村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:法の支配

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世の中に争いが絶えないのは、ほとんど倫理学のせいです。
善と悪には定義がなく、客観的な基準もないので、誰もが自分中心に善悪の判断をします。
ネタニヤフ首相はハマスを悪と見なしますが、ハマスはネタニヤフ首相を悪と見ています。
トランプ大統領は極左勢力を悪と見なしていますが、極左勢力とされた人にとってはトランプ大統領が悪です。
夫婦喧嘩は互いに相手を悪と見なして行われます。
私はこのように自己中心的に善悪を判断することを「天動説的倫理学」と名づけています。

つまり善悪という概念があるために、かえって争いが激化しているのです。
そうすると、善悪という概念を使用禁止にすればいいのではないかということが考えられます。
しかし、善悪はあまりにも生活になじんでいるために、それはむずかしそうです。

そこで、人間は「法の支配」という方法を考え出しました。
あらかじめ法律をつくっておき、それを善悪の基準(の代わり)とするのです。これは客観的な基準なので、混乱はかなりの程度避けられます。恣意的に罰される恐れもなくなり、安心して生活できます。
もっとも、国際社会と家庭内にはほとんど法の支配は及ばないので、国際社会と家庭内では深刻な争いが生じますが、一応法の支配によって社会の秩序は保たれてきました。

しかし、このところ急速に法の支配が崩れています。
その理由はインターネット、SNSの普及です。
それまでは学者とジャーナリストが世論を導いていましたが、インターネットが普及してからは大衆が世論を導くようになりました。
知識人にとっては法の支配の重要さは常識ですが、大衆にとっては必ずしもそうではありません。

法の支配は、手間と時間がかかります。
日本では現行犯逮捕を別にすれば、警察が捜査して、逮捕状を執行して初めてその人間を容疑者と認定して、メディアがバッシングします。しかし、推定無罪という原則があるので、これはメディアが先走りしすぎです。本来は有罪判決が確定してから犯罪者ないし「悪人」と認定するべきです。
しかし、人を攻撃するのは欲求不満の解消になります。相手が悪人なら世の中のためという名分も立つので、みんなが先走ります。
ネットでは法の裁きを待たずに、写真や動画などを“証拠”として、誰かを悪人に仕立てて攻撃するということが盛んに行われています。
こういうことに慣れてしまうと、法の支配なんていうものは面倒くさくなります。
正義のヒーローが活躍するハリウッド映画も、法の裁きを待たずに悪人をやっつけるものばかりです。

こうした風潮を利用してのし上がったのがトランプ大統領です。
利用しただけではなく、この風潮をあおりました。そのためアメリカでは法の支配は崩壊寸前です。


法の支配がたいせつなのは、倫理学が機能していないからですが、一般の人は倫理学が機能していないということをほとんど知りません。
アリストテレス、カント、ヒュームは代表的な倫理思想家ですが、その著作を読んだという人はめったにいません。ひじょうに難解だからですし、がんばって読んだところでほとんど役に立たないからです。
ただ、倫理学は権威があります。倫理学は哲学とほとんど一体なので、哲学の権威がそのまま倫理学の権威になっています。
そのため、誰も倫理学に向かって「王様は裸だ」とは言わないのです。


20世紀の初め、ジョージ・E・ムーアは『倫理学原理』という著作において「善は分割不能な単純概念だから定義できない」と主張しました。それに対して誰も善の定義を示すことができませんでした。
善の定義がないということは悪の定義もないということです。さらにいうと正義の定義もありません。
こうなると道徳とはなにかということも問題になります。
そうして倫理学者は、善悪とはなにか、正義とはなにか、道徳とはなにかという根本的な疑問に向き合わなければならなくなりました。
こうしたことを研究をする分野をメタ倫理学といいます。
いわば倫理学は「自分は何者か」ということに悩んでいる若者みたいなものです。当然、社会に役立つことはできません。

メタ倫理学が存在することによって、倫理学がまったく役に立たない学問であることが明らかになりました。
しかし、知識人はそのことを知ってか知らずか、倫理学について語ることはありません。
知識人にとって倫理学の実態を語ることは、“身内の恥”を語るようなものなのでしょうか。

倫理学について語らずに法の支配のたいせつさを説いても、まったく説得力がありません。
倫理学がだめな学問であることを説けば、おのずと法の支配のたいせつさもわかり、ある程度争いを避けることができます。




メタ倫理学は倫理学の中でももっとも難解な分野です。
その中でとてもわかりやすい文章でメタ倫理学を解説したサイトがあったので紹介しておきます。

「メタ倫理学」

しかし、これを読んでも、結局は「わからないことがわかった」ということになるでしょう。


私がこれほど倫理学批判をしたのは、正しい倫理学を知っているからです。
正しい倫理学については次を読んでください。

「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」


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「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは名言です。
戦いに勝った者は「自分は正義で、相手は悪だ」と主張し、負けた者はその主張を否定する力がないので、勝った者の主張が社会に広がります。

「勝てば官軍」に当たる言葉は英語にもあります。
「Might is right(力が正義である)」及び
「Losers are always in the wrong(敗者はつねに間違った側になる)」です。
なお、パスカルも「力なき正義は無効である」と言っています。

つまり「正義」というのは、強い者が決めているのです。
最近はそのことが理解されてきて、正義の価値が下落し、正義を主張する人はあまり見かけなくなりました。

そうすると、「悪」の価値も見直されていいはずです。
「悪」も強い者が決めているからです。

さらにいうと、「善」も強い者が決めています。
「善」とはなにかというと、「悪」の対照群です。
テロ行為が「悪」だとすれば、テロ行為をしないのが「善」です。

「正義」も「善」も「悪」もすべて定義がないので、力のある者が恣意的に決めています。
したがって、正義、善、悪で世の中を動かそうとするとうまくいきません。
ハリウッド映画では、正義のヒーローが善人を救うために悪人をやっつけてハッピーエンドになりますが、これはフィクションだからです。

世の中を支配する者は善と悪を恣意的に決めることができます。
そうすると、力のない者はいつ悪人に仕立てられて罰されるかわからないので、安心して暮らせません。
そこで、人を罰することは法律によって厳密に決めることになっています。これが法の支配ないし法治主義といわれるものです。
犯罪者(悪人)と認定するまでの法的手続きは煩雑ですが、どうしても必要な手続きです。
この手続きを省略すると「リンチ」になりますが、リンチが横行すると世の中の秩序が乱れます。


社会は法の支配によって秩序が保たれていますが、法の支配の及ばない領域がふたつあります。
ひとつは国際政治の世界です。ここではロシア、イスラエル、アメリカといった軍事力のある国が好き勝手にふるまっています。
もうひとつは家庭内です。家族は愛情で結びついているので、法律が入り込むべきでないとされてきました。そのためここでも力のある者が好き勝手にふるまっています。


家庭内を見ると、善と悪がどのようにして決められるのかがよくわかります。
小さな子どもは動き回り、大声を出し、物を壊したり、部屋の中を汚したりします。それは子どもとして自然なふるまいですが、親は子どもにおとなしくしてほしい。高度な文明生活と子どもの自然なふるまいはどうしても合わないのです。
そこで、親と子で妥協点を探らねばなりませんが、親は子どもよりも圧倒的な強者です。そのため親は自分勝手にふるまうことができますし、善と悪も自分勝手に決めることができます。
たとえば、おとなしいのは「よい子」で、うるさく騒ぐのは「悪い子」、親の言うことを素直に聞くのは「よい子」で、親の言うことを聞かないのは「悪い子」、好き嫌いを言わないのは「よい子」で、好き嫌いを言うのは「悪い子」、かたづけをするのは「よい子」で、散らかすのは「悪い子」といった具合です。
このように善悪の基準は親の利己心です。したがって、よいとされることが子どもにとってよいこととは限りません。
たとえば親は子どもに「おとなしくしなさい」と言いますが、「おとなしい」を漢字で書くと「大人しい」です。つまり子どもにおとなのようにふるまえと言っているのですが、これは正常な発達の妨げになることは明らかです。

子どもを「よい子」にしつけることは親の義務とされ、しつけを怠る親は非難されます。
こうしたことが幼児虐待を生んでいます。幼児虐待で逮捕された親が判で押したように「しつけのためにやった」と言うのを見てもわかります。

家父長制家族においては、夫は妻に対して圧倒的な強者ですから、夫が善と悪を決めます。
夫に従うのが「よい妻」で、夫に従わないのは「悪い妻」、家事を完璧にこなすのが「よい妻」で、家事の下手なのが「悪い妻」という具合です。
夫にとって都合のよい妻を「良妻賢母」ともいいます。
妻の側からも「よい夫」と「悪い夫」というように夫を評価したいところですが、妻は弱い立場なので、そうした評価が社会的に認知されることはありません。そのため、「悪妻」という言葉はあっても、「悪夫」という言葉はありません。


「よい子」と「悪い子」、「良妻」と「悪妻」という言葉を思い浮かべれば、善と悪は強者が自分に都合よく決めているということがわかります。
ところが、倫理学は善を絶対的な基準と見なしてきました。
アリストテレスは、人間は「最高善」を目指すべきであるとし、カントも「最高善」について論じています。
「よい子」や「よい妻」の最高の状態を目指すべきだということです。そんなことをしても、本人は少しも幸福ではなく、親や夫が喜ぶだけです。
こんな倫理学が顧みられなくなったのは当然です。


善、悪、正義、「べき」などを総称して道徳というとすると、道徳はすべて人間がつくったものですから、そこに必ず人間の下心があります。
道徳は、人間の心を縛る透明な鎖です。
鎖を断ち切ってこそ自由な生き方ができます。



前回の「一神教の神は怖すぎる」という記事で、エデンの園でアダムとイブが神の言いつけにそむいて善悪の知識の木から食べたために楽園を追放されて不幸になったということを書きました。
人間は善悪の知識を持ったために不幸になったという話は暗示的です。
それまで親子は一体で、子どもはなにをしても親から愛されていましたが、親が「よい子」と「悪い子」という認識を持ったときから子どもは行動を束縛され、愛の楽園から追放されたのです。
子ども時代の不幸は人生全体をおおい、さらに世界全体をおおっています。

別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」では、善と悪についてさらに詳しく書いています。


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トランプ前大統領の口止め料を巡る裁判で有罪評決が下りましたが、トランプ氏は控訴を表明し、「不正な裁判だ」「判事は暴君だ」などと述べました。
トランプ支持者も有罪評決でめげることはなく、逆に気勢を上げているようです。トランプ陣営は有罪評決後の24時間で約82億円の寄付が集まり、うち3割は新規の寄付者だったと発表しました。
アメリカの有権者の35%が4年前の大統領選は不正だったと思っているそうです。

「法の支配」は社会の基本ですが、トランプ氏とその支持者は「法の支配」など平然と無視しています。
これはトランプ氏のカリスマ性のゆえかと思っていました。
しかし、それだけでは説明しきれません。
私は、アメリカ人はもともと「法の支配」なんか尊重していないのだということに気づきました。

私の世代は若いころに映画とテレビドラマで西部劇をいっぱい観ました。
西部劇には保安官や騎兵隊も出てきますが、基本は無法の世界で、男が腰の拳銃を頼りに生きていく様を描いています。
今、アメリカで銃規制ができないのはその時代を引きずっているからです。

銃規制反対派は市民が権力に抵抗するために銃が必要なのだと主張しますが、アメリカの歴史で市民が銃で国家権力に抵抗したのは独立戦争のときだけです。
では、銃はなんのために使われていたかというと、ほとんどが先住民と戦うためと黒人奴隷を支配するためです。
それと、支配者としての象徴でしょう。
日本の侍が腰に刀を差しているのと同じ感覚で西部の男は腰に拳銃を吊るして、先住民、黒人奴隷、女子どもに対する支配者としてふるまっていたのです。
ですから、「刀は武士の魂」であるように「銃はアメリカ男子の魂」なので、銃規制などあってはならないことです。

西部開拓の時代は終わり、表面的には「法の支配」が確立されましたが、今もアメリカ人は「法の支配」を軽視しています。
たとえば白人至上主義者は平気で黒人をリンチしてきました。
『黒人リンチで4000人犠牲、米南部の「蛮行」 新調査で明らかに』という記事によると、米南部では1877年から1950年までの間に4000人近い黒人が私刑(リンチ)によって殺されていたということです。

同記事には『私刑のうち20%は、驚くことに、選挙で選ばれた役人を含む数百人、または数千人の白人が見守る「公開行事」だった。「観衆」はピクニックをし、レモネードやウイスキーを飲みながら、犠牲者が拷問され、体の一部を切断されるのを眺め、遺体の各部が「手土産」として配られることもあった』と書かれています。ナチスの強制収容所を連想します。人種差別主義者は似ているのでしょう。

リンチの犯人がかりに裁判にかけられることがあっても、陪審員は白人ばかりなので有罪になることはありません。
最近でも似たようなものです。警官が黒人を殺す場面が動画に撮られて大きな騒ぎになった事件でも、警官は裁判にかけられても無罪か軽い罪で、恩赦になることもあります。

そういうことから、白人至上主義者にとってトランプ氏の裁判で有罪の評決が出たのは「不当判決」なので、平然と無視できるのでしょう。


「法の支配」を軽視するのはアメリカ人全体の傾向です。
それは国際政治の世界にも表れています。
国際刑事裁判所(ICC)は5月20日、ガザ地区での戦闘をめぐる戦争犯罪容疑でイスラエルのネタニヤフ首相らとハマスの指導者らの逮捕状を請求したと発表しました。
これに対してバイデン大統領は「言語道断だ。イスラエルに対する国際刑事裁判所の逮捕状請求を拒否する。これらの令状が何を意味するものであれ、イスラエルとハマスは同等ではない」などの声明を発表しました。
「法の支配」をまったく無視した態度です。

バイデン大統領はトランプ氏への有罪評決に関して「評決が気に入らないからといって『不正だ』と言うのは向こう見ずで、危険で、無責任だ」「法を超越する存在はないという米国の原則が再確認された」などと語っていました。
評決が気にいらないからといって「不正だ」と言うのはバイデン大統領も同じです。
なお、アメリカは国際刑事裁判所(ICC)に加盟していませんが、加盟していないということがすでに「法の支配」を軽視しています(ロシア、中国も加盟していませんが、アメリカの態度が影響しているともいえます)。


国際司法裁判所(ICJ)は24日、イスラエルに対しガザ地区南部ラファでの軍事攻撃を即時停止するよう命じましたが、イスラエル首相府はこれを真っ向から否定しました。
アメリカもこれを容認しています。
国際司法裁判所(ICJ)は国連の機関なので、各国は法的に拘束されますが(執行力はない)、ここでもアメリカは法を無視しています。


トランプ氏が「アメリカファースト」を言うのは、もちろんアメリカは他国よりも優先されるという意味ですが、結果的にアメリカは法の上にあることになります。
バイデン大統領もこの点ではトランプ氏と変わらないようです。


アメリカもいつも無法者のようにふるまうわけではなく、表向きは「法の支配」を尊重していますが、いつ無法者に変身するかわかりません。
そうなるとアメリカの世界最強の軍事力がものをいいます。
当然、世界のどの国もそのことを意識せざるをえません。

日本も例外ではありません。
日本はアメリカと繊維、自動車、半導体などさまざまな分野で通商摩擦を演じてきましたが、どれも最終的に日本が譲歩しています。
日本がとことん強硬に主張し続けると、アメリカはテーブルをひっくり返して腰の拳銃を抜くかもしれないからです。
軍事行動に出なくても、貿易や金融などで不当な仕打ちをしてくるということはありえます。WTOに提訴するぐらいでは防げません。
なにかの理由をつけて経済制裁をしてくるということも考えられます。イランやキューバは今ではなんの理由だかわからなくなっても制裁され続けています。

どの国もアメリカと二国間交渉で対等な交渉はできません。
アメリカがGDP比3.45%もの巨額の軍事費を支出しているのも、それによって経済的な利益が得られるからに違いありません。



世界が平和にならないのは、アメリカが「法の支配」を無視ないし軽視して「力の支配」を信奉する国だからです。
世界を平和にするには、国際社会とアメリカ国内の両面からアメリカを変えていかなければなりません。

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戦争から夫婦喧嘩、親子喧嘩まで、人類は延々と争いを続けてきました。
どうして人類は争いを克服することができないのでしょうか。

人間性についての科学的研究は、認知科学、進化心理学、行動経済学、人工知能研究などの分野で急速に進展しています。「汝自身を知れ」というデルフォイの神託が現実のものとなる日も近そうです。
しかし、今のところ肝心なことが認識されていません。
それは「人間は利己的である」ということです。

今話題のマイクロソフトのBingチャットを使って、「人間は利己的ですか」と聞いてみました。

人間は利己的ですかというのは、難しい質問ですね。人間の本性や倫理観に関する哲学的な議論がありますが、一概には答えられません。

一般的には、人間は自分の利益を重視し、他者の善行を軽視、無視する考え方を利己主義と呼びます。 利己主義の対義語は利他主義で、他者の利益や幸福を優先する考え方です。

利己主義には、心理的利己主義と倫理的利己主義の二種類があります。(以下略)

つまり「人間は利己的ですか」にはっきりした答えはないのです(AIチャットはネット上の多様な議論を要約してくれるものとしては有用かと思います)。

これには「利己的」という言葉の意味がはっきりしないということも関係しています。

経済学では「合理的経済人」として、自己の利益の最大化をはかる人間が想定されています。こうした自分の利益を追求する行動も「利己的」ということになりますが、これは悪い意味ではありません。市場経済はみんなが利己的に行動することで成り立っています。
しかし、日常生活で「あの人は利己的だ」とか「それは利己的なふるまいだ」というとき、「利己的」は悪い意味になります。

英語では「利己的」に当たる言葉が「egoistic」と「selfish」とふたつあります。「egoistic」は悪い意味ですが、「selfish」は中立的な意味とされます。
ただ、「selfish」も完全に中立的な意味ではないようです。英和辞典によると、〈侮蔑的〉として「自分のことしか考えない、自分勝手な、自己中心的な、わがままな」という訳語が並んでいます。


問題を整理します。
自分の利益を追求するのは悪いことではありません。基本的人権の「幸福追求権」に含まれると考えるべきです。
しかし、自分が利益を追求する以上、他人が同じように利益追求することを認めなければなりません。他人の利益追求を妨げて自分の利益追求をするのは不当です。このような不当な利益追求は「利己的」として批判されることになります。

しかし、ここでやっかいな問題があります。
今の世の中、正当に利益追求をしていても「利己的」と批判される傾向があるのです。
株式投資でもうけた人や遺産相続をした人が嫉妬されるのはまだ理解できますが、普通に商売でもうけた人でも嫉妬されて批判されることがあります。
そのため、商売する人は、もうけていてももうけたとは口にせず(「もうかりまっか」「ぼちぼちです」)、逆に「出血サービスをしています」「お客様に奉仕しています」などと言います。
金メダルを取ったアスリートは「努力が報われました」などとは言わず、「コーチや応援してくださったみなさまのおかげです」と言います。
つまり誰もが「利己的」と批判されることを避けるために、実際以上に自分を「利他的」に見せかけているのです。
そのため、正当な利益追求と不当な利益追求の境界線がわかりにくくなっています。


ここで「公平」という概念を持ち出してみます。

「公平」を国語辞典で引くと、「すべてのものを同じように扱うこと」と説明されています。この説明には「自分」が対象になっていません。たとえばA、B、Cという人間を同じように扱うことは可能でしょう(身びいきや偏見ということもありますが)。では、自分と相手(他人)を同じように扱うことは可能でしょうか。
自分と相手を公平に見るには、“神の視点”ないしは第三者の視点が必要ですが、この場合は利益がからんできます。
自分は第三者の視点を持ったつもりでも、無意識のうちに自分が有利になるように見ている可能性があります。

私が子どものころ、よく近所の子どもと空き地で野球をしましたが、人数が少ないので、審判は攻撃側のチームが出すことになっていました。その審判は公平な判断をしたのでトラブルになるようなことはありませんでした。要は野球を楽しくやりたいだけで、どちらのチームが勝とうがどうでもよかったからです。もし勝ち負けが重要な試合であれば、一方のチームが審判を出すなどということは相手チームが許しません。
サッカーの国際試合は、審判は第三国の人間が務めるに決まっています。
法律上の調停を行うときも、裁定するのは必ず双方と利害関係のない第三者です。

人間は自分の利益がからむと公平な判断ができません。
「お手盛り」という言葉があるように、自分に有利になるようにしてしまいます。
国語辞典も「自分と他人を公平に扱う」ということは最初から不可能なことがわかっているので、説明から除外しているのでしょう。
戦時中の配給制度のもとでは、配給品は商店を通して各世帯に配られました。たとえば米屋であれば、自分の世帯の取り分を多めにして、その米を闇市で売ります。ですから、サラリーマン家庭はどこも苦しい生活でしたが、商売人の家庭は余裕のある生活でした。

人間は自分の利益がからむと平気で不当なことをします。つまり人間は利己的であるということになります。


利己的であるのは動物も同じです。
なわばりを持つ動物は、自分のなわばりを他の個体にわからせるために、糞尿を残す、体の匂いをつける、爪痕をつけるなどのマーキングをし、鳥類はテリトリーソングといわれるさえずりをします。そして、普段はむだな争いを避けるために互いのなわばりを尊重して平和に暮らしています。
しかし、なわばりの境界線が正確に認識できるわけではありません。そうすると、双方ともに境界線を自分に有利に解釈して、“国境紛争”ともいうべき争いがしばしば起きます。
さらに、双方ないし片方がなわばりを拡張しようとしても争いは起きます。
ということで、なわばり争いはしょっちゅう起きるのですが、争いが深刻化すると自分にとっても不利益ですから、それほど深刻化しません。

人間の場合は本能の制御が弱いので、争いが深刻化し、大規模な戦争も起きます。
戦争に勝つと土地、財産、女、奴隷を獲得して、大きな利益が得られるからです(これは昔のことですが)。
動物は一個体が必要とするなわばりの広さは限られていますが、人間の場合は限りなくなわばりを併合して“帝国”を築くことがあります。


以上のことから「人間は利己的である」というのは明らかです。

しかし、AIが「一概には答えられません」と言うように、このことは一般には認められていません。
その理由は、「利己的」という言葉の意味が明確でないことに加え、利己的であることは道徳的に非難されるので、誰もが自分は利己的だと思いたくないからです。
自分は利己的だと思いたくない以上、「人間は利己的である」とも思いたくありません。

それに加えて、多くの進化生物学者が「人間は利己的である」ということを否定しているということもあります。
リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』という本もあるぐらいですから、進化生物学では動物は利己的なものとされていそうなものですが、実際はそうではありません。
社会性動物には、子どもの世話をしたり仲間を助けたりという利他的性質があります。ダーウィンはこの利他的性質を重視しましたが、進化論では仲間を助ける性質のあることがうまく説明できませんでした。しかしその後、遺伝子とゲーム理論から説明できるようになり、それによって進化生物学者は人間の利他的性質を過大評価するようになったのです(このあたりのことは簡単に説明できないので、「道徳観のコペルニクス的転回」を参照してください)。
もし進化生物学者が「人間は利己的である」と結論づけていたら、世の中は大きく変わっているでしょう。


利己的な人間は本能の制御を超えて争い、その結果、強者が弱者を支配する社会をつくりました。階級制、身分制、奴隷制、農奴制などです。雇う人間と雇われる人間がいる資本制もその延長線上です。
争いが激化すると不利益を生むので、人間は争いを抑える文化も発達させてきました。法律、規則、掟などで社会の秩序を維持するやり方です。それでも争いが起こると、裁判官や長老などの第三者が裁定して争いを収めます。秩序を逸脱する者は警察が取り締まります。
これを「法の支配」または「法治主義」といいます。

「法の支配」によって争いは抑制されていますが、「法の支配」の及ばない領域があります。
それは国際社会と家庭内です。

国際社会には一応国際法がありますが、警察に当たるものがないので、実質的に無法状態です。戦争が起こるのを止められません。
世界を平和にするには、警察に当たる国連軍をつくって、国際法を執行する体制にしなければなりません。
しかし、アメリカは世界の軍事費の約4割を占める軍事大国なので、アメリカを抑えるような国連軍はつくれません。
ロシアや中国が平和の敵であるかのような言説があふれていますが、実際はアメリカが世界を平和にしようと思わない限り世界は平和になりません。

家庭内にも「法の支配」はないので、暴力が横行しています。
家族は本来愛情によって結びついているものですが、文明社会では夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するという、権力で結びついた家族になっています。
夫の暴力から逃げ出した妻、家出して盛り場をうろついたり“神待ち”をしたりする少年少女は氷山の一角で、日本には荒廃した家庭がいっぱいです。
ちなみに日本の殺人事件の54.3%は親族間の殺人です(2020年版警察白書)。日本の社会の中でもっとも荒廃しているのが家庭です。
しかし、家庭内に「法の支配」を持ち込むのは、対症療法にはなっても、家庭に愛情を取り戻すことにはなりません。
では、どうすればいいかというと、要するに「自然に帰れ」で、未開社会の家族や動物(哺乳類)の家族を見て、学ぶのがいいでしょう。

もっとも、それは長期的な話です。
短期的には、「人間は利己的である」と認識するだけで、家族関係は変わってきます。
どんなに愛し合って結婚した夫婦でも、自分と相手の関係を公平に判断することができないので、「相手は利己的にふるまって、自分は損している」という認識を双方が持つことになり、その不満がどんどん蓄積されて喧嘩が頻発し、最後には離婚に至るか仮面夫婦になるというのがほとんどの夫婦ですが、そうした悲劇はある程度回避できるはずです。

日本は尖閣諸島、北方領土、竹島という領土問題を抱えていて、ほとんどの日本人は「日本の主張は正しい。中国、ロシア、韓国の主張は間違っている」と考えていますが、これも公平な判断とは限りません。相手国も同じことを(つまり逆のことを)考えています。
こうした認識が戦争につながるので、注意が必要です(国際機関など第三者に判断してもらうしかありません)。


「人間は自分と相手の関係を公平ではなく自分に有利に判断してしまう」というのは認知バイアスの一種です。
名づければ「利己主義バイアス」となるでしょう。
実に単純なことですが、こうした認知バイアスの存在は認識されていません。「人間は利己的である」ということが認識されていないのだから、当然かもしれません。

「人間は利己的である」と認識するだけで、多くの争いは回避できます。

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アメリカ・テキサス州の小学校で5月26日、銃乱射事件が起き、21人が死亡し、犯人の18歳の少年は射殺されました。

アメリカでは銃乱射事件が起きるたびに銃規制をするべきだという議論が起きますが、結局うまくいきません。
銃規制反対派の力が強いからです。

銃規制に反対する論理のひとつは、「身を守るために銃は必要だ」というものです。
しかし、護身用なら小さな拳銃で十分です。アメリカでは突撃銃のような殺傷力の強い銃が容易に手に入ります。

「銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ」という論理もあります。
しかし、銃がなければ、つまりナイフなどではそれほど人を殺せません。銃規制をすれば殺される人の数がへるのは明らかです。

銃規制のないアメリカと銃規制のある国々を比べてみれば、銃規制のある国のほうが銃による死者数が少ないのは明らかです。

もっとも、そういう数字とは関係ない論理もあります。
5月27日、全米ライフル協会の総会がテキサス州で開かれ、トランプ前大統領が出席して、「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」と語りました。
この論理は前から言われているものです。
これは善悪の問題ですから、銃による死者数では説得できません。「悪人をはびこらせていいのか」という反論があるからです。

このような善悪や正義の問題になると誰もが思考停止に陥ってしまいます。
しかし、私は進化倫理学ないし科学的倫理学を標榜しているので、その立場から説明することができます。


まずひとつ言えるのは、「銃を持った善人」は必ずしも「銃を持った悪人」を止めることはできないということです。
人間と人間が戦えば、善悪は関係なく強いほうが勝ちます。
ハリウッド映画では最後には悪人が必ず負けますが、それは映画だからそうなるので、現実は違います。
ということは、「銃を持った悪人」を止めるには、その悪人より強力な銃を持った人間が必要だということです。

ですから、銃規制反対派は強力な銃を容認するのです。


つまりトランプ前大統領の言う「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」というのは、実は力の論理にほかなりません。

この力の論理はアメリカの歴史を貫いてきました。
独立戦争、先住民との戦い、黒人奴隷の支配のために、白人は銃を手離せませんでした。
銃規制反対派はアメリカの歴史を背負っているので、それだけ強力です。


このような銃規制反対派の力の論理はアメリカ全体をおおって、アメリカの外交安保政策も力の論理になっています。
「正義のアメリカが悪の国を止める」というのが基本なので、アメリカはどこよりも強力な軍事力を持っています。
アメリカも名目は「安全保障」と言っていますが、安全保障なら自国を守るだけの(護身用の銃みたいな)軍事力でいいはずなのに、実際は安全保障を超えた(突撃銃のような)軍事力を持って、世界中に展開できる体制になっています。

日本もアメリカの論理に巻き込まれて、防衛力と言いながら他国を攻撃する能力を持とうとしています。


たいていの人間は、自分を悪人ではなく善人だと思っています。
この観点から「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」という論理を批判することもできます。
ヘイトクライムで銃を乱射する犯人は、自分は悪人を止める善人だと思っているに違いありません。

善悪や正義を持ち出すと、客観的な基準がないので、結局力の論理になってしまいます。
人類は長年の経験からそのことを理解して、「法の支配」をつくりだしました。
法は明文化されているので、客観的な基準になります。「法の支配」によって人間社会は安定しました。

アメリカはもちろん「法の支配」の国ですから、トランプ前大統領は「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った警官である」と言えばよかったのです。
警官なら訓練されて数も多いので、銃を持った悪人を確実に止められます。
「銃を持った善人」はなにをするかわかりません。
アメリカは「銃を持った善人」が野放しになっているのです。


アメリカの銃規制反対派が「法の支配」に目覚め、警察に治安をゆだねれば、アメリカの治安は大いに改善されます。
そして、アメリカの外交安保政策も変わるでしょう。
アメリカが世界に「法の支配」を行き渡らせれば、世界は大いに平和になります。

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米軍によるソレイマニ司令官殺害は、どう見ても無法行為です。
アメリカはソレイマニ司令官をテロリストに指定していましたが、勝手に指定して、勝手に殺しただけです。
イラン国会はこの事件を受けて、すべての米軍をテロリストに指定する法案を可決しました。
無法の世界がどんどん拡大しています。

無法の世界といえば、西部劇がそうです。
私の世代は西部劇を見て育ったようなものです。子どものころ、映画はもちろんテレビでもアメリカ製の西部劇のドラマをいっぱいやっていました。

西部劇では、保安官は登場しても重要な役割は果たさず、主人公は自分の力で悪漢(あるいはインディアン)を倒さなければなりません。
法より力――というのが西部劇の基本原理です。

現在のアメリカは法の支配が行われていますが、銃を所持する権利も絶対視されています。法の支配は表面的なもので、一皮めくれば「法より力」の原理が現れます。

トランプ政権は2017年12月、安全保障政策のもっとも基本となる「国家安全保障戦略」を発表しましたが、その「四本柱」は次のようなものです。

I. 国土と国民、米国の生活様式を守る 
II. 米国の繁栄を促進する 
III. 力による平和を維持する 
IV. 米国の影響力を向上する
https://jp.usembassy.gov/ja/national-security-strategy-factsheet-ja/

「法の支配」も「世界」もありません。「アメリカ・ファースト」があるだけです。
「力による平和」は、銃で自分の身を守るという西部劇の原理です。

今のアメリカは法の支配が行き渡り、腰に銃をぶら下げていなくても警察が守ってくれますが、アメリカ人にとってフロンティアは世界に拡大し、アメリカ国外が西部劇の世界になりました。
世界に法の支配を広げるのではなく無法状態を広げるのがアメリカのやり方です。無法の世界では力のある者が得をするからです。

よくアメリカのことを「世界の警察官」にたとえますが、警察官なら法に従います。
今のアメリカをたとえるなら「自警団のボス」か「ギャングのボス」というべきです。

しかし、長い目で見れば今の無法の国際社会は過渡期で、いずれ法の支配が行き渡るに違いありません。

今の日本は「自警団のボス」に従っていますが、いつまでもこの状況は続きませんから、自分の手を汚さないようにしないといけません。


アメリカはソレイマニ司令官を殺害し、イランは米軍基地に弾道ミサイルで報復攻撃をしましたが、今のところアメリカもイランも抑制された対応をしているようです。
これはなぜかというと、「法の支配」はなくても「経済の支配」があるからです。
ソレイマニ司令官殺害の瞬間に株価は下がり、原油価格は上がりました。本格的な戦争になれば双方に大きな経済的損失が生じるのは目に見えています。

平和は「法の支配」でなく「経済の支配」でも達成できるのかもしれません。

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