村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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人間はみな生まれつき能力が違うのに、今の学校ではみな同じ教室に入れられ、一斉授業を受けさせられます。
どう考えても理不尽です。
しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うことは(とりわけ教育界では)タブーになっているので、この理不尽はいっこうに改まりません。

しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うのはタブーでも、「人間は年齢によって能力が違う」ということは誰もが認めるでしょう。
ところが、日本の学校は能力の年齢差にすら対処していません。

小学1年生の教室には、6歳児と7歳児がいます。この年齢での1年の違いは大きいものがあり、そのため早生まれ(1月から3月生まれ)は損だといわれます。しかし、その違いは年齢が上がっていくとともに小さくなっていくので、そんなに気にすることではないとされてきました。つまり6歳と7歳の違いは大きくても、15歳と16歳の違いはわずかだというわけです。
しかし、最近の研究で、入学時の差は年齢が上がってもあまり縮まらないということがわかってきました。

朝日新聞は7月に3回にわたって「早生まれは損?」という特集記事を掲載しました。そこからいくつか引用します。
 朝日新聞は、昨夏に開かれた第104回全国高校野球選手権(夏の甲子園)に出場した49校のベンチ入りしたメンバー882人の生まれ月を調べた(登録変更は含まない)。どんな傾向があるのか。

 4~6月生まれ37・8%
 7~9月生まれ29・6%
 10~12月生まれ18・0%
 1~3月生まれ14・6%
高校生になっても生まれ月の影響は歴然としています。

プロ野球の選手、さらにはプロサッカー選手についてはどうでしょうか。

子どもたちが新学年を迎えるこの時期、頭に浮かぶのは、生まれ月がスポーツに与える影響だ。

 ジュニア期における学年内の成長差、体力差の影響が、大人になっても続く。

 プロ野球でみると、2020年に12球団の日本出身の支配下登録選手を、3カ月ごとの生まれ月で分けたところ、4~6月は32%、7~9月は29%、10~12月は22%、そして、1~3月は18%と比率が下がっていた。

 同年のJ1・18クラブの登録選手も、33%→32%→19%→16%。いずれも、統計的には「圧倒的に有意な偏りあり」だった。
なぜこれほどの差が出るのかというと、早生まれの子はスポーツを始めるとほかの子よりできないことに気づいて、すぐにやめてしまうということがあるでしょう。つまり分母の数が違うのです。
では、長く続けると生まれ月の差は縮小していくかというと、必ずしもそうとはいえません。
最初に補欠になった子どもは、自分はこの程度の実力と思い、たまに試合に出ても緊張していい結果が出せません。最初にレギュラーになった子どもは、練習にもやる気が出ますし、試合経験を積んで、実力をつけていきます。最初の差がさらに開いていくということがありえます。


生まれ月の影響はスポーツだけにとどまりません。
3月生まれが入学した高校の偏差値は、同じ学年の4月生まれに比べて4・5低い――。3年前、東京大学大学院の山口慎太郎教授(労働経済学)らがそんな研究を発表し、話題を呼びました。
(中略)
今回の研究では、学力の差もさることながら、「感情をコントロールする力」や「他人と良い関係を築く力」といった非認知能力の差が、学年が上がっても縮まらないことがポイントでもありました。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」といいますが、早生まれの子はいきなり「牛後」となって、自分はその程度の存在と思って、一生「牛後」の人生を歩む可能性が高いといえます。


最近では早生まれの不利なことが広く知られてきて、生まれる月を考慮して“妊活”をする夫婦もあるといいます。
インターナショナル・スクールでは、その子の成長の具合を見て、入学を1年遅らせる選択ができるところもあります。
オランダでは、入学の日が決まっていなくて、4歳の誕生日がすぎたらいつでも入学できます(一斉授業ではなく個別授業です)。

早生まれが不利になるような教育制度は、早急に改革しなければなりません。



生まれ月が違えば能力差があるのは当たり前ですが、では、同学年の同月生まれの子はみな同じ能力かというと、そんなことはありません。身体的能力も知的能力も個人差があります。
これは生まれつきの能力差ですから、どうしようもありません。
問題は、能力の違う子どもに一律の教育を行っていることです。
おそらく教師は、平均的な子どもの少し上のところに向かって授業をしているでしょう。中央のボリュームゾーンの子どもはなんとか理解できるかもしれませんが、能力の下の層は理解できなくても放置され、授業中ずっと退屈な時間をすごすことになります(能力のかなり上の層も退屈しているでしょう)。

つまりさまざまな能力の子どもに対して一斉授業をしているために“落ちこぼれ”が生まれて、それが非行、犯罪につながり、また福祉の負担にもなっているということを、前回の「もうひとつのシンギュラリティ」という記事で書きましたが、そのときは文明論の観点から教育制度を批判しました。
しかし、教育制度は急には変わりません。
そこで今回は、今の学校教育制度の中でサバイバルする方法について考えました。


今の教育は、頭のよい子も悪い子もいっしょにして一斉授業をしているという問題に加えて、あらゆることを網羅的に教えているという問題もあります。

読み書き計算は、誰にとっても必要なことです。しかし、今の学校は物理や化学から地理や歴史、美術や音楽まで教えていて、これは誰にとっても必要なことかというと、そんなことはありません。
たとえばフレミングの左手の法則とか元素の周期表とか稲作の伝来ルートとか『源氏物語』とかオーストラリアの首都はシドニーでなくキャンベラであるといったことを子どもは教わりますが、これらの知識は、クイズ以外にはめったに役に立ちません。
もちろん電気関係の道に進めばフレミングの左手の法則の知識が役に立つでしょうし、古典文学が好きな人にとっては『源氏物語』の授業は価値あるものでしょう。しかし、大多数の人にとってはほとんど価値がありません。


網羅的な知識を教える教育に適応していい成績をとる優秀な人間は、最終的に官僚や大企業の総合職になり、一部は学者になり、日本という国を担う人材になります。

それほど優秀でない人間は、この教育を受けると中途半端な人間になりますが、「汎用性のある労働者」として企業には歓迎されるかもしれません。
ただ、苦労して網羅的な知識を身につけた割には報われません。

ちなみに教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「国家及び社会の形成者」には網羅的な知識が必要と考えられているのかもしれません。

しかし、子どもは「国家及び社会の形成者」になりたいとは思っていませんし、親も子どもを「国家及び社会の形成者」にしたいとは思っていないでしょう。
では、国民は教育になにを求めているかというと、「子どもの幸せ」です。
つまり子どもが将来幸せな人生を送れるような教育をしてほしいと思っているのです。

ここに国家と国民の大きな齟齬があります。
国家は「国のため」の教育をしていて、国民は「子どものため」の教育を望んでいるのです。


人生の第一の目標は、職業人として成功して、ある程度の収入を得て、社会的尊敬を受けることです。
職業といってもいろいろありますが、職業人として成功するのに、たいていは網羅的な知識は必要としません。むしろ逆にひとつのことを深く掘り下げていくことが必要です。

網羅的な知識を得てゼネラリストになるには、そうとうに優秀でなければなりません。たいていの人間はそこを目指すよりも、ひとつのことを深く追究したほうがいいはずです。
ところが、子どもが学校に行くと網羅的な勉強をさせられます。読み書き計算以外のことはほとんど役に立ちそうもないことばかりです。
ですから、子どもに「なんのために勉強するの?」と聞かれた親は、まともに答えることができないので、適当にごまかすしかありません。

子どもが早くに人生の進路を決めれば、網羅的な勉強は必要なく、「選択と集中」をすればいいわけですし、学校に行かないという道もあります。
職業人として成功すれば、学歴などどうでもいいことです。
藤井聡太七冠は高校中退ですが、教養がないなどと批判されることはまったくありません。


ただ、早期に人生の進路を決めるのは容易なことではありません。
本人の資質と環境の組み合わせがうまくいくという偶然にも左右されます。

偶然に左右されるとはいえ、チャンスを拡大するやり方もあります。
私が思うのは、子どもはとにかく好きなことをすることで、親はそれを止めないということです。
子どもがゲームに夢中になると、たいてい親は時間を制限したり、やめさせたりしようとしますが、やりたいことがやれないという不完全燃焼はほかにも影響します。
やりたいだけゲームをやると、たいてい飽きてほかのことに関心が向かいますし、飽きなくても「いつまでもこんなことばっかりやっていてもしょうがない」と考えるようになります。もしいつまでも夢中でやり続けているなら、そこに道が開けるでしょう(ゲーム依存症が心配かもしれませんが、なにかの依存症になるおとなはPTSDが原因なので、子どもも同様のことが考えられます)。

子どもがいろいろなことをやっていれば、将来につながる道を発見するかもしれないので、親はそうした体験の機会を提供することがたいせつです。
習い事をいろいろやるのもいいことですが、子どもにやる気がなかったらすぐにやめることです。
「やりたくないことをやらされる」ということほど心の成長を阻害することはありません。

私はやりたい勉強だけやっていればいいのではないかと考えています。たとえば数学と理科ばかりやるとかです。
もっとも、今の学校制度では不可能ですが。


ところで、これまでの私の主張を「能力別クラス編成」のようなものと思う人がいるかもしれませんが、それはまったくの勘違いです。
能力別クラス編成は学校が子どもを選別するものですが、私が言っているのは、子どもが自分の能力に合った勉強をするということです。

もうひとつ言うと、これまで教育を論じてきたのは頭のいい人ばかりなので、頭の悪い子どものことは眼中になかったようです。
私自身はというと、教育を子どもの側から、さらには頭の悪い子どもの側から見ているわけです。


将来東大に入れそうなほど頭のいい子どもはどんどん勉強すればいいでしょう。
あまり成績がよくないとか、勉強嫌いの子は、「選択と集中」でなにかひとつの道を究めて、将来それで食べていくことを考えるべきです。
そういう道が見つからない子は、とりあえず決められた勉強をして「汎用性労働者」を目指すか、早く就職することです。
あまり頭がよくないのに親にむりやり勉強させられて、三流大学にしか入れなかったというのはいちばんの悲劇で、子どもは挫折感と劣等感を植えつけられ、親を怨むことになります。

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YouTuberの「少年革命家ゆたぼん」(12歳)さんが自身のYouTubeチャンネルで「いよいよ今年度から中学生になんねんな。でも俺は、中学校に行く気はありませーん!」と不登校を宣言。義務教育については「教育は学校に行くことだけじゃないから。おれみたいにホームスクーリングとかフリースクールでもええねん」と主張しました。
これがきっかけで、「なんのために学校へ行くのか」という議論が巻き起こっています。

格闘家でYouTuberのシバター氏は、「ゆたぼん君に学校の良さを伝えたい」のタイトルで動画をアップし、「学校に行くとほんとうの友だちができる。仕事が縁で知り合った人間は多少なりとも利己的な部分があるが、子どものときにできた友だちは、2人に経済的な格差ができても、その関係は変わらない」と主張しました。
これに対してゆたぼんさんは、動画の中で「パパとかシバターさんの中学時代はネットもスマホもなく、友だちを作る場所が、たぶん学校しかなかったから、そんなことを言ってるんやと思う」「中には、学校に行ったけど友だちが一人もできひんかったって人もおるわけやん」などと反論しました。

2ちゃんねるの創始者である「ひろゆき」こと西村博之氏はツイッターで、ゆたぼんさんの親を批判し、「子供を学校に通わせないで、身の回りの出来事を学ぶことで生きる力を云々という頭の悪い親がいますが、身の回り生活からどうやって虚数の概念を学べるのか聞いてみたいです」「『虚数なんて知る必要がない』と考える人は知識が足りない」と主張しました。
ゆたぼんさんの父親はひろゆき氏に反論して、ツイッター上でバトルを繰り広げました。

虚数の概念を学ぶことにどれだけの価値があるのかというのはむずかしい問題ですが、いずれにせよ、学校に行かなければ虚数を学べないということはないはずです。

昔は学校に行かないと学ぶ機会はまずありませんでした。
発明王のエジソンは学校をやめたあと、教師の経験のあった母親から学びましたが、これは例外です。

しかし、今はインターネットがありますし、フリースクールなどの代替学校もあります。

最近は不登校の子どもが増えているので、文科省も「不登校は誰にも起こりうる」という認識に立ち、代替学校へ通ったことを「出席扱い」とするなどの対応を進めています。



どこでも学べるようになると、「なんのために学校へ行くのか」という問いに対しては、シバター氏のように「学校に行くと友だちができる」といったことしか言えなくなります。

あと、「集団(団体)生活に慣れるため」という理由もよく挙げられます。
しかし、これはおとなの論理です。
「集団生活に慣れたい」と思っている子どもはいないので、子どもを説得するためには使えません。


しかし、考えてみれば、学校はほとんどタダで幅広い教科を教えてくれるのですから、これほどありがたいところはありません。
それでも不登校の子どもが増えるのはなぜでしょうか。
それは、学校教育の目的が根本的に間違っているからです。


学校教育について理解するために、江戸時代の寺子屋と比較してみます。

寺子屋の目的は「読み書き算盤」を教えることです。
読み書き算盤は子どもが生きていく上で必要なことですから、親は月謝を払い、子どもも納得して寺子屋に通いました。
一斉入学ではないので、指導はすべて個別指導です(商人の子、職人の子、百姓の子によって教材も違いました)。
先生がきびしく子どもを指導するということもありません。そんなことをすれば子どもはほかの寺子屋に行ってしまいます。
子どもにとって寺子屋の先生は生涯唯一の師匠なので、その絆は深く、先生が亡くなるとかつての生徒たちがお金を出し合って筆子塚というお墓をつくることがよくありました。寺子屋の記録というのはほとんどないので、今に残る筆子塚を調べて、昔の寺子屋の数が推定されました。
つまり寺子屋の教育は「子どものため」でした。

明治5年、学制が公布され、学校制度が始まりました。
「学制序文」の冒頭はこう記されています。



人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ


「人々が立身し、生計の道を立て、業を盛んにして、よい人生を送る」ということを目標に掲げ、そのためには学問をするしかなく、そのために学校を設けるのだと言っています。

これは福沢諭吉の『学問のすすめ』と基本的に同じ考え方です。
このときの学制はフランス式で、個人主義、実学主義でした。
つまり学校に行って勉強すれば、社会的地位が高く豊かな生活ができるようになるということで、学校教育は寺子屋と同じで「子どものため」でした。

しかし、帝国憲法と教育勅語によって、教育の目的はがらりと変わります。

教育勅語(文部省による現代語訳)にはこう書かれています。



汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。


「公共の利益」や「世のため」や「皇室国家の為」がうたわれ、「一身を捧げ」ることまで求められています。
つまり学校教育の目的は「富国強兵」になったのです。



敗戦により、国のあり方は大きく変わりました。
その中で教育基本法が1947年に制定され、2006年に改定されました。
教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。




(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


「人格の完成」というよくわからない言葉が入っています。
「人間は死ぬまで修養である」というのが日本人の考え方です。
しかし、「人格の完成」というのは、どこかに行き止まりがあるわけです。プラトンの「イデア」か、アリストテレスやカントの「最高善」から持ってきたのでしょうか。
いずれにせよ、「人格の完成を目指したい」という子どもなどいないので、子どもにとってはよけいなものです。

意味不明な「人格の完成」という言葉を無視すると、ここには「国家及び社会の形成者」と「心身ともに健康な国民」の育成がうたわれていて、子どもを社会や国家に役立つ人間にしようとしていることがわかります。
「平和」や「民主」という言葉で飾られていますが、その実態は国家主義のままなのです。
左翼やリベラルがここを批判しないのは不思議です。

教育基本法を制定するとき、寺子屋や福沢諭吉の時代にまで戻らなければなりませんでした。
たとえば、次のようにあるべきです。

(教育の目的)
第一条 教育は、子どもの現在と将来の幸せを期して行われなければならない。

子どもは一人一人能力も性格も違いますから、必然的に個別指導にならざるをえません(一斉授業というのは教える側の都合だけで行われています)。
そういう学校なら、ゆたぼんさんも登校拒否をしなくてもすんだかもしれません。

現在の教育を巡る混乱は、「国家社会のための教育」か「子どものための教育」かという視点で見ると明快になります。
理不尽な校則による人権侵害が平気で行われているのも、子どものための教育ではないからです。
教師は、自分は子どものために働いているのか、国家の手先になって子どもを隷属化させるために働いているのか、考え直さなければなりません。


子どもが不登校になると、親や世の中はなんとかして子どもを学校に行かせようとします。
しかし、これは服が体に合わないとき、体を服に合わせようとするのと同じです。
子どもの人間性や能力や性格は生まれ持ったものなので、変えることはできません。
学校を変えて子どもに合わせるのが正しいやり方です。

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