やったことはないんですか?」ときびしく問い返し、上野氏自身は「誘惑者としての娘」という位置を3歳のときに父から学んで、若いころは男を試し続けたと語ります。
それから、信田氏が「わたしはルイ・ヴィトンが好きなの」と言うと、上野氏は「わたしは、一点もルイ・ヴィトンやグッチを持たないのが誇りです」と言います。
このときの現場はどんな空気だったのでしょうか。こういう摩擦を恐れない姿勢が今の上野氏をつくったのでしょう。

やがて話がかみ合ってきます。それは男女関係の問題と親子関係の問題がもともとシンクロしているからです。
上野氏は「妻を殴るときは自分が痛いんだ」とか「君を殴るとき、僕の心が泣いているんだ」と言う夫の例を持ち出します。
こうした言葉は、親や教師が子どもを殴るときの常套句です。
ということは、DV男というのは、子どものときに親や教師から殴られた経験が深く刻印されているのではないかと思われます。

暴力にもいろいろな形があります。
信田氏は、「僕はこう思うよ」「でも、私はこう思うわ」などと二人で延々3時間も話し合って、その果てに殴るという夫の例を挙げます。この夫は「話し合いをもって善とする」という家族で育った人なので、夜を徹してでも話し合うのですが、いつも最後には手を出すのです。

上野氏は夫から殴られているにもかかわらず逃げ出さない妻に疑問を呈します。もちろん経済的事情や子どものためなどで別れられないということもありますが、逃げられるのに逃げない妻がいることは上野氏にとって理解できないようです。
信田氏は、別れない妻は「孤独」を理由にするといいます。しかし、実際は妻という座から転がり落ちる恐怖ではないかと信田氏は推測します。夫と別れると自分が社会からこぼれ落ちてしまう。社会的地位があろうと、何億という貯金があろうと、結婚制度から降りたとたんに一人の中年女性になってしまう。それをちょっと考えただけで怖いので、「だって、私が捨てたらあの人はどうなるの」などと理由をつけて別れるのを回避するというのです。

信田氏は「家族は強制収容所である」といいます。子どもは強制的に収容されて、逃げられないからです。
それは妻にとっても同じことで、自分で選んだつもりで入っても、そこは強制収容所だったということになります。

こういうことは隠されてきました。暴力は「愛のムチ」と呼ばれました。
それが「アダルトチルドレン」という言葉が出てきて、人々の認識が変わりつつあります。
「PTSD」という言葉も画期的でした。これはアメリカの精神医学界でも認められたものです。診断マニュアルでは病因を不問にするのが建て前だったのに、PTSDは過去のトラウマ体験が病因であるとするものです。そのため法律や裁判の分野で活用されてきました。

私はこれを読んだとき、最近芸能界などで性加害やセクハラが問題になると、かなりはっきりと被害者寄りの判断が下されるようになったのは、こういう事情だったのかと思いました。
つけ加えると、アメリカでは事情が違います。子ども時代に父親から性的虐待を受けたと娘が父親を裁判に訴えても、記憶は捏造されるというへんな理論があるために娘が敗訴してしまうのです(このことは『アメリカは90年代の「記憶戦争」で道を誤った』という記事に書きました)。


信田氏が「わたしはね、『自立』っていう言葉を、すべて消したほうがいいんじゃないかと思うんです」と言うと、上野氏も大いに同感します。
「自立」はネオリベラリズムの「自己決定・自己責任」に翻訳され、努力と才能で人生の勝ち組になるべきだという考えにつながります。そうすると、摂食障害の女の子たちが「わたしが勉強できないのは、わたしの努力が足りないから」「こんなだめなわたし、でもそれを許してるのもわたし」「ああ、こんなマイナス思考のわたし」という出口のないアリ地獄に落ちることになるといいます。

「自立」を否定するならどうすればいいかというと、信田氏は「依存でもいい」と言います。
上野氏はここは同意しません。自分の限界を知って、「自分にないが、必要なものをよそから調達するスキル」が必要だと言います。これが「自立」に代わるものであるようです。


本書のテーマは「女性と結婚」ということになるでしょう。私は親子関係に焦点を当てたので、本書の全体像は紹介できていません。
そこで、多少修正する意味で、追加対談の中で上野氏が語った結婚についてのデータを紹介しておきます。
(財)家計経済研究所が25歳から35歳までの年齢層の女性を1993年から10年間にわたって追跡調査したところ、シングルだった女性の10年後は、正規雇用者のほうが非正規雇用者よりも結婚確率も出産確率も高かったのです。つまり「妻の側」の安定した経済条件が結婚と出産を高めるのです。そうすると、女性に正規雇用を提供することが少子化対策に有効だということになります。
参政党の神谷宗幣代表は「若い女性に働け働けとやりすぎた」ことが少子化の原因であるようなことを言いましたが、正しくは「非正規で働け働けとやりすぎた」ことが少子化の原因だったのです。

上野氏は結婚確率を高めよと主張しているわけではありません。上野氏はこのところ「おひとりさま」の生き方を追究しているように、結婚にも男にも期待していないようです。
信田氏は既婚者ですが、上野氏ほどではないにしても、同じような立場です。


私は男ですから、そんな考えにくみするわけにいきません。男といってもいろんな男がいます。

最初にいったように、文明社会では子どもに強制的で暴力を伴う教育としつけが行われていますが、そのやり方は一律ではありません。ひどく暴力が行使される場合もあれば、愛情深く育てられる場合もあります。
DV男になるかならないかは、そこである程度決まります。

今の世の中は、とくに男の子に対しては暴力的な子育てが認められています。
「巨人の星」の星飛雄馬が父一徹から受けたようなスパルタ教育は極端だとしても、似たことは広く行われています。私は市民プールやスポーツジムのプールで父親が泣きべそをかいている子どもをむりやり泳がしているのを何度も見てきました。もし星飛雄馬が結婚していたらDV男になっていたでしょう。
しかし、DV男というのは、軍隊に入れば“鬼軍曹”になり、ブラック企業に入れば成績のいい管理職になるので、社会から有用な存在と見なされています。

DV男から逃げない女性も同じことです。親から暴力をふるわれていれば、恋人や配偶者から暴力をふるわれても受け入れてしまいます。
つまり暴力的な子育てがDV男とDV男から逃げない女をつくるのです。


「自立」と「依存」についても、親子関係からとらえるとわかりやすくなります。
赤ん坊は完全に母親に依存しています。成長するとともに少しずつ自立していきますが、不適切な養育があると自立がうまくいきません。親がわざと子どもの自立を妨げ、自分に依存させるということもあります。人間には情緒的な人間関係が必要なので、夫婦関係が形骸化し、友人関係もほとんどないという親は、子どもをいつまでも手元に置いておきたくなるのです。

したがって、成人しても十分に自立していないという人がほとんどです。そういう人に「自立しろ」と言ってもむだなことです。自分の成育歴を振り返り、親子関係を見直し、現在の人間関係の中で親から与えられなかった愛情を補填することで自立ができます。
もっとも、人間は出発点で依存していたのですから、依存するのが本来の姿で、自立は表面的な姿だともいえます。適切な依存関係を持つことが幸せのひとつの条件だと思います。


私は子どもが強制的・暴力的に教育・しつけをされている状況を「子ども差別」と呼んでいます。
この世の中の根底には「子ども差別」と「性差別」というふたつの問題があるわけです。
家父長制も「子ども差別」と「性差別」というふたつの差別で成り立っていると見なすと、わかりやすくなります。

性差別を解消しても自分に利益はないと思う男性が多いので、フェミニズムはあまり男性に支持されません。
しかし、子ども差別は男性自身の問題でもあるので、子ども差別解消の運動は男性を巻き込むことが可能です。
子ども差別をなくし、まともな親子関係で育った男が増えてくれば、上野氏も少しは結婚を肯定的にとらえるようになるのではないでしょうか。

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9月10日、アメリカの右派活動家チャーリー・カーク氏がユタ州のユタバレー大学で演説中に銃撃されて死亡し、33時間後にタイラー・ロビンソン容疑者が逮捕されました。

トランプ大統領はまだ犯人の正体もわかっていない時点で、「長年にわたり、極左の人々はチャーリーのような素晴らしいアメリカ人を、ナチスや大量殺人犯、そして世界最悪の犯罪者と比較してきました。こうした言説は、今日我が国で見られるテロリズムの直接的な原因であり、今すぐ止めなければなりません」と語って、極左の言説がテロの原因だと決めつけました。

ユタ州のスペンサー・コックス知事(共和党)は、容疑者の逮捕について報告する記者会見で「33時間、私は祈っていました。もしここでこんなことが起きなければならないのだとしても、それ(容疑者)が私たちの仲間ではありませんように、と。他の州から来た誰か、他の国から来た誰かでありますように、と」と述べました。
こういう心理で犯罪と移民が結びつけられるのだということがよくわかります。


逮捕されたタイラー・ロビンソン容疑者は22歳の白人男性で、今のところ犯行動機については黙秘しています。
両親は共和党員として有権者登録をしていて、ロビンソン容疑者は過去に無党派として有権者登録をしていました。
ロビンソン容疑者は家族との会話でカーク氏について「彼は憎しみに満ち、憎しみを広めている」と非難したと報道されていますが、彼の政治的な傾向を示す報道はそれぐらいしかありません。
犯行に使われたライフル銃に残された銃弾に、反ファシストやLGBT擁護を意味する言葉が刻印されていたと報道されましたが、そのあとの報道では銃弾にはさまざまなネットスラングが刻印されていて、そこから容疑者の思想を読み取ることはできないようです。

それでもトランプ氏は12日のFOXニュースに出演した際、「左派の過激派こそが問題だ。凶暴で、恐ろしく、政治的に狡猾だ」と言い、ロビンソン容疑者を左派の過激派と決めつけました。
右派のカーク氏を銃撃した人間だから左派だろうというのはあくまで推測です。カーク氏の対話を重視するやり方は右派からも批判されていましたし、右派・左派ではない思想からの暗殺ということもありえますが、トランプ氏はとにかく左派への憎しみをあおり立てたいようです。

イーロン・マスク氏もXに「左派は殺人政党だ」と投稿しました。

殺されたカーク氏は銃規制に反対しており、「銃撃による死者がでてもそれは憲法修正第二条(国民が銃を持つ権利)を守るための尊い犠牲だ」と主張していたので、今回の銃撃について「自業自得だ」という声も多くありました。右派はそれを「暗殺を肯定している」として批判しました。
クリストファー・ランドー国務副長官は、カーク氏の暗殺を賛美する投稿をした外国人のビザを剥奪すると警告し、インターネットユーザーに対しそうした投稿の情報を共有するよう呼びかけました。

右派は左派を非難し、左派は右派を非難するという、分断を絵に描いたような状況になっていますが、コックス・ユタ州知事は「SNSはガンである」と言いました。さらに捜査当局からの情報として、ロビンソン容疑者の恋人がトランスジェンダーだったとも言いました。
ロビンソン容疑者の恋人がトランスジェンダーだったという情報が伝わると極右活動家がいっせいに非難の声を上げて、保守系インフルエンサーのローラ・ルーマー氏は「トランス運動をテロリスト運動として指定するよう」呼びかけました。

要するになにが起こっているかというと、みんなして左派のせいにし、右派のせいにし、SNSのせいにし、トランスジェンダーのせいにするということをしているのです。
なぜそんなことをしているかというと、問題の本質から目をそむけるためです。
問題の本質というのは、ロビンソン容疑者がどうしてテロリストになったのかということです。
これがわからなければ次のテロを防ぐこともできません。


ロビンソン容疑者はどんな人間だったのでしょうか。
父親はキッチンカウンターやキャビネットの設置事業を営んでいて、母親は免許を持つソーシャルワーカーで、ロビンソン容疑者は3人兄弟の長男です。ロビンソン一家はモルモン教徒で、教会での活動に熱心に参加していたということです。
SNSにはロビンソン容疑者が家族とともにグランドキャニオンを旅行したり、釣りなどのアウトドア活動をしたりしている写真が投稿されており、父親とともにライフル銃を持った写真もありました。父親といっしょに鹿狩りや射撃練習もしていたということです。
母親はフェイスブックに、ACTという大学入学試験でロビンソン容疑者が36点満点中34点を取ったという写真を掲載していました。これは受験者上位1%に当たる点数だということです。その後、ロビンソン容疑者がユタ州立大学奨学金合格通知書を朗読する動画も掲載されていました。ロビンソン容疑者は母親にとって自慢の息子だったようです。
家族仲がよく、みんな敬虔なキリスト教徒であるという、保守派が理想とするような家庭です。


ちなみに昨年7月に演説中のトランプ氏が銃撃され耳を負傷する事件があり、犯人であるトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性はその場で射殺されました。
このときの建物の屋上から演説中の人物を狙撃するという手口がロビンソン容疑者の手口とまったく同じです。ロビンソン容疑者もほんとうはトランプ大統領を狙いたかったのかもしれません。しかし、大統領は警備がきびしいためにチャーリー・カーク氏を狙ったということが考えられます。
トーマス・マシュー・クルックスは平凡な家庭の生まれで、両親はリバタリアン党の支持者、彼自身は共和党員として有権者登録をしていました。クラスメートからは「思想的には右寄り」と評されていました。
その場で射殺されたので動機はわかりませんが、ごく平凡な家庭で育った20歳の若者がテロリストになったということで、ロビンソン容疑者と似ています。


平凡な家庭で育った若者が凶悪な犯罪者になるのはなぜでしょうか。
実は平凡な家庭というのは見かけだけで、その内部では子どもへの虐待が行われていたと考えられます。
そうでなければ凶悪な犯罪者にはなりません。

子どもを虐待する親は、当然そのことを隠します。家の中で激しい物音がするとかいつも子どもの泣き声がするとかで警察沙汰にならない限り、虐待は発覚しません。心理的虐待だけならなおさらです。
幼児虐待がニュースになるのは子どもが死ぬか大ケガをした場合だけです。それらはもちろん氷山の一角なので、虐待が行われている家庭は広範囲に存在します。
ちなみに日本で幼児虐待で子どもが死亡する件数は年間100人以下ですが、アメリカでは年間1500人前後です。


ロビンソン家については、母親がロビンソン容疑者の成績のよさを自慢していたことがわかっています。
しかし、ロビンソン容疑者は奨学金付きで入学したユタ州立大学に在籍したのは1学期だけでした。その後、ディキシー工科カレッジで電気技師の課程を受講していて、現在は3年生です。ディキシー工科カレッジというのは職業訓練校みたいなもののようです。
ロビンソン容疑者は母親の決めたレールの上を歩まされていて、それに反発してユタ州立大学を1学期で中退したのではないかと想像されます。つまり“教育虐待”が疑われます。
もちろんこれだけでは虐待があったとは決めつけられませんが、メディアがちゃんと取材すればわかるはずです。

日本では、凶悪事件の犯人の生い立ちについては、ひと昔前はまったく報道されませんでしたが、最近は週刊誌がよく報道するようになりました。その結果、みな悲惨な生い立ちであったことが明らかになっています。
日本では、そういう悲惨な生い立ちの者が犯罪に走る場合、通り魔事件を起こすことがよくありますが、アメリカでは銃乱射事件ということになるでしょう。
ときどきターゲットが政治家になることがあって、それは政治的暗殺、テロということになります。
子どもにとって親は権力者ですから、親への憎悪が政治家に投影されるのはありがちなことです。


ロビンソン容疑者はなにかの組織には属していないようです。こういう個人のテロリストをローンオフェンダーといいます。トランプ氏を狙撃したトーマス・マシュー・クルックスも同じです。
過激派組織を抑え込んだところで、ローンオフェンダーの発生を防ぐことはできません。
したがって、今アメリカがするべきことは、右派と左派がやり合うことではなく、ロビンソン容疑者がどうしてテロリストになったかを解明することです。
そうすると、おのずと家族のあり方にメスを入れることにもなります。

アメリカで犯罪、薬物依存、アルコール依存が深刻なのは、家族関係がゆがんでいるからです。
ところが、多くの人はこの問題から目をそらしています。そのために今回のテロ事件についても右派や左派やSNSやトランスジェンダーのせいにしているのです。

家族関係から目をそらしているのは、左派よりも右派のほうが顕著でしょう。右派は「家族の絆」を重視するので、「家族の絆」が崩壊している現実を認めたくないのです。


トランプ氏は州兵派遣によってワシントンD.C.の犯罪はゼロに等しくなったと主張し、市当局は「『家庭内の出来事』のような些細な事件まで犯罪統計に含め、数字を膨らませている」「夫が妻と軽く口論すると、その場所が犯罪現場になったと言われる」と犯罪統計のあり方を非難しました。
トランプ氏は明らかに家庭内暴力を軽視しています。

アメリカではまた、「マムズ・フォー・リバティ(自由を求める母親)」という名の保守派の団体が草の根で活動を広げ、学校図書館でLGBTやセクシュアリティや人種問題を扱った本を禁書にしようとしています。この団体は「母親の権利」を主張し、子どもの権利を無視するものです。
フロリダ州の保守派のデサンティス知事は、「子どもは子どもらしく」という標語を掲げ、「教育における親の権利法」という州法を成立させました。この州法は、学校でなにを教えるかは学校が決めるのではなく親の権利だとするものです。
このように親の権利を拡大し、子どもの権利を制限するのが保守派の思想です。
単純にいえば、子どもはきびしくしつけるべきだという思想です。
この思想のもとでは幼児虐待が深刻化するのは当然です。

テロを生むのは過激な左翼思想ではなく、どこにでもある保守的な家庭です。

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私は30代前半に究極の思想ともいうべき「地動説的倫理学」を思いつきました。
これは人類史においてコペルニクスによる地動説の発見に匹敵するぐらい重大な発見です。
そんなことを言うと頭のおかしいやつと思われますが、どう思われようと、この重大な発見を世の中に伝えないわけにいきません。
発見したことの重大さに比べて、私の能力があまりにも過小であるという困難を乗り越えて、なんとか一冊の本になる形に原稿をまとめて、別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」で公開しました。

しかし、あまり理解されません。
どうやらむずかしく考えすぎたようです。
私が「地動説的倫理学」を思いついたとき、これは常識とあまりにも違うのでなかなか理解されないだろうと思いました。そこで、思いついた過程を丁寧に説明し、また、科学としても認められるようにしようと配慮しました。
しかし、考えてみれば、コペルニクスがどうやって地動説を思いついたかなんていうことは、地動説を理解する上ではどうでもいいことです。

ということで、ここでは「地動説的倫理学」をもっとも単純な形で紹介したいと思います。



人類は霊長類の一種で、優れた言語能力を有することが特徴です。
人類が使う多様な言語の中に「よい」と「悪い」があります。「よい天気」と「悪い天気」、「よい匂い」と「悪い臭い」、「よい味」と「悪い味」、「よい出来事」と「悪い出来事」など、あらゆる物事に「よい」と「悪い」は冠せられます。
「よい」とは人間の生存に有利なもので、「悪い」とは人間の生存に不利なものです。新鮮な肉は「よい肉」で、腐った肉は「悪い肉」です。これは「良性腫瘍」と「悪性腫瘍」、「善玉菌」と「悪玉菌」という言葉を見てもわかるでしょう。
人間は森羅万象を「よい」と「悪い」と「どちらでもない」に見分けながら生きています。

この「よい」と「悪い」を人間の行為に当てはめたのが道徳です。
自分が困っているときに助けてくれる他人の行為は「よい行為」であり、それをするのは「よい人」です。
自分にとって不利益になる他人の行為は「悪い行為」であり、それをするのは「悪い人」です。
こうして「善」と「悪」すなわち道徳ができました。
そうして人は「よいことをするべきだ。悪いことをしてはいけない」と主張して、相手を自分の利益のために動かそうとしてきました。

ここで注意するべきは、腐った肉は誰にとっても「悪い肉」ですが、人間の行為はある人にとっては利益になる「よい行為」となり、別の人にとっては不利益になる「悪い行為」になるということです。つまり道徳には普遍性がありません。
そのため、強者が自分に都合のいい道徳を弱者に押しつけることになりました。


動物は同種間で殺し合うことはめったにないのに、人間は数えきれないほど戦争をしてきました。また、奴隷制や植民地支配によって人間が人間を支配してきました。
人間は道徳をつくりだしたためにかえって悪くなったのではないでしょうか。
それを確かめるには「道徳をつくりだす以前の人間」と「道徳をつくりだした以降の人間」を比較する必要があります。
この比較は簡単なことです。赤ん坊や小さな子どもは道徳のない世界に生きているので、子どもとおとなを比較すればいいのです。

道徳のない世界では、子どもは自由にふるまって、親はそれを見守るだけでした。これは哺乳類の親子と同じです。動物の親は子どもにしつけも教育もしません。
未開社会でも親は子どもに教育もしつけもしません。
納得いかない人は、次の本を参考にしてください。



しかし、文明が発達すると、子どもの自然なふるまいが親にとって不利益になってきます。
定住生活をするようになると、家の中を清潔にするために子どもの排泄をコントロールしなければなりません。子どもに土器を壊されてはいけませんし、保存食を食べ散らかされてもいけません。
それに、文明人の親は多くの知識を持ち、複雑な思考ができますが、赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきますから、親の意識と子どもの意識が乖離します。共感性の乏しい親は子どもに対して「こんなことがわからないのか」とか「こんなことができないのか」という不満を募らせ、子どもに怒りの感情を向けるようになります。
そうした親は道徳を利用しました。親にとって不利益な子どもの行為を「悪」と認定し、その行為をすると叱ったり罰したりしたのです。こうすると子どもを親の利益になるように動かせるので、このやり方は広まりました。「悪い子」を「よい子」にすることは、その子ども自身のためでもあるとされたので、叱ることをやましく思うこともありませんでした。

これは子どもにとっては理不尽なことです。これまでと同じように自然にふるまっているのに、あるときから「悪」と認定され、叱られるようになったのです。
この「悪」は子どもの行為にあるのではありません。親の認識の中にあるのです。
「美は見る者の目に宿る」という言葉がありますが、それと同じで「善悪は見る者の目に宿る」のです。
いわば人間は「善悪メガネ」あるいは「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、人間はなんとかしてこの世から「悪」をなくそうと力を尽くしてきましたが、まったく間違った努力です。「悪」は見る対象にあるのではなく、自分自身の目の中にあるからです。

私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
これまで世の中を支配してきたのは、自己中心的で非論理的な「天動説的倫理学」だったのです。

「天動説的倫理学」の支配する世界でいちばん苦しんでいるのは子どもです。親は「子どもは親の言うことを聞くべき」とか「行儀よくするべき」とか「好き嫌いを言ってはいけない」とかの道徳を押しつけ、親の言うことを聞かないと「わがまま」であるとして叱ったり罰したりします。これはすなわち「幼児虐待」です。
私がこの理論を思いついたとき、これはなかなか世の中に受け入れられないだろうと思ったのは、まさにそこにあります。
当時は、幼児虐待は社会的に隠蔽されていました。ごくまれに親が子どもを殺したという事件がベタ記事として新聞の片隅に載るぐらいです。この理論は幼児虐待をあぶりだすので、社会から無視されるに違いないと思ったのです。

しかし、今では多くの人が幼児虐待に関心を持っているので、幼児虐待を人類史の中に位置づけたこの理論はむしろ歓迎されるかもしれません。
この理論は幼児虐待の克服に大いに役立つはずです。

今の世の中は「親は子どもに善悪のけじめを教えなければならない。教えないと子どもは悪くなってしまう」と考えられています。
しかし、子どもには「よい子」も「悪い子」もいませんが、親には子どもを愛する「よい親」と子どもを虐待する「悪い親」がいます。
おとなの中にはテロリスト、ファシスト、差別主義者、殺人犯、レイプ犯、強盗、詐欺師、DV男、利己主義者などさまざまな「悪人」がいます。そうした「悪人」が子どもを「よい子」にしようとして教育やしつけを行っているのが今の「天動説的倫理学」の世界です。

こうした状況をおとなの目から見ているとわけがわかりませんが、子どもの目から見ると、すっきりと理解できます。
複雑な惑星の動きが太陽を中心に置くとすっきりと理解できるのと同じです。
しかし、これはおとなにとっては認めたくないことかもしれません。それも私がこの理論はなかなか理解されないだろうと思った理由です。

なお、「天動説的倫理学」つまり既成の倫理学では、善と悪の定義がありません。倫理学の本にはむずかしいことばかり書かれていて、なんの役にも立ちません。「天動説的倫理学」と「地動説的倫理学」を比べれば、どちらが正しいかは明らかです。


道徳は強者が弱者に押しつけるものであるというとらえ方は、マルクス主義とフェミニズムも同じです。マルクス主義は資本家階級が労働者階級に押しつけ、フェミニズムは男性が女性に押しつけるとしました。私は親が子どもに押しつけるとしたのです。
ここまで踏み込むことで善と悪の定義ができました。.これは画期的なことです(これまで善と悪の定義はありませんでした)。
道徳は強者が弱者に押しつけるものだということを知るだけで、道徳にとらわれない自由な生き方ができるはずです。

私はさらに、この理論と進化生物学を結びつけました。これが正しければ、この理論は「科学的」と称してもいいはずです。
マルクス主義は「科学的社会主義」を称して一時はたいへんな勢いでしたが、結局「科学的」というのは認められませんでした。
「地動説的倫理学」は「科学的」と認められるでしょうか。



これを読んだだけでは、いろいろな疑問がわいてくるでしょう。
「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく書いているので、そちらをお読みください。



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5月7日、東京メトロの東大前駅で、男性客に刃物で切りつけて殺人未遂容疑で現行犯逮捕された戸田佳孝容疑者(43歳)は、犯行動機を「小学生の時にテストの点が悪くて親から叱られた」「教育熱心な親のせいで不登校になり苦労した」「東大を目指す教育熱心な世間の親たちに、あまりに度が過ぎると子がぐれてれて、私のように罪を犯すと示したかった」などと供述しました。
このところ「教育虐待」が話題になることが多く、容疑者は「教育虐待」の被害者であることをアピールすれば世間に受け入れられると思ったのかもしれません。

「教育虐待」という言葉は2010年代からありますが、世に広く知られるようになったきっかけは2022年に出版された齊藤彩著『母という呪縛 娘という牢獄』というノンフィクションではないかと思います。母親に医学部に入るように強要され9年も浪人した娘が母親を殺害した事件を描いた本で、10万部を越えるベストセラーになりました。
世の中には親から「よい学校」へ行けとむりやり勉強させられたり、やりたくもない習い事を強制されたりした人が多く、そういう人の共感を呼んだのでしょう。

「教育虐待」の典型的な事件としては鳥栖市両親殺害事件があります。
2023年3月、佐賀県鳥栖市で当時19歳の男子大学生が両親を殺害しました。男子大学生は小学校時代から父親に勉強を強要され、殴られたり蹴られたりし、一時間以上正座をさせられて説教され、「失敗作」や「人間として下の下」などとののしられました。佐賀県トップの公立高校に進み、九州大学に入りましたが、それでも父親の虐待はやまず、大学の成績が悪化したことを父親に責められたときナイフで父親を刺し、止めようとした母親も刺殺しました。佐賀地裁は教育虐待を認定しましたが、判決は懲役24年でした。

「東大」と「教育虐待」というキーワードから思い出されるのは、2022年 1月15日に大学入学共通テストの試験会場である東京都文京区の東京大学のキャンパス前で、17歳の男子高校生が3人を刃物で切りつけて負傷させた事件です。この高校生は名古屋市の名門私立高校に在籍し、東大医学部を目指していましたが、思うように成績が上がらず犯行に及んだものと思われます。ただし、本人は動機についてはなにも語りませんでした。ウィキペディアを見ると、「人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと考えるようになった」などと言ったようです。
「教育虐待」という認識はなかったのでしょう。若いのでしかたありません。

5月9日、愛知県田原市で70代の夫婦が殺害され、孫である16歳の男子高校生が逮捕されました。今のところ男子高校生は「人を殺したくなった」と供述していると伝わるだけです。
5月11日、千葉市若葉区の路上で高橋八生さん(84)が背中を刃物で刺されて死亡した事件で、近くに住む15歳の男子中学3年生が逮捕されました。男子中学生は「複雑な家庭環境から逃げ出したかった。少年院に行きたかった」と供述しています。
どちらの容疑者も背後に幼児虐待があったと想像されますが、本人はそれについては語りません。

ここに大きな問題があります。
人間は親から虐待されても自分は虐待されているという認識が持てないのです。
ベストセラーのタイトルを借りれば、ここに人類最大の「バカの壁」があります。



親から虐待されている子どもが周囲の人に虐待を訴え出るということはまずありません。医者から「このアザはどうしたの?」と聞かれても、子どもは正直に答えないものです。
哺乳類の子どもは親から世話されないと生きていけないので、本能でそのようになっているのでしょう。
では、何歳ぐらいになると虐待を認識できるようになるかというと、何歳ともいえません。なんらかのきっかけが必要です。

幼児虐待を最初に発見したのはフロイトです。ヒステリー研究のために患者の話を真剣に聞いているうちに、どの患者も幼児期に虐待経験のあることがわかって、幼児虐待の経験がのちのヒステリーの原因になるという説を唱えました。
もっとも、フロイトは一年後にこの説を捨ててしまいます。そのため心理学界も混乱して、今にいたるまで幼児虐待に適切な対応ができているとはいえません(このことは『「性加害隠蔽」の心理学史』という記事に書きました)。

心理学界も混乱するぐらいですから、個人が自分自身の体験を認識できなくても当然です。しかし、認識するかしないかは、それによって人生が変わるぐらいの重大問題です。

虐待された人がその認識を持てないと、その影響はさまざまな形で現れます。
親子関係というのは本来愛情で結ばれているものですが、そこに暴力や強制が入り込むわけです。そうすると自分の子どもに対しても同じことをしてしまいがちですし、恋人や配偶者に対してDVの加害者になったり被害者になったりします。また、親の介護をしなければならないときに、親に対する子ども時代の恨みが思い出されて、親に怒りをぶつけたり、暴力をふるったりということもありますし、そもそも親の介護をしたくないという気持ちにもなります。
また、虐待の経験はトラウマになり、PTSD発症の原因にもなりますし、アルコール依存、ギャンブル依存などの依存症の原因にもなります。
ですから、虐待された人はその事実を認識して、トラウマの解消をはかることがたいせつです。

虐待を認識するといっても、なにもカウンセラーにかかる必要はありません。「毒親」という言葉を知っただけで自分の親は毒親だったと気づいた人がたくさんいます。「教育虐待」という言葉も同じような効果があったのでしょう。
自分で過去を回想し、抑圧していた苦痛や怒りや恨みの感情を心の中から引き出せばいいのです。

ただ、ここにはひとつの困難があります。「親から虐待された」ということを認識すると、「自分は親から愛される価値のない人間なのか」という思いが出てくるのです。
この自己否定の思いは耐えがたいものがあり、そのために虐待の事実を否定する人もいますし、「親父は俺を愛しているから殴ってくれたんだ」というように事実をゆがめる人もいます。

そこで「自分の親は子どもを愛せないろくでもない親だった」というふうに考えるという手もあります。しかし、そうすると、「自分はろくでもない親の子どもだ」ということになり、やはり自己否定につながってしまいます。

これについてはうまい解決策があります。
「虐待の世代連鎖」といって、子どもを虐待する親は自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いものです。ですから、親に聞くなどして親の子ども時代のことを調べて、親も虐待されていたとわかれば、親が自分を虐待したのは自分のせいではなく親の過去のせいだということになり、自己否定は払拭できます。

それから、私が「虐待の社会連鎖」と名づけていることもあります。
たとえば、会社で部長から理不尽な怒られ方をした課長が自分の部下に当たる。その部下は家に帰ると妻に当たる。妻は子どもに当たるというようなことです。
あるいは母親が自分の暮らしは貧しいのに、ママ友はリッチな生活をしていて、子どもは成績優秀だと自慢され、劣等感を感じて、家に帰って子どもに当たるということもあります。
競争社会の中で弱者はどうしても敗北感や劣等感を覚えるので、社会の最弱者である自分の子どもを虐待することで自己回復をはかることになりがちです。こうしたことが「虐待の社会連鎖」です。

「虐待の世代連鎖」と「虐待の社会連鎖」を頭に入れておくと、親が自分を虐待したのは自分に原因があるのではなく、親の背後にある過去や社会に原因があるのだとわかり、自己肯定感が得られるはずです。


それから、「ほかのみんなは幸せなのに、自分だけ虐待されて不幸だ」と思って、いっそうみじめな気持ちになる人がいます。
しかし、実際は幼児虐待は広く存在します。表面からは見えないだけです。

幼児虐待が社会的な事件になると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
つまり「しつけを名目にした虐待」です。
「教育虐待」は「教育を名目にした虐待」ですから、同じようなものです。

「しつけ」のために子どもを叱ることは社会で公認され、推奨されています。
公共の場で子どもが騒いだりすると、親が子どもを叱って静かにさせるべきだと言われます。
どこの家庭でも子どもを叱ってしつけているはずです。

叱るときに体罰を使えば身体的虐待ですが、体罰なしで言葉だけで叱るのはどうかというと、心理的虐待です。きつく叱られた子どもは傷つき、脳の萎縮・変形を招く恐れがあります。

今の社会では誰もが叱られて育っているので、誰もが被虐待経験があることになります。
もちろん虐待の程度によってまったく違ってきますが、軽い虐待でも、それを認識しないと、なんとなく生きづらいという感情を引きずるかもしれません。また、結婚したくないとか、子どもがしほくないとか、子どもがかわいくないといった感情の原因にもなります。
ですから、親から虐待されたという苦しみを感じている人は、虐待の認識があるだけましともいえます。


幼児虐待というのは「文明の病」です。
赤ん坊は原始時代となんら変わらない状態で生まれてくるので、高度な文明社会に適応させるには短期間に多くのことを教えなければなりません。その過程で虐待が発生したのです。
今ようやく、虐待にならない形で子どものしつけや教育を行うべきだという考えが生まれてきたところです。
幼児虐待をこのように文明史の中に位置づけると、いっそう受け止めやすくなるでしょう。


これまで幼児虐待が認識されてこなかったのは、おとな本位の価値観が世の中を支配していたからです。
おとな本位の価値観から転換する方法については「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。


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最近はテロ組織に属さない個人のテロリスト、ローンオフェンダーが増えています。
ローンオフェンダーによるテロは発生の予測が困難なので、防止策が課題とされます。
テロにはなにかの政治的な主張があるものですが、ローンオフェンダーの場合は、そうした政治的主張よりも深層の動機に注目する必要があります。

この4月、アメリカでトランプ大統領暗殺計画が発覚しました。
17歳の高校生ニキータ・カサップ被告は2月11日ごろ、母親タティアナ・カサップさん(35)と継父ドナルド・メイヤーさん(51)を射殺し、車で逃亡しているところを逮捕されました。車内には拳銃のほかに両親のクレジットカード4枚、複数の宝石類、こじ開けられた金庫、現金1万4000ドル(約200万円)がありました。
被告の携帯電話からは、ネオナチ団体「ナイン・アングルズ教団」に関する資料や、ヒトラーへの賛辞が見つかりました。さらに、トランプ大統領暗殺計画をかなり詳しく書いていました。
両親を殺したのは、トランプ大統領暗殺計画のじゃまになるからで、また、爆薬やドローンを購入する資金を奪うためでもありました。
反ユダヤ主義や白人至上主義の信条も表明していて、政府転覆のためにトランプ大統領暗殺を呼びかけていました。

「ナイン・アングルズ教団(The Order of Nine Angles)」というのは、ナチ悪魔主義の団体ともいわれていて、カルトの一種のようです。
本来あるべきユダヤ・キリスト教の思想は何者かによって歪められているという教義が中心になっており、組織ではなく個人の行動により社会に騒乱をもたらし新世界秩序を再構築することを目的としているそうです。

計画段階で終わりましたが、この被告はまさにローンオフェンダーです。
ただ、動機が不可解です。
白人至上主義なのにトランプ氏暗殺を計画するというのも矛盾していますし、トランプ氏暗殺のために両親を殺害するというのも奇妙です。


私がこの事件から連想したのは、山上徹也容疑者(犯行当時41歳)による安倍晋三元首相暗殺事件です。
山上容疑者は親を殺すことはありませんでしたが、母親を恨んでいたはずです(父親は山上容疑者が幼いころに自殺)。それに、統一教会というカルトが関係しています。最終的に元首相暗殺計画を実行しました。「親・教祖・国家指導者」という三つの要素が共通しています。

山上容疑者の母親は統一教会にのめり込んで、家庭は崩壊状態になりました。また、統一教会に多額の寄付をし、そのために山上容疑者は大学進学がかないませんでした。
したがって、山上容疑者は母親を恨んでいいはずですが、誰でも自分の親を悪く思いたくないものです。そこで山上容疑者は「母親をだました統一教会が悪い」と考え、教団トップの韓鶴子総裁を狙おうとしましたが、日本にくる機会が少なく、警護も厳重でした。
そうしたところ安倍元首相が教団と深くつながっていることを知り、安倍元首相を狙うことにしたわけです。
親、教祖、元首相と標的は変遷していますが、共通点があります。
親は子どもの目から見れば超越的な存在です。教祖や神も超越的です。国家指導者も国民から見れば超越的です。
戦前までの天皇陛下は、国民は「天皇の赤子」といわれて、天皇と国民は親子の関係とされていました。天皇は現人神であり、国家元首でもありました。
つまり天皇は一身で「親・教祖・国家指導者」を体現していたわけです。
オウム真理教の麻原彰晃も教団を疑似国家にして、教祖兼国家指導者でした。そして、教団そのものがテロ組織となりました。


「親・教祖・国家指導者」が似ているというのは理解できるでしょう。
問題はそこに殺人だの暗殺だの政府転覆だのがからんでくることです。
その原因は親子関係のゆがみにあります。親子関係はすべての人間関係の原点です。そこがゆがんでいると、さまざまな問題が出てきます。

ところが、人間は親子関係がゆがんでもゆがんでいるとはなかなか認識できません。
これはおそらく哺乳類としての本能のせいでしょう。
たとえばキツネの親は、天敵の接近を察知すると警告音を発して子どもを巣穴に追いやり、遅れた子どもは首筋をくわえて運びます。そのやり方が乱暴でも子どもは抵抗しません。子どもは親のすることは受け入れるように生まれついているのです。そうすることが生存に有利だからです。
人間の子どもも親から虐待されても、それを受け入れます。それを虐待と認識できないのです。
これは成長してもあまり変わりません。二十歳すぎて、親元を離れて何年かたってから、自分の親は毒親だったのではないかと気づくというのがひとつのパターンです。

ヒトラーも子ども時代に父親に虐待されていました。そのこととヒトラーのホロコーストなどの残虐行為とが関連していないはずがありません。ところが、ヒトラーが子ども時代に虐待されていたことはヒトラーの伝記にもあまり書かれていないのです。このことは「ヒトラーの子ども時代」という記事に書きました。

心理学は幼児虐待を発見しましたが、一方でそれを隠蔽し、混乱を招いてきました。この問題は『「性加害隠蔽」の心理学史』という記事に書きました。


不可解な事件が起こったとき、「そこに幼児虐待があったのではないか」と推測すると、さまざまなことが見えてきます。
たとえば冒頭の17歳高校生の両親殺しの事件ですが、高校生は両親から虐待されていたと推測できます。17歳の少年に凶悪な動機が芽生えるとしたら、それしか考えられません。しかし、本人は自分が虐待されているとは認識できないので、自分の中の凶悪な感情が理解できません。そこにナチ悪魔主義教団の教義を知り、トランプ氏暗殺肯定の主張を知ります。トランプ氏暗殺は自分の凶悪な感情にふさわしい行為に思えました。そして、トランプ氏暗殺のためには親殺しが必要だという理屈で親殺しをしたのです。

昨年7月に演説中のトランプ氏が銃撃され、耳を負傷するという事件がありました。
その場で射殺された犯人はトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性です。写真を見る限り、平凡でひ弱そうな若者です。共和党員として有権者登録を行っていました。親から虐待されていたという報道は見かけませんでしたが、20歳の平凡な若者に大統領候補暗殺という強烈な動機が生じたのは、やはり親から虐待されていた以外には考えられません。

2023年4月、選挙応援演説を行っていた岸田文雄首相にパイプ爆弾が投げつけられるという事件がありました。その場で逮捕された木村隆二被告(犯行当時24歳)は、被選挙権の年齢制限や供託金制度に不満を持ち、裁判を起こすなどしましたが、自分の主張が認められないため、岸田首相襲撃事件を起こしました。政治的な主張のテロですが、その主張と首相暗殺とは釣り合いがとれません(被告は殺意は否定)。
木村隆二被告については、父親から虐待されていたという報道がありました。
『「父親は株にハマっていた」「庭は雑草で荒れ果てていた」岸田首相襲撃犯・木村隆二容疑者の家族の内情』という記事には、近所の人の証言として「お父さんがよく母親や子どもたちを怒鳴りつけててね。夜中でも怒鳴り声が聞こえることがあって、外にまで聞こえるぐらい大きな声やったもんやから、近所でも話題になってましたね。ドン!という、なにかが落ちるものとか壊れる音を聞いたこともあった。家族は家の中では委縮していたんと違うかな」と書かれています。

親に虐待された人は生きづらさを感じたり、PTSDを発症したりします。そのときに親に虐待されたせいだと気づけばいいのですが、国家指導者のせいだと考えると、どんどん間違った方向に行って、最終的にテロ実行ということになります。
これがローンオフェンダーの心理です。

とくに政治的主張がなくて、世の中全体を恨むような人は、通り魔事件を起こします。
ですから、ローンオフェンダーと通り魔は根が共通しています。


したがって、ローンオフェンダー型テロや通り魔事件をなくすには、根本的な対策としては世の中から幼児虐待をなくすことです。そして、幼児虐待のためにPTSDを発症した人などへの支援を十分にすることです。
目先の対策などどうせうまくいかないので、こうした根本的な対策をするしかありません。

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トランプ大統領は周りをイエスマンで固め、独裁者への道をひた走っています。
プーチン大統領、習近平主席もどんどん独裁色を強めています。
国家のリーダーは独裁色を強めるほど国民に人気となります。
なぜ国家の指導者は独裁者になり、国民は独裁者を支持するのでしょうか。

独裁者の中の独裁者、アドルフ・ヒトラーはどうして独裁者になり、当時のドイツ国民はどうしてヒトラーを熱狂的に支持したのでしょうか。
ドイツでは何冊もヒトラーの伝記が出ていますが、ヒトラーの子ども時代については、どれもヒトラーは普通の家庭で育ったというふうに書かれているようです。
そんなはずがありません。

猟奇殺人のような凶悪犯罪をした人間は、決まって異常な家庭で育ち、親から虐待を受けています。ところが、メディアはそうしたことはほとんど報じません(最近ようやく週刊誌が報じるようになってきました)。それと同じことがヒトラーの伝記にもあります。

心理学界で最初に幼児虐待を発見したのはフロイトです。
フロイトは1896年に『ヒステリー病因論』を出版し、自分の扱った18の症例すべてにおいて子ども時代に性的暴行の体験があったと記しました。
つまり幼児虐待の中でももっとも認識しにくい性的虐待の存在を認めたのです。
ところが、フロイトは1年後に、性的暴行の体験はすべて患者の幻想だったとして、『ヒステリー病因論』の内容を全面否定しました。フロイト心理学は、幼児虐待をいったん認めたあとで否定するというふたつの土台の上に築かれたのです(これについては「『性加害隠蔽』の心理学史」で述べました)。

アリス・ミラーはフロイト派の精神分析家でしたが、フロイト心理学の欠陥に気づき、批判者に転じました。
ミラーは『魂の殺人』において、ヒトラーの子ども時代について書かれた多くの文章を比較し分析しました。一部ウィキペディアで補足しながらミラーの説を紹介したいと思います。


1837年、オーストリアのシュトローネ村で未婚の娘マリア・アンナ・シックルグルーバーは男児を出産し、その子はアロイスと名づけられました。このアロイスがアドルフ・ヒトラーの父親です。
村役場の出生簿にはアロイスの父親の欄は空白のままです。
マリアはアロイス出産後5年たって粉ひき職人ヨーハン・ゲオルク・ヒートラーと結婚し、同年にアロイスを夫の弟の農夫ヨーハン・ネポムク・ヒュットラーに譲り渡しました(兄弟で名字が異なるのは読み方の違いだという)。
この兄弟のどちらかがアロイスの父親ではないかと見られています。
しかし、第三の説もあります。マリアはフランケンベルガーというユダヤ人の家に奉公していたことがあり、そのときにアロイスを身ごもったという話があるのです。
ヒトラーは1930年に異母兄からゆすりめいた手紙を受け取り、そこにヒトラー家の来歴について「かなりはっきりした事情」のあることがほのめかしてあったということで、ヒトラーは弁護士のハンス・フランクに調べさせたことがあります。しかし、はっきりした証拠はなかったようです。
その後、この説についてはさまざまに調べられましたが、今ではほとんど否定されています。
しかし、ヒトラーは自分の祖父がユダヤ人かもしれないという疑惑を持っていたに違いありません。


ヒトラーの父アロイスは小学校を出ると靴職人になりましたが、その境遇に満足せず、独学で勉強して19歳で税務署の採用試験に合格して公務員になり、そして、順調に昇進を重ね、最終的に彼の学歴でなれる最高位の上級税関事務官になりました。好んで官憲の代表となり、公式の会合などにもよく姿を現し、正式な官名で呼びかけられることを好みました。
彼は昇進のたびに肖像写真を撮らせ、どの写真も尊大で気むずかしそうな顔をした男が写っています。
彼は3度結婚し、8人の子どもをもうけましたが、多くは早死にしました。

ある伝記によると、アロイスは喧嘩好きで怒りっぽく、長男とよく争いました。長男は「情容赦もなく河馬皮の鞭で殴られた」と証言しています。長男が玩具の船をつくるのに夢中になって3日間学校をサボったときなど、それをつくるように勧めたのは父親であったにもかかわらず、父親は息子に鞭を食らわせ、息子が意識を失って倒れるまで殴り続けたといいます。アドルフも兄ほどではなかったにせよ、鞭でしつけられました。犬もこの一家の主人の手で打たれ続けて、「とうとう体をくねらせて床を汚してしまった」ことがあるそうです。長男の証言によれば、父親の暴力は妻クララにまで及んでいました。

アドルフの妹パウラは、父親の暴力にさらされたのは長男よりもアドルフだと証言しています。
その証言は次の通りです。
「アドルフ兄は誰よりも父に叱られることが多く、毎日相当ぶたれていました。兄はなんというかちょっと汚らしいいたずら小僧といったところで、父親がいくら躍起になって性悪根性を鞭で叩き出し、国家公務員の職に就くようにさせようとしても、全部無駄でした」

これらの証言から、ヒトラー家は父親の暴力が吹き荒れる家庭で、中でもアドルフは被害にあっていたと思われます。
しかし、伝記作家などはこうした証言を疑い、しばしば嘘と決めつけます。

アドルフの姉アンゲラは「アドルフ、考えてごらんなさい、お父さんがあんたをぶとうとした時お母さんと私がお父さんの制服の上着にしがみついて止めたじゃないの」と言ったという記録があります。父親が暴力的であったことを示す証拠です。
しかし、ある伝記作家は、その当時父親は制服を着ていなかったのでこれはつくり話だと決めつけました。
しかし、これは当時父親が制服を着ていなかったというのが正しいとしても、アンゲラが上着について思い違いをしていただけでしょう。上着が違うから全部が嘘だとするのはむりがあります。

また、「総統」は女秘書たちに、父親は自分の背をピンと伸ばさせておいてそこに30発鞭を食らわせたと語ったことがあります。
これについても伝記作家は、彼は女秘書たちにバカ話をするのが好きで、彼の話したことであとで正しくないことが証明されたことも多いので、この話の信憑性は薄いと判断しました。
このような判断の繰り返しで、父親の暴力は当時の常識の範囲内のもので、ヒトラー家は普通の家庭であったという印象に導かれます。


親が子どもを虐待することはあまりにも悲惨なので、虐待の存在そのものを認めたくないという心理が誰においても働きます。そのためにフロイトの『ヒステリー病因論』は世の中の圧倒的な反発を招き、フロイトはその説を捨ててしまいました。
同じ力学は今も働いています。幼児虐待の通報があって児相や警察がその家庭を訪問しても、親の言い分を真に受けて子どもの保護をせず、その後子どもが殺されて、児相や警察の対応が非難されるということがよくありますが、児相や警察の人間も虐待を認めたくない心理があるのです。


ヒトラーの父親の虐待は暴力だけではありません。
ヒトラーは家出をしようとしたことがありましたが、父親に気づかれ、彼は天井に近い部屋に閉じ込められました。夜になって天窓から逃げ出そうとしましたが、隙間が狭かったので着物を全部脱ぎました。ちょうどそこに父親が階段を上がってくる足音がしたので、彼はテーブルかけで裸の体を隠しました。父親は今回は鞭に手を伸ばさず、大声で妻を呼んで「このローマ人みたいな格好をした子を見てごらん」と言って大笑いしました。このあざけりはヒトラーにとって体罰よりもこたえました。のちに友人に「この出来事を忘れるのにかなり時間がかかった」と打ち明けています。

父親はまた、用があって子どもを呼ぶとき、二本の指で指笛を鳴らしました。

私は子どもを笛で呼ぶということから、映画「サウンド・オブ・ミュージック」を思い出しました。
冒頭で修道女見習いのマリア(ジュリー・アンドリュース)が家庭教師としてトラップ家を訪れると、トラップ大佐が笛を吹いて子どもたちを集め、子どもを軍隊式に整列させて行進させます。この家庭内の軍国教育をマリアが人間教育に変えていく過程と、オーストリア国内でナチスが勃興していく過程とがクロスして物語が進行していきます。

当時、ヨーロッパでは子どもに鞭を使うことが多く、とくにオーストリアやドイツではごく幼いうちから親への服従を教え込むべきだという教育法が蔓延していたとミラーは指摘します。そのためのちにヒステリー症状(今でいうPTSD)を発症する人が多く、それがフロイト心理学の出発点になりました。


ヒトラーが優れた(?)独裁者になれたのは、それなりの資質があったからですが、それに加えて父親に虐待された経験があったからでしょう。
ヒトラーは父親を憎み恐れていましたが、やがて自分を父親と同一化し、権威主義的で暴力的な父親のようにふるまうようになります。国民の目からはそれが優れた国家指導者の姿に見えたのです。
子どもから見た父親と、国民から見た国家指導者は、スライドさせれば重なります。

ほとんどの国民もまた暴力的で権威主義的な父親に育てられてきたので、ヒトラーに父親の姿を見ました。
ヒトラーは怒りや憎しみを込めた激しい演説をしましたが、その一方で笑顔で子どもに話しかけたりなでたりする姿も見せました。
厳父と慈父の両面を見せることで、ヒトラーは国民の圧倒的な支持を得たのです。

ヒトラーは父親から学んだ残忍さで政敵を容赦なく攻撃して権力を掌握しました。
またミラーは、ヒトラーは父親への憎しみをとくにユダヤ人に向けたのではないかと推測しています。


その人がどんな人間かを知るには、幼児期までさかのぼって知ることが重要です。
最近はそのことが少しずつ理解されてきて、たとえばトランプ大統領を描いた映画「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」は、20代のトランプ氏が悪名高い弁護士ロイ・コーンの教えを受けて成功の階段を上っていくという物語です。
しかし、20代では遅すぎます。
重要なのは幼児期です。
不動産業者だった父親とトランプ少年との関係にこそトランプ大統領の人間性を知るカギがあります。

政治は政策論議がたいせつだといわれますが、人間論議のほうがもっとたいせつです。


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厚労省の発表によると、昨年の小中高生の自殺者数は527人で、前の年から14人増え、1980年以降で最多となりました。
一方、自殺者の総数は2万268人で、前の年より1569人減り、1978年の統計開始以降2番目に少なくなりました。
自殺者総数はへっているのに、少子化が進む中で子どもの自殺数は増え続けているわけです。

中日スポーツの記事によると、1月30日のTBS系「THE TIME,」で安住紳一郎アナウンサーが「あまり勝手なことは言えませんが、1人の大人として、やっぱり死にたくなったら逃げるしかないと思います。恥ずかしいことではないので、とにかく状況から逃げてください。それしか方法はないと思います。せっかくの命ですから、どうぞ自分の命は大事にしてください」と呼びかけました。
これはXで話題になり、賛同の声が多く上がったということです。

こういうところに価値観の変化を感じます。
ひと昔前なら、「逃げても問題は解決しない」「現実逃避はよくない」「死ぬ気になったらなんでもできる」などと言われたものです。

ところで、安住アナはなにから逃げろと言ったのでしょうか。
安住アナはその少し前に「(自殺の)原因はやはり学校の問題が一番ということのようですけれども」と言っているので、学校から逃げろということのようです。
死にたい理由が、学校でいじめられているとか、先生から差別されているとか、学校生活が合わないとかなら、学校から逃げるのが正解です。

自殺の原因が家庭つまり家族関係にある場合はどうでしょうか。
次の表は文科省が2021年にまとめた「コロナ禍における児童生徒の自殺等に関する現状について」という資料です。令和元年はコロナ以前、令和2年はコロナ発生後ということです。
自殺原因というのは遺書がない限り推測になりますが、これは自殺直後に警察が遺族などに聞き取り調査をした結果に基づいています。
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いじめは「その他学友との不和」に含まれますが、そんなに多くありません。

「学業不振」と「その他進路に関する悩み」は学校問題に分類されていますが、成績が悪いからといって、それだけで自殺する子どもがいるでしょうか。
親からよい成績を取ることを期待され、子どもがその期待に応えられないとき、子どもは悩むのです。
「進路に関する悩み」も同じです。親は一流校に進むことを期待し、子どもはその実力がないか別の学校に進みたいというとき、子どもは悩みます。
こういうケースは、最近できた言葉で「教育虐待」といえるでしょう。

「親子関係の不和」とか「家族からのしつけ・叱責」というのは、そのまま子どもへの虐待です。
ということは、子どもの自殺の理由としてもっとも大きいのは、学校でのいじめなどではなく、親による虐待です。


家庭で虐待されたら家庭から逃げなければなりませんが、ここにふたつの困難があります。
ひとつは、子どもは自分が親から虐待されているという認識が持てないことです。
医者などが子どもの体にアザがあるのを見つけて「どうしたの?」と聞いても、子どもは決して「親にたたかれた」などとは言いません。「自分で転んだ」などと言って、必ず親をかばいます。
なぜそうするのかというと、本能としかいいようがありません。哺乳類の子どもは親に絶対的に依存するように生まれついているのです。

子ども時代だけではありません。成長しておとなになっても、自分が虐待されたという認識がないために、理由のない生きづらさを感じているという人が少なくありません。自身の被虐待経験を自覚するには、なんらかの心理学の手助けが必要なようです。「毒親」とか「アダルトチルドレン」などの言葉を知ったことで自分は親にひどいことをされていたのだと気づいたということはよく聞きます。

今は世の中全体が幼児虐待の存在から目をそむけています。「学業不振」という項目があるのも、子どもが成績の悪いことを悩んでいたという話を聞いたとき、そのまま信じてしまったのでしょう。その背後に親の過度の期待や圧力があったのではないかと探れば、また別の結果が出たに違いありません。

もうひとつの困難は、子どもが家から逃げたくなったとしても、どこに逃げたらいいかわからないということです。
親に虐待された子どもは児童相談所が対応し、場合によっては一時保護所で保護し、さらには児童養護施設に移すということになりますが、子どもが一人で行ったら、親の言い分も聞いてから判断するので、子どもより親の言い分を信じる可能性が高いでしょう。
警察に行っても、たいていは家出した子どもとして家に送り返されてしまいますし、うまくいっても児童相談所に送られるだけです。

最初から子どもを救おうという意志を持っているNPO法人などの民間組織のほうが頼りになりますが、活動は限定的です。一般社団法人Colaboは、対象が女の子限定ですが、家出少女に住む家を提供するなど幅広い活動をしてきました。しかし、反対勢力の攻撃を受けて、東京都の資金援助が絶たれてしまっています。

そこで、家で虐待された子どもはトー横やグリ下などに集まってきます。そこには似た境遇の仲間がいるからです。犯罪に巻き込まれることが懸念されますが、家にいることができず、行くところもないことによる必然の結果です。

こども家庭庁は「こどもまんなか社会」というスローガンを掲げていますが、今の社会の実態は「おとなまんなか社会」で、はみ出た子どもの存在は無視されます。


子どもが自殺したくなったとき、その原因が親の虐待にあるということが認識しにくいことと、認識できても逃げていく先がないという、ふたつの困難があるわけですが、これは実は一体のものです。誰もが幼児虐待を認識しにくいので、その対策も講じられていないのです。

今は幼児虐待というのは、子どもを殺したり大ケガをさせたりして新聞ネタになるようなことだと認識されています。つまり特殊な家庭で起こる特殊なことだというわけです。
虐待を認識しないだけでなく、積極的に否認したいという心理も存在します。自分が親から虐待されたトラウマをかかえていて、それを意識下に抑圧している人にそういう心理があります。


しかし、新聞ネタになるようなことは氷山の一角で、水面下に虐待は広範囲に存在します。
そのため子どもの自殺も多いのです。
私は「子ども食堂」みたいに「子ども宿泊所」を多数つくって、家庭から逃げ出した子どもをいつでも受け入れるようにすればいいと考えましたが、実はそういうものはすでにありました。児童相談所内の一時保護所が慢性的に不足していることから、民間の運営する「子どもシェルター」というものがつくられていたのです。
ところが、これは数がもともと少ない上に、行政からの補助金が減額されたり打ち切られたりし、また人手不足などから休止しているところも多いそうです。
これでは「子ども宿泊所」をつくっても同じことかもしれません。


多くの親が子どもを虐待していることはおとなにとって“不都合な真実”なので、これまでないことにされてきました。
子どもの自殺をなくすには、“不都合な真実”を直視しないといけません。

最近は男女関係の見直しが進んでいます。
昔は当たり前とされたことが今ではセクハラや性加害として告発されます。
これと同じことが親子関係でも起こらなければなりません。
少し前まで子どもへの体罰は当たり前のこととして行われていましたが、今では身体的虐待として告発されます。
今も子どもを叱ることが当たり前に行われていますし、子どもに勉強を強いることや習い事を強制することも当たり前に行われています。
しかし、このために子どもは傷ついています。
こうしたことも今後は変わらなければなりません。

今は子どもの発達の科学的研究が進んでいるので、教育やしつけのあり方も科学的なやり方が示せるようになっています。
こども家庭庁はなんの役割も果たしていないと批判されがちですが、ここはこども家庭庁の出番です。

とりあえずスローガンから見直してほしいものです。
「おとなまんなか社会」はだめですが、「こどもまんなか社会」も同様にだめです。
おとなも子どもも同じように存在が認められる「おとなと子ども平等社会」を目指すべきです。


前回の「石破首相の『楽しい日本』をまじめに考える」という記事で、「楽しい家庭」と「楽しい学校」をつくることが必要だと述べました。今回の記事はそれを発展させたものです。
家庭のあり方は社会のいちばん根底の部分ですから、なによりも優先して取り組まねばなりません。

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滋賀医科大学の2人の男子学生が当時21歳の女子大学生に性的暴行をした罪に問われた裁判があり、大津地方裁判所は今年1月にそれぞれに懲役5年と懲役2年6か月の実刑判決を言い渡しました。
谷口真紀裁判長は「体格で勝る被告らが、複数人で暴行や脅迫を加えて繰り返し性的な行為に及んでいて、被害者の人格を踏みにじる卑劣で悪質な犯行だ。被害者の屈辱感や精神的苦痛は著しい」と指摘しました。

ところが12月18日、大阪高裁は大津地裁判決を破棄し、両被告に無罪を言い渡し、飯島健太郎裁判長は「女子大学生が同意していた疑いを払しょくできない」と述べました。

この逆転無罪判決に対して怒りの声が上がり、X上では「#飯島健太郎裁判長に抗議します」がトレンド入りし、「大阪高裁の“医大生による性的暴行”逆転無罪に対する反対意思を表明します」というオンライン署名活動も行われました。

このときの性行為ではスマホによる動画撮影が行われていました。男2人と女1人で動画撮影が行われていたというだけで、異様な状況だということがわかります。
しかも、動画には女性が「やめてください」「絶対だめ」「嫌だ」と言っているのが映されていました。
しかし、判決では「拒否したとは言い切れない」とし、そもそも被告男性の家に入ったことを性的同意があったと見なしました。

いまだにこんな価値観があるのかと、信じられない思いです。
大津地裁の判決は女性裁判長でしたが、この大阪高裁の判決は男性裁判長だということが大きいでしょう。
それに、裁判官とか検察官は男女関係や親子関係についておかしな感覚の人が少なくありません。


大阪地検の元検事正・北川健太郎被告は「これでお前も俺の女だ」と言いながら部下の女性をレイプし、女性は「抵抗すると殺される」という恐怖を感じたそうです。
北川被告は初公判では容疑を認め、謝罪の言葉も口にしていましたが、その後否認に転じ、弁護士は「北川さんには、女性が抵抗できない状態だったとの認識はなく、同意があったと思っていた」と説明しました。
被害女性は記者会見で涙ながらの訴えをしましたが、北川被告には届かないようです。


2019年3月には、あまりにもひどいトンデモ判決があったので、私はこのブログで「裁判官を裁く」という記事で取り上げたことがあります。
その判決についてのNHKニュースを紹介します。

今回のケースでは、父親が当時19歳の実の娘に性的暴行をした罪に問われました。
裁判では、娘が同意していたかどうかや、娘が抵抗できない状態につけこんだかどうかが争われました。
 
ことし3月26日の判決で、名古屋地方裁判所岡崎支部の鵜飼祐充裁判長は娘が同意していなかったと認めました。
また、娘が中学2年生の頃から父親が性行為を繰り返し、拒んだら暴力を振るうなど立場を利用して性的虐待を続けていたことも認め「娘は抵抗する意思を奪われ、専門学校の学費の返済を求められていた負い目から精神的にも支配されていた」と指摘しました。
 
一方で、刑法の要件に基づいて「相手が抵抗できない状態につけこんだかどうか」を検討した結果、「娘と父親が強い支配による従属関係にあったとは言い難く、娘が、一時、弟らに相談して性的暴行を受けないような対策もしていたことなどから、心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」として無罪を言い渡しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190513/k10011914731000.html


論理的にもおかしいのは明らかです。 こういうひどい判決をなくしていくには、判決を出した裁判長個人を批判するしかないということを書きました。
ただ、当時は裁判官や検察官個人を批判するということはほとんど行われませんでした。
ですから、今回「#飯島健太郎裁判長に抗議します」というハッシュタグがトレンド入りしたのには時代の変化を感じます。


裁判官や検察官におかしな人が多いのには理由があります。
スポーツマンタイプという言葉があるように、スポーツ選手には活動的で陽気といった性格傾向があります。政治家や芸術家や学者などにもそれぞれ特徴的な性格傾向があり、これを社会的性格といいます。
法律家にも社会的性格があって、それは権威主義的パーソナリティであると考えられます。
権威主義的パーソナリティというのは、ウィキペディアによると「硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格(パーソナリティ)のこと」とされます。
つまり強者の側に立って弱者を攻撃する性格ということです。
裁判官や検察官というのは人を裁き罰する職業です。世の中には「人が人を裁くのはおかしい」と考える人もいて、そういう人は裁判官や検察官にはならないでしょう。ましてや日本では死刑制度があるのでなおさらです。
裁判官や検察官になるのは、人を裁き罰することが普通にできる人か、好んでする人です。
弁護士は人を裁くのではなく、どちらかというと人を助ける職業ですから、弁護士になるのはまた別のパーソナリティの人です。
このように職業によって性格の偏りがあり、それがおかしな判決の背景にあります。


性加害、つまりレイプをする男というのは、どうしてそういうことをする人間になったのでしょうか。
相手が拒否したり苦痛を感じたりしているのがわかっていて、そこに性的興奮を覚えるというのはかなり異常なパーソナリティです。
昔は強い性欲があるからレイプするのだと考えられていましたが、今は相手を支配し攻撃する快楽のためにレイプするのだと考えられています。つまり性欲の問題ではなくパーソナリティの問題だということです。

殺人などの凶悪犯の脳を調べると、脳に異常の見つかることが多いことは知られています。
性犯罪者の脳にも異常の見つかることが多いとされます。
問題は、脳の異常が生まれつきのものか、生まれたのちに生じたものかです。
生まれつきのものなら更生は困難ですし、そもそも罰することに意味があるのかということにもなります。
しかし、最近は幼児期に虐待されると脳が委縮・変形することがわかってきました。
そうすると、犯罪者に見られる脳の異常は、幼児期の被虐待経験によってもたらされたものもあるに違いありません。

ジョナサン・H. ピンカス著『脳が殺す』という本は、神経内科医が150人の凶悪な殺人犯と面談し、動機を詳しく調査した本です。
それによると、ある人間を凶悪犯に仕立てる真の動機は「幼児期の虐待」「精神疾患」「脳(前頭葉)の損傷」の三つが複合したものだということです。
少なくとも11人の犯罪者の成育歴と犯行の実際が詳しく書かれていますが、どの事例も犯罪者は幼児期にすさまじい虐待を受けています。これを読んだ印象では、「脳の損傷」というのは虐待によってもたらされたものではないかと思えます。
『脳が殺す』がアメリカで出版されたのは2001年のことで、当時はまだ被虐待経験が脳の損傷を生むという因果関係がはっきりしていなかったようです。今となっては「幼児期の虐待」と「脳の損傷」は同じものと見なしていいのではないでしょうか。


人が権威主義的パーソナリティになることにも幼児虐待が関係しています。
「子どもは親に従うべきだ」という権威主義的な親に育てられると、子どもは権威主義的パーソナリティになりやすくなります(反抗して逆方向に行ってしまう場合もありますが)。
親が子どもを力で支配し、きびしい叱責をしたり体罰をしたりしていると、その子どもが親になったときに自分の子どもに同じことをするだけでなく、恋人や配偶者にDVをする可能性がありますし、もし裁判官になればレイプやDVに甘い判決を書く可能性もあります。

虐待の影響はさまざまな形となって現れます。
たとえば人がなぜ変態性欲を持つようになるのかはよくわかっていませんが、少なくともサドマゾヒズムについては幼児体験が影響していることが考えられます。洋物のSMのポルノでは激しいむち打ちでみみずばれができるようなものがいっぱいありますが、日本のAVのSMものは縛りが主体で、むち打ちはつけ足しのような感じです。これは西洋では子どもに対するむち打ちが広く行われてきた影響でしょう。


ところが、司法の世界では幼児虐待がきわめて軽視されています。
日本でも凶悪犯はおしなべて幼児期に虐待を経験しています。
しかし、弁護側が被告の幼児期の虐待を説明して情状酌量を求めても、判決にはほとんど反映されません。

『脳が殺す』は犯罪の動機を「幼児期の虐待」「精神疾患」「脳(前頭葉)の損傷」の複合であるとしています。
ところが、日本の司法では(日本の司法に限りませんが)、「自由意志」を主な犯罪の動機と見なしています。
まったく非科学的な態度です。これでは犯罪対策も立てられませんし、更生プログラムもつくれません。


今の世の中の最大の問題は、家庭の中がブラックボックスになっていることです。
そこには「男女平等」もなければ「子どもの人権」もなく、虐待があっても隠されます。
そのため家庭の中で暴力や強権的支配が再生産され続け、そこから凶悪犯やレイプ犯やおかしな判決を書く裁判官が出てきます。
社会改革と同時に家庭改革を進めなければなりません。

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日本とアメリカで国のトップを選ぶ選挙が同時進行中です。
アメリカの大統領選挙を見ると、アメリカはとんでもないことになっているなあと思います。
日本の自民党総裁選を見ると、日本はどうしようもないなあと思います。
どちらもそこで思考停止してしまいます。
しかし、日米の選挙を比べてみると、いろんなことが見えてきます。

アメリカでは4年前も8年前も移民問題が選挙の大きな争点です。移民や外国人へのヘイトスピーチの行きつく果てが、トランプ氏の「移民がペットを食べている」という発言です。
日本でもネットでは外国人へのヘイトスピーチがあふれているので、日本もアメリカも似たようなものに思えますが、自民党総裁選の各候補の政策や議論においては、移民や外国人労働者や不法入国者の問題はほとんど取り上げられていません。
日本経済は外国人労働者に大いに恩恵を受けていますし、外国人犯罪は少なく、しかも減少傾向です。
日本で移民や外国人労働者の問題が争点にならないのは当然です。

アメリカでは中絶禁止が大きな争点です。
もちろん日本にはその問題はありません。代わりに争点になっているのが選択的夫婦別姓です。
ちなみにアメリカでは夫婦別姓が選択できます。約7割の夫婦は妻が夫の姓に変えるようですが、別姓のままでいることもできますし、結婚と同時に新たな姓に変えることもできます(たとえば二人の姓をつなげた姓にするなど)。
アメリカでも保守派は「家族の絆」を重視しますが、同姓であることは必要条件とはならないようで、そこが日本の保守派と違うところです。

大麻使用の自由化もアメリカでは争点です。リベラルは大麻に寛容で、保守派は大麻反対です。
このところ大麻を解禁する州がどんどん増えていて、トランプ氏もフロリダ州の住民投票に関して大麻自由化を容認する考えを示しました。
大麻が取り締まれないほど蔓延しているので、取り締まるのをやめようという流れです。
日本では大麻使用が争点になるということはまったくありません。麻薬対策も政治上の議論になっていません(安倍昭恵氏は医療用大麻解禁の考えを表明したことがありますが)。

アメリカではインフレ対策も大きな争点です。
日本ではインフレ対策ではなく、どうやって経済再生するかが争点です。
アメリカは圧倒的な経済大国なのにまだ高い成長を続けています。ついこの前もダウ平均は史上最高値を更新しました。
「失われた30年」から脱出できない日本とは根本的に違います。


このように日米の選挙の争点を比較すると、国のあり方が根本的に違うということがわかります。
日本の目立った特徴は治安のよいことです。
そして、アメリカの目立った特徴は治安の悪いことです。豊かなのにこれほど治安が悪い国はほかにありません。

アメリカで移民排斥を訴える人たちはみな、アメリカの治安が悪いのは移民のせいだと主張します。
しかし、これは事実に反します。
ロイターの『アングル:「犯罪の背景に不法移民」と主張するトランプ氏、実際の研究データは』という記事から一部を引用します。

複数の学術機関やシンクタンクなどの研究は、移民が米国生まれの人々よりも多く犯罪を犯しているわけではないことを示している。
また、米国の不法移民の犯罪に対象を狭めた研究では、犯罪率も(米国生まれの人より)高くないことが分かっている。
ロイターが確認した研究の一部は学術研究員によって行われ、査読を経て学術誌に掲載されている。
こうした研究は米国の国勢調査結果や不法移民の推定人口などのデータに基づいて書かれている。
複数の研究が米国における不法移民の犯罪率を調査するにあたってテキサス州公安局のデータを引用していた。同局では逮捕時に移民であるか否かを記録している。
テキサス州のデータを引用した研究者の一人、ウィスコンシン大学マディソン校のマイケル・ライト教授は犯罪率は州によって異なったが、同州の数字は入手可能な中では最も良いものだったと語った。同教授はこの研究で、同州では2012ー18年、不法移民の逮捕率は、合法的な移民と米国生まれの市民より低かったとしている。
(中略)
前出のライト氏は、米国の研究を総合的に見て移民が犯罪を犯しやすいとは言えないと述べた。
「もちろん、外国生まれの人々が罪を犯すこともある」とライト氏は取材で語った。
「だが、外国生まれの人々が米国生まれの人々よりも有意に高い確率で犯罪を犯すかといえば、その答えは非常に決定的にノーだ」

トランプ氏は「バイデン政権が何百万人もの犯罪者やテロリスの越境を許したため治安が悪化した」と主張しています。
独裁国で国民の不満をそらすため外国への敵愾心をあおるプロパガンダを行うことがよくありますが、それと同じです。
トランプ氏らは、アメリカ社会が犯罪を生み出しているという事実に向き合おうとせず、外部に責任転嫁しているわけです。そのためまったく犯罪対策が進みません。


麻薬に関しても同じ構図があります。
アメリカは昔から麻薬汚染が深刻ですが、メキシコやコロンビアなどの凶悪な麻薬犯罪組織が麻薬をアメリカ国内に持ち込むせいだと、やはり外部に責任転嫁してきました。
しかし、アメリカ国内に麻薬の需要があって、高く売れるとなれば、供給者が出てくるのは当然です。

最近は麻薬の種類が非合法のものから合法のオピオイド(麻薬性鎮痛薬)に変わってきました。
オピオイドというのは、医師が処方する合法的な麻薬です。もうけ主義の医師が処方箋を書き、もうけ主義の製薬会社が供給し、たちまち全米に広がりました。2017年には年間7万人以上が薬物の過剰摂取で死亡し、アメリカで公衆衛生上の非常事態が宣言されました。
これは麻薬犯罪組織のせいにするわけにはいきません。
それでもトランプ大統領は、中国からオピオイド「フェンタニル」が大量に国内に流入しているせいだと主張しました。もっとも、中国政府に「他国のせいにするのではなく、アメリカ政府は自国の問題として解決すべきだ」と突っぱねられています。
トランプ大統領はコロナ禍のときも“チャイナウイルス”と呼んで中国への責任転嫁を企てました。

他国に責任転嫁をするのはトランプ氏だけでなく、アメリカによくある傾向です。
アメリカで貿易赤字が問題になったときは、日本の自動車産業などのせいにされました。
こういうことができるのは、アメリカが大国であるからです。DV親父が自分の人生がうまくいかないのを妻や子どものせいにして暴力をふるうみたいなものです。


犯罪の大きな原因は格差社会ですが、麻薬汚染も原因です。
人はなぜ薬物依存症になるのでしょうか。
薬物依存症もアルコール依存症もギャンブル依存症も、その他の依存症もみな同じですが、PTSDが原因であるということが次第に明らかにされてきました。
PTSDの原因のひとつは苛酷な戦場体験です。ベトナム戦争帰還兵から薬物依存症者、アルコール依存症者、犯罪者が多く出ました。
しかし、戦場体験のある人はそんなに多くありません。PTSDの原因でもっとも多いのは、幼児期に親から虐待された体験です。
最近は「愛着障害」という言葉がよく使われます。親との愛情関係がうまくつくれないという意味ですが、その原因は親による虐待です。

アメリカは幼児虐待が深刻です。少なくとも日本とは大きく違います。
幼児虐待の統計の取り方は国によって違うので、幼児虐待による死者数を比較すると、アメリカでは2021年の死者数は1820人で、日本では2022年度は74人でした。
アメリカでは幼児虐待だけでなく、夫婦間DV、デートDVも深刻です。

「米国人の1割が親子断絶 なぜ疎遠な家族は増えているのか」という記事によると、コーネル大学ワイル医科大学院のカール・ピルマー教授が米国人6800万人を調査したところ、27%が家族の誰かと疎遠な関係にあり、10%は親子間が疎遠であるという事実が明らかになったということです。
親子間が疎遠だという10%は、離れることで問題を解消したわけです。やっかいなのは、こじれたままの親子関係が継続しているケースです。それはもっと多いはずです。

トランプ氏に選ばれて共和党の副大統領候補になったJ. D. バンス氏は、その自伝的著書『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』によると、薬物依存の母親とアルコール依存の祖父母のもとで暴力とともに育ったということです。この著書が幅広い共感を呼んでベストセラーになったのは、このような家庭が白人貧困層では多いからでしょう。

トランプ氏の姪であり臨床心理士でもあるメリー・トランプ氏が出版した暴露本によると、ドナルド・トランプという「怪物」を生み出した元凶は、支配的な父フレッド・トランプの教育方針にあったということです。その教育方針はこのようなものです。
世の中は勝つか負けるかのゼロサムゲーム。権力を持つ者だけが、物事の善悪を決める。うそをつくことは悪ではなく「生き方」の一つ。謝罪や心の弱さを見せることは負け犬のすることだ――。トランプ家の子どもたちはこう教えられ育った。親の愛情は条件付きで、フレッドの意に沿わないと残酷な仕打ちを受けた。

ドナルドは、幼い頃から素行が悪く、病気がちな母親にも反抗的で、陰で弟をいじめるような子どもだったが、父親の機嫌を取るのが上手で、事業の後継者候補として特別扱いされたという。一方、優しく真面目な長男フレディは、父親の支配に抵抗を試み、民間機のパイロットになったが、父親やドナルドからの執拗(しつよう)な侮辱で精神を病み、42歳でアルコール依存症の合併症で亡くなった。
https://globe.asahi.com/article/13780825

バイデン大統領の次男ハンター・バイデン氏は、6月にデラウェア州の連邦裁判所で有罪評決を言い渡されました。その罪状のひとつは、銃を購入する際に薬物の使用や依存を正しく申告しなかったというものです。

息子ブッシュ大統領は若いころアルコール依存症で苦しんでいましたが、40歳にして禁酒に成功。それにはローラ夫人とキリスト教への信仰がささえになったというのは有名な話ですです。

レーガン大統領の次女であるパティ・デイヴィス氏も『わが娘を愛せなかった大統領へ』という本を書いていて、それによると、パティ・デイヴィス氏は母親からことあるごとにビンタを食らい、父親は子どもにはまったく無関心。つまり暴力とネグレクトの家庭に育ち、薬物依存症になり、男性遍歴を繰り返すという人生を歩みました(現在は作家で女優)。レーガン大統領というと「よき父親」のイメージをふりまいて国民的人気がありましたが、テレビや雑誌の取材でカメラの前に立ったときだけ笑顔になっていたということです。

トランプ氏の支持者であるイーロン・マスク氏には12人の子どもがいるようですが、そのうちの1人が男性から女性への性転換に伴う名前の変更と新たな出生証明書の公布を申請しました。トランスジェンダーを嫌うマスク氏とは断絶したようです。マスク氏がテイラー・スウィフト氏を「子なしの猫好き女」と揶揄したときには、そのトランスジェンダーの娘さんはマスク氏のことを「凶悪なインセル」と罵倒しました。
なお、マスク氏の公式伝記である『イーロン・マスク』(ウォルター・アイザックソン著)によると、マスク氏自身も父親から虐待を受けていたということです。


病んだ家族というと、貧困層において暴力や薬物、アルコールに汚染されているというイメージですが、大統領周辺のセレブの家族も十分に病んでいます。病んだ家族というのはアメリカ全体の問題と見るべきです。
こうした家族から薬物依存や犯罪が生み出されます。
そのためアメリカは犯罪大国、麻薬大国です。

ところが、多くのアメリカ人は自分自身の家庭の中に問題があるのに、それを見ようとせず、外国や移民や犯罪組織に責任転嫁しています。
そして、そうした思考が分断を生みます。たとえば「犯罪が増えたのは民主党が警察予算をへらしたせいだ」といった具合です。
このような外部に責任転嫁する思考法は戦争の原因にもなるので、注意しなければなりません。

保守派は、父親が暴力で家族を支配しているような家庭を「伝統的な家族」として賛美し、問題を隠蔽してきました。
ここにメスを入れることがアメリカの分断解消の道です。


日本の治安がひじょうにいいのは、おそらく親子が川の字で寝て、母親が赤ん坊をおんぶするなどして、親子関係が密接であり、子どもに「基本的信頼感」ができやすいからではないかと思われます。
また、人種、階層、身分などによる格差や差別が少ないことも大きいでしょう。
最近日本でも格差が拡大しているといわれますが、アメリカの格差とは比べようもありません。
日本の保守派はアメリカやヨーロッパのまねをして、外国人犯罪を非難し、川口市クルド人問題などを盛り上げようとしていますが、日本は治安がよいので、さっぱり効果はありません。

日本の選挙を見ると、アメリカのような深刻な対立も分断もありません。
経済が停滞して社会の活力が失われているせいでもあるでしょうから、単純に喜んでもいられません。


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アメリカの社会病理はますます進行し、銃犯罪、麻薬汚染、人種差別などが深刻化しています。リベラルと保守の分断もとどまるところを知らず、内戦の危機までささやかれています。
こうした社会病理の根底にあるのは、人間関係のゆがみです。
そして、人間関係のゆがみの根底にあるのは、おとなと子どもの関係のゆがみです。

「子どもの権利条約」の締約国・地域の数は196で、国連加盟国で締約していないのはアメリカだけです。
つまりアメリカは国家の方針として子どもの人権を尊重しない世界で唯一の国です。
こういう重要なことがほとんど知られていないのは不思議なことです。
子どもの人権を尊重しないことがさまざまな問題を生んでいます。


幼児虐待で死ぬ子どもの数は、日本では多くても年間100人を越えることはありませんが、アメリカでは毎年1700人程度になります。
もちろん死亡する子どもの数は氷山の一角で、はるかに多数の子どもが虐待されています。
西洋の伝統的な考え方として、理性のない子どもは動物と同様と見なして、きびしくしつけするということがあります。子どもの人権という概念がないために、それが改まっていないと思われます。

日本では不登校の子どもをむりやり学校に行かせるのはよくないという考えが広まってきましたが、アメリカでは義務教育期間は子どもは学校に通う義務があり(日本では親に子どもに教育を受けさせる義務がある)、不登校は許されません。しかし、むりやり子どもを学校に行かせようとしてもうまくいかないものです。
そんなときどうするかというと、子どもを矯正キャンプに入れます。これは日本の戸塚ヨットスクールや引きこもりの「引き出し屋」みたいなものです。
『問題児に「苦痛」を与え更生せよ 「地獄のキャンプ」から見る非行更生プログラム 米』という記事にはこう書かれています。
アメリカの非行少年更正業界は、軍隊式訓練や治療センター、大自然プログラム、宗教系の学校で構成される1億ドル規模の市場だ――州法と連邦法が統一されていないがゆえに、規制が緩く、監視も行き届いていない。こうした施設の目的は単純明快だ。子どもが問題を抱えている? 夜更かし? ドラッグ? よからぬ連中との付き合い? 口答え? 引きこもり? だったら更正プログラムへどうぞ。規律の下で根性を叩き直します。たいていはまず子どもたちを夜中に自宅から連れ去って、好きなものから無理矢理引き離し、ありがたみを感じさせるまで怖がらせる。だが、組織的虐待の被害者救済を目的としたNPO「全米青少年の権利協会」によると、懲罰や体罰での行動矯正にもとづく規律訓練プログラムの場合、非行を繰り返す確率が8%も高いという。一方で、認可を受けたカウンセリングでは常習性が13%減少することが分かっている。
大金持ちのお騒がせ令嬢であるハリス・ヒルトンもキャンプに入れられたことがあり、議会でこのように証言しました。
「ユタ州プロヴォキャニオン・スクールでは、番号札のついたユニフォームを渡されました。もはや私は私ではなくなり、127番という番号でしかありませんでした。太陽の光も新鮮な空気もない屋内に、11カ月連続で閉じ込められました。それでもましな方でした」とヒルトンは証言した。「首を絞められ、顔を平手打ちされ、シャワーの時には男性職員から監視されました。侮蔑的な言葉を浴びせられたり、処方箋もないのに無理やり薬を与えられたり、適切な教育も受けられず、ひっかいた痕や血痕のしみだらけの部屋に監禁されたり。まだ他にもあります」
普通の学校はどうなっているかというと、「ゼロ・トレランス方式」といわれるものが広がっています。
これはクリントン政権が全米に導入を呼びかけ、連邦議会も各州に同方式の法案化を義務づけたものです。
細かく罰則を定め、小さな違反も見逃さず必ず罰を与えます。小さな違反を見逃すと、次の大きな違反につながるという考え方です。違反が三度続くと停学、さらに違反が続くと退学というように、生徒個人の事情を考慮せず機械的に罰則を当てはめるわけで、これでは教師と生徒の人間的な交流もなくなってしまいます。

これは私個人の考えですが、昔のアメリカ映画には高校生を主人公にした楽しい青春映画がいっぱいありましたが、最近そういう映画は少ない気がします。子どもにとって学校が楽しいところではなくなってきているからではないかと思います。

学校で銃乱射事件がよく起こるのも、学校への恨みが強いからではないでしょうか。


幼児虐待は身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクトの四つに分類されますが、中でも性的虐待は「魂の殺人」といわれるぐらい子どもにダメージを与えます。
アメリカでは1980年代に父親から子どものころに性的虐待を受けたとして娘が父親を裁判に訴える事例が相次ぎました。いかにも訴訟大国アメリカらしいことですが、昔の家庭内のことですから、当事者の証言くらいしか証拠がありません。
ある心理学者が成人の被験者に、5歳のころにショッピングセンターで迷子になって親切な老婦人に助けられたという虚偽の記憶を植えつける実験をしたところ、24人の被験者のうち6人に虚偽の記憶を植えつけることに成功しました。この実験結果をもとに、セラピストが患者に性的虐待をされたという虚偽の記憶をうえつけたのだという主張が法廷で展開され、それをあと押しするための財団が組織されて、金銭面と理論面で父親を援助しました。
この法廷闘争は父親対娘だけでなく、保守派対リベラルの闘争として大規模に展開されましたが、最終的に父親と保守派が勝利し、逆に父親が娘とセラピストに対して損害賠償請求の訴えを起こして、高額の賠償金を得るという例が相次ぎました。
この顛末を「記憶の戦争(メモリー・ウォー)」といいます。
結局、家庭内の性的虐待は隠蔽されてしまったのです。

アメリカでは#MeToo運動が起こって、性加害がきびしく糾弾されているイメージがありますが、あれはみな社会的なケースであって、もっとも深刻な家庭内の性的虐待はまったくスルーされています。


ADHDの子どもは本来2~3%だとされますが、アメリカではADHDと診断される子どもが急増して、15%にも達するといわれます。親が扱いにくい子どもに医師の診断を得て向精神薬を投与しており、製薬会社もそれを後押ししているからです。


アメリカにおいては、家庭内における親と子の関係、学校や社会におけるおとなと子どもの関係がゆがんでいて、子どもは暴力的なしつけや教育を受けることでメンタルがゆがんでしまいます。それが暴力、犯罪、麻薬などアメリカ社会の病理の大きな原因になるのです(犯罪は経済格差も大きな原因ですが)。
そして、その根本には子どもの権利が認められていないということがあるのですが、そのことがあまり認識されていません。

たとえば、こんなニュースがありました。
「ダビデ像はポルノ」で論争 保護者が苦情、校長辞職―米
2023年03月28日20時32分配信
 【ワシントン時事】米南部フロリダ州の学校で、教師がイタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロの彫刻作品「ダビデ像」の写真を生徒に見せたところ、保護者から「子供がポルノを見せられた」と苦情が寄せられ、校長が辞職を余儀なくされる事態となった。イタリアから「芸術とポルノを混同している」と批判の声が上がるなど、国際的な論争に発展している。

 地元メディアによると、この学校はタラハシー・クラシカル・スクール。主に11~12歳の生徒を対象とした美術史の授業で、ダビデ像のほかミケランジェロの「アダムの創造」、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」を取り上げた。

 ところが、授業後に3人の保護者から「子供がポルノを見ることを強制された」などと苦情が入った。教育委員会は事前に授業内容を保護者に知らせなかったことを問題視。ホープ・カラスキヤ校長に辞職を迫ったという。

この決定はミケランジェロを生んだイタリアで反響を呼んだ。ダビデ像を展示するフィレンツェのアカデミア美術館のセシリエ・ホルベルグ館長は、AFP通信に「美術史に対する大いなる無知だ」と批判。フィレンツェのダリオ・ナルデラ市長もツイッターで「芸術をポルノと勘違いするのは、ばかげている以外の何物でもない」と非難し、「芸術を教える人は尊敬に値する」として、この学校の教師を招待する意向を示した。

 フロリダ州では保守的な価値観を重視する共和党のデサンティス知事の主導で、一定年齢以下の生徒が性的指向を話題とすることを禁止する州法を成立させるなどの教育改革が強行されている。今回の措置には、米作家のジョディ・ピコー氏が「これがフロリダの教育の惨状だ」と指摘するなど、米国内でも波紋が広がっている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023032800665&g=int
これは「芸術かポルノか」という問題のようですが、実は子どもの「見る権利」が侵害されているという問題です。「芸術かポルノか」ということをおとなが一方的に決めようとするからおかしなことになるのです。

アメリカではSNSが子どもにとって有害だという議論があって、1月末に米議会上院がSNS大手5社の最高経営責任者を招いて、つるし上げに近いような公聴会を行いました。
米保健福祉省は勧告書で子どものSNS利用は鬱や不安などの悪化リスクに相関性があるという研究結果を発表していて、そうしたことが根拠になっているようです。

しかし、SNS利用が「子どもに有害」だとすれば、「おとなに無害」ということはないはずです。程度は違ってもおとなにも有害であるはずです。
子どものSNS利用だけ規制する議論は不合理で、ここにも「子どもの権利」が認められていないことが影響しています。

アメリカの保守派とリベラルの分断は、おとなと子どもの分断からきていると理解することもできます。


文科省は2005年に「問題行動対策重点プログラム」にゼロ・トレランス方式を盛り込みました。
また、日本でも「子どもに有害」という観点からSNS利用規制が議論されています。
しかし、アメリカのやり方を真似るのは愚かなことです。
アメリカは唯一「子どもの人権」を認めないおかしな国だからです。

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