
7月に日本版Netflixで配信され、8月に7年ぶりに地上波で放映されたアニメ「火垂るの墓」(高畑勲監督、野坂昭如原作)が、ガザやウクライナの惨状などと重ね合わされて、改めて注目されています。
その中で、9月24日付朝日新聞が「火垂るの墓自己責任論語る若者」という記事で、最近の若者は妹の節子が死んだのは兄の清太のせいだとか、自業自得だとか考える者が多いと書いていました。
昨秋、Netflixで「火垂るの墓」の世界配信が始まったころ、「妹はクズな兄貴のせいで……」という歌詞のラップ曲がティックトックに投稿され、約5万の「いいね」を集めたということです。
「火垂るの墓」のストーリーを簡単に説明しておくと、清太と妹の節子は第二次世界大戦末期、米軍の空襲で神戸の実家が焼失し、母親を亡くします(父親はおそらく戦死)。親戚のおばさん宅に住まわせてもらいますが、食事の量を少なくされたり、「疫病神」などと嫌みを言われたりすることに耐えられず、近くの防空壕で暮らし始めます。当初は自由な生活を楽しんでいましたが、食料が尽き、終戦直後に節子が栄養失調で亡くなり、その後清太も亡くなります。
1988年に公開された当時は、清太に同情的な観客が多かったということです。
しかし、朝日新聞の記事によると、神戸市外国語大学で作品を学生に見せたあと「清太自身の行動に責任があったと思うか」というアンケートを行ったところ、「あった」と「少しあった」が9割超、「あまりなかった」と「なかった」が1割弱でした。
2回生の女性(19)は「おばあさんは意地悪でも、最低限の食事は出していた。清太は見通しが甘く、同情できない」と言いました。中学生で初めて見た際は、かわいそうな兄妹と思いましたが、今回見て「清太の破滅的な無計画さ」にいらだったということです。
このような若者の反応に、新自由主義的な自己責任論の蔓延が感じられます。
しかし、「新自由主義的な自己責任論」という一言で片付けるのも安易です。
「火垂るの墓」という具体例があるので、自己責任論の中身を掘り下げてみたいと思います。
「火垂るの墓」の兄妹に対する評価が変わってきたのは、世の中の子どもに対する評価が変わってきたことが影響していると思われます。
近ごろは赤ん坊の泣き声がうるさいとか、公園で遊ぶ子どもの声がうるさいとか、公共の場で子どもが騒がないように親はしつけをちゃんとするべきだとか、とにかく子どもに対する風当たりが強くなっています。
そのため、「おとな対子ども」という状況では、子どもよりおとなに味方する人が多くなっています。
そうすると、「おとなの責任」は不問にされて、「子どもの責任」ばかりが問われることになります。
このような責任のアンバランスから自己責任論が生まれます。
親を亡くした14歳の清太と4歳の節子は親戚のおばさんの家に引き取られますが、おばさんから受ける仕打ちは虐待です。
食糧難の時代に二人の子どもの世話をするのはたいへんでしょうが、子どもを引き受けた以上は、できる限りの世話をするのが親代わりとしての責任です。
ところが、おばさんの責任を不問にする人がいます。そういう人は清太にすべての責任を負わせ、自己責任論を言います。
清太が感情的になって家を出て、将来の見通しもなかったことも非難されていますが、14歳なのですから、おとなのように判断できなくて当然です。
子どもにおとなのような判断力を求めることも自己責任論につながります。
それから、自己責任論は戦争という大状況を無視しています。
これは戦争という大きな悲劇の中の物語です。したがって、清太と節子はもちろん、虐待をしたおばさんも戦争の被害者だといえます。
清太の責任を言う人は戦争責任を不問にしています。
戦争責任というと、天皇とか東条英機とか軍部とかが想起されますが、これは子どもの視点の物語ですから、やはり「おとなの戦争責任」ということになるでしょう。
おとなが起こした戦争のために子どもが不幸になったのです。
したがって、このアニメのおとなの観客は、戦争の悲惨さとともにみずからの罪深さについて考えざるをえないはずです。
しかし、みずからの戦争責任について考えたくない人もいます。そういう人は子どもの清太に責任をかぶせます。
高畑勲監督は公開当時に「もし再び時代が逆転したとしたら、果たして私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。(中略)未亡人(親戚のおばさん)以上に清太を指弾することにはならないでしょうか。ぼくはおそろしい気がします」と語っています。
時代は逆転しつつあるのでしょうか。
ともかく、自己責任論は、強者が弱者に責任を押しつけるところに生じるものです。
