村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:発達障害

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ロシアのウクライナ侵攻に続いてイスラエルがガザやイランなどへの攻撃を強め、さらにアメリカも参戦しました。
各国の内政も、右派と左派、保守とリベラルの対立が激化し、移民排斥運動などが高まっています。
こうした動きのもとにあるのは「悪をなくせば世界はよくなる」という考え方です。

プーチン大統領は「ウクライナの非ナチ化」を掲げてウクライナに侵攻しました。つまりナチスという「悪」を排除することが目的です。
イスラエルは「ハマス殲滅」を掲げていました。ハマスはテロリストという「悪」です。
一方、ハマスなどはイスラエルのシオニズムという「悪」を攻撃しています。
トランプ大統領は不法移民のことをテロリスト、殺人者、精神異常者と呼び、「悪い遺伝子が流入している」と主張しました。

こうした考え方は「正義」とも「勧善懲悪」ともいわれますが、もっと広くいうと「道徳」です。
道徳は「悪いことをしてはいけない」ということを教えます。そして、悪いことをする者を罰し、矯正し、矯正できない場合は排除するように教えます。
こうした道徳が対立や争いを激化させ、戦争を起こしているのです。

道徳が世の中を悪くしている――ということは、冷静に世の中を観察すればわかることですが、誰もはっきりとは言いません。
なぜなら道徳はよいものとされているからです。道徳を悪くいうのはタブーです。
しかし、道徳が世の中を悪くしているのはまぎれもない事実です。
具体的に見ていけばわかります。


アルコール依存症になった人は、道徳的な観点からは、過度な飲酒という悪癖に陥った悪い人とされます。実際、本人が健康を害するだけでなく、家族など周りの人に迷惑をかけ、不利益を与えています。
周りの人はアルコール依存症の人を「意志が弱い」とか「家族に迷惑をかけた」とか「約束を破った」とか言って非難します。この非難は、その人を立ち直らせようという善意からのものです。しかし、アルコール依存症の人は非難されて立ち直ることはありません。逆に非難されることがさらなる飲酒の原因になり、症状の悪化を招きます。
覚醒剤などの薬物依存症の人は、犯罪者でもあるので、本物の悪人としてマスメディアからも盛大に非難されます。もちろんこの場合も、非難されて立ち直ることはなく、悪化するだけです。
ただ、ここ数年は、薬物依存症は病気であるという認識が広がってきて、マスメディアは以前のようには薬物依存症の人を非難しなくなりました。

依存症は病気なので、医学的・心理学的な治療が必要です。ところが、人々は道徳的観点からそれを「悪」と見なし、罰したり、矯正しようとしたりして治療を妨げ、症状を悪化させてきました。
道徳が「悪」を生み出しているということがわかるでしょう。


道徳は、子どもが悪いことをしたら叱るべきと教えています。
子どもが行儀の悪いことをしたり、乱暴をしたり、汚い言葉を使ったり、嘘をついたりしたら、親が叱らなければなりませんし、もし叱らないと子どもはどんどん悪くなってしまうとされます。
こういう考え方が幼児虐待を生んでいることは明らかです。
ちなみに未開社会では親が子どもを叱ることはありませんし、動物の世界でも親が子どもを叱ることはありません。

毎日子どもを叱っている親は、自分のしていることは虐待ではないかと悩むことがあります。
そんなとき、子どもは発達障害だったと診断されると親は救われます。子どもを叱らなくてよくなるからです。発達障害は遺伝的なものなので、叱って矯正できるものではありません。
もちろん叱られなくなった子どもも救われます。
ここでも道徳が事態を悪くしていることがわかります。

発達障害は「遺伝」ですが、実は子どもが持っているさまざまな個性も「遺伝」です。
最近は「障害」という言葉を避けて、発達障害といわずに非定型発達と呼ぶことが増えています。
非定型発達と定型発達の間に線を引くことはできません。
発達障害の子を叱ることが無意味なら、発達障害でない普通の子を叱ることも同様に無意味なことです。
そのような認識が広まれば、親は子どもを叱らなくてもよくなり、親子は仲良くなり、もちろん幼児虐待などもなくなります。


もっとも、それに対しては「子どもが悪いことをしたときは叱るべきではないか」という反論があるかもしれません。
そういう反論はまさに道徳が生み出した思考です。

文明がいくら発達しても、赤ん坊はすべてリセットされて、原始時代と同じ状態で生まれてきます。そうすると文明化した親の意識が赤ん坊から乖離し、親は子どもに共感しにくくなり、子どもに対して「こんなことがわからないのか」「こんなことができないのか」という不満を募らせますし、中には子どもがかわいくないという親もいます。また、洗練された文化的な生活をしていると、子どもの自然なふるまいがおとなにとって都合が悪くなります。家の中の高価な品物を壊されては困りますし、家の中を汚されても困ります。また、家の中には子どもにとって危険なものもあります。
そうすると親は子どもに、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと言って、子どもの行動をコントロールせざるをえません。
そのとき子どもがしてはいけないことを「悪いこと」すなわち「悪」と名づけたのです。
一方、子どものするべきことは「よいこと」すなわち「善」と名づけ、親は子どもに「よいことをしなさい。悪いことをしてはいけない」と主張しました。
親にとって都合の悪いことが「悪」で、都合のいいことが「善」です。つまり善悪の基準は親の利己心です。

子どもは昔と変わらず自然にふるまっているだけです。それが文明の進んだある時点から「悪」とされるようになりました。
「美は見る者の目に宿る」という言葉があるので、それにならっていうと「善悪は見る者の目に宿る」です。
つまり人間は「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、親は子どもの「悪いこと」をやめさせ、「悪い子」を「よい子」にしようとしてきましたが、まったく間違った努力です。
「悪」は子どもの中にあるのではなく、自分の目の中にあるからです。
私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。


40人の生徒がいるクラスで、教師はいつも騒いでいる「悪い子」を排除すれば「よいクラス」になると考え、「悪い子」を排除したとします。しかし、そうしてつくった「よいクラス」の中にも騒がしい子とおとなしい子がいます。騒がしい子は目障りなので、また排除します。こうしたやり方ではどこまでいっても「よいクラス」は実現できません。それに、この教師は排除された子どものことを無視しています。

今の世界も同じ排除の論理で、犯罪者、テロリスト、悪人、不法移民を排除して「よい世界」を実現しようとしていますが、排除された者がおとなしくしているわけがなく、このやり方はうまくいきません。
DEI(多様性、公平性、包括性)の論理でこそ平和で安定した社会をつくることができます。



人間は親(ないしは親の代理人)からたっぷりの愛情を受け、全面的に肯定されることでまともな人間に育ちます。
しかし、文明人の親は子どもの中の「悪」を排除しようとして、暴力や暴言でしつけをするので、排除の論理を身につけた暴力的な人間に育ってしまいます。
そうした人間が互いに争って混乱を招いているのが今の世界です。
世界を改革するには親子関係を見直すことから始めなければなりません。



今回の記事は「『地動説的倫理学』のわかりやすいバージョン」で述べたことをより具体的に述べたものです。
また、より詳しいことは別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。


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私はコペルニクスの地動説に匹敵するような画期的な理論を発見し、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」において紹介しています。
「コペルニクスの地動説に匹敵する」とは大げさだと思われるかもしれませんが、実際そうなのだからしようがありません(私は「究極の思想」とも呼んでいます)。

これまでは「天動説的倫理学」から「地動説的倫理学」への転換について書いていたので、ちょっとむずかしかったかもしれませんが、これからはわかりやすくなります。

コペルニクスの地動説は、太陽の周りを地球や金星や火星が回っている図を見るだけで理解できますし、金星や火星の動きはニュートン力学で明快に説明できます。
コペルニクス以前のプトレマイオスの天動説の天文学でも、金星や火星の動きを説明する理論が一応あったのですが、複雑で難解でした。
思想や哲学というと難解なものと決まっていますが、それはプトレマイオスの天動説と同じで、根本的に間違っているからです。


「道徳観のコペルニクス的転回」は第4章の5「とりあえずのまとめ」まで書いて、しばらく休止していましたが、今回公開分はその続きになります。
以前のものを読まなくても、これだけで十分に理解できますが、「道徳観のコペルニクス的転回」について簡単な説明だけしておきます。

動物は牙や爪や角を武器にして生存闘争をしますが、人間は主に言葉を武器にして互いに生存闘争をします。言葉を武器にして争う中から道徳が生まれました。「よいことをせよ。悪いことをするな」と主張して相手を自分に有利に動かそうとするのが道徳ですが、この善悪の基準は各人の利己心から生まれたので、人間は道徳をつくったことでより利己的になり、より激しく生存闘争をするようになりました。
一方、争いを回避する文化も発達しました。道徳ではなく法律や規則などで社会の秩序を維持することで、これを法治主義や法の支配といいます。文明が発達してきたのは、道徳の支配のおかげではなく法の支配のおかげです(あと、経済活動も道徳と無関係に行われています)。
しかし、法の支配が及ばない領域があります。ひとつは国際政治の世界で、もうひとつは家庭内です。このふたつはまだ道徳と暴力の支配する世界です。

家庭内には夫婦の問題もありますが、ここでは親子の問題だけ取り上げています。
「究極の思想」の威力がわかるでしょう。



第5章の1「教育・子育て」
「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すると、世界の見え方が変わってくる。
これまでは誰もが文明から未開や原始を見、おとなから子どもを見ていた。これでは物事の関係性がわからない。進化の系統樹は、バクテリアやアメーバを起点とするから描けるのだ。人間を起点として進化の系統樹が描けるかどうかを考えてみればわかる。地球を中心にして太陽系の図を描けるかというのも同じだ。

子どもが自然のままに行動をしていると、あるとき親が「その行動は悪い」とか「お前は悪い子だ」と言い出した。子どもにとっては青天の霹靂である。そして、親の言動は文明の発達とともにエスカレートし、子どもは自由を奪われ、しつけをされ、「行儀よくしなさい」「道路に飛び出してはいけません」「勉強しなさい」などと言われるようになった。それまで子どもは、年の近い子どもが集団をつくって、もっぱら小動物を追いかけたり木の実を採ったりという狩猟採集のまねごとをして遊んでいたのだ。
『旧約聖書』では、アダムとイブは善悪の知識の木から実を食べたことでエデンの園を追放されるが、この話は不思議なほど人類が道徳を考え出したことと符合している。人類は道徳を考え出したばかりに、「幸福な子ども時代」という楽園を失ってしまったのだ。
親は子どもを「よい子」と「悪い子」に分け、「よい子」は愛するが、「悪い子」は叱ったり罰したり無視したりする。子どもは愛されるためには「よい子」になるしかないが、そうして得られた愛は限定された愛であり、本物の愛ではない。本物の愛というのは、「なにをしても愛される」という安心感と自己肯定感を与えてくれるものである。
今の世の中、どんな子どもでも「悪いこと」をしたときは、怒られ、叱られ、罰される。親としては、子どもが「悪いこと」をしたのだから叱るのは当然だと思っているのだが、「悪いこと」の判断のもとになる道徳はおとなが考え出したものである。親が道徳を用いると、親は一方的に利己的にふるまうことになる。それに対して子どもが反抗するのは当然であるが、反抗的な態度の子どもを叱らないと、子どもは限りなくわがままになるという考え方が一般的なので、親はさらに叱ることになる。こうして悲惨な幼児虐待事件が起こる。
人間の親子はあらゆる動物の中でもっとも不幸である。最近は哺乳類の親子の様子を映した動画がいくらでもあって、それらを見ると、親は子どもの安全にだけ気を配って、子どもは自由にふるまっていることがわかる。子どもが親にぶつかったり親を踏んづけたりしても、親は決して怒らない。しつけのようなこともしない。動物の子どもはしつけをされなくてもわがままになることはない。未開社会の子どももしつけも教育もされず、子ども同士で遊んでいるだけだが、それでちゃんと一人前のおとなに育つ。動物の子どもや未開人の子どもを見ると、文明人の親が子どものしつけにあくせくしていることの無意味なことがわかる。

どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる。赤ん坊を文明化しなければ、その文明はたちまち衰亡してしまう。したがって、どんな文明でも子どもを教育するシステムを備えている。文明が高度化するほど子どもには負荷がかかる(親と教師にもかかる)。人間は誰でも好奇心があり学習意欲があるのだが、教育システムつまり学校は社会の要請に応えて、子どもの学習意欲とは無関係に教育を行う。つまり少し待てば食欲が出てくるのに、食欲のない子どもの口にむりやり食べ物を押し込むような教育をしている。
こうした教育が行われているのは、文明がきびしい競争の上に成り立っているからでもある。戦争に負けると、殺され、財産を奪われ、奴隷化されるので、戦争に負けない国家をつくらなければならない。古代ギリシャで“スパルタ教育”が行われたのは強い戦士をつくるためであったし、近代日本でも植民地化されないために、他国を植民地化するために“富国強兵”の教育が行われた。
個人レベルの競争もある。スポーツや音楽などは幼いころに始めると有利な傾向があるので、親はまだなにもわからない子どもに学ばせようとするし、よい学歴をつけるためにむりやり勉強させようとする。
いわば親は“心を鬼にして”教育・しつけを行うので、そうして育てられた子どもは、親とは鬼のようなものだと学習して、自分は最初から鬼のような親になる。そうすると、生まれてきた赤ん坊を見てもかわいいと思えないし、愛情も湧いてこないということがある。これも虐待の原因である。
子どもにむりやり勉強させて、かりによい学歴が得られたとしても、むりやり勉強されられた子ども時代が不幸なことは間違いない。最大多数の最大幸福という功利主義の観点からも、子どもの不幸は無視できない。今後文明は、子どもが「教育される客体」から「学習する主体」になる方向へと進んでいかなければならないだろう。

最近、発達障害が話題になることが多いが、発達障害もまた多分に文明がつくりだしたものである。
たとえば学習障害(LD)は読み書き計算の学習が困難な障害だが、こんな障害はもちろん狩猟採集社会には存在しなかった。注意欠如・多動性障害(ADHD)は集中力がなく落ち着きがない障害だが、これは長時間教室の椅子に座って教師の話を聞くことを求められる時代になって初めて「発見」されたものである。自閉症スペクトラムは対人関係が苦手な障害だが、これも文明社会で高度なコミュニケーション能力が求められるようになって「発見」されたものだろう。
つまりもともとさまざまな個性の子どもがいて、なにも問題はなかったのであるが、文明が進むとある種の個性の子どもは文明生活に適応しにくくなった。個性は生まれつきのもので、変えようがないので、親や学校や社会の側が子どもに合わせるしかないのであるが、不適応を子どもの“心”の問題と見なし、子どもをほめたり叱ったりすることで子どもを文明生活に適応させようとした。実際には叱ってばかりいることになり、その個性の上に被虐待児症候群が積み重なった。おとな本位の文明がこうした子どもの不幸をつくりだしたのである。
したがって、発達障害という診断名がつくようになったのは、当人にとっては幸いなことである。虐待のリスクが少なくなるからである。

現在、子どものしつけや、習い事、進学などで悩んでいる親にとって、「道徳観のコペルニクス的転回」を知ることは大いに意味があるだろう。おとな本位の考え方を脱して、子どもの立場から考えられるようになるからである。
「問題児」という言葉があるが、存在するのは問題児でなくて「問題親」である。つまりさまざまな問題は、子どもではなくおとなや文明の側にあるのである。

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「ほんとうに想像を絶するだらしなさ、ルーズさによって、1日延び、1週間、1カ月延びてっていう状態で、3年たってしまったということです」

お笑い芸人徳井義実氏が脱税問題で記者会見したときの弁明の言葉です。
これを聞いて、「理解できない。悪質だ」と怒る人がいます。
しかし、私の感想は「人間にはそういう心理があるなあ」というものでした。


最初の報道によると、徳井氏は節税のために2012年に個人会社を設立しましたが、2015年までの4年間に個人的な旅行や洋服代、アクセサリー代などを会社の経費として計上していたのを東京国税局は経費として認めず、約2000万円の所得隠しを指摘しました。2016年から2018年までの3年間はまったく申告しておらず、東京国税局は約1億円の申告漏れを指摘し、重加算税等を含めた追徴税額はあわせて約3400万円にのぼると見られるということでした。

その後、10月26日付朝日新聞の『チュートリアル徳井さん、活動自粛 「見つめ直したい」』という記事でわかったことを付け加えます。
(徳井さんは)税務署に促されて申告した後も税金を納めなかった。このため、16年5月ごろに銀行預金が差し押さえられた。社会保険も未加入だった。

徳井さん自身の所得税も無申告で、12~14年分と15~17年分を税務署から指摘をされた後に申告した。

 吉本や関係者によると、加算税などを含めた追徴税額は法人税が約3700万円、消費税が約2100万円、同社が徳井さんに役員報酬を支払う際に徴収(天引き)していなかった源泉所得税が約4400万円で、計1億円超にのぼった。
https://www.asahi.com/articles/ASMBV3H8LMBVUZVL004.html?iref=pc_ss_date

脱税というのは、一般に税金をごまかして得をしようとすることですが、徳井さんの場合は単に申告しないだけで、ごまかして得をしようという意図は認められません。

「申告した後も税金を納めなかった」というのが不思議です。
申告というのはめんどうな作業ですが、申告したあとは銀行から振り込むだけです。
想像するに、通帳と印鑑、振込金額と振込先を書いたメモを持って銀行の窓口に行くのがめんどうなので、先延ばしし続けたのでしょう。
申告を手伝った税理士も、銀行振り込みまで手伝うという頭がなかったものと思われます。

同様のことは電気代、ガス代の支払いでもあったと、芸人仲間の陣内智則氏が語っています。
徳井はお金があった時でも「ガス、電気止められていた」 陣内が明かす
(前略)
徳井とは「大阪時代から仲いい」という陣内は「本当に(納税は)国民の義務なんで、全然許せないし、情けないです」と話した上で、「大阪時代から、チュートリアル売れてたんで、お金はあったんです。(お金が)ある時期でも、(料金払わずに)ガス止められたり、電気止められたりとか。そこまでのルーズな所があった、って聞いたんで…」と公共料金を支払わず、ガスや電気を止められたことがあった、と聞いたことを明かした。

 当然、「なんでお前払えへんの?」と、仲間たちも信じられないほどだったといい、陣内は「(徳井の)イメージはハンサムな感じですけど、お金に関しては、こんなにブサイクなヤツやったんや、と(思った)」と話していた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191027-00000118-dal-ent
電気代、ガス代の請求書と現金を持って銀行などの窓口に行くことがめんどうだったのでしょう(自動振込にする手続きももちろんめんどうです)。
ほかにレンタルビデオの返却をしなかったために10万円の延滞金を払ったことがあるという情報もあります。

わずかの手間を惜しんだために電気やガスを止められ、多額の延滞金を払うのですから、完全に割りが合いません。
こういうことをする人は発達障害である疑いが濃厚です。
ネットを見ると、徳井義実氏と発達障害を結びつける意見がいっぱいあります。
発達障害の人を、その障害のゆえに非難するのは間違っています。


もっとも、徳井氏が発達障害かどうかは、今の時点ではわかりません。
しかし、徳井氏に税金をごまかそうという意図がなかったのは明らかです。
いや、旅行や洋服代を経費に計上して国税に所得隠しと指摘されたことには、ごまかそうという意図があったかもしれませんが、税金申告ではありがちなことであり、単に解釈の違いということもいえます。
結果的に、徳井氏は加算税のために本来納めるよりも多くの額を納めました。
税務署員に負担はかけましたが、それほど非難されることでしょうか。

カントは、行為を道徳的に評価するのは、結果ではなく動機によらなければならないと主張しました。これを「動機説」といいます。
しかし、世の中は「結果説」で動いています。
たとえば運転中に美人を見つけると目をやる男性ドライバーはいっぱいいます。美人に目をやったために重大事故を起こしたドライバーは、わき見運転をしたとして非難され、裁判になれば「当然するべき注意を怠った」と「不注意」や「怠慢」が責められます。しかし、いくら美人に目をやっても、事故にならなければ非難されません。
「あおり運転」は、相手を脅してやろうという「悪意」があることは明らかですが、結果、事故などが起こらなければほぼ罪には問われません。
こういうことは不当だとカントは主張しました。

しかし、動機というのは心の中のことで外からは容易にわかりませんから、世の中が結果説に傾くのはある程度やむをえないことです。

ただ、徳井氏のケースは、動機に悪意や利己心がないのは明白です。
では、どういう動機かというと、まず「めんどうくさい」というのがあります(読み書き計算が苦手などの発達障害の人はこの感情がひじょうに強いわけです)。
それから、「誰にも迷惑はかけない。自分が損するだけだからいいだろう」という意識があります。
普通の人は自分が損することに敏感ですが、こういう人は自分が損することがあまり気にならないのです。利己心が少ないともいえます。
ですから、こういう人は社会の緩衝材になるので、貴重な存在です。


悪意のない人間を非難して活動自粛に追い込むのは間違っています。
徳井氏の場合は、税理士や吉本興業のマネージャーが彼の性格を理解してフォローすればやっていけるはずです。
結婚して奥さんがフォローするようになれば問題はなくなります。

多様性が重視される時代ですから、徳井氏のような人間も生きていける社会でなければなりません。

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