
AIが人間の知能を超える瞬間を「シンギュラリティ」といって、それが2045年ごろにくるのではないかといわれています。
しかし、進化するのはAIだけではありません。社会のあらゆる領域が高度化、複雑化していて、人間の知能では対応できなくなりつつあります。
前回の『「究極の思想」の威力をお見せしよう』という記事で、「どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる」と書きました。
ですから、文明社会は赤ん坊を一人前の文明人に教育するシステムを必ず備えています。
文明が発達すると必然的に教育も強化されます。
昔は多くの人は中卒、高卒で働いていましたが、最近は専門学校卒、大卒、さらには大学院で学ぶことが求められるようになりました。
この傾向が限りなく進行していくと……ということはありえません。人間には寿命があるからです。
新しいパソコンを買うと、必要なアプリケーション・ソフトをインストールし、設定をし、必要なデータを入力するという作業をしなければなりませんが、データを古いパソコンから移すという手段が使えず、クラウドも利用していなくて、全部手作業で入力するとすれば、かなりの時間がかかります。すべての作業が終わり、いざ、これからそのパソコンで仕事をしようとしたときにはパソコンの耐用年数がわずかしか残っていないとなれば悲劇です。
人間の教育も、知識をまとめて子どもの頭に移行するということはできず、ひとつひとつ“手作業”で頭の中に入れていくわけですから、文明がさらに発達すると貴重な青春の時間だけでなく壮年の時間までも教育に費やすことになります。これでは文明の発達はむしろ人間にとってマイナスです。
車の自動運転技術のように、文明が進むことで人間が楽になるということもありますが、それはごく一部のことです。文明が発達するほど社会に適応するために学ぶべきことは増えます。
そのしわ寄せがとくに子どもと若者に表れて、不登校、いじめ、引きこもりなどが増加しています。
少子化が進むのも、多くの人は子どもを生んでも子どもは幸せな人生を送れないだろうと予想するからでしょう(日本に限らず先進国は一般的に少子化になります)。
ローマクラブは1972年に「成長の限界」と題するレポートを発表し、世界的な人口増加と経済成長が続いた場合、資源と環境の制約によりあと百年程度で成長は限界に達すると予想して、世界に衝撃を与えました。
それまで文明というのは限りなく発達していくものだと漠然と考えられていたのです。
このレポートの翌年に第一次オイルショックが起こり、レポートの信憑性がいよいよ高まりました。
しかし、このレポートは重要な事柄をもらしていました。それは「人間の能力」です。成長は「人間の能力」によっても制約されるのです。
資源と環境の問題は、リサイクルの徹底と再生可能エネルギーの利用などである程度対処が可能ですが、「人間の能力」については対処のしようがありません(いずれは遺伝子テクノロジーで人間の能力向上が可能かもしれませんが)。
シンギュラリティとは別の意味で、文明の発達が人間の能力を超える瞬間が近づいています。
人間の教育も、知識をまとめて子どもの頭に移行するということはできず、ひとつひとつ“手作業”で頭の中に入れていくわけですから、文明がさらに発達すると貴重な青春の時間だけでなく壮年の時間までも教育に費やすことになります。これでは文明の発達はむしろ人間にとってマイナスです。
車の自動運転技術のように、文明が進むことで人間が楽になるということもありますが、それはごく一部のことです。文明が発達するほど社会に適応するために学ぶべきことは増えます。
そのしわ寄せがとくに子どもと若者に表れて、不登校、いじめ、引きこもりなどが増加しています。
少子化が進むのも、多くの人は子どもを生んでも子どもは幸せな人生を送れないだろうと予想するからでしょう(日本に限らず先進国は一般的に少子化になります)。
ローマクラブは1972年に「成長の限界」と題するレポートを発表し、世界的な人口増加と経済成長が続いた場合、資源と環境の制約によりあと百年程度で成長は限界に達すると予想して、世界に衝撃を与えました。
それまで文明というのは限りなく発達していくものだと漠然と考えられていたのです。
このレポートの翌年に第一次オイルショックが起こり、レポートの信憑性がいよいよ高まりました。
しかし、このレポートは重要な事柄をもらしていました。それは「人間の能力」です。成長は「人間の能力」によっても制約されるのです。
資源と環境の問題は、リサイクルの徹底と再生可能エネルギーの利用などである程度対処が可能ですが、「人間の能力」については対処のしようがありません(いずれは遺伝子テクノロジーで人間の能力向上が可能かもしれませんが)。
シンギュラリティとは別の意味で、文明の発達が人間の能力を超える瞬間が近づいています。
「人間の能力には限りがある」というのは当たり前のことですが、これまではっきりとは認識されてきませんでした。
逆に「人間は脳の30%(20%)しか使っていない」などという俗説が流布されていました。
若者に対して「君たちには無限の可能性がある」ということもよく言われます。
これは「君たちの可能性は未知数だ」と言うべきところ、「未知数」を「無限」に取り違えたものです。
人間の能力は遺伝で決まるか環境で決まるか、氏か育ちかという議論もよく行われてきました。
つまりこんな基本的なこともわかっていなかったのです。
しかし、これは昔のことです。今はさすがに多くのことがわかっています。
遺伝か環境か、氏か育ちかという二者択一の議論は間違っていて、氏も育ちも、つまり人間は遺伝と環境のふたつの要素で決まります。
昔は環境の要素が強いと考えられていました。
ラテン語のタブラ・ラーサ(空白の石板)という言葉で表されますが、生まれたばかりの人間は白いカンバスと同じで、教育によってどんな絵でも描けるという説がありました。これは今でも教育界に根強くあります。
しかし、科学的研究によって遺伝の要素の大きいことが次第にわかってきました。
一卵性双生児で、生まれてすぐ引き離され別の環境で育った兄弟を調べることで、遺伝と環境の影響の割合がわかります。それによると、IQや学業達成は三分の二までが遺伝によって決まります。
また、神経質、外向性、協調性などの性格や気質もかなりの程度遺伝で決まります。
ただ、「遺伝で決まる」というと、子どもは親の能力や性質をそのまま受け継ぐのかと誤解する人がいます。
実際は、同じ親から生まれた兄弟でも、能力も性格も違いますし、顔にしても「言われてみれば似ている」程度のものです。親ともかなり違いますから、「トンビがタカを生む」ということもありえます。つまり遺伝の影響はあるにしても、個人差がひじょうに大きいのです。
ですから、私は「遺伝」ではなく「生得」という言葉を使ったほうがいいと思っています。
つまり「人間は遺伝で決まっている面が大きい」ではなく「人間は生まれつき決まっている面が大きい」というのです。
そうすれば個性を尊重することにもつながります。
親は、子どもが活発な性格の子だと、おとなしい子にしつけようとしがちですが、間違った考え方です。これはこの子の持って生まれた性格だと思って受け入れると、子育ては楽になります(持って生まれた性格は固定しているわけでなく、変わっていきますが、親が自分につごうよく変えようとしてもうまくいきません)。
子どもの外見や性格が親の遺伝の影響を受けることは誰でも認めます。
しかし、子どもの知能が親の遺伝の影響を受けると公言することはタブーとなっています。
「生まれつき頭のよい人と生まれつき頭の悪い人がいる」と言うこともタブーです。
なぜこんなタブーがあるかというと、「黒人は知能が低い」という言説があったように知能と人種差別が密接に結びついていて、さらに「生まれつき頭の悪い人がいる」と言うと優生思想を喚起しかねないという問題があるからです。
たとえばアメリカで1950年代に、スプートニク・ショックを機に国民の教育水準を高めるために巨額の連邦予算を投入して「ヘッドスタート計画」という早期教育プログラムが全国的に展開されました。有名な教育番組「セサミ・ストリート」もこのときの産物です。プログラムが開始されて約十年たったとき、心理学者のアーサー・ジェンセンがこのプログラムは失敗したと結論づける論文を発表しました。この早期教育の知能に与える効果は一時的なもので、プログラムを離れるともとに戻ってしまう、その理由は、知能の遺伝規定性が80%もの高さを持つからだとジェンセンは説明しました。さらに彼は、白人と黒人の知能の差について論じ、その原因も遺伝的であることを示唆したことでアメリカの世論に火をつけてしまいました。「ジェンセニズム」は人種差別主義の代名詞とされ、世間のバッシングの中、彼は文字通り外を一人で歩くことすら危険な状況であったといいます(参考文献『遺伝子の不都合な真実』安藤寿康著)。
その後も、「知能は遺伝する」と主張する人は出てきましたが、そういう人は決まって右派の科学者で、左派の科学者が「知能と遺伝を結びつけるな」と反論するということが繰り返されてきました。
今も「知能は遺伝する」と言うことはタブーですし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うのもタブーです。
しかし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」というのは事実ですから、事実を認識しないと不都合が生じます。
たとえば教室には頭のいい子と悪い子がいるのに、教師は全員に向けて同じ授業をするので、頭の悪い子は授業についていけず、教師の話が頭に入ってこないということになります。頭が悪いといってもほんの少し悪いだけなのに、実質的に授業を受けていないことでさらに頭が悪くなります。つまり一人一人に合わせた授業をしていればみなそこそこの成績になるのに、一斉授業をするために“落ちこぼれ”となり、教室の“落ちこぼれ”はさらに社会の“落ちこぼれ”となるのです(最近“落ちこぼれ”という言葉はいわれなくなりましたが、一斉授業のもとで学習内容が高度化すれば“落ちこぼれ”は増えているはずです)。
ベストセラーとなった『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著)には、少年院に入るような少年は知的障害とまではいかない境界知能の持ち主が多いと書かれています。学校でちゃんと対応していれば社会生活を営む程度の知能はあるのに、学校でずっと放置されてきたために、計算もできない、漢字も書けない、ケーキを三等分することもできないという状態となり、みずから犯罪に手を染めるか、犯罪組織に利用されたりして少年院に入ってくるのです。
ですから、こういう少年に反省させても無意味なことで、その子にあった教育(認知機能トレーニング)をすることだと著者は述べます。
『累犯障害者』(山本譲司著)には、刑務所にも知的障害者や境界知能の人が多く収容されていて、出所しても再犯してまた戻ってくるということが書かれています。
つまり「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」ということを認めないために、学校や社会が適切な対応をせず、犯罪を生み、刑務所や生活保護など福祉に負担をかける結果になっているのです。
今、シンギュラリティによって人類はAIに支配されるのではないかという議論がありますが、こうした懸念を表明しているのは科学者、大手IT企業経営者、欧米の政治家などです。
彼ら頭のいい人たちが世界の覇権を握っていたところに、AIが台頭してきて、覇権を奪われるかもしれないと思って、あわてているのです。
これは一般大衆にはどうでもいいことです。支配階級に支配されるのもAIに支配されるのも同じです。
一般大衆にとって興味があるのは「AIは人間の仕事を奪うか」ということでしょう。
世の中には雇う人と雇われる人がいて、雇う人は人間を雇うかAIを導入するか、コストの安いほうを選択します。AIのほうが人間よりコストが安ければ、人間は失業します(これは「AIが人間の仕事を奪った」というより「雇用者が人間の仕事を奪ってAIに与えた」というべきです)。
AIが仕事をしてくれれば、人間の労働時間がへってもよさそうなものですが、雇う人は利益を追求するので、そんなことにはなりません。
「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うことがタブーなので、成功した人たちは努力を誇り、社会の底辺の人を努力しない人と見下します。
そのため福祉はないがしろにされます。
今のシンギュラリティの議論は、いわば天上界の覇権争いのことです。
私が述べてきたのは、社会の底辺のことです。
学校教育や福祉を改革せずにAIなどがどんどん進化していくと、社会に適応できない“落ちこぼれ”が増え続けます。
文明の発達は人類に恩恵をもたらしますが、一方で人類の負担も増やします。
頭のいい支配階級はどんどん文明を発達させますが、頭の悪い下層階級は「文明の負担」が「文明の恩恵」を上回るもうひとつのシンギュラリティに直面しつつあります。