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戦争から夫婦喧嘩、親子喧嘩まで、人類は延々と争いを続けてきました。
どうして人類は争いを克服することができないのでしょうか。

人間性についての科学的研究は、認知科学、進化心理学、行動経済学、人工知能研究などの分野で急速に進展しています。「汝自身を知れ」というデルフォイの神託が現実のものとなる日も近そうです。
しかし、今のところ肝心なことが認識されていません。
それは「人間は利己的である」ということです。

今話題のマイクロソフトのBingチャットを使って、「人間は利己的ですか」と聞いてみました。

人間は利己的ですかというのは、難しい質問ですね。人間の本性や倫理観に関する哲学的な議論がありますが、一概には答えられません。

一般的には、人間は自分の利益を重視し、他者の善行を軽視、無視する考え方を利己主義と呼びます。 利己主義の対義語は利他主義で、他者の利益や幸福を優先する考え方です。

利己主義には、心理的利己主義と倫理的利己主義の二種類があります。(以下略)

つまり「人間は利己的ですか」にはっきりした答えはないのです(AIチャットはネット上の多様な議論を要約してくれるものとしては有用かと思います)。

これには「利己的」という言葉の意味がはっきりしないということも関係しています。

経済学では「合理的経済人」として、自己の利益の最大化をはかる人間が想定されています。こうした自分の利益を追求する行動も「利己的」ということになりますが、これは悪い意味ではありません。市場経済はみんなが利己的に行動することで成り立っています。
しかし、日常生活で「あの人は利己的だ」とか「それは利己的なふるまいだ」というとき、「利己的」は悪い意味になります。

英語では「利己的」に当たる言葉が「egoistic」と「selfish」とふたつあります。「egoistic」は悪い意味ですが、「selfish」は中立的な意味とされます。
ただ、「selfish」も完全に中立的な意味ではないようです。英和辞典によると、〈侮蔑的〉として「自分のことしか考えない、自分勝手な、自己中心的な、わがままな」という訳語が並んでいます。


問題を整理します。
自分の利益を追求するのは悪いことではありません。基本的人権の「幸福追求権」に含まれると考えるべきです。
しかし、自分が利益を追求する以上、他人が同じように利益追求することを認めなければなりません。他人の利益追求を妨げて自分の利益追求をするのは不当です。このような不当な利益追求は「利己的」として批判されることになります。

しかし、ここでやっかいな問題があります。
今の世の中、正当に利益追求をしていても「利己的」と批判される傾向があるのです。
株式投資でもうけた人や遺産相続をした人が嫉妬されるのはまだ理解できますが、普通に商売でもうけた人でも嫉妬されて批判されることがあります。
そのため、商売する人は、もうけていてももうけたとは口にせず(「もうかりまっか」「ぼちぼちです」)、逆に「出血サービスをしています」「お客様に奉仕しています」などと言います。
金メダルを取ったアスリートは「努力が報われました」などとは言わず、「コーチや応援してくださったみなさまのおかげです」と言います。
つまり誰もが「利己的」と批判されることを避けるために、実際以上に自分を「利他的」に見せかけているのです。
そのため、正当な利益追求と不当な利益追求の境界線がわかりにくくなっています。


ここで「公平」という概念を持ち出してみます。

「公平」を国語辞典で引くと、「すべてのものを同じように扱うこと」と説明されています。この説明には「自分」が対象になっていません。たとえばA、B、Cという人間を同じように扱うことは可能でしょう(身びいきや偏見ということもありますが)。では、自分と相手(他人)を同じように扱うことは可能でしょうか。
自分と相手を公平に見るには、“神の視点”ないしは第三者の視点が必要ですが、この場合は利益がからんできます。
自分は第三者の視点を持ったつもりでも、無意識のうちに自分が有利になるように見ている可能性があります。

私が子どものころ、よく近所の子どもと空き地で野球をしましたが、人数が少ないので、審判は攻撃側のチームが出すことになっていました。その審判は公平な判断をしたのでトラブルになるようなことはありませんでした。要は野球を楽しくやりたいだけで、どちらのチームが勝とうがどうでもよかったからです。もし勝ち負けが重要な試合であれば、一方のチームが審判を出すなどということは相手チームが許しません。
サッカーの国際試合は、審判は第三国の人間が務めるに決まっています。
法律上の調停を行うときも、裁定するのは必ず双方と利害関係のない第三者です。

人間は自分の利益がからむと公平な判断ができません。
「お手盛り」という言葉があるように、自分に有利になるようにしてしまいます。
国語辞典も「自分と他人を公平に扱う」ということは最初から不可能なことがわかっているので、説明から除外しているのでしょう。
戦時中の配給制度のもとでは、配給品は商店を通して各世帯に配られました。たとえば米屋であれば、自分の世帯の取り分を多めにして、その米を闇市で売ります。ですから、サラリーマン家庭はどこも苦しい生活でしたが、商売人の家庭は余裕のある生活でした。

人間は自分の利益がからむと平気で不当なことをします。つまり人間は利己的であるということになります。


利己的であるのは動物も同じです。
なわばりを持つ動物は、自分のなわばりを他の個体にわからせるために、糞尿を残す、体の匂いをつける、爪痕をつけるなどのマーキングをし、鳥類はテリトリーソングといわれるさえずりをします。そして、普段はむだな争いを避けるために互いのなわばりを尊重して平和に暮らしています。
しかし、なわばりの境界線が正確に認識できるわけではありません。そうすると、双方ともに境界線を自分に有利に解釈して、“国境紛争”ともいうべき争いがしばしば起きます。
さらに、双方ないし片方がなわばりを拡張しようとしても争いは起きます。
ということで、なわばり争いはしょっちゅう起きるのですが、争いが深刻化すると自分にとっても不利益ですから、それほど深刻化しません。

人間の場合は本能の制御が弱いので、争いが深刻化し、大規模な戦争も起きます。
戦争に勝つと土地、財産、女、奴隷を獲得して、大きな利益が得られるからです(これは昔のことですが)。
動物は一個体が必要とするなわばりの広さは限られていますが、人間の場合は限りなくなわばりを併合して“帝国”を築くことがあります。


以上のことから「人間は利己的である」というのは明らかです。

しかし、AIが「一概には答えられません」と言うように、このことは一般には認められていません。
その理由は、「利己的」という言葉の意味が明確でないことに加え、利己的であることは道徳的に非難されるので、誰もが自分は利己的だと思いたくないからです。
自分は利己的だと思いたくない以上、「人間は利己的である」とも思いたくありません。

それに加えて、多くの進化生物学者が「人間は利己的である」ということを否定しているということもあります。
リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』という本もあるぐらいですから、進化生物学では動物は利己的なものとされていそうなものですが、実際はそうではありません。
社会性動物には、子どもの世話をしたり仲間を助けたりという利他的性質があります。ダーウィンはこの利他的性質を重視しましたが、進化論では仲間を助ける性質のあることがうまく説明できませんでした。しかしその後、遺伝子とゲーム理論から説明できるようになり、それによって進化生物学者は人間の利他的性質を過大評価するようになったのです(このあたりのことは簡単に説明できないので、「道徳観のコペルニクス的転回」を参照してください)。
もし進化生物学者が「人間は利己的である」と結論づけていたら、世の中は大きく変わっているでしょう。


利己的な人間は本能の制御を超えて争い、その結果、強者が弱者を支配する社会をつくりました。階級制、身分制、奴隷制、農奴制などです。雇う人間と雇われる人間がいる資本制もその延長線上です。
争いが激化すると不利益を生むので、人間は争いを抑える文化も発達させてきました。法律、規則、掟などで社会の秩序を維持するやり方です。それでも争いが起こると、裁判官や長老などの第三者が裁定して争いを収めます。秩序を逸脱する者は警察が取り締まります。
これを「法の支配」または「法治主義」といいます。

「法の支配」によって争いは抑制されていますが、「法の支配」の及ばない領域があります。
それは国際社会と家庭内です。

国際社会には一応国際法がありますが、警察に当たるものがないので、実質的に無法状態です。戦争が起こるのを止められません。
世界を平和にするには、警察に当たる国連軍をつくって、国際法を執行する体制にしなければなりません。
しかし、アメリカは世界の軍事費の約4割を占める軍事大国なので、アメリカを抑えるような国連軍はつくれません。
ロシアや中国が平和の敵であるかのような言説があふれていますが、実際はアメリカが世界を平和にしようと思わない限り世界は平和になりません。

家庭内にも「法の支配」はないので、暴力が横行しています。
家族は本来愛情によって結びついているものですが、文明社会では夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するという、権力で結びついた家族になっています。
夫の暴力から逃げ出した妻、家出して盛り場をうろついたり“神待ち”をしたりする少年少女は氷山の一角で、日本には荒廃した家庭がいっぱいです。
ちなみに日本の殺人事件の54.3%は親族間の殺人です(2020年版警察白書)。日本の社会の中でもっとも荒廃しているのが家庭です。
しかし、家庭内に「法の支配」を持ち込むのは、対症療法にはなっても、家庭に愛情を取り戻すことにはなりません。
では、どうすればいいかというと、要するに「自然に帰れ」で、未開社会の家族や動物(哺乳類)の家族を見て、学ぶのがいいでしょう。

もっとも、それは長期的な話です。
短期的には、「人間は利己的である」と認識するだけで、家族関係は変わってきます。
どんなに愛し合って結婚した夫婦でも、自分と相手の関係を公平に判断することができないので、「相手は利己的にふるまって、自分は損している」という認識を双方が持つことになり、その不満がどんどん蓄積されて喧嘩が頻発し、最後には離婚に至るか仮面夫婦になるというのがほとんどの夫婦ですが、そうした悲劇はある程度回避できるはずです。

日本は尖閣諸島、北方領土、竹島という領土問題を抱えていて、ほとんどの日本人は「日本の主張は正しい。中国、ロシア、韓国の主張は間違っている」と考えていますが、これも公平な判断とは限りません。相手国も同じことを(つまり逆のことを)考えています。
こうした認識が戦争につながるので、注意が必要です(国際機関など第三者に判断してもらうしかありません)。


「人間は自分と相手の関係を公平ではなく自分に有利に判断してしまう」というのは認知バイアスの一種です。
名づければ「利己主義バイアス」となるでしょう。
実に単純なことですが、こうした認知バイアスの存在は認識されていません。「人間は利己的である」ということが認識されていないのだから、当然かもしれません。

「人間は利己的である」と認識するだけで、多くの争いは回避できます。