村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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世界的に貧富の差が拡大しています。
これはトマ・ピケティが著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では「資本収益率>経済成長率」という法則が成立する、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを明らかにした通りです。
共産圏が存在していたときは、資本主義国でも労働者に配慮していましたが、冷戦崩壊後は資本主義が強欲な正体を現し、日本では非正規労働者が増えて労働者の低賃金化が進みました。
アメリカでも富裕層に富が集中し、製造業の労働者には「見捨てられた」という不満が強まり、それがトランプ氏を大統領に押し上げたといわれます。しかし、トランプ政権の閣僚の多くは大富豪で、低所得層のための福祉を削減しようとしています。

トマ・ピケティは、「金持ちはますます金持ちになる」という事実を指摘しただけで、なぜそうなるのかは指摘していません。そのこともあって、格差を巡る議論はつねに迷走します。
たとえば堀江貴文氏はYouTubeチャンネルで、財務省解体デモは無意味であると主張して、「努力しようぜみんな。お前が貧乏なのは財務省のせいじゃねえよ。お前のやる気とか能力が足りねえからだよ」と言いました。
「貧乏なのは努力しないからだ」「能力のある者が高収入なのは当然だ」というのは格差を肯定するお決まりの理屈ですが、「貧乏な家に生まれると高収入になるのはむずかしい」とか「誰でも努力できるわけではない」という反論もあり、議論は堂々巡りになります。


ここは原点にまでさかのぼって考えないといけません。
格差社会を思想の課題として初めて取り上げたのはジャン=ジャック・ルソーです。
ルソーは、人間は自然状態では平等で平和に暮らしていたが、文明とともに不平等が生じたと考えました。
マルクス主義もこれを受け継いでいます。原始共産制では人々は平等に暮らしていたが、豊かになるとともに貧富の差が生じたとしました。
しかし、なぜ文明化したり豊かになったりすると貧富の差が生じるのかは説明されません。

ルソーの『人間不平等起源論』から有名なくだりを引用します。

ある土地に囲いをして「これは俺のものだ」ということを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見出した最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。

持てる者と持たざる者が生じた瞬間を描いています。
もちろんこれは寓話で、実際にそういうことがあったということではありませんが、ここには納得いかないものがあります。
ある土地を「これは俺のものだ」と言うことを初めて思いついた人間はいたかもしれません。しかし、周りの人間がその言葉を受け入れたとは思えません。「それはお前のものじゃない。みんなのものだ」と反論したはずです。そうしないと自分が損をするからです。
では、初めて土地所有を実現した人間はどんな人間だったのでしょう。
ある土地を「これは俺のものだ」ということを思いついた人間は、それを思いつくだけに知的能力の優れた人間だったでしょう。当然弁も立つでしょう。しかし、そんな言葉だけで説得はできません。
ではどうしたかというと、その人間は身体能力にも優れていて、反対する人間を殴りつけて従わせたのです。つまり知的能力と身体的能力ともに優れた人間が初めての土地所有者となったのです。

原始時代と変わらない生活をしている未開社会を調査すると、みんな仲良く暮らしています。狩猟も採集も共同作業です。病気やケガで狩猟に参加できなかった者にも、狩猟の成果は分配されます。食べ物がないと生きていけないので、これは最低限の福祉、つまり生活保護みたいなものです。
また、子どもの数が多い者にはそれに応じて分配の量も増えます。つまり未開社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産制です。

人間の能力は一人一人違うので、狩猟で多くの獲物を捕る人間とあまり捕らない人間がいたはずですが、狩猟採集社会ではお互い利他心で結びついていたので、その違いは問題になりませんでした。
しかし、農耕が始まり、社会に富が蓄積され、集団が大きくなり、また集団の外の人間との交流が広がると、利己心と利己心がぶつかり合い、争いが起こります。そうすると能力の優れた人間が争いに勝ち、富を獲得し、より高い社会的地位につきます。
そして、富は相続され、社会的地位は世襲されるので、強者はますます強くなります。つまり「生物学的強者」が「社会的強者」になるのです。
そしてあるとき、強者の一人が「この土地は俺のものだ」と言うことを思いついたのです。そうすると、弱者は従わざるをえません。そうして土地所有制度が始まったというわけです。

いずれにしても、人間には生まれつき能力差があり、能力差から貧富の差が生まれ、貧富の差は文化の中で蓄積されてどんどん拡大してきて、現代の極端な格差社会が生まれたと考えられます。
こう考えると、自然状態と文明が連続的にとらえられます。


「人間の生まれつきの能力差から社会格差が生まれた」というのはきわめて単純なことですが、これまでほとんどいわれてきませんでした。

たいして勉強しなくても東大に入れる人がいる一方、必死に勉強しても東大に入れない人がいます。その違いは生まれつきの頭のよし悪しによるのだということは誰もが認識しています。
しかし、「あの人は頭がよい」とは言っても、「あの人は生まれつき頭がよい」と言うことはめったにありません。
というのは「人間には生まれつき能力差がある」とか「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーだからです。

人間の能力は、遺伝によって決まっている部分と、環境の影響によって決まる部分があります。
両者の割合がどんなものであるかは、昔から「氏か育ちか」といわれ、議論されてきました。
昔は育ち、とりわけ教育で決まる部分が大きいと考えられていました。
しかし、科学的研究が進むと、遺伝によって決まる要素の大きいことがわかってきました。
科学的研究というのはたとえば、生まれてすぐに引き離されて別の環境で育った一卵性双生児を研究するといったやり方です。

遺伝の要素が大きいといっても、環境の要素も重要です。優れた運動能力を持って生まれてきた人でも、なにも鍛えなければ宝の持ち腐れです。あまり生まれつき運動能力のない人は、一生懸命練習すればある程度のところまでは行けますが、一流になるのはむりでしょう。
ここには「運」の要素もあります。優れたピアノの才能のある子どもでも、最初のピアノの先生との相性が悪くて、ピアノ嫌いになってしまうということもあります(これも環境要素のうちです)。

ところが、先にいったように「人間の能力はある程度生まれつきで決まっている」ということはタブーです。
というのは、人間の遺伝について語ると、差別や優生思想と結びついてしまうからです。
たとえば「知能はある程度遺伝で決まる」と言うと、「知能の低い子どもは大学に行ってもむだだ。早いうちから職業教育をするべきだ」という意見が出てくる可能性があります。
そのため「君子危うきに近寄らず」で、誰も人間の遺伝について語らなくなっているのです。

『遺伝子の不都合な真実』という本を書いた行動遺伝学者の安藤寿康氏は、長年にわたり双生児研究をしてきましたが、教育心理学会で研究発表をするといつも会場には閑古鳥が鳴き、論争すら起こらなかったそうです。「おそらく、文系の世界では『遺伝子』に触れてはならなかったのでしょう」と書いています。
学界でもこのありさまですから、一般社会ではなおさらです。
いや、一般社会で人間の遺伝について語られることはけっこうありますが、それは決まって差別や優生思想がらみです。
ですから、タブーはますます強化されます。


格差社会が発生した根本原因は人間の生まれつきの能力差にあるので、格差社会について語るなら人間の生まれつきの能力差から語り始めなければなりません。
ところが、誰もが生まれつきの能力差を避けて語るので、議論はすべてピンボケになります。

たとえば「親ガチャ」という言葉があります。
親が貧乏だと子どもは十分な教育が受けられません。DVをする親もいます。これらは親ガチャの外れです。
逆に両親がいつも知的な会話をしていて、家には本がいっぱいあり、子どもは大学にも行かせてもらえるというのは、親ガチャの当たりです。
子どもの能力はたぶんに親によって左右されるということを「親ガチャ」という言葉は表現していて、これは自己責任論を否定する意味があります。
しかし、子どもの能力と親の関係をいうなら、親の能力が子どもに遺伝するということもいわねばなりません。
しかし、それはタブーなので誰もいいません。


人間の遺伝について語ることがタブーになったのは、「遺伝」という言葉にも原因があると思われます。
一般の人は「遺伝」という言葉から、親の能力や性格がそのまま子どもに伝わることを想像してしまいます。しかし、実際にはそのまま伝わるということはありません。それは同じ両親から生まれた兄弟が、見た目も性格も能力もかなり違うことを見てもわかるでしょう。親と子を比べてもかなり違います。トンビがタカを生むこともあるし、タカがトンビを生むこともあります。
したがって、私は「遺伝」ではなく「生得」つまり「生まれつき」という言葉を使ったほうがいいと思います。
生まれつきということも、広くとらえれば遺伝になるので、学者はもっぱら遺伝という言葉を使いますが、各個人にとっては、その性質が親から伝わったということより、その性質が変えられるかどうかのほうが重要なので、生まれつきという言葉を使ったほうがいいはずです。
その能力や性格が生まれつきであると思えば、それを変えようというむだな努力をしなくてすみます。
このことは親にとっても重要です。親の役割は子どもをとりあえず全面的に受け入れることです。子どもがうるさいので、おとなしい子どもにしようというのは間違った考えです。子どもがうるさいのは生まれつきの性質だと思えば、受け入れられるはずです。また、あまり成績のよくない子どもをよい学校に入れようとむりに勉強させることもなくなるのではないでしょうか。

また、能力がある程度生まれつきで決まるといっても、鍛えれば伸びることも事実です。能力といっても多様ですから、自分の能力で優れたものはなにかを見つけ(たいていそれは好きなものであることが多いはずです)、早いうちからそれを鍛え、長く続けていれば一流の域に達し、高収入につながることもあるでしょう。


「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーなために、社会にさまざまな混乱が生じています。
学校では、知的障害の子ども以外はみな同じ能力であるという前提で授業をしているので、能力がやや劣った子ども、「境界知能」といわれる子どもは授業から置き去りにされ、社会に不適応になり、犯罪者になったりします。このことは『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口 幸治著)という本によって注目されました。
一方では、頭がよくて授業が退屈だという子どももいるわけで、両方で社会の損失を招いています。

格差社会についての議論が迷走するのも、「人間には生まれつき能力差がある」と言うことがタブーになっているからです。
そのため「貧乏なのは努力しないからだ」という主張が横行し、生まれつき能力の足りない人が自己責任論で追い詰められています。

人間の生物学的能力差はわずかなのに、社会における収入格差は膨大です。
文明の初めに格差が生じて、拡大してきた軌跡を振り返れば、適正な格差がどんなものであるかについて議論ができます。



なお、「人間の能力は遺伝である程度決まっている」というのは科学的な事実です。科学的事実を言うことがなぜタブーになるのでしょうか。
その原因は、ダーウィンが『種の起源』の12年後に出版した『人間の由来』の間違いにあります。
これについては「道徳観のコペルニクス的転回」で書いています。


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「親ガチャ」という言葉がはやっています。

「親ガチャ」とは、どういう親のもとに生まれてくるかで子どもの人生が決まってしまうという意味の言葉です。
「ガチャ」は課金ゲームの用語からきていますが、商店の店頭などによくあるガチャガチャと同じことです。どんなカプセルが出てくるかは運次第です。

金持ちの親のもとに生まれるか、貧乏な親のもとに生まれるかで、人生は大違いです。
愛情ある親のもとに生まれるか、子どもを虐待する親のもとに生まれるかでも同様です。
これらを一言でいえば「環境」要因となります。

そしてもうひとつ、「遺伝」要因もあります。親の知能が高ければ、子どもの知能も高いだろうということがある程度言えます。運動能力、性格、健康などもある程度遺伝で決まります。

つまり「人生は環境と遺伝で決まる」ということがいえます。
「親ガチャ」はこのことをわかりやすく表現した言葉で、当たり前の内容ですが、今、流行語になっているのにはいくつかの理由があります。


「人生は環境と遺伝で決まる」といっても、実際は環境重視派と遺伝重視派がいます。
環境重視派は、人間は生まれたときはみな同じようなもので、環境によって変わってくると考えます。ですから、貧乏な子には奨学金などを出し、虐待されている子には福祉を手厚くし、学校から落ちこぼれをなくせば、みんなが同じ人生のスタートラインに立てて、平等な社会になるだろうと考えます。
環境重視派は教育界の主流であり、左翼、リベラルに多くいます。

一方、遺伝重視派は、人間は生まれつき能力が違うので、学校は能力別クラス編成や飛び級によって子どもの能力を引き出すものにし、能力のない子どもを引き上げる努力をするのはむだだと考えます。
遺伝重視派は新自由主義とだいたい一致します。

以前は環境重視派と遺伝重視派がそれなりに拮抗していましたが、脳科学や認知科学や進化生物学が人間には遺伝的要素が大きいということを次々と明らかにして、最近は遺伝重視派が優勢になっています。
「人間の能力は遺伝でだいたい決まる」という認識が「親ガチャ」流行の背景にあると思われます。


それから、「環境」要因が変化しました。
トマ・ピケティは著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。資産は子どもに相続されるので、大規模な戦争や革命がない限り、資産家階級と労働者階級の貧富の差は限りなく拡大していくことになります。この理論によって世界的に貧富の差が拡大している現実が可視化されました。
戦後間もないころの日本は、貧しい家に生まれても、成功して金持ちになる可能性がいくらかありましたが、今は社会階層が固定化して、労働者の親のもとに生まれるとたいていずっと労働者で、へたをすると親よりも賃金が下がります。

このことも「親ガチャ」という言葉が流行する背景です。


世の中には「親ガチャ」という言葉を嫌う人もいます。
ちょっとふざけた感じのする言葉だということだけでなく、自分の不幸を親のせいにしているということからです。

確かに「自分になんの才能もないのは親の遺伝のせいだ」と言う人は(それが事実だとしても)、「親ガチャ」という言葉を使って後ろ向きになっているだけです。
しかし、親に虐待されたような人は、それを正しく認識することが前を向いて歩きだすために必要ですから、「親ガチャ」という言葉が助けになるでしょう。

また、「親ガチャ」という言葉を嫌う人には、「人生は環境と遺伝だけで決まるわけではない。努力次第だ」という考えの人もいます。
これは、人間には環境や遺伝に左右されない「自由意志」があるという考え方です。

マルクス主義は唯物論ですから、人間も自然法則に従う存在と見なして、自由意志は否定します。
貧困は社会体制や福祉制度の問題ととらえます。

しかし、普通の人は、自分は自然法則に支配されているのではなく、素朴な実感として自分は自分の意志で行動していると思っています。つまり自由意志を肯定しています。
こういう人は当然、貧乏な人には努力しない人や怠け者が含まれているだろうと思います。
新自由主義もこうした考えを後押しします。
そのため生活保護の窓口などで、努力する人か努力しない人か、働き者か怠け者かを識別しようということが行われたりします。しかし、これには客観的な基準がないので、福祉の現場が混乱するだけです。

しかし、今では学問の世界では自由意志は非科学的だとして否定されています。文系の学者でも自由意志を肯定する人はいないはずです(竹中平蔵氏は「若者には貧しくなる自由がある」と発言したことがありますが)。
「親ガチャ」という言葉には、「人生は努力次第だ」というような非科学的な考え方への反発も込められていそうです。


ところで、「親ガチャ」という言葉がどこから出てきたのかよくわかりませんが、流行のきっかけはマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』と橘玲著『無理ゲー社会』の出版ではないかと思います。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は、格差社会の原因を能力主義やリベラル、果てはオバマ元大統領にまで求めています。白人であるサンデル氏のオバマ氏への敵意でしょう。そもそもリベラルに格差社会をつくれるわけがありません。

『無理ゲー社会』は、おそらく『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の骨格をパクったもので、格差社会の原因をリベラルに求めるのは同じです。そこに著者得意の「遺伝」を組み合わせています。
今の社会を若者や下層階級にとって無理ゲー社会ととらえるのはいいのですが、そういう社会のルールをつくれるのはリベラルであるはずがなく、支配階級しかありません。

この二冊は格差社会問題を改めて考えさせましたが、かえって混乱を深めています。


「親ガチャ」によって子どもの幸福が決まってしまう世の中は好ましくありません。
これをなんとかするには、「遺伝」はどうしようもないので、格差社会を解消することです。


あと、「子ガチャ」という言葉をいう人もいます。つまり親は子を選べないという意味で、「親ガチャ」に対抗する言葉です。
しかし、「子ガチャ」はありえません。
というのは、配偶者を選んで子どもを生むと決めた時点で、どんな子どもが生まれてくるかはある程度想定できるからです(障害のある子が生まれてくる可能性も考慮したはずです)。
「子ガチャ」を言うのは、自分と配偶者に唾する行為です。

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