村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:愛情

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私はこれまでに多くの夫婦を見てきましたが、新婚夫婦を別にすれば、幸せそうな夫婦はほとんど見たことがありません。
結婚のときは「笑顔の絶えない明るい家庭を築きたい」と本気で思っていても、喧嘩を繰り返すうちに愛情が失われ、表面的なつきあいだけの仮面夫婦になるということが多いようです。
ほかに好きな人ができたというならしかたありませんが、二人ともうまくやっていきたいと思っているのにうまくやれないというのは悲劇です。

「冷凍餃子は手抜きか」という話題が2020年にX(当時はツイッター)でバズったことがありました。
ある女性が疲れて帰宅し、夕食に冷凍餃子を解凍して出したところ、子どもは喜びましたが、夫が「手抜きだよ、これは」と言ったというのです。
これには女性に同情する声が多く上がりました。
冷凍餃子のトップメーカーである味の素冷凍食品株式会社の公式アカウントが「冷凍餃子を使うことは、手抜きではなく、“手間抜き”です」と投稿すると、44万「いいね」がつき、テレビやネットメディアでも報道されました。

「手抜き」と「手間抜き」はどこが違うのでしょうか。
一見すると同じようですが、実は大きな違いがあります。

なお、「手間抜き」の代わりに、「時短」とか「省力」という言葉を使っても冷凍食品使用の正当性を表現することもできます。
つまり「手抜き」という言葉にだけ特別な意味があるのです。


国語辞典には「手抜き」は『しなければならない手続きや手間を故意に省くこと。「仕事を手抜きする」「手抜き工事」』と説明されています。
AI回答の補足説明には『「手抜き」は、多くの場合、労力を怠っているという批判や揶揄の目的で使われます。例えば、「手抜き工事」のように、品質や安全性を損なう行為を指すことがあります』と書かれています。
つまり「手抜き」には相手を非難する悪い意味があるのです(「手間抜き」には悪い意味はありません)。
ですから、夫が妻に料理を「手抜き」と言ったら妻を非難していることになり、妻は傷つきます。同じようなことが繰り返されると、夫婦関係はどんどん悪化していきます。

ところが、夫のほうは妻を非難しているつもりはありません。逆に妻にいいことをしているつもりです。
手抜き工事を発見したら、それを指摘して改めさせるのは正しいことです。これは工事業者のためでもあります。妻の手抜きを指摘するのもそれと同じと思っています。

もっとも、工事には法令によって基準が定められているので、手抜きかどうかははっきりします。
料理にはそういう基準がありません。
「冷凍餃子は手抜き」と言った夫は、「餃子は手づくりであるべき」とか「冷凍食品は手抜きだ」という基準を持っているのでしょうが、その基準に根拠はありません。
ただ、まったくでたらめというわけでもありません。

TBS系で放送中のドラマ「じゃあ、あんたが作ってみろよ」第1話では、勝男(竹内涼真)は同棲相手の鮎美(夏帆)のつくる筑前煮が好きなのですが、インスタントの顆粒だしは使うべきではないという考えの持ち主です。男の友人がめんつゆを使って肉じゃがをつくったと言うと、「めんつゆで料理は邪道」などと言います。
勝男と鮎美は同じ会社に勤めていて、共働きなのですが、家事はすべて鮎美がやっています。勝男の実家の両親もどうやらそういう役割分担になっているようです。
勝男は鮎美にプロポーズしますが、鮎美に断られ、同棲も解消されてしまいます。勝男は鮎美の気持ちを理解しようと自分で筑前煮をつくってみますが、カツオ節と昆布でだしを取ることがいかにたいへんかを知ります。

似たような話で、主婦がスーパーの総菜売り場でポテトサラダを買ったら、見知らぬおじさんから「母親ならポテトサラダぐらい自分でつくったらどうだ」と言われて傷ついたという話がやはりツイッターでバズったことがあります。ポテトサラダはつくるのがけっこうたいへんですし、副菜にしかならないので、そんなことを言われる筋合いはありません。


昔は性別役割分担がはっきりしていて、家事は妻がやるものと決まっていたので、料理を手づくりするのは当たり前でした(冷凍食品もありません)。「冷凍餃子は手抜きだ」と言った夫はそういう時代の価値観なのでしょう。
男はどんどん価値観をアップデートしていかなければなりません。

しかし、どの価値観が正しいかということは簡単には決められません。世の中の価値観はどんどん変わっていきますし、そこに個人の価値観も加わります。
「だしはカツオ節と昆布で取るべき」という価値観も間違っているわけではありません。そうしている人もいます。

問題は自分の価値観を相手に押しつけることです。
相手に「だしはカツオ節と昆布で取れ」なんて言うと、ドラマのタイトル通りに「じゃあ、あんたが作ってみろよ」という返しがぴったりです。
ただ、現実には二人の力関係があって、押しつけられてしまうこともあります。そうすると不満がたまり、愛情が冷めていくことになります。

なぜ人は自分の価値観を相手に押しつけるのでしょうか。
それはその価値観が「道徳」だと思うからです。

手抜きする妻、怠け者の妻、だらしない妻は、教え導いて「よい妻」にするべきである。そうすることは妻自身のためでもある。こういう考え方が道徳の基本です。
そうすると、「冷凍餃子は手抜きだ」と言って手抜きをやめさせることは妻自身のためでもあるということになります。
普通は自分の価値観を押しつけると相手は不満な態度を示しますから、ほどほどのところでやめるものです。
ところが、道徳の押しつけは相手のためだということなので、相手の不満を無視して押しつけることになります。そうすると夫婦関係は破綻していきます。


ですから、「夫婦関係に道徳を持ち込むな」というのが私の教える秘訣です。

夫婦関係から道徳を追い出すとどうなるでしょうか。

心理学的なコミュニケーションの技法に「アイメッセージとユーメッセージ」というのがあります。
アイメッセージとは「私」を主語にして主張する方法です。
たとえば、
(私は)連絡がなくてさみしい
(私は)そう言われると悲しい
(私は)少しイライラしています
(私は)その場所に行くのは心配だ

ユーメッセージとは「あなた」を主語にして主張する方法です。
たとえば、
(あなたは)遅刻しないでよ!
(あなたは)もっとできるでしょ!
(あなたは)メモを取ろうね!
(あなたは)連絡を細目にすべきだ!

ユーメッセージは相手の行動を制限することになりがちです。ユーメッセージを多用すると人間関係が悪くなります。
(「アイメッセージとは?意味と使い方,ユーメッセージとの違い」を参考にしました)

「僕は手づくりの餃子が食べたい」と言えばアイメッセージです。
「主婦なら餃子は手づくりするべきだ」というのはユーメッセージです。
道徳の主張というのは必然的にユーメッセージになります。

「僕は手づくりの餃子が食べたい」という主張には、「今日は疲れてるから冷凍でがまんして」とか「冷凍もおいしいわよ」と言って、話し合いが可能です。
「冷凍餃子は手抜きだ」とか「主婦なら餃子は手づくりするべきだ」という道徳的な考え方は、話し合いで説得するのは困難です。


「良妻賢母」や「夫唱婦随」という道徳があるように、もともと家父長制は道徳と一体となって存在してきました。
水田水脈衆院議員(当時)は2014年、衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です」と言いました。
この発言は男女平等を否定するものだとして批判されましたが、「男女平等は反道徳だ」という部分について論じた人はいませんでした。もしこの言い分が正しければ、男女平等を実現するには反道徳でなければならないことになります。
そして、私はこの部分については杉田氏と同意見です。
対等な夫婦関係をつくるには家庭から道徳をなくさなければなりません。

ただ、私は道徳すべてを否定しているわけではありません。
道徳は競争社会を生き抜くために必要なものです。
たとえば法の網をすり抜けている悪徳政治家には道徳的非難を浴びせなければなりません。
ライバルに対して優位に立とうとするとき、ライバルの非道徳的なふるまいを非難することは有力な手段です。
つまり道徳というのは他人を非難する道具なのです。
「人間は誠実であるべき」とか「嘘をついてはいけない」という道徳を設定しておけば、他人をいつでも嘘つきと非難することができます。これが道徳の使い方です(「人間は誠実であるべき」という道徳が誠実な人間をつくることはありません)。
私は「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」と言っています。

ただ、あくまで道徳は競争社会を生きるための道具なので、家庭に持ち込むものではありません。家庭に持ち込むと家庭が闘争の場になってしまいます。
相手のことを「だらしない」「怠けている」「無神経だ」などと道徳的に非難したくなったら、それは自分の愛情が欠けてきたからではないかと考えて、道徳を頭から排除し、自分の愛情を補充するようにしてください。



道徳を生存闘争の道具と見なすのは私独自のものかもしれません。
詳しくは「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」を読んでください。

新川優愛

女優の新川優愛(25歳)さんは8月11日に記者会見し、結婚したことを発表しましたが、相手が9歳上のロケバスの運転手であることに世の中は驚きました。

美人女優の結婚相手といえば、IT社長かプロスポーツ選手か同業のイケメン俳優というのが相場です。
ロケバスの運転手なら普通の給料でしょう。
しかも新川さんは、ロケバスの中に忘れ物をしたと嘘をついて自分から彼にアプローチしたということです。
普通の給料の男たちに夢と希望を与える結婚でした。

それにしても、どうして新川さんはロケバスの運転手が好きになったのでしょうか。



記者会見を見てみると、好きになったきっかけについて、このように答えています。
「私に対する対応よりも、私けっこう、自分以外の人への対応を見ることが多くて、それは女性も男性もなんですけど、いろんな人に対しての接し方が素敵な人だなと思ったのがきっかけですかね」
調べてみると、『新川優愛、夫はアプローチに詐欺疑う「SNSが乗っ取られてると…」』という記事にもう少し詳しいことが書かれていました。
番組では新川が出会いから結婚までを初告白。初めての出会いは8年前、新川が17歳のときで、当時は恋愛感情は全くなかったそうだが、2016年、新川が22歳になったとき、荷物を率先して運んだり、どんな立場の人にも分け隔てなく接する仕事現場での彼の姿に惹かれていったという。
https://www.excite.co.jp/news/article/Mdpr_news1869442/
普通は、彼は熱心に私を誘ってくれたとか、私に親切にしてくれたというように、自分と彼との関係で彼を好きになるものです。
しかし、自分に親切にしてくれる人は、下心があるからしているだけで、ほんとうは親切な人ではないかもしれません。
新川さんのように、彼と第三者との関係を見ていれば、彼の人柄が正しく判断できるはずです。

これができるのは、職場恋愛のいいところです。職場で観察していれば、裏表のある人とか、上にこびて下に横柄な人とかもわかります。
お見合いだの合コンだのでは、なかなか相手の人柄はわかりません。デートしたら、彼がレストランの店員に横柄な態度をとって幻滅したなどということも起こります。


新川さんのすごいところは、恋愛や結婚の相手を探すとき、彼の人柄を第一にして、彼の収入や社会的地位にほとんど重きを置かなかったところです。
これは新川さんの自信からきているのでしょう。収入も社会的地位も自分で獲得するものだと思っていれば、男に頼るという気持ちになりません。

そして、愛されたいという願望があまり強くないのでしょう。

「愛されるよりも愛しなさい」とはよく言われる言葉ですが、実際はなかなかできないものです。
たいていの人は、「愛したい」と「愛されたい」を天秤にかけると、「愛されたい」のほうがうんと重くなります。
とくに若くて恋愛経験がないと、相手から愛されているか否かがひじょうに気になり、たとえばデートで行ったのが安いレストランだったとか、支払いのときに彼がクーポンを使ったとかのささいなことで、自分は安く見られたと即断して、彼を振ったりします。
こういうことで相手を選んでいると、ろくな相手をゲットできません。

なぜ「愛されたい」が重くなりすぎるかというと、子どものときに十分に親に愛されなかったからです。
親から受け取った愛が少ないと、その分を恋愛関係で得ようとします。
新川さんは親から十分に愛されて育ち(美人なのでたぶん男からも愛され)、もう愛に満ち足りているので、「愛されたい」よりももっぱら「愛したい」という目的で相手を探したのでしょう。


ですから、新川さんは愛に恵まれた家庭で育ったと推測されます。
新川さんの家庭環境がどういうものだったかはなかなかわかりませんが、ウィキペディアの「新川優愛」の項目にはこう書かれていました。

幼い頃からテレビが好きで、「自分も出演したい」と思い続けていた。小学校6年時、父に「芸能界に入りたい」と話したところ「いいんじゃない」の一言であっさりと快諾してもらったという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B7%9D%E5%84%AA%E6%84%9B
普通のことではありますが、父親は子どもの意志を尊重する人だということは言えます。

結婚報告記者会見を見てみると、「実家」に言及していたので、その部分を書き起こしてみます。
結婚願望は……そうですね、ちっちゃいときからお嫁さんになりたいみたいなことは言ってたみたいなので。うち、実家がすごいあったかい、実家がすごい仲がいいので、結婚願望はありましたね。
彼の「実家」についても言及していました。
(彼の)素敵なところはたくさんあるんですけど、あったかい人だなと、気持ちがすごいあったかい方だなと思いましたし、それはご実家に行ったときにも感じたんですけど。
これを聞いただけでも、新川さんがあったかい家庭で育ったことがわかります。
そして、こういう人はたいていあったかい家庭をつくることができるものです。


ところで、私がこのブログで新川さんのことを取り上げたのは、前々回に「坂口杏里さんの不可解な人生」という記事で取り上げた坂口杏里さんとあまりにも対照的だなと思ったからです。

人生というのは、かなりの部分が生まれ育った家庭環境によって決まります。
金持ちの家庭で育つのと、貧乏な家庭で育つのとでは、大きな違いがあります。
同様に、愛情に恵まれた家庭で育つのと、愛情の少ない家庭で育つのとでも、大きな違いがあります。
世の中には経済格差があるのと同様に愛情格差もあるわけです。

私は経済格差と愛情格差を勝手に「社会の二大格差」と呼んでいます。
世の中のほとんどの問題はこの二大格差からきています。たとえば幼児虐待は愛情格差がもたらす問題の最たるものです。

ところが、経済格差は認識されていますが、愛情格差のほうはあまり認識されていないので、坂口杏里さんは不幸な人生を(今のところですが)歩み、新川優愛さんは幸福な人生を歩んでいることの違いがどこからきているのかが理解されません。
そのため、坂口杏里さんがバッシングされたりします。

親から十分に愛されなかった人は、自分には愛される価値がないのだと思いがちです(坂口さんもそうではないでしょうか)。
しかし、世の中には愛情格差があり、愛のある家庭と愛の少ない家庭があるのだと認識すれば、自分には愛される価値がないという思いを払しょくして、前向きに歩んでいけるはずです。

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最近、食物アレルギーやアトピー性皮膚炎の子どもがふえていますが、行きすぎた清潔志向がアレルギー発症の原因になることがわかってきました。

アレルギーは、卵や牛乳のたんばく質、花粉など特定の物質(アレルゲン)に体の免疫が過剰に反応する病気です。
ですから、免疫の遺伝子などに異常があるのではないかと考えられましたが、いくら調べてもなかなかわかりませんでした。

初めてアレルギーの発病との関連が確かめられたのは、意外にも皮膚のたんばく質「フィラグリン」をつくる遺伝子の変異だった。アトピー性皮膚炎の患者の2、3割でフィラグリンの遺伝子の異常が見られる。
国立成育医療研究センター研究所の斎藤博久副所長は「発症率は遺伝子が正常な人の3、4倍、ぜんそくの合併も2、3倍になる」という。フィラグリンの遺伝子に変異がない患者でも、フィラグリンをつくる機能が落ちていることがあった。
フィラグリンは皮膚の表面でつくられ、皮膚を守るバリアーとして働いている。さらに、分解されると天然の保湿成分になり、これが皮膚を覆うことで守りを固めている。
皮膚のバリアー機能との関連が疑われるアレルギーは皮膚炎だけではない。
天谷雅行慶応大医学部教授は「英国の乳児でピーナツバターのアレルギーが起きた。調べると、皮膚に塗るベビーオイルにピーナツオイルが含まれていた」という。
(中略)
国内でも、せっけんに含まれていた小麦のたんばく質が元でアレルギーになり、小麦のたんばく質を含む食品を食べてアナフィラキシーショックを起こす事件があった。
新説では、まず、皮膚のバリアー機能の欠陥が先にあって、初めは皮膚からアレルゲンが侵入して免疫を刺激。その後にアレルゲンが鼻に入ると鼻炎や花粉症、のどに入るとぜんそくになるというわけだ。免疫の異常は原因ではなく結果だということになる。
(中略)
バリアーを守るにはどうしたらいいか。天谷さんは「ごしごし体を洗いすぎるのをやめ、首から下はわきの下と股だけせっけんを使えばいい」と勧める。天谷さんの研究では人間の皮膚は軽く水で流すだけで汚れが落ちるようにできているという。
http://sugimoto-clinic.or.jp/健康・医療のヒント/iryounogenjou/allergy_new_theory/

アレルギー発症の予防にもうひとつたいせつなのは、家畜の糞だということもわかってきました。

アメリカにアーミッシュという自給自足の生活をする人々がいますが、アーミッシュにはアレルギーの人がほとんどいないとされます。また、モンゴル人にもアレルギーがほとんどないということです。彼らは幼いころから家畜と触れ合う生活をしています。
「NHK特集」がそのことを取り上げました。

NHK特集
病の起源  第6集 アレルギー ~2億年目の免疫異変~
花粉症・ぜんそくなどのアレルギー。20世紀後半、先進国で激増。花粉症だけで3800万人もの日本人が患う病となった。急増の原因は花粉・ダニの増加、大気汚染と考えられてきたが、意外な原因があることがわかってきた。
南ドイツで、農家と非農家の子供の家のホコリを集め、「エンドトキシン」と呼ばれる細菌成分の量を調べたところ、それが多い農家の子ほど花粉症とぜんそくを発症していなかった。エンドトキシンは乳幼児期に曝露が少ないと、免疫システムが成熟できず、アレルギー体質になる。農家のエンドトキシンの最大の発生源は家畜の糞。糞に触れることのない清潔な社会がアレルギーを生んだとも言える。
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20081123

犬や猫でも同じような効果があるだろうと推測されています。

私は前から、子どものアレルギーに悩む母親には神経質な人が多い気がしていましたが、案外正しかったかもしれません。潔癖症の母親は、子どもの体を洗いすぎたり、部屋を極端に清潔にしたりして、それがアレルギー発症につながっていた可能性があります。

不潔な環境は感染症の原因になるので、子どもを清潔な環境で育てたいというのは当然のことですが、なにごとにも適正水準というものがあります。今はもしかして行きすぎているのかもしれません。


行きすぎた清潔志向は、身体面だけでなく精神面にもマイナスがあります。
つまり愛情行動ができなくなるのです。

たとえば、セックスは互いの体を接触させ、粘膜も接触させます。性器と排泄器はきわめて近い位置にあるか、まったく一致しています。潔癖な人はセックスができないはずです。
実際、セックスによって性病などが移ることがあります。
しかし、人間は愛情を感じると、清潔志向のハードルが下がるというか、不潔の許容力が高まるので、セックスができます。

母親が子どもの世話をするときも、排泄物の始末をしなければなりませんし、子どもが食べ物をこぼしたり物を散らかしたりすることも受け入れなければなりません。
潔癖な人ではできないはずですが、母親になればできるようになるものです。

しかし、世の中全体の清潔志向が強まると、セックスできない人や子どもの世話ができない親がふえる理屈です。
実際、若い人は恋愛やセックスをしなくなり、子どもをつくらない夫婦もふえています。

もちろん若者の恋愛離れや少子化にはさまざまな理由がありますが、過度な清潔志向もその理由のひとつに違いありません。

すでに清潔志向が行きすぎているなら、これからは愛と健康を回復するために、不潔志向というか、不潔許容度を高める方向に行かなければなりません。

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                           creisiによるPixabayからの画像             
                                                                              

幼児虐待についての悲惨なニュースが続いています。
幼児虐待をなくしたいと思わない人はいないはずです。
しかし、どうすればいいかを考えようとしても、ほとんどの人はそこで思考停止に陥ってしまいます。
「灯台もと暗し」と言いますが、幼児虐待は自分自身の足元の問題だからです。

考えるには手がかりが必要です。
虐待のある家庭と虐待のない家庭を比較するのがひとつの手です。
虐待のない家庭というのは、要するに普通の家庭です。
そこらにあるのが普通の家庭ですから、たまたま目についた数日前の朝日新聞の投書を、一部省略して紹介します。


(ひととき)わが家の小さな花束
 若い頃の私は、庭仕事には全く関心がなく、草取りが最も嫌いな家事だった。
(中略)
 そんな私を変えたのは、幼い娘だった。ある夜、娘は「明日、保育園にお花を持っていく」と言った。突然のことに「でも家にはお花なんてないよ」と言うと娘は泣き出した。困った私は娘をつれて外に出た。近所の空き地に白いクローバーの花が咲いていた。娘は数本摘んで、小さな花束を作って言った。「これでいい」。娘がとてもいじらしく、小さな庭があるのに何もしなかった自分を恥じた。「ごめんね。そのうち花束を作ってあげる」
 心を入れ替えた私は、雑草を取り、土を耕し、花の苗を植え世話をした。失敗も多かったが、念ずれば通ずるなのか、何とか花が咲いた。バラや宿根草が根付き、庭らしくなった。娘は小中高校時代、毎年1回は花束を抱え、うれしそうに登校した。花束を作るたびにあの夜の罪ほろぼしをしているような気持ちになった。これで少しは許してもらえるかな。
 今は、孫たちに花束を作っている。喜んで持っていく姿を見るのはうれしい。
 (千葉県柏市 主婦 65歳)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14050538.html?rm=150


いい話です。愛情が感じられます。
ただ、この話だけだと、なんの教訓も得られません。
そこで、虐待のある家庭だとどうなるかを想像してみます。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言い、「家にはお花なんてないよ」と言うと、娘は泣き出しました。夜なので花を買いにいくこともできません。ここで、「わがままを言ってはいけません」と叱る母親も多いのではないでしょうか。叱られた娘はますます泣いて、母親もますます叱ってと、負のスパイラルに入ると、虐待が生じてしまいます。

しかし、この母親は娘といっょに家を出ます。「どこにも花はない」と言葉で説得しても娘は納得しないので、いっしょに花を探して、ないことがわかれば納得してくれると思ったのでしょう。
ここがこの母親の偉いところです。言葉で説得するのはおとなの論理です。

娘はクローバーの花を見つけ、「これでいい」と言います。小さい花ですが、ほかにないことがわかったので、それで自分を納得させたのでしょう。子どもでも現実と向き合えば、最善の判断ができるということです。
母親は、娘が小さな花でがまんしたことがわかり、いじらしく思い、庭仕事をしなかった自分のせいだとも思い、それから庭仕事に精を出します。

ここでもほかの母親なら、「そんな小さな花はやめなさい」とか「そんなのを持っていったらお母さんが恥をかくからだめ」とか「昼間自分で摘んだらいいじゃない」とかと、おとなの論理を振り回して、娘とバトルを演じたかもしれません。


この母親は娘の気持ちに寄り添っているので、虐待などは起こりようがありません。
しかし、このように娘の気持ちに寄り添えたのは、母親に気持ちの余裕があったからです。
たとえば家計が苦しくて、借金のことで頭がいっぱいだったとすれば、いくら娘が泣いても、母親は家を出て花を探しにいこうという気にはならず、娘を叱ることで対応していたでしょう。
虐待の起こる家庭というのは、たいてい貧困層で、夫が無職というケースが多いことを見てわかります。

しかし、母親に気持ちの余裕がなくても、夫や親族や近所の人などのささえる人がいれば、やはり虐待は起こらないでしょう。

ですから、生活の余裕と周りのささえが虐待防止にはたいせつなことですが、これは今さら言うまでもないことかもしれません。
あと、もうひとつ、誰も言わない重要なことがあります。
それは「道徳」を持ち込まないということです。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言ったとき、それを「わがまま」ととらえる親がいます。
そして、娘が泣き出すと、「わがまま」がさらにエスカレートしたと見なし、こうしたことを放置すると限りなくわがままになると考えて、叱ってわがままを言わさないようにします。
こうしたやり方が虐待の第一歩です。

子どもがかたづけをしない、食べ物をこぼす、言いつけを守らないなどのことを「わがまま」や「悪」と見なし、しつけをして矯正しなければならないというのが虐待親の認識です。
ですから、事件を起こして逮捕された親は決まって「しつけたのためにやった」と言います。

今の世の中は、親が子どもをしつけるのはよいこととされているので、逮捕された親が「しつけのためにやった」と言うと、誰も反論できません。

道徳は言葉でできています。おとなは言葉を自由にあやつれますが、子どもは言葉が十分に使えません。そのため、道徳はおとなに有利にできています。その道徳に従ってしつけをすると、むしろ親がわがままになり、どうしても虐待につながっていくのです。

愛情のある親は直感的にそのことがわかっているので、子どもにしつけをするにしても、ほどほどにするので、虐待には至りません。

道徳やしつけを根本的に見直すことが幼児虐待防止にはなによりたいせつです。


昔、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」という番組に「良い子・悪い子・普通の子」というコーナーがありました。
娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言って泣いたときの母親の対応をそれにならって言うと、

「悪い母親」は、娘を叱る。
「普通の母親」は、娘の前でおろおろする。
「良い母親」は、娘といっしょに花を探しに出かける。

ということになります。

娘といっしょに花を探しに出かけたら、いろんなたいせつなものを見つけたというお話です。

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