村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:戦争映画

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「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(アレックス・ガーランド監督)を観ました。

アメリカで大ヒットし、日本でも公開第一週の観客動員は一位でした。
アメリカの分断がどんどん深刻化しているので、アメリカの内戦を描いた映画がリアルに感じられるのがヒットの理由でしょう。

近未来のアメリカ。憲法を改正して3期目に就いている大統領が独裁化し、それに反発した多くの州が分離独立を表明して、内戦状態になっています。テキサスとカリフォルニアが連合した「西部勢力」とフロリダを中心とした「フロリダ連合」が政府軍を撃破してワシントンD.C.に迫っているという状況です。
その中で4人のジャーナリストが大統領とのインタビューをしようとして、ニューヨークからワシントンD.C.へ「PRESS」と書かれた車に乗って向かいます。危険地域を避けて1400キロの旅です。

4人というのは2人の男性記者と2人の女性カメラマンで、駆け出しの若い女性カメラマンがベテラン女性カメラマンの指導を受けながら苛酷な体験をして成長していくという物語になっています。
しかし、こうした人間的な物語はあまり成功しているとはいえません。はっきりいって4人のキャラクターもとくに印象に残りません。
結局のところ「内戦下のアメリカ」を描くことで人気を博した映画だといえます。

アメリカで内戦が起こるとすれば、リベラル対保守の戦いではないかと想像されますが、そういう思想的なことはいっさい出てきません。
唯一、「お前はどこの出身だ」と聞いて、「香港」と答えた人間を即座に射殺するという場面があるぐらいです。大統領がどういう思想の持ち主かもわかりません。
ただ、大統領が独裁化して3期目をやっているということで、トランプ氏のような人間を当選させるとこんなことになるぞという反トランプの主張が読み取れるかもしれません(しかし、トランプ派の人は連邦政府が弱いから内戦になるのだという教訓を読み取るかもしれません)。


一行は車で旅するうちにいろいろな場面に出会います。
ガソリンスタンドに寄ると、建物の裏で略奪者らしい男を残酷にリンチしているのを目撃します。
頭に袋をかぶせ、後ろ手に縛った男を並べて処刑する場面にも出くわします。
スタジアムが難民キャンプになっています。
スナイパー同士が向かい合っているところに巻き込まれますが、そのスナイパーは敵が何者なのか知りません。
そうかと思うと、内戦などないかのように、みんなが平穏な生活をしている町があり、「トワイライトゾーンみたい」という言葉がもれます。
ロードムービーといわれますが、アミューズメントパークの冒険もののアトラクションみたいです。

銃声や爆発音に迫力と臨場感があります。監督がこだわったところのようです。
映画の終盤には派手な戦闘シーンもあります。


アメリカはほとんどの戦争を国外でしていて、第一次世界大戦以降、アメリカの国土が戦場になったのは、真珠湾攻撃と9.11テロぐらいしかありません。
ですから、自国が戦場になるというこの映画の設定は、アメリカ人にとってはショックでしょう。

自国が戦場になった経験のないアメリカ国民は、戦争のほんとうの悲惨さを知りません。
そのため、アメリカの戦争映画は敵をバタバタと痛快に倒していく娯楽映画がほとんどです。
スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」は戦争の悲惨さを描いているといわれますが、描いているのはあくまで「戦闘シーン」の悲惨さです。住んでいる町が焼かれたり、食料不足で飢えたり、敵に占領されて支配されたりする悲惨さは描かれません。
その点、ロシア(ソ連)は第二次大戦のときにドイツに侵略されてきわめて悲惨な目にあいましたから、ロシアの戦争映画は、兵士の英雄的な戦いを描くものでも、必ず悲惨さも描かれているので、観終わったあとに重苦しいものが残ります。
「シビル・ウォー」はそういう意味ではこれまでのアメリカの戦争映画とは一線を画しています。

もっとも、アメリカを戦場にした映画は、1984年制作の「若き勇者たち」(ジョン・ミリアス監督)というのがありました。共産圏と全面戦争になり、共産軍がアメリカに攻め込んできて、若者たちがゲリラ戦で対抗するという物語です。単純な反共映画になりそうでしたが、アメリカ国土が戦場になるという設定のために、シリアスな印象の映画になっています(リメイク版の「レッド・ドーン」では北朝鮮軍が攻め込んでくるというおかしな設定になっていました)。


正義と悪の戦いであれば、悪いやつらをやっつけてスカッとするということがありますが、この映画は正義や善悪は出てこないので、ただの残酷な殺し合いとして描かれます。
アメリカ人同士が殺し合うわけで、アメリカ人の観客にとってはいやな気分でしょう。

この映画には平和主義や人道主義も出てきません。
ジャーナリストたちも真実を伝えようというジャーナリスト魂を持っているのではないようです。
誰も大統領にインタビューしていないので、自分たちがインタビューして、一発当ててやろうという山っ気から行動しているように見えます。

政治思想や善悪や正義を全部消し去ると、そこに残ったものは戦争であり殺し合いです。
そういう意味では戦争の愚かさを描いた映画ともいえます。
しかし、反戦映画ともいえません。

ガーランド監督はイギリス人で、アメリカをある程度客観的に見る目を持っていますが、考えてみればイギリスも自国が戦場になったのはロンドン空襲ぐらいです。ロシア人のようには戦争の悲惨さを知らないかもしれません。

ガーランド監督が描きそこねたと私が思うのは、戦争犠牲者の存在です。
難民キャンプで女性と子どもが出てきますが、それはわずかのシーンです。
この映画に出てくるのはほとんどマッチョな男たちです。戦争をするのはマッチョな男ですから当然です。
一方に、女、子ども、老人という戦争犠牲者もいるはずです。
戦争犠牲者を描いてこそ戦争の全体を描いたことになります。
そうすれば、反戦などを訴えなくてもおのずと戦争の悲惨さが伝わるはずです。
戦争犠牲者を排除したところが、この映画のなんとも残念なところです。

また、分断を解消するのは「寛容」や「友愛」といった概念であるでしょう。
しかし、この映画にそうしたものはまったくなく、「力による解決」があるだけです(いかにもアメリカ的です)。

エンドロールが流れる背景は、死体を取り囲んで笑顔を浮かべる兵士たちの写真になっていて、皮肉がきいています。

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「1917 命をかけた伝令」(サム・メンデス監督)を観ました。

「全編を通してワンカットに見える映像」が売りで、確かにそれはすごいのですが、それだけではありません。戦争映画としての新機軸がいくつもあります。

サム・メンデス監督といえば、「アメリカン・ビューティー」が衝撃的でした。アメリカ社会の病理を深く描きつつ、同時にじゅうぶんにおもしろい映画になっていました。
メンデス監督は「007 スカイフォール」なども撮っていて、そういうエンターテインメント性もあるし、イギリスの舞台演出でも実績のある人なので芸術性もあるということで、両面できるのが強みです。


第一次世界大戦下、二人のイギリス兵に重要な伝令の任務が与えられ、二人は敵中を横断して、その二日間にさまざまなことがあるという物語です。
物語としてはきわめて単純です。意外な展開があるということはありません。
ただ、敵中といっても敵は撤退したあとなので、緊張の連続というわけではなく、いろいろな人との出会いもあります。

この映画の見どころは、一言でいえば「戦場の臨場感」です。

まず美術スタッフの力がすごくて、たとえば塹壕とか、敵が撤退したあとの砲兵陣地とか、戦場に放置された死体とかがひじょうによくできています。
それがワンカットでずっと続いていくと、自分もそこにいるような気分になってきます。
ストーリーにひねりはなくても、次になにが起こるかわからない戦場の緊迫感があるので、引き込まれてしまいます。


それから、人間の描き方が類型的ではありません。
これまで戦争映画というと、英雄的な兵士、鬼軍曹、理不尽な上官、未熟な補充兵、乱暴者、ひょうきん者といった類型ばかりでした。
敵と味方の描き方も違います。ですから、バタバタと敵を殺すシーンを見ても、罪悪感を感じることはありません。
ところが、この映画に出てくるのは、“普通の人間”ばかりです。
敵兵の出てくるシーンはそれほど多くありませんが、敵兵も“普通の人間”なので、主人公が敵兵を殺すシーンを見ると、「人を殺した」という実感があって、ショッキングです。


戦争映画というのは、つくり手の価値観が強く反映されます。
英雄的な兵士を讃えたいとか、国の誇りを描きたいとか、あるいは戦争の悲惨さを訴えたいとか、戦争指導者の愚かさを描きたいといった“志”が必ずあるものです。つまり戦争映画というのは、戦争賛美映画か反戦映画かのどちらかです。
スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」は、戦争の悲惨さをリアルに描いたと評価されていますが、基本は兵士の勇敢さを讃える映画です。

つくり手が“志”を持つと、見方が偏ってしまい、戦争の全体像が見えてきません。
この映画はそうした偏見を極力排したことで、「戦場の臨場感」が体感できる映画になりました。


また、この映画には“死”が描かれます。
映画や小説というのは、死をより悲劇的に描こうとするもので、たとえば最愛の恋人が白血病になるとか、肉親が末期がんになるといった物語を量産してきました。
戦場の死の場合は、強い友情で結ばれた戦友の死がいちばん悲劇的ですから、そうした物語になりがちです。

ところが、この映画はその点でも画期的です。
二人の伝令兵は、命令を受けたときたまたまその場にいたために、いっしょに任務につくことになります。とくに親しかったわけでないことが、二人の会話でわかります。
ですから、その死は肉親の死でも恋人の死でも特別な戦友の死でもない、“普通の死”です。
特別な友情はなく、たった一日行動をともにしただけの関係でも、死というものがいかに重いかがわかります。


塹壕戦の映画というと、どうしても画面が暗くなりがちですが、この映画は明るくて、色彩的にも鮮やかです。平原を見渡すシーンも多く、爽快感もあります。


この映画を観ると、これまでの戦争映画がいかに偏見にとらわれていたかがわかります。
戦場や死を臨場感をもって体験できる価値ある映画です。

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Eric PerlinによるPixabayからの画像 

私がムンクの「叫び」を初めて見たのは、中学校の美術の教科書でした。
教科書にいろいろな絵が載っている中で「叫び」は明らかに異色で、狂気を感じさせる絵に衝撃を受けたのを覚えています。
昔は私のような受け止め方が一般的だったでしょう。
しかし、今は「ムンクの叫び人形」のようなものがつくられ、絵の人物がおもしろキャラクターとして扱われて、むしろ笑える絵と見られている面があります。

絵は昔も今も同じですから、見る側の認識が変わってきたのです。
ユニークな絵ですから、メディアで取り上げられることも多く、みんなが見慣れてきたということもあるでしょう。
見慣れたということも含めて、私たちは狂気や異常性を感じさせる絵を普通に受け入れるようになっているのです。


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(ゾンビパレード)geri clevelandによるPixabayからの画像

ゾンビも、もともとはスプラッターホラーと言われるジャンルの映画から出てきたもので、ゾンビが人間の内臓をむさぼり食うシーンなどがあって、一部のマニアに受けていただけで、一般の人には嫌われていました。スプラッターホラーは宮崎勤事件などと結びつけられたこともあります。
ホラーの中でもゾンビものはもっともグロテスクですが、それがどんどん人気になって、「ウォーキング・デッド」というドラマ・シリーズは高視聴率番組となっています。
そして、ハロウィンの仮装の定番にもなりました。
見た目にもっともおぞましいものが、おもしろがられるようになっているのです。


異常で残虐なものを受け入れるようになってきたのは、戦争映画も同じです。
「ビーチレッド戦記」という映画の解説で町山智浩氏が語っていたのですが、ハリウッドにはヘイズ・コードという規制が1968年まであって、人体が破壊されるようなシーンをはっきり撮ることはできなかったそうです。ですから、弾丸が人の体に当たっても血が出ることはなく、穴が空くだけです。
そう言われてみれば、昔の戦争映画では、銃で撃たれてバタバタと人が倒れたり、崖から落下したり、爆発で人の体が派手に吹っ飛んだりするシーンはありますが、血が出たり、手足がもげたりするような残虐シーンはありません。“きれいな死”ばかりです。
「ビーチレッド戦記」はインディペンデント映画なので、そういう規制は無視して、上陸作戦のとき、水にちぎれた足が浮いているとか、隣の兵士の喉にパックリ穴が空いているとか、激しい砲撃の中で腕をなくした兵士が突っ立っているとかの残虐シーンがあり、画期的でした(1967年制作の映画なので、ベトナム反戦の意味があると想像されます)。

スピルバーグ監督の「プライベートライアン」は、「ビーチレッド戦記」の影響を受けたということで、残虐シーンがてんこ盛りです。メル・ギブソン監督の「ハクソーリッジ」は、それに輪をかけた感じです。
これらは血の出る戦争映画ということで、“スプラッター戦争映画”と言えるかもしれません。
それを私たちはエンターテインメント映画として受け入れています。

ホラー映画も、昔はほとんど血が出ませんでした。ドラキュラものも、首筋に牙でかみつくシーンはありますが、ほとんど血は出ません。ヒッチコック監督の「サイコ」も、ナイフを使っての殺人シーンは、カーテン越しのナイフの動きと、床に流れるシャワーの水に血が混じるという形で表現されました(しかもこれはモノクロ映画です)。


また、幼児虐待で子どもが死亡する事件は、今に始まったものでなく昔からありましたが、昔はそういう事件があっても、まったく報道されないか、報道されてもいわゆるベタ記事でしか扱われませんでした。幼児が親から虐待されて死ぬというのはあまりにも悲惨なので、そのような報道はみんなが拒絶していたのです。
今は幼児虐待事件は大きく報道されます。このように変わったのは、私の感覚ではせいぜい十年ぐらい前からです。


このように異常で残虐なものは、昔は多くの人が拒絶していましたが、今は一般の人が普通に受け入れるようになっています。
これはきわめて大きな変化です。
もちろん認識の上での変化ですが、それは現実にも影響を及ぼすはずです。

異常で残虐なことを目にするのに慣れると、自分も同じことをしやすくなるという考え方もありそうですが(スプラッターホラーと猟奇殺人事件が結びつけられたのもそれです)、現実はむしろ逆です。
殺人や強盗のような凶悪犯罪はへり続けています。
へっている理由はいろいろあるでしょうが、ひとつにはナイフで人を刺すと血が流れるとか、刺された人はもがき苦しむといったことが認識されてきたこともあるのではないでしょうか。

戦争も、昔のような大規模なものはなくなってきました。
この理由もいろいろありますが、昔のように戦争が経済的利益に結びつかなくなったことが大きいでしょう。それから、戦場では人が血を流して苦しんで死ぬということが認識されてきたことも影響しているのではないでしょうか。

幼児虐待事件が減少しているとは今のところ言えないようですが、幼児虐待の存在が広く認識されるようになり、対策が進められているので、いずれ事態は改善に向かうはずです。

精神病への偏見も少なくなり、猟奇事件の犯人の心理も、“心の闇”で片づけることなく、解明することに関心が向いています。

人類は宇宙の果てや量子の世界にまで認識を広げています。
それと同様に、異常、残虐、グロテスクといったものにも認識を広めています。
これも人類の大きな進歩です。

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