村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:格差社会

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「財務省解体デモ」というのが一時話題になりました。
昨年末から始まり、2月か3月ごろにピークとなり、財務省前に千人とか二千人とかが集まりました。とくに司令塔もないようですが、全国12か所ぐらいで同時に行われたこともあり、そのエネルギーはかなりのものでした。
中には陰謀論めいた主張もありましたが、「増税反対」「社会保険料を下げろ」「消費税廃止」といった主張が主で、生活苦を訴えるデモといえます。
主にYouTubeなどのネットで主張が拡散されましたが、ネット民はデモなどの行動を冷笑する傾向があるので、異例のことでした。

しかし、マスコミは財務省解体デモのことをほとんど報じませんでした。そのため、デモ参加者やデモ支持者はオールドメディアはけしからんと憤慨していました。
もっとも、マスコミが報じないのもわかります。「財務省解体」という主張がバカバカしいからです。

財務省は必要な仕事をしているのですから、解体するわけにいきません。
財務省が間違っているにしても、財務省を動かしているのは最終的に政治家である財務大臣ですから、政府や与党に対して主張するべきです。
財務省の賢いエリートが愚かな政治家をあやつっていると考えているのかもしれませんが、そうだとしても、あやつられる政治家をなんとかするしかありません。
財務省解体デモは、マスコミに無視されているうちに消滅してしまいました。


生活苦の原因は財務省ではありません。富裕層にマネーが偏在する格差社会が原因です。
ですから、「富裕層解体」をスローガンに、富裕層から低所得層に富を再配分する政策を要求するデモをすれば、もっと広く社会に訴えられたでしょう。
しかし、富裕層を敵視すれば、自民党、財界、官界、エリート層など体制全体と戦うことになります。
ネットでデモを冷笑していたような人にとっては、戦う相手が強すぎます。
そこで、もっとも弱そうな財務省を相手にすることにしたのでしょう。財務省なら表立って反論してくることもありません。
こういう闘争心の欠けたことでは世の中から無視されて当然です。


「富裕層解体」という言葉こそ使われませんでしたが、そのような主張のデモが行われたことがありました。
リーマン・ショック後の不況の中、2011年9月から「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に行われたデモと座り込みです。数千人の規模に拡大し、アメリカの各都市にも広がりました。
「私たちは99%だ」というスローガンも叫ばれました。アメリカでは1%の富裕層が所有する資産が増え続けていることに対する抗議の意味で、明確に格差社会反対を掲げる運動でした。
特定のリーダーがいなくて、インターネットの呼びかけで運動が拡大したのは財務省解体デモに似ています。
ただ、「財務省解体」のスローガンはまったく共感されませんでしたが、「ウォール街を占拠せよ」や「私たちは99%だ」というスローガンによる格差社会反対のメッセージはある程度世界に広がったと思われます。

2013年に出版されたトマ・ピケティ著『21世紀の資本』によって、大規模な戦争か革命がない限り経済格差は拡大し続けるということが明らかになり、格差社会反対の声はさらに強まるかと思われました。
しかし、実際にはアメリカでも欧州でも格差社会のことは問題にならず、移民の問題に焦点が当たりました。
しかも、移民の問題というのはほとんど捏造されたものです。
アメリカでは移民や不法移民の犯罪が多いという統計はないにも関わらず移民が治安を悪くしているという認識が広がりました。欧州にしても、もともと移民の問題はあったのに、急に政治の争点になりました。
社会を支配する富裕層が格差社会への不満をそらすために“移民問題”をつくりだしたのではないかと疑われます。


日本では、数年前から外国人犯罪が増えているというデマが主にSNSで流されました。
私の印象ではXでとくに目立ったと思います。「外国人による犯罪」とする写真や動画が多数投稿されましたが、中にはそれが犯罪であるかどうか、あるいは外国人であるかどうか疑われるものもありました。
しかも、外国人犯罪の総数と日本全体の犯罪総数との比較という肝心の情報がありません。
実際のところは、日本では外国人犯罪はへり続けていました。
それなのに「外国人犯罪が増えている」「外国人のせいで治安が悪化している」というイメージがつくられました。
Xはもともとヘイトスピーチが多いところでしたが、イーロン・マスク氏に買収されてからとくにひどくなった感じがします。
「外国人と共生するべきだ」というよりも「不法外国人は出ていけ」といったほうがインプレッションが稼げるので、どうしてもヘイトビジネスが蔓延することになります。

産経新聞は川口市にクルド人が多いことに目をつけて、クルド人の犯罪が多発しているという「川口市クルド人問題」をつくりだしましたが、特定の民族や人種に犯罪が多いということはあるわけがないので、最初からデマであることが明らかでした。

“外国人犯罪”に加えて“外国人優遇”というデマがSNS上に蔓延したところに、参政党の「日本人ファースト」という主張がぴたりとはまって、参院選で参政党が躍進しました。


ともかく、欧米と日本では「格差問題から移民問題へ」という政治の争点のシフトが起きました。
なにかの大きな力が働いているのではないかという陰謀論にくみしたいところですが、もちろん証拠はありません。
ひとつ確実にいえるのは、強力な富裕層と戦うよりも弱い移民をいじめるという安易な道を選ぶ人が多いということです。

そうした中で起きた財務省解体デモは格差問題に焦点を当てました。
しかし、やはり富裕層と戦う気概はなくて、弱い財務省を標的にしたので、共感は広がりませんでした。

なお、参院選においてれいわ新選組は、消費税廃止を掲げる一方で、累進課税の強化も主張しましたから、富裕層と戦う姿勢を示したといえます(共産党も累進課税の強化を主張しています)。
しかし、れいわ新選組はあまり伸びませんでした。


格差問題を解決しない限り一般国民は幸せになりません。
アメリカでは1979年から2007年の間に、収入上位1%の人の収入は275%増加したのに対し、60%を占める中間所得層の収入は40%の増加、下位20%の最低所得層では18%の増加にとどまっています。ということは格差はどんどん広がっているということです。
ラストベルトの貧しい白人労働者はトランプ氏に望みを託しましたが、トランプ氏は「大きな美しい法案」を成立させて、福祉を削減し、富裕層のための減税をしました。労働者のための製造業復活はいつ実現するのかわかりません。

日本でも、野村総合研究所の調査によると富裕層と超富裕層の総資産額は、2005年の213兆円から2023年の469兆円へと増加しています。
かりに日本で“外国人優遇”が行われているとしても、それをやめたところで日本人が潤うのは微々たるものです。
富裕層の所有する富を分配すれば一般国民は大いに潤います。
これまで富裕層に食い物にされてきた一般国民は、所得税の累進課税強化、金融所得課税強化、相続税増税などを訴えて「富裕層解体デモ」をするべきでしょう。

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世界的に貧富の差が拡大しています。
これはトマ・ピケティが著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では「資本収益率>経済成長率」という法則が成立する、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを明らかにした通りです。
共産圏が存在していたときは、資本主義国でも労働者に配慮していましたが、冷戦崩壊後は資本主義が強欲な正体を現し、日本では非正規労働者が増えて労働者の低賃金化が進みました。
アメリカでも富裕層に富が集中し、製造業の労働者には「見捨てられた」という不満が強まり、それがトランプ氏を大統領に押し上げたといわれます。しかし、トランプ政権の閣僚の多くは大富豪で、低所得層のための福祉を削減しようとしています。

トマ・ピケティは、「金持ちはますます金持ちになる」という事実を指摘しただけで、なぜそうなるのかは指摘していません。そのこともあって、格差を巡る議論はつねに迷走します。
たとえば堀江貴文氏はYouTubeチャンネルで、財務省解体デモは無意味であると主張して、「努力しようぜみんな。お前が貧乏なのは財務省のせいじゃねえよ。お前のやる気とか能力が足りねえからだよ」と言いました。
「貧乏なのは努力しないからだ」「能力のある者が高収入なのは当然だ」というのは格差を肯定するお決まりの理屈ですが、「貧乏な家に生まれると高収入になるのはむずかしい」とか「誰でも努力できるわけではない」という反論もあり、議論は堂々巡りになります。


ここは原点にまでさかのぼって考えないといけません。
格差社会を思想の課題として初めて取り上げたのはジャン=ジャック・ルソーです。
ルソーは、人間は自然状態では平等で平和に暮らしていたが、文明とともに不平等が生じたと考えました。
マルクス主義もこれを受け継いでいます。原始共産制では人々は平等に暮らしていたが、豊かになるとともに貧富の差が生じたとしました。
しかし、なぜ文明化したり豊かになったりすると貧富の差が生じるのかは説明されません。

ルソーの『人間不平等起源論』から有名なくだりを引用します。

ある土地に囲いをして「これは俺のものだ」ということを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見出した最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。

持てる者と持たざる者が生じた瞬間を描いています。
もちろんこれは寓話で、実際にそういうことがあったということではありませんが、ここには納得いかないものがあります。
ある土地を「これは俺のものだ」と言うことを初めて思いついた人間はいたかもしれません。しかし、周りの人間がその言葉を受け入れたとは思えません。「それはお前のものじゃない。みんなのものだ」と反論したはずです。そうしないと自分が損をするからです。
では、初めて土地所有を実現した人間はどんな人間だったのでしょう。
ある土地を「これは俺のものだ」ということを思いついた人間は、それを思いつくだけに知的能力の優れた人間だったでしょう。当然弁も立つでしょう。しかし、そんな言葉だけで説得はできません。
ではどうしたかというと、その人間は身体能力にも優れていて、反対する人間を殴りつけて従わせたのです。つまり知的能力と身体的能力ともに優れた人間が初めての土地所有者となったのです。

原始時代と変わらない生活をしている未開社会を調査すると、みんな仲良く暮らしています。狩猟も採集も共同作業です。病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも、狩猟の成果は分配されます。食べ物がないと生きていけないので、これは最低限の福祉、つまり生活保護みたいなものです。
また、子どもの数が多い者にはそれに応じて分配の量も増えます。つまり未開社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産制です。

人間の能力は一人一人違うので、狩猟で多くの獲物を捕る人間とあまり捕らない人間がいたはずですが、狩猟採集社会ではお互い利他心で結びついていたので、その違いは問題になりませんでした。
しかし、農耕が始まり、社会に富が蓄積され、集団が大きくなり、また集団の外の人間との交流が広がると、利己心と利己心がぶつかり合い、争いが起こります。そうすると能力の優れた人間が争いに勝ち、富を獲得し、より高い社会的地位につきます。
そして、富は相続され、社会的地位は世襲されるので、強者はますます強くなります。つまり「生物学的強者」が「社会的強者」になるのです。
そしてあるとき、強者の一人が「この土地は俺のものだ」と言うことを思いついたのです。そうすると、弱者は従わざるをえません。そうして土地所有制度が始まったというわけです。

いずれにしても、人間には生まれつき能力差があり、能力差から貧富の差が生まれ、貧富の差は文化の中で蓄積されてどんどん拡大してきて、現代の極端な格差社会が生まれたと考えられます。
こう考えると、自然状態と文明が連続的にとらえられます。


「人間の生まれつきの能力差から社会格差が生まれた」というのはきわめて単純なことですが、これまでほとんどいわれてきませんでした。

たいして勉強しなくても東大に入れる人がいる一方、必死に勉強しても東大に入れない人がいます。その違いは生まれつきの頭のよし悪しによるのだということは誰もが認識しています。
しかし、「あの人は頭がよい」とは言っても、「あの人は生まれつき頭がよい」と言うことはめったにありません。
というのは「人間には生まれつき能力差がある」とか「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーだからです。

人間の能力は、遺伝によって決まっている部分と、環境の影響によって決まる部分があります。
両者の割合がどんなものであるかは、昔から「氏か育ちか」といわれ、議論されてきました。
昔は育ち、とりわけ教育で決まる部分が大きいと考えられていました。
しかし、科学的研究が進むと、遺伝によって決まる要素の大きいことがわかってきました。
科学的研究というのはたとえば、生まれてすぐに引き離されて別の環境で育った一卵性双生児を研究するといったやり方です。

遺伝の要素が大きいといっても、環境の要素も重要です。優れた運動能力を持って生まれてきた人でも、なにも鍛えなければ宝の持ち腐れです。あまり生まれつき運動能力のない人は、一生懸命練習すればある程度のところまでは行けますが、一流になるのはむりでしょう。
ここには「運」の要素もあります。優れたピアノの才能のある子どもでも、最初のピアノの先生との相性が悪くて、ピアノ嫌いになってしまうということもあります(これも環境要素のうちです)。

ところが、先にいったように「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーです。
というのは、人間の遺伝について語ると、差別や優生思想と結びついてしまうからです。
たとえば「知能はある程度遺伝で決まる」と言うと、「知能の低い子どもは大学に行ってもむだだ。早いうちから職業教育をするべきだ」という意見が出てくる可能性があります。
そのため「君子危うきに近寄らず」で、誰も人間の遺伝について語らなくなっているのです。

『遺伝子の不都合な真実』という本を書いた行動遺伝学者の安藤寿康氏は、長年にわたり双生児研究をしてきましたが、教育心理学会で研究発表をするといつも会場には閑古鳥が鳴き、論争すら起こらなかったそうです。「おそらく、文系の世界では『遺伝子』に触れてはならなかったのでしょう」と書いています。
学界でもこのありさまですから、一般社会ではなおさらです。
いや、一般社会で人間の遺伝について語られることはけっこうありますが、それは決まって差別や優生思想がらみです。
ですから、タブーはますます強化されます。


格差社会が発生した根本原因は人間の生まれつきの能力差にあるので、格差社会について語るなら人間の生まれつきの能力差から語り始めなければなりません。
ところが、誰もが生まれつきの能力差を避けて語るので、議論はすべてピンボケになります。

たとえば「親ガチャ」という言葉があります。
親が貧乏だと子どもは十分な教育が受けられません。DVをする親もいます。これらは親ガチャの外れです。
逆に両親がいつも知的な会話をしていて、家には本がいっぱいあり、子どもは大学にも行かせてもらえるというのは、親ガチャの当たりです。
子どもの能力はたぶんに親によって左右されるということを「親ガチャ」という言葉は表現していて、これは自己責任論を否定する意味があります。
しかし、子どもの能力と親の関係をいうなら、親の能力が子どもに遺伝するということもいわねばなりません。
しかし、それはタブーなので誰もいいません。


人間の遺伝について語ることがタブーになったのは、「遺伝」という言葉にも原因があると思われます。
一般の人は「遺伝」という言葉から、親の能力や性格がそのまま子どもに伝わることを想像してしまいます。しかし、実際にはそのまま伝わるということはありません。それは同じ両親から生まれた兄弟が、見た目も性格も能力もかなり違うことを見てもわかるでしょう。親と子を比べてもかなり違います。トンビがタカを生むこともあるし、タカがトンビを生むこともあります。
したがって、私は「遺伝」ではなく「生得」つまり「生まれつき」という言葉を使ったほうがいいと思います。
生まれつきということも、広くとらえれば遺伝になるので、学者はもっぱら遺伝という言葉を使いますが、各個人にとっては、その性質が親から伝わったということより、その性質が変えられるかどうかのほうが重要なので、生まれつきという言葉を使ったほうがいいはずです。
その能力や性格が生まれつきであると思えば、それを変えようというむだな努力をしなくてすみます。
このことは親にとっても重要です。親の役割は子どもをとりあえず全面的に受け入れることです。子どもがうるさいので、おとなしい子どもにしようというのは間違った考えです。子どもがうるさいのは生まれつきの性質だと思えば、受け入れられるはずです。また、あまり成績のよくない子どもをよい学校に入れようとむりに勉強させることもなくなるのではないでしょうか。

また、能力がある程度生まれつきで決まるといっても、鍛えれば伸びることも事実です。能力といっても多様ですから、自分の能力で優れたものはなにかを見つけ(たいていそれは好きなものであることが多いはずです)、早いうちからそれを鍛え、長く続けていれば一流の域に達し、高収入につながることもあるでしょう。


「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーなために、社会にさまざまな混乱が生じています。
学校では、知的障害の子ども以外はみな同じ能力であるという前提で授業をしているので、能力がやや劣った子ども、「境界知能」といわれる子どもは授業から置き去りにされ、社会に不適応になり、犯罪者になったりします。このことは『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口 幸治著)という本によって注目されました。
一方では、頭がよくて授業が退屈だという子どももいるわけで、両方で社会の損失を招いています。

格差社会についての議論が迷走するのも、「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーになっているからです。
そのため「貧乏なのは努力しないからだ」という主張が横行し、生まれつき能力の足りない人が自己責任論で追い詰められています。

人間の生物学的能力差はわずかなのに、社会における収入格差は膨大です。
文明の初めに格差が生じて、拡大してきた軌跡を振り返れば、適正な格差がどんなものであるかについて議論ができます。



なお、「人間の能力は遺伝である程度決まっている」というのは科学的な事実です。科学的事実を言うことがなぜタブーになるのでしょうか。
その原因は、ダーウィンが『種の起源』の12年後に出版した『人間の由来』の間違いにあります。
これについては「道徳観のコペルニクス的転回」で書いています。

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アメリカ大統領選挙であらわになったのは、保守対リベラルの対立の深刻さです。
この対立は欧州でも日本でも深刻化しつつあります。
今はインターネット上で両者が議論する機会がいくらでもありますが、議論すればするほど感情的な対立が深まります。
世の中はどんどん進歩しているのに、政治の世界はなぜ進歩しないのでしょうか。

フランス革命当時の議会で、議長席から見て右側に王党派や保守派が、左側に共和派や改革派が位置したことから、右翼と左翼という言葉ができました。
つまり保守派が右翼で、改革派が左翼です。これは時代が変わっても一貫しています。
社会主義運動が盛んになったときは、左翼といえば社会主義勢力でした。
最近は社会主義運動が退潮したので、社会改革の方向性は格差解消と差別解消になりました。ですから、左翼といえば人権派と福祉派です。
ただ、左翼という言葉には社会主義のイメージが結びついているので、最近はリベラルということが多くなっています。

保守派と改革派の思想はフランス革命以前からあり、代表的なものがトマス・ホッブスとジャン=ジャック・ルソーの思想です。
ホッブスは『リヴァイアサン』において、自然状態の人間は「万人の万人に対する闘争」をするので、国家権力が人間を支配しなければならないと主張しました。つまり人間性は悪なので、国家権力によって悪を抑制しなければならないという説です。
ルソーは『人間不平等起源論』において、自然状態の人間は平等で平和に暮らしていたが、文明化するとともに不平等や支配が生じたと主張しました。つまり人間性は善で、文明が悪だという説です。
ただ、文明すべてが悪なのではなく、人が人を支配するやり方が悪、つまり権力が悪だということです。

社会改革思想は基本的にルソーの思想と同じ構造になっています。
マルクス主義では、自然状態は原始共産制で人々は平等に暮らしていたが、歴史が“進化”すると奴隷制や封建制という悪が生じたとされます。
フェミニズムでは、自然状態の生物学的性差であるセックスは差別的ではないが、社会的性差であるジェンダーは差別的であるとされます。

単純化していうと、ルソーの思想、マルクス主義、フェミニズムは「人間性は善、権力は悪」というもので、ホッブスの思想は「人間性は悪、権力は善」というものです。
これを政治的な文脈でいうと、リベラルは「統治する側が悪いから世の中が悪くなる」と考え、保守は「統治される側が悪いから世の中が悪くなる」と考えます。
ですから、リベラルは国家権力や大企業や富裕層を攻撃し、保守はマイノリティや貧困層を攻撃します。

リベラルは、貧しい人がいるのは社会制度が悪いからだと考え、保守は、貧しい人がいるのはその人間が怠けているからだと考えます。
リベラルは、子どもが勉強しないのは学校や教師に問題があるからだと考え、保守は、子どもが勉強しないのは子どもが怠けているからだと考えます。
保守の犯罪対策はひたすら警察力を強化して取り締まることですが、リベラルは犯罪者の更生を考えます。


アメリカの独立宣言では「普遍的人権」がうたわれましたが、実際は人権があるのは白人成年男性だけで、先住民、黒人、女子どもに人権はありませんでした。
そのためアメリカの白人成年男性の多くは今も統治者意識を持っていて、この人たちがアメリカの保守の中心になります。
しかし、格差が拡大する中で貧しい者たちは不満を募らせました。いわゆるラストベルトの白人などです。
彼らは富裕層に怒りを向けてもよさそうなものですが、統治者意識からそれができず、統治される側に怒りを向けました。その代表的な対象が不法移民です。
移民は一般的に弱者ですから、移民を攻撃すると弱い者いじめになりますが、「不法」がついていると遠慮なく攻撃できます。
トランプ氏がいちばん力を入れて訴えているのも不法移民問題です。

ヨーロッパで台頭する右翼政党も移民問題をもっとも強く訴えています。
移民は前からいたのに、なぜ今これほど問題になるのか不思議です。
私が想像するに、最近グローバルサウスが力をつけてきて、ヨーロッパの白人の優越感が揺らぎ、その危機意識が移民への怒りとなっているのではないでしょうか。
アメリカの白人の怒りも、白人が少数派になりそうだという危機感と関係しています。

日本の保守も欧米の真似をして、最近はもっぱら不法滞在外国人と生活保護不正受給者を攻撃しています。


保守思想の源流となったホッブスの思想ですが、今では間違いであることがはっきりしています。
人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」ではないからです。
原始時代と変わらない生活をしている未開社会を調査すると、みんな仲良く暮らしています。狩猟も採集も共同作業です。病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも、狩猟の成果は分配されます。食べ物がないと生きていけないので、これは最低限の福祉、つまり生活保護みたいなものです。
また、子どもの数が多い者にはそれに応じて分配の量も増えます。つまり未開社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産制です。

病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも狩猟の成果を分配するのは、いずれ自分が病気やケガをしたときにも分配してもらえるからですし、子どもの数の多い者に多く分配するのも、いずれ自分がたくさんの子持ちになったときに分配してもらえるからです。これは互恵的利他行動といい、人間に限らず社会性動物にはよく見られるものです。

ただし、こうした助け合いがあるのは、多くて150人程度の共同体で暮らしていたからです。親しい人間の間では互恵的利他行動が有効です。
農耕が始まり、集団が大きくなり、交易の範囲が広がると、親しくない人間とつき合うようになります。親しくない人間とつき合うのは経済的動機によるものなので、利己心がぶつかり合い、争うことが増えます。
争うと勝者と敗者が生まれ、強者が弱者を支配するようになり、階級社会や格差社会が生まれたのです。


ホッブスの思想は明らかに誤りです。
進化論からしても「万人の万人に対する闘争」をするような動物は絶滅するはずです。
文明が発達するとともに格差や支配が生じたというルソーの思想、マルクス主義、フェミニズムのほうに分があります。

強者が弱者を支配するのも自然なことではないかという意見があるかもしれませんが、今の格差は自然とかけ離れています。ほんの少し頭がいいだけで人の何倍もの収入を得ることができますし、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で示したように、資産家は労働者以上に金持ちになっていくので、格差は限りなく拡大していきます。

今後の社会は、格差を解消する方向に進むべきですし、それと同時に、利己心で競争する社会から、互いに利他心でつきあえる、共同体に近い社会へと舵を切ることも重要です。


【追記】
ここに書いたことは私の思想の一部分です。詳しくは次のブログで。
「道徳観のコペルニクス的転回」

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「小人閑居して不善をなす」という諺がありますが、現代では「金持ち閑居して宇宙へ行く」という諺も必要です。

ZOZOTOWN創業者の前澤友作氏は12月8日、日本の民間人として初めて宇宙に行き、国際宇宙ステーションに12日間滞在しました。
費用は約100億円だったそうですが、個人資産2000億円以上とされる前澤氏にとってはなんでもないのでしょう。

金持ちが宇宙を目指すのは世界的なブームのようです。
世界一の富豪とされるイーロン・マスク氏は、電気自動車大手テスラのCEOであるだけでなく、宇宙開発企業スペースXも創業し、民間企業による有人宇宙飛行を成功させました。
世界で二番目の富豪とされるジェフ・ベゾス氏は(このへんの富豪の順位は一年ごとに変わりそうです)、アマゾン創業者で会長であるだけでなく、宇宙開発企業ブルー・オリジンを所有し、民間人による宇宙旅行の実現を目指しています。
わが国では堀江貴文氏も、宇宙旅行ビジネスを目指して何度もロケット打ち上げをしています。

こういう人たちを見て、「夢があっていい」という人もいますが、私は「宇宙しか夢がないのか」と思います。
本業で功成り名遂げて、バカみたいに資産ができて、ほかになにかすることがないかと考えたとき、宇宙ビジネスしか思いつかないのでしょう。
小さいころから宇宙へ行くのが夢だったという人ならいいですが、「夢といえば宇宙」というステレオタイプな発想なら、心が貧しいといえます。
それに、宇宙旅行といっても地球の周りをぐるぐる回っているだけで、未知の世界に挑戦するというロマンはありません。


昔の実業家は、松下幸之助にしても本田宗一郎にしても中内功にしても、本業一筋が当たり前で、ほかのビジネスに手を出すことはまずありませんでした。
今は価値観が変わったということもありますが、若くして巨額の資産を手にするようになったことが大きいと思います。
昔の日本は累進課税の税率がすごくて、松下幸之助などは収入の9割以上を税金に取られて、「私は国に税金を納めた手数料をいただいている」と言っていました。
松下幸之助は晩年に松下政経塾をつくりましたが、その程度のことしかできなかったわけです。

今の実業家は若くして巨額の資産を手にし、使いみちがないので、宇宙ビジネスに金をつぎ込みます。
前澤氏などは2019年には100人に100万円ずつのお年玉プレゼント、2020年には1000人に100万円ずつのお年玉プレゼントをしました。

こうしたバラマキや宇宙旅行に対して、「金持ちの道楽」という批判がありますが、それに対して「自分の能力で稼いだ金を好きに使ってなにが悪い」という反論もあります。

ここで問題になるのは、果たして前澤氏は自分の「能力」で稼いだのかということです。
前澤氏は確かに人より能力は高いでしょうが、いくら高いといっても、人の2倍も3倍もないでしょう。
ところが、すでに前澤氏は平均的な人の1000倍ぐらい稼いでいるのです。
前澤氏が能力によって稼いだ部分はほんの少しです。あとは資本主義のからくりによって稼いだのです。


農耕社会では、体力のある人間がいくらがんばって畑を耕しても、人の2倍か3倍が限度でした。
しかし、土地所有制が始まると、広い土地を持つ地主は働かずとも小作料によって人の何倍もの収入を得ることができます。
貧しい小作人は不作のときなどすぐ金がなくなるので、地主は小作人に金を貸し付けて、さらにその金利を得ることもできました。
もちろんこの収入の差は能力とはほとんど関係ありません。

働かずに豊かな生活をする地主と、いくら働いても貧しい生活をする小作人や農奴の関係は見えやすく、不当であることがよくわかるので、今では多くの国で地主と小作人の関係は規制されています。

ところが、農業以外の産業での資本家と労働者、雇う側と雇われる側の関係はあまり規制されず、冷戦後は資本家や雇う側がさらに有利になって、日本では契約社員や派遣社員の形で安く人を雇うことができます。
さらに所得税がどんどん減税されて、今では累進課税は最高45%ですし、株式譲渡所得については税率20%です。
前澤氏は2019年にZOZOTOWNをヤフーに譲渡し、報道によるとそのときに約2400億円を手にしたそうですが、その税率も20%です。
松下幸之助の時代と違って、金持ちは税制面で大幅に優遇されているのです(自民党は財政赤字がふくらむ中でも金持ち減税を進めてきました)。

つまり人間の能力は、知能にせよ体力にせよ、いくら高くても平均より30%とか40%程度なのに、資本主義下では収入は平均の千倍、一万倍ということが可能で、しかも税制で優遇されています。
現代の金持ちを見て、彼は自分の能力によって金持ちになったなどと考えるのは愚かなことです。


前澤氏は本人も戸惑うような巨額のお金を手にしたために、おかしなバラマキをしたり、宇宙に行ったりしているというわけです。
普通金持ちは貧しい人や恵まれない人のために慈善事業をするものですが、前澤氏のお金配りはそういうものではなく、前澤氏が恣意的に選んだり、抽選方式だったりします。
「貧しい人に配れ」という声に対しては、前澤氏本人がツイッターで「誰に配ろうが俺の好き。国の社会保障と一緒にしないでもらいたい」と言っています。
昔の成功した実業家なら、半ば建て前であるとしても、「自分が成功できたのは従業員や周りの人のおかげ」と言ったものですが、前澤氏にはそういう言葉もありません。

ZOZOTOWNを運営する(株)ZOZOのホームページを見ると、従業員数は「1359名/グループ全体」となっています。おそらく正社員はもっと少ないはずですが、単純化して1000人ということにしてみます。前澤氏が手にした2000億円をみんなで分配すると、1人2億円ということになります。前澤氏が200億円取っても、それほど変わりません。
将来の成長を見越して実態以上に株価が高くなっている面はありますが、資本主義社会がいかにいびつかがよくわかります。

前澤氏は、格差が拡大した今の日本を象徴するような存在です。



ところで、前澤氏のような金持ちの存在を能力によって説明するのは、誰が見てもむりがあります。
そこで、最近は格差の理由を「能力」ではなく「努力」で説明することがよく行われています。
「彼が成功したのは努力したからだ。努力しない人間がねたむのはよくない」といった具合です。

「努力」というのはやっかいな問題ですが、これについては、新しく始めた別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」の「第1章の1」で説明しているので、参考にしてください。



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「親ガチャ」という言葉がはやっています。

「親ガチャ」とは、どういう親のもとに生まれてくるかで子どもの人生が決まってしまうという意味の言葉です。
「ガチャ」は課金ゲームの用語からきていますが、商店の店頭などによくあるガチャガチャと同じことです。どんなカプセルが出てくるかは運次第です。

金持ちの親のもとに生まれるか、貧乏な親のもとに生まれるかで、人生は大違いです。
愛情ある親のもとに生まれるか、子どもを虐待する親のもとに生まれるかでも同様です。
これらを一言でいえば「環境」要因となります。

そしてもうひとつ、「遺伝」要因もあります。親の知能が高ければ、子どもの知能も高いだろうということがある程度言えます。運動能力、性格、健康などもある程度遺伝で決まります。

つまり「人生は環境と遺伝で決まる」ということがいえます。
「親ガチャ」はこのことをわかりやすく表現した言葉で、当たり前の内容ですが、今、流行語になっているのにはいくつかの理由があります。


「人生は環境と遺伝で決まる」といっても、実際は環境重視派と遺伝重視派がいます。
環境重視派は、人間は生まれたときはみな同じようなもので、環境によって変わってくると考えます。ですから、貧乏な子には奨学金などを出し、虐待されている子には福祉を手厚くし、学校から落ちこぼれをなくせば、みんなが同じ人生のスタートラインに立てて、平等な社会になるだろうと考えます。
環境重視派は教育界の主流であり、左翼、リベラルに多くいます。

一方、遺伝重視派は、人間は生まれつき能力が違うので、学校は能力別クラス編成や飛び級によって子どもの能力を引き出すものにし、能力のない子どもを引き上げる努力をするのはむだだと考えます。
遺伝重視派は新自由主義とだいたい一致します。

以前は環境重視派と遺伝重視派がそれなりに拮抗していましたが、脳科学や認知科学や進化生物学が人間には遺伝的要素が大きいということを次々と明らかにして、最近は遺伝重視派が優勢になっています。
「人間の能力は遺伝でだいたい決まる」という認識が「親ガチャ」流行の背景にあると思われます。


それから、「環境」要因が変化しました。
トマ・ピケティは著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。資産は子どもに相続されるので、大規模な戦争や革命がない限り、資産家階級と労働者階級の貧富の差は限りなく拡大していくことになります。この理論によって世界的に貧富の差が拡大している現実が可視化されました。
戦後間もないころの日本は、貧しい家に生まれても、成功して金持ちになる可能性がいくらかありましたが、今は社会階層が固定化して、労働者の親のもとに生まれるとたいていずっと労働者で、へたをすると親よりも賃金が下がります。

このことも「親ガチャ」という言葉が流行する背景です。


世の中には「親ガチャ」という言葉を嫌う人もいます。
ちょっとふざけた感じのする言葉だということだけでなく、自分の不幸を親のせいにしているということからです。

確かに「自分になんの才能もないのは親の遺伝のせいだ」と言う人は(それが事実だとしても)、「親ガチャ」という言葉を使って後ろ向きになっているだけです。
しかし、親に虐待されたような人は、それを正しく認識することが前を向いて歩きだすために必要ですから、「親ガチャ」という言葉が助けになるでしょう。

また、「親ガチャ」という言葉を嫌う人には、「人生は環境と遺伝だけで決まるわけではない。努力次第だ」という考えの人もいます。
これは、人間には環境や遺伝に左右されない「自由意志」があるという考え方です。

マルクス主義は唯物論ですから、人間も自然法則に従う存在と見なして、自由意志は否定します。
貧困は社会体制や福祉制度の問題ととらえます。

しかし、普通の人は、自分は自然法則に支配されているのではなく、素朴な実感として自分は自分の意志で行動していると思っています。つまり自由意志を肯定しています。
こういう人は当然、貧乏な人には努力しない人や怠け者が含まれているだろうと思います。
新自由主義もこうした考えを後押しします。
そのため生活保護の窓口などで、努力する人か努力しない人か、働き者か怠け者かを識別しようということが行われたりします。しかし、これには客観的な基準がないので、福祉の現場が混乱するだけです。

しかし、今では学問の世界では自由意志は非科学的だとして否定されています。文系の学者でも自由意志を肯定する人はいないはずです(竹中平蔵氏は「若者には貧しくなる自由がある」と発言したことがありますが)。
「親ガチャ」という言葉には、「人生は努力次第だ」というような非科学的な考え方への反発も込められていそうです。


ところで、「親ガチャ」という言葉がどこから出てきたのかよくわかりませんが、流行のきっかけはマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』と橘玲著『無理ゲー社会』の出版ではないかと思います。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は、格差社会の原因を能力主義やリベラル、果てはオバマ元大統領にまで求めています。白人であるサンデル氏のオバマ氏への敵意でしょう。そもそもリベラルに格差社会をつくれるわけがありません。

『無理ゲー社会』は、おそらく『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の骨格をパクったもので、格差社会の原因をリベラルに求めるのは同じです。そこに著者得意の「遺伝」を組み合わせています。
今の社会を若者や下層階級にとって無理ゲー社会ととらえるのはいいのですが、そういう社会のルールをつくれるのはリベラルであるはずがなく、支配階級しかありません。

この二冊は格差社会問題を改めて考えさせましたが、かえって混乱を深めています。


「親ガチャ」によって子どもの幸福が決まってしまう世の中は好ましくありません。
これをなんとかするには、「遺伝」はどうしようもないので、格差社会を解消することです。


あと、「子ガチャ」という言葉をいう人もいます。つまり親は子を選べないという意味で、「親ガチャ」に対抗する言葉です。
しかし、「子ガチャ」はありえません。
というのは、配偶者を選んで子どもを生むと決めた時点で、どんな子どもが生まれてくるかはある程度想定できるからです(障害のある子が生まれてくる可能性も考慮したはずです)。
「子ガチャ」を言うのは、自分と配偶者に唾する行為です。

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安倍首相が8年間で成し遂げた最大の功績は、憲法九条改正を完全に不可能にしたことでしょう。
菅政権は安倍政治の継承をうたい、改憲についても言及していますが、安倍政権にできなかったことができるとは思えません。

9月19日、安倍前首相は靖国神社を参拝しました。
首相を辞めてから参拝したということは、首相在任中に参拝することはできなかったということです。それはこれらからも同じでしょう。

これから日本の政治は、改憲論議や靖国参拝問題などにむだな時間を費やさなくてよさそうです。
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げていましたが、別な形でそれが実現しました。


では、今後なにが政治の争点になっていくかというと、やはり格差問題でしょう。
格差問題は、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で指摘したように、世界的に拡大し続けていて、日本も例外ではありません。

自民党は金持ち優遇、格差容認の政党です。
自民党は2010年に新綱領を制定したときから、「格差や貧困は本人が努力しないせいである」という理屈を用意していました。

平成22年(2010年) 綱領

新綱領はそんな長い文章ではありませんが、その中に「努力」という言葉が6回も出てきます。
その部分を抜き出してみます。

我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。
   *
我が党は過去、現在、未来の真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち、「新しい日本」を目指して、新しい自民党として、国民とともに安心感のある政治を通じ、現在と未来を安心できるものとしたい。
   *
日本の主権は自らの努力により護る。
   *
努力するものが報われ、努力する機会と能力に恵まれぬものを皆で支える社会。その条件整備に力を注ぐ政府

「努力する者が報われる社会」を自民党は目指しています。
その社会は「努力しない者は報われない社会」でもあります。
そのような社会をつくるには、「努力する者」と「努力しない者」を識別しなければなりませんが、それは不可能です。
なぜなら、「努力」には客観的な基準がないからです。

福祉の窓口で「努力する者」と「努力しない者」、「働き者」と「怠け者」を識別しようとすると、担当者の恣意的な判断になり、現場が混乱するだけです。

「努力する者」と「努力しない者」、「働き者」と「怠け者」という考え方は一般社会には存在しますが、学問の世界や行政など公の世界ではありえません。

ちなみに経済学は「経済人」ないし「合理的経済人」という人間観をもとにしていて、「働き者」と「怠け者」がいるというような人間観は採用していません。

「よい人」と「悪い人」にも客観的な基準がないので、「悪い人」だからといって逮捕・投獄されるようになったらたいへんです。
そうならないように膨大な刑法の体系をつくって、それを客観的な基準にしています。
自民党も「努力」を重視したいなら、「努力」の客観的な基準をつくるべきです。


もちろん自民党にそういう考えはありません。
自民党は「努力」を経済学や法学の問題ではなく、道徳の問題としてとらえているのです。
自民党は昔から道徳教育を推進し、今では道徳の教科化に成功しました。
子どもだけでなくおとなに対しても「人間は努力するべきだ」という道徳を教えているつもりなのでしょう。

もっとも、全国民に対して教えようということではありません。
「真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち」とあるように、自民党は富裕層の側に立っているのです。

これは前回書いた「『共助の衰退』という現実を前にして」いう記事で引用した自民党ホームページにも同じ意味のことが書かれています。
自民党は、タックス・ペイヤー(納税者)重視の政党です。
わが党は、汗を流して懸命に働き納税義務を果たしている人々が納得できる政治を行います。『自助・共助・公助』の考えを基本に、“がんばる人が報われる政治”を実現します。
https://www.jimin.jp/news/policy/130412.html
高額納税者(富裕層)が納得できる政治をすると宣言しています。
自民党は国民政党ではなく階級政党になったのです。
富裕層が納得できるように、「努力しない者」への公助をできる限り削減するというわけです。


菅義偉首相は自分の政治理念として「自助・共助・公助、そして絆」を掲げていますが、これは、新綱領制定に寄せて書かれた谷垣貞一総裁(当時)の次の一文からパクったのかもしれません。
この綱領の精神は、時代の流れの中でも普遍的な価値を持つものであるとともに、自助・自立を基本としながら、困っている人がいればお互いに助け合う共助の精神を大切にし、さらには国が力強く支える公助があるという、私の考える「絆」の政治、「おおらかな保守主義」と通ずるものでもあります。
https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/aboutus/kouryou.pdf

抽象的な発想が苦手の菅首相は、自民党の綱領を読み込んで自分の政治理念としたのでしょう。


なお、先ほど経済学は「経済人」ないし「合理的経済人」という人間観をもとにしていると言いましたが、そうではない経済学者もいます。それは竹中平蔵氏です。
竹中氏はかつて若い人に対して、「みなさんには貧しくなる自由がある」「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と語ったことがあります。
竹中氏が富裕層の立場から貧困層を切り捨てていることがよくわかります(このことは「竹中平蔵教授のトンデモ発言」という記事に書きました)。

自民党の綱領に竹中氏の思想が反映されているということは十分に考えられます。


菅新政権が誕生し、野党が合同して新しい立憲民主党も生まれました。
自民党が富裕層を代表する政党なら、対立軸もおのずと見えてきます。

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アメリカの民主党の大統領予備選挙で、ウォール街への課税や公立大学の無償化などを掲げるバーニー・サンダース候補が善戦しています。
アメリカのアカデミー賞では、韓国の格差社会を描いた「パラサイト 半地下の家族」が作品賞を受賞し、ニューヨークを模したゴッサムシティの格差社会を描いた「ジョーカー」も過去最多の16部門でノミネートされ、主演男優賞などを受賞しました。
どうやらアメリカでは格差社会問題が大きなトレンドになっているようです。

格差社会問題とはなんでしょうか。


昔、社会主義思想にまだ力があったころは、よく「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」と言ったものです。
この言葉は、新約聖書のマタイによる福音書に「持っている者は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない者は、持っているものまで取り上げられるであろう」と書かれていることからきているので、「マタイの法則」とも呼ばれます。
しかし、この言葉は誇張だったようです。

トマ・ピケティは2013年に著した「21世紀の資本」において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。つまり、「富める者はますます富み、貧しき者は少ししか富まない」というのが正しいということです。
この法則が成立すると、大規模な戦争や革命がない限り、富める者と貧しき者との差はどこまでも拡大していくことになります(ですから、「貧しき者はますます貧しくなる」は実感としては正しいかもしれません)。

この法則のもとでは、親から多くの資産を受け継ぐ者は少なく受け継ぐ者よりも豊かになるので、生まれによって社会階層が決まる傾向が強まり、階級社会化が進むことになります。

「21世紀の資本」は世界的なベストセラーになり、とくに否定や反論はされていません。
「資本収益率>経済成長率」の法則は、格差社会の実態を可視化しました。
最近、格差社会問題が注目されるようになったひとつの原因です。


多くの人は、格差がどんどん拡大していくことは好ましくないと思うでしょう。
ピケティも富裕層への課税強化を国際的に連携して行うべきだと提言しています。

しかし、格差社会を肯定したい人もいます。
これまで格差社会を肯定したい人は、「貧富の差は能力の差である」という説に依拠してきました。「能力のある者が多くの収入を得るのは当然だ」という主張には、それなりの説得力があります。しかし、人間の能力というのは基本的に一定なので、貧富の差が年々拡大していくことは、能力の差によっては説明できません。

そこで最近は、「貧富の差は努力の差である」という説が採用されています。「努力した者が多くの収入を得るのは当然だ」ということです。裏を返せば、「貧困層は努力しない者だ」ということです。
努力やそれに類する概念は、誰もが日常会話の中で、「お前は努力が足りない」とか「もっとがんばれ」とか「やる気を出せ」というように使っているので、「貧富の差は努力の差である」という説は、賛成反対は別にして、誰でも理解できます。そのため、「貧富の差は努力の差である」という説は、世の中に一定の広がりを見せています。とりわけ福祉制度を攻撃する際に、「怠け者に税金を使うな」という形でこの説が利用されています。

この説によれば、世の中には努力する人間と努力しない人間がいることになります。
その違いはどこからくるのかというと、「自由意志」によるとされます。

自由意志とはなんでしょうか。
自由意志のひとつの意味は、「人為による強制・支配・拘束を受けない状況での意志決定のあり方」をいいますが、このことは問題ではありません。
もうひとつの意味は、「自然法則や自然界の因果律の影響を受けない状況での意志決定のあり方」をいい、このような意志決定が可能かどうかについては、昔から哲学上の問題として議論されてきました。

ですから、「お前が貧乏なのは努力しないせいだ」とか「怠け者に税金を使うな」と主張する人に反論しようとすると、哲学論議をしなければなりません。
しかし、哲学論議というのは、いくらやっても結論が出ないので、余裕のある人が暇つぶしでするものです。格差社会をどうするかという切実な問題に直面しているときにやっていられません。

そのため、「お前が貧乏なのは努力しないからだ」とか「怠け者に税金を使うな」という主張に対しては誰も正面から反論せず、その主張が通った格好になります。
その結果、自由意志を前提とした主張が世の中を支配しています。

たとえば、「アメリカンドリーム」というのは、恵まれない環境にいる人間でも努力すれば夢がかなえられるというものです。したがって、いつまでも貧しい人間は、努力しない者だということになります。

竹中平蔵教授は、貧乏になるのも自由意志だと主張しました。

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。
以前、BS朝日のテレビ番組に出演して、堺屋太一さんや鳥越俊太郎さんと一緒に、「もっと若い人たちにリスクを取ってほしい」という話をしたら、若者から文句が出てきたので、そのときにも「君たちには貧しくなる自由がある」という話をした。
https://toyokeizai.net/articles/-/11927?page=2

経済学は経済人や合理的経済人という人間観をもとにした学問なので、みずから貧しくなる人間というのは想定されません。経済学者とは思えない発言です。
しかし、こんな暴論でも、議論して言い負かすことはむずかしいので、なんとなく通ってしまいます。

ちなみに「自己責任」というのも、自由意志を前提としています。最善の判断をすることができたのに、悪い判断をして悪い結果を招いたのだから、その結果は全部自分で負えということです。

刑事司法の世界も自由意志を前提としています。
「犯意」は基本的に自由意志と見なされ、自由意志によらない部分については情状酌量が認められますが、その部分はわずかです。中世の人は、水たまりや汚物などからボウフラやウジ虫が文字通り“わく”と信じていたといいますが、犯意も外部と無関係にその人間の心の中から“わく”とされるので、それと同じです。刑事司法の世界はいまだに中世段階です。
脳科学の進歩により、凶悪犯の脳に異常があることが多いという事実がどんどん明らかになっていますが(たえばジョナサン・H. ピンカス著「脳が殺す―連続殺人犯:前頭葉の“秘密” 」など)、そうした科学の成果が裁判に取り入られることはありません。

ちなみに昔の社会主義者は、社会の矛盾が犯罪を生むので、貧困をなくし福祉を充実させれば犯罪をへらすことができると考えていました。

マルクス主義は唯物論ですから、人間の意志決定は脳という物質の働きによるとされ、社会も自然法則に従って変化するとされます。当然、自由意志などは認めません。「存在が意識を規定する」という言葉が端的にそれを表現しています。


仏教思想も、人間を自然法則に従う存在と見なします。
仏教思想の核心は次の三行で表現されます。

諸行無常
諸法無我
涅槃寂静

これを私なりに現代語にすると、次のようになります。

すべてのものは変化する。
変化の法則を人間が左右することはできない(人間もまた法則に従い変化する)。
そのことを理解すれば静かな安らぎの境地に至れる。

こんな理解で静かな安らぎの境地に至れるとは思えないので、この理解は浅すぎるのでしょう。あくまで自然法則と人間の関係について私なりに解釈したということです。


このような議論はすべて哲学上のものです。
すでに述べたように、これはいくら議論しても結論が出ません。
ですから、ここは“科学”の観点を導入する必要があります。

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人間を科学の視点で見ることは、ダーウィンが進化論を発表したときから始まりました。これは「ダーウィン革命」とか「第二の科学革命」と言われます。

ダーウィン革命がどのようなものであったかは、次の文章がわかりやすく示しています。


ダーウィニズムはたんに神を殺害しただけではなく、「神の死」以後の西欧の新しい価値観を再創造するうえでも、これまたけっして小さくない役割を果たすことになる。
すなわち十九世紀後半の西欧の歴史観、世界(自然)観、人間観、道徳観は、そのすべてがいったんキリスト教的基盤をうしなったのちに、進化論的基盤のうえにおきなおされるのである。終末論的歴史観から進化主義的歴史観へ、超自然的世界観から自然主義的世界観へ、アダムに由来する人間というキリスト教的人間観から類人猿に由来する人間という進化論的人間観へ、キリスト教道徳から進化論的道徳へ――ふつう「ダーウィン革命」と呼ばれる思想的革命は、そのような意味において十九世紀末にニーチェが告知した「あらゆる価値の価値転換」の重要な一部分と見なされなければならないであろう。(丹治愛著「神を殺した男」)

ダーウィン自身はまったく革命的な人間ではありませんでした。宗教に関しても、若いころは神学校に進んで将来は牧師になろうと思ったくらいで、普通程度の信仰心を持っていました。しかし、進化論を思いついたことで唯物論へと向かうことになります。

このような、彼が言うところの「心的暴動」は、自然界に霊的または神的な力は存在せず、ただ物質があるのみとする哲学的教養である物質主義の道へ、彼を導いていった。もしもすべてのものの創造を否定するならば、人間はどこに位置し、救済の望みはどこへ行くのだろう? われわれの思考は、単に脳の分泌物ではないか、と彼は断言した。「ああ、なんという物質主義者!」と彼は叫んだ、半ば自分自身の大胆さに感激しながら。(ジャネット・ブラウン著「ダーウィンの『種の起源』」)


ダーウィンが「種の起源」を発表すると、古い体制と古い価値観を打ち壊そうとしていた革命家はこぞって歓迎しました。

カール・マルクスはダーウィンとほぼ同時代人です(ダーウィンは1809年生まれ、マルクスは1818年生まれ)。マルクスは「種の起源」を読んで感銘を受け、「資本論」の第一巻をダーウィンに献本しています。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、共産制へと社会が進化していくという唯物史観は、明らかに進化論の影響でしょう。
無政府主義者のピョートル・クロポトキン(1842年生まれ)はダーウィンの進化論の強い影響を受けましたが、進化論が生存闘争の原理を強調することに疑問を抱き、相互扶助の原理の重要性を説いて、「相互扶助論」を著しました。
日本でも、無政府主義者の大杉栄は、「種の起源」の翻訳をしています。

社会主義者の幸徳秋水は、「生存競争と社会主義」という文章で、このように述べています。
ダーウィン氏の生物進化の学説が、ひとたび発表されて、旧来の科学とたたかい、哲学とたたかい、宗教とたたかいはじめると、向かうところをなぎたおし、すべての独断をうちこわし、もろもろの迷信をうちやぶるありさまは、くさった木をくだき、かれた木をひきさくようないきおいで、世界の思想・学術は、そのために面目を一新した。
 いまや、生命進化の法則は、人間の知能のおよぶかぎりにおいて、うたがうことのできない一大真理として、なにの学、なにの説、なにの研究、なにの弁証であることに関係なく、あらゆる学問の領域にわたって、すべてがこれを基礎・根底にしなくてはならないようになってきた。
 そして、われわれ社会主義者もまた、心からよろこんで、ダーウィンの一信者であることを明示せずにはおられないのである。(幸徳秋水「生存競争と社会主義」)
革命思想とダーウィンの進化論はほとんど一体のものとして理解されていました。少なくとも革命家の側はそう思っていました。

もっとも、それは体制側も同じでした。進化論の社会への影響力はきわめて大きかったので、体制側も進化論を利用しようとしました。いわば革命側と体制側が進化論を巡って綱引きをしたわけです。

そして、ダーウィンは体制側を選択しました。
それはダーウィンの出身階級からすれば当然のことではありました。

ダーウィンは裕福な医者の家系に生まれ、父方の祖父は詩人で、初期の進化論者でもあり、母方の祖父は大手陶磁器製造会社ウエッジウッドの創業者でした。五年間のビーグル号の航海中、ダーウィンは無給でしたが、父親が経済的援助をしてくれました。ビーグル号の航海を終えたダーウィンはロンドンに住みましたが、松永俊男著「チャールズ・ダーウィンの生涯」はその生活をこのように描いています。


独身の若者ダーウィンが、研究と学会活動だけで満足しているはずがない。イギリスのジェントルマンの生活に欠かせないのがクラブである。その一つ、アシニアム・クラブは、現在でも当時のまま、クラブの建物が並ぶペル・メル街の一角にある。イギリスの最も格式の高いクラブで、各界のトップクラスの人々が会員に選出される。ダーウィンは立候補もしていなかったのに、一八三八年六月二一日に会員に選出された。これはダーウィン本人にとっても驚くべきことだった。独身時代は殺風景な住居からのがれて息抜きする場所だったが、結婚後も利用し、政治家や実業家たちとも親しく交際した。クラブの雑誌や図書は科学以外の分野に知見を広げるのに役立った。


ジェントルマンの生活に欠かせないことの一つが夜会だったが、ダーウィンはライエル邸の夜会のほか、有名なバベジの夜会の常連でもあった。バベジはケンブリッジの数学教授だったが、講義をせず、ロンドンに住んだままであった。土曜に開かれるバベジ邸の夜会は、学者だけでなく、各界の著名人が呼ばれ、女性も参加していた。


研究の息抜きには、航海中のミルトン『失楽園』に代わって、コールリッジとワーズワースの詩を愛読していた。兄エラズマスと近くのパブでおしゃべりするのも楽しかった。独身二九歳のダーウィンは、世界都市ロンドンで、研究、学会活動、そして余暇に充実した生活を送っていた。(松永俊男著「チャールズ・ダーウィンの生涯」)


当時のイギリスは、十八世紀後半からの産業革命でいち早く工業化を達成し、多くの植民地を獲得して、経済的繁栄を誇っていましたが、国内では矛盾も拡大し、長時間労働、児童労働、農村から都市への人口流入による住環境の悪化、社会保障の欠如などで民衆の不満は高まっていました。1832年に第一回選挙法改正が行われ、産業資本家が選挙権を得ましたが、労働者には選挙権は与えられなかったので、選挙権を求めるチャーチスト運動が起き、暴動によって死者が出ることもありました。
ダーウィンとマルクスは同時期にイギリスに住んでいたことがありますが、ダーウィンの見ていたイギリスと、マルクスの見ていたイギリスはまったく違ったかもしれません。

それに加えて、ダーウィンは人種差別主義者であり、「優生学」という言葉をつくったフランシス・ゴルトンはダーウィンの従兄弟で、思想的にも互いに影響し合っていました(ダーウィンの人種差別思想と優生思想については、このブログで「優生学の起源」として書いたことがあります)。


ダーウィンは「種の起源」の12年後に「人間の由来」を著し、進化論から見た人間について論じました。
本来ならそこで、階級対立や奴隷制や人種差別や戦争などが生存闘争の一環としてとらえられるはずでした。しかし、ダーウィンはそうした人間社会の負の面にはまったくといっていいほど言及せず、人間社会を協調的な社会としてとらえたのです。
動物は生存闘争をする一方で、子どもの世話をしたり、仲間を助けたりという利他行動もしますから、ダーウィンの人間観や社会観もそれなりに進化論的に見えました。
しかし、生物は生存闘争によって進化すると主張しながら、人間については利他性や協調性のことばかり述べるのは、やはり矛盾しています。

ダーウィンは体制側の人間として、“体制翼賛”をし、みずからダーウィン革命の幕引きをしたのです。

その結果、進化論を根拠に強者の支配を正当化する社会ダーウィン主義と、やはり進化論を根拠に弱者の排除を正当化する優生思想が社会の支配的な思想になっていきました。一方、マルクス主義は科学的社会主義を標榜しましたが、進化論と切り離されることでしだいに力を失い、ソ連・東欧圏の崩壊によって完全に破産した思想と見なされるにいたりました。

現在、進化論を根拠にして社会のあり方を論じるのは「自然主義の誤謬」であるとして批判されるので、社会思想と進化論が結びつけられることはめったにありませんが、言語化されない底流では結びついています。新自由主義も社会ダーウィン主義の流れをくむものです。優生思想もことあるごとに表面化します。


ダーウィンが体制側を選択したために、ダーウィン革命は失速し、挫折しました。
現代のわれわれは、ダーウィン革命と言われてもピンとこないのではないでしょうか。人間は神によって創造されたと信じていた人にとっては進化論は革命的だったかもしれませんが、それ以外の人にとっては人間観が変わることはなく、別段革命的ではありません。

ダーウィン革命が挫折して、科学的人間観が確立されなかったので、人間の心にはボウフラのように自由意志がわくとされます。
人間が貧乏になるのも自由意志のせいだという理屈で、支配層はさらに利益を追求して、われわれは格差社会の問題に直面しているというわけです。

したがって、格差社会問題を解決するには、挫折したダーウィン革命を救出し、革命を完遂させ、科学的人間観、科学的社会観の確立を目指さなければなりません。
人間が互いに生存闘争をする中で、強者が弱者を支配して奴隷制、階級社会、人種差別、性差別などが生みだされたというのが科学的人間観、科学的社会観です。


なお、生物学界はダーウィンの間違いを意識的に隠ぺいしているかのようです。
ダーウィンの著作はむずかしいし、時代遅れでもあるので、進化論を学ぼうとする人は、進化論の解説書を読むことになります。そうすると、そこにはダーウィンがいかに家族思いの人格者であったかということが必ず書かれています。人種差別主義者であったことも書かれていますが、それを打ち消すように奴隷制廃止論者であったことも必ず書かれています。相対性理論や古典力学の解説書を読んでも、アインシュタインやニュートンの人柄についてはそれほど書かれていません。科学の理論と、それを発見した人の人格とは関係ないからです(ニュートンはかなり偏屈な人だったようですが、だからといってニュートン力学の値打ちが下がることはありません)。

ダーウィンの人格のよい面ばかり書くのは、ダーウィンの失敗を隠ぺいする意図ではないかと疑われます。
もしダーウィンの人格を書くなら、その出身階級のことと人種差別のことをもっと書くべきです。そうすれば、ダーウィンの失敗が見えてくるでしょう。

パラサイト


「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)を観ました。
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞、アカデミー賞では作品賞など6部門でノミネートされている注目作です。

キム・ギテク(ソン・ガンホ)の一家は貧民街の半地下の家に住んでいます。窓のすぐ外で立ち小便する男がいたりと、衛生状態も劣悪です。父親は失業中、息子のギウと娘のギジョンも浪人中で、まったく先が見えません。
そうしたところ、ギウが友人から家庭教師の仕事を紹介されます。紹介された家は有名建築家の建てた豪邸で、父親は金持ちのIT社長、母親は美人、大学受験の娘と小学生の息子がいます。
まったく対照的なふたつの家族の物語です。

ギウは文書を偽造して大学生と偽り、母親の信頼を得て娘の家庭教師になります。そして、小学生の息子が絵を描いているのを見て、妹の経歴を偽らせて、美術の家庭教師として紹介します。ギウとギジョンは家庭教師として金持ちの家に出入りするうちに、あくどいやり方で家政婦と運転手を辞めさせ、代わりに自分の母親と父親を、やはり経歴を偽らせて家政婦と運転手として雇わせます。キムの一家は互いに他人のふりをして、金持ちの一家に入り込んだわけです。
ここまでが前半で、このあと予想外の展開になっていきます。

いろんな出来事が次々と起こって、退屈するということがありません。ずっとジェットコースターに乗っている気分です。詰め込みすぎともいえます。じわじわと盛り上がってクライマックスに至るという物語ではありません。

笑える場面がいっぱいあります。しかし、周りの観客は誰も笑っていませんでした。日本人の映画の観方に問題があるかもしれません。


貧乏一家と金持ち一家を描くことで、おのずと韓国の格差社会があぶりだされます。
ただ、人間の描き方が常識とまったく逆です。
ギウとギジョンは罪もない家政婦と運転手をきたない手を使って追い出します。それに四人全員が経歴を偽っています。
つまり貧乏一家は悪人です。
一方、金持ち一家のほうは、父親も母親も善人で、紳士的な教養人です。子どもも普通に子どもらしくて、“金持ちの子ども”のいやらしさがありません。

だいたいエンターテインメントの物語では、金持ちは高慢で、横柄で、つまり悪人として描かれ、貧乏人は善人として描かれるものです。
この映画は逆ですが、観客は悪人の貧乏一家の側に感情移入して観ることになります。
もちろんそちら側の視点で描かれるからですが、それだけではありません。やはり韓国の格差社会の深刻さが背景にあるからです。

ヤクザ、ギャング、殺し屋、詐欺師などを主人公にした映画はいっぱいありますが、彼らは犯罪はしても弱い者いじめはしません。弱い者いじめをする人間に観客は感情移入することはできないのです。
キム一家は罪もない家政婦と運転手をきたない手で追い出しますが、弱い者いじめにはなりません。キム一家のほうがもっと弱い立場だからです。


格差社会といえば、この前観た「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督)はアメリカの格差社会を背景にしていました。
「ジョーカー」はアカデミー賞の11部門にノミネートされていて、今は格差社会を描く映画がトレンドのようです。

しかし、同じ格差社会を描いても「ジョーカー」と「パラサイト」ではかなりの違いがあります。
「ジョーカー」では、格差社会に押しつぶされた主人公が最後は一人で立ち上がります。「パラサイト」では、一貫して家族の絆が描かれます。
また、「ジョーカー」では正義と悪の構図になっていますが、「パラサイト」では善と悪はあっても正義はありません。
このあたりにアメリカと韓国の価値観の違いが出ています。

テレビの「水戸黄門」は、単純な正義と悪の物語でした。出てくる善人はつねに貧乏ですが、これは封建的身分制度の問題ですから、格差社会の問題ではありません。ですから、単純に楽しむことができました。

社会主義思想の物語では、資本家は悪、労働者は善、革命家は正義という図式でした。これを信じれば希望はあります。

「パラサイト」には正義が出てきませんし、格差社会が解決するという希望もありません。
個人が貧乏から成り上がることが唯一の希望ですが、それはあまりにもはかない希望です。

格差社会が深刻化すると、エンターテインメントの映画もむずかしくなってきます。

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トッド・フィリップス監督の「ジョーカー」を観ました。
ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとったこともあって世界的に大ヒット中です。
この一本の中に、アメリカや日本などの先進国が今直面している問題のほとんどが詰め込まれているという意欲作で、金獅子賞を取ったのも納得です。

「バットマン」シリーズでバットマンの敵役であるジョーカーがいかにしてジョーカーになったかという物語です。
バットマンは出てきませんし、ハリウッド映画らしいアクションシーンもほとんどありません。
舞台のゴッサムシティは、ちょっと前のニューヨークという感じです。インターネットはありませんが、テレビの人気トークショーがそれに代わる役割を果たしています。

主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)は、ピエロを演じて生活の糧を稼ぎ、将来はコメディアンを目指しています。しかし、彼には脳の障害で笑い出すとなかなか止まらないという症状があり、悪ガキにいじめられたり、やることなすことうまくいきません。母親と二人の生活は貧しく、母親は昔家政婦として働いていた金持ちの家の主人に金銭的援助を頼む手紙を何度も出しています。彼は同じアパートに住むシングルマザーの黒人女性に思いを寄せますが、ストーカー行為をしてしまいます。

希望のない生活と、主人公の不安定な精神状態と、ニューヨークらしい街から、 マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」を連想します。それは監督の狙いでもあって、ロバート・デ・ニーロが重要な役で登場することからもわかります。

主人公の希望のない生活を描写するシーンが続くと、観ていてうんざりしそうなものですが、表現するべきことを的確に押さえていて、ホアキン・フェニックスの演技も素晴らしいので、引き込まれます。
ただ、ここについていけない人もいるでしょう。映画評を見ると、賛否がかなり分かれます。

母親が金持ちの家に出していた手紙を読んだことから、アーサーの出生の秘密がわかり、幼児虐待を受けていたこともわかります(脳の障害もそれが原因?)。
彼は福祉制度からカウンセリングと薬の支援を受けていましたが、予算が削られて支援は打ち切りになります。仕事でヘマをして、芸能事務所をクビになり、さらに母親が病に倒れて入院します。

ゴッサムシティはひどい格差社会です。アーサーはそこから這い上がれず、犯罪に手を染めます。

「タクシードライバー」の主人公は最後まで孤独でした。
しかし、アーサーの犯罪は格差社会で苦しむ人々の喝さいを浴び、彼はヒーローになります。
ここに格差社会の深刻化がうかがえます。また、「タクシードライバー」の主人公の過去はまったく描かれませんが、こちらは幼児虐待の過去があったことが描かれ、時代による人間観の変化もうかがえます。


この映画がアメリカで公開されたとき、ニューヨークでは犯罪を警戒して市内全域の映画館に警官が配置されたというニュースがありました。そのときは意味がわかりませんでしたが、映画を観ると納得できます。

このシリーズの最初の作品である「バットマン」(ティム・バートン監督)では、主人公のバットマン(マイケル・キートン)はくよくよと悩む屈折した男で、悪役のジョーカー(ジャック・ニコルソン)は底抜けに陽気な男です。ゴッサムシティはきわめてダークな雰囲気で、まるで悪の都市です。正義と悪が逆転したかのような描き方が、今回の「ジョーカー」につながっています。

今の世の中では、凶悪犯罪が起こると、犯人は徹底的に非難されます。しかし、ちゃんと調査すると、犯人はアーサーのように幼児期に虐待され、脳に障害を負っていることがわかるはずです。
池田小事件の宅間守や秋葉原通り魔事件の加藤智大の視点で見た世界を描いた映画とも言えます。
その意味で犯罪を肯定する映画ともとれ、公開に反対する声があったことも理解できますが、「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」を具現化しただけとも言えます。

しかし、この映画はそんなに重くなりません。
トッド・フィリップス監督は「ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」などのコメディ映画を撮ってきた監督です。この映画でも、チャップリンの映画の一シーンが挿入され、エンディングシーンもコメディタッチで、コメディ映画を撮ってきた監督の心意気が示されます。

トッド・フィリップス監督は「凶悪な犯罪と格差社会を描くコメディ映画」という新機軸に挑戦して、みごとに成功しました。

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このところ閣僚、与党幹部の失言が相次いでいます。

小泉進次郎環境相、気候変動問題について「セクシーに取り組むべき」
二階俊博自民党幹事長、台風19号の被害について「まずまずで収まった」
萩生田光一文科相、来年度からの英語の民間試験について「身の丈に合わせてがんばって」
河野太郎防衛相、台風被害について「地元で雨男と言われた。防衛相になってからすでに台風が三つ」

小泉環境相の「セクシー」発言は、それほど批判されるものとは思えません。滝川クリステルさんとの結婚や男性最年少入閣などで、やっかみを買ったのでしょうか。
二階幹事長の「まずまずで収まった」と河野防衛相の「雨男」は、単に思慮の足りない発言です。
萩生田文科相の「身の丈」発言は、それらとは異質です。失言ではなく、背後に思想があります。


2020年度から実施される大学入学共通テストで英語の民間試験が使われることについて、異なる試験の成績を公平に比べられるのかとか、受験料が高くつくとか、試験会場が都市部に偏っているとかの不満が高まっています。萩生田文科相は10月24日に生出演した『BSフジLIVE プライムニュース』(BSフジ)において、制度が不公平ではないかという指摘に対して、このように発言しました。

「そういう議論もね、正直あります。ありますけれど、じゃあそれ言ったら、『あいつ予備校通っててずるいよな』って言うのと同じだと思うんですよね。だから、裕福な家庭が(民間試験を)回数受けて、ウォーミングアップできるみたいなことは、もしかしたらあるかもしれないけれど、そこは、自分の、あの、私は身の丈に合わせて、2回を選んで、きちんと勝負してがんばってもらえば」
https://lite-ra.com/2019/10/post-5056.html

「予備校通っててずるい」という発言も問題になりましたが、「身の丈に合わせてがんばって」という部分に批判が集中しました。

「身の丈に合わせてがんばれ」というのは、ありがちな人生訓です。相田みつをも書いていそうです(「身の丈以上をやろうとするのが人間なんだよな」とも書いていそうです)。
ですから、萩生田文科相もその言葉が批判されるとは思わなかったでしょう。
しかし、文部科学大臣が試験制度について言うのはまったく違います。

試験制度というのは、いわば「身の丈」を測る物指しです。受験生はこれから「身の丈」を測るために公平な物指しを要求しているのに、「身の丈を知れ」と言われたのですから、反発するのは当然です。

いや、ここにひとつの行き違いがあります。
「身の丈に合わせてがんばって」という言葉の「身の丈」は、普通は受験生の能力のことを言っていると解釈するでしょう。
しかし、萩生田文科相は家庭環境のことを言っているのです。受験料や交通費、宿泊費が負担であるような貧困家庭の子は、その経済能力に合わせて受験しろという意味です。


安倍政権は格差社会を拡大する政策を進めてきました。大学入学共通テストで民間試験が利用されることもその一環です。つまり格差容認の制度です。
萩生田文科相は安倍首相の忠実なしもべです。

格差社会は、安倍政権でなくても存在します。
人間に能力の差がある以上、格差社会は当然だという考え方もあります。しかし、そういう考え方の人でも、能力は公平に測られるべきだと思うでしょう。
ところが、新しい制度は富裕層が有利になって、能力が正しく判定されません。

萩生田文科相は、「身の丈」発言を撤回して謝罪しましたが、そのときにこのように弁明しています。

「どのような環境下にいる受験生においても、自分の力を最大限発揮できるよう自分の都合に合わせて、適切な機会を捉えて2回の試験を全力で頑張ってもらいたいとの思いで発言をしたものです」

「身の丈に合わせて」を「自分の都合に合わせて」と言い換えているだけです。
「自分の都合に合わせて」というのは受験生個人の都合ではなくて、その家庭の都合のことですから、「身の丈」発言と同じ意味です。

萩生田文科相は、格差社会肯定の思想の持主ですから、受験生が経済格差によって有利不利になるのも当たり前のことと感じているのでしょう。ですから、制度を公平にするべきだという考えもないのです。
こうした考えの人間は文科相に不適格です。

なお、この制度は教育基本法違反だという説もあります。
(教育の機会均等)
第4条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

最初にも書いたように、若者は自分の「身の丈」がまだわからないものです。だからこそ夢と希望を持って、いろいろなことにチャレンジできます。
萩生田文科相の「身の丈に合わせて」という発言は、どんな意味にせよ、若者の可能性を否定するものです。

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